第一章 夢
カーテンの隙間から漏れた日差しがあまりにも眩しくて、意識が浮上したのはつい数分前のこと。目が覚めた時、いつもと何ら変わりない日常の朝だった。窓の外から小鳥の囀りが聞こえれば、通勤のためか道路を走る車の騒音。寝返りを打てばふと、枕に寝心地の悪さを覚え、ほんの少し、頭の位置を調整する。
「……」
微かに寝息が聞こえるのは、おそらく自分のものであろう。睡眠時特有の腹式呼吸が、微睡んだ意識を手放せずにいる。今日は金曜の朝なのに、厄介なものだと心の中で嘲笑う。
ピリリリ、ピリリリ、と電子音が響く。携帯の目覚まし時計が午前八時を知らせている。その不快音に、やっと瞼を開けた神宮寺義仁は、その視界が随分とぼやけていることに気が付いた。瞼の奥がさらに熱くなり、とめどなく流れ続けるその感覚には覚えがあった。
重い上体を起こし、目を拭ってみる。すると手の甲には雫の跡が残っていた。
「なんで泣いてんだ、俺」
大方怖い夢でも見ていたのであろうか。内容に関しては何一つ憶えていないので、この不可解な現象に対する答えは永久に闇の中だ。さっぱりした性格故か、気に留めることもなかった。
そして部屋の扉越し、おそらくは階段の真下から聞こえてくる母の怒号を合図に、義仁は思い出したかのようにベッドから飛び出した。そうだった。今日は学校の終わりに某有名お笑いタレント事務所企画のジュニアオーディションがあったのだった。お笑い芸人を目指す彼にとって、これは念願の、千載一遇のチャンスなのだ。今日という日を開催告知から楽しみにしていた彼は、急いで階段を降りようと部屋を後にする。
母のさらに大きな怒号が響いたのは恐らく、彼が階段を踏み外し、綺麗に転げ落ちたからだろう。
その衝撃で、彼の机の上にあったネタ帳が、小さな音を立てて同じく転げ落ちた。
「いってきまーす」
玄関を飛び出し、スクールバックを肩から下げて全速力で通学路を駆ける義仁が、こんなに急ぐ理由は今はない。遅刻をしたわけでも、電車に間に合わないわけでもない。むしろ徒歩で45分の距離だ。満員電車の苦痛を入学初日で味わった義仁に、朝は交通機関を使うという選択肢など完全に潰えている。その誓いから約一年が経った今、彼は留年することなく無事進級を果たし、今日から改めて高校二年生というわけだ。
慣れなかった通学路も、最初こそ大きかった学ランも、今では全てが馴染んでおり、これからの自分の成長にさらに期待が高まった。今が楽しくて、一生懸命で、仕方がないのだ。
オーディションが始まる時間に関しては、学校が終わってから向かうことになっており、やや時間が足りないところは交通機関を使えば問題はないだろうと思考を凝らしている。文明様様というわけだ。そんな調子のついた今の彼を止められる理由などないだろう。兎にも角にも、早く学校につけば、それだけ今日のオーディションのための準備などが多く出来る。いつものように早く登校する親友にネタの精度を確認してもらうためにも、この足は止まらない。
止められるものなら止めてみろ、と意気込んだところで、その足は早くも電柱に張り出されていた紙に引き留められた。それは数日前に張り出されていた迷子のお知らせ案内だった。真っ黒で艶のある毛と、灰色のつぶらな瞳が印象的な小猫の案内だ。首には唯一の特徴である水色の首輪がはめられており、その裏には名前である『ニャーコ』の文字が丁寧な字で書かれている。義仁も通学の途中、飼い主であろう上品なマダムに抱かれ、胸の上で幸せそうに寝ていた姿を見たことがある。いったい何が不満だったのだろうかと、黒猫に対する疑問は尽きない。
しかしその張り紙だけなら、義仁が足を止める理由にはならないはずだ。であれば、なぜか。その張り紙の真横、平屋とを隔てる塀の上で、写真に該当する特徴の黒猫がこちらを見て「にゃう」と一声鳴いたからだ。
義仁は、張り紙と実物を交互に見た。備考欄に可愛らしい丸文字の手書きで大きく『発見者にはお礼をさせていただきます、本当によろしくお願いします』と記載されていた内容も、彼自身毎日のように目を通していたからよく覚えている。だから昨日、いつの間にかそのお礼部分の詳細が加えられた張り紙に切り替わっていたのも知っていた。
「あ……アッ」
『見つけてくださった方には、お礼として五万円の謝礼をさせていただきたいと思っております』
千を超えて万の桁というのは、アルバイトをしていない高校生にとっては夢を見るに等しい額だ。
『どうか心優しい方は、ご協力お願いいたします』
次に右端の小さなスペースに、子猫と共に写っている、笑顔の素敵な女性の写真も、昨日新しく追加された部分だろう。
『大切な家族なんです、どうか、よろしくお願いいたします』
それらの文章からは、その子猫が大層大事にされていたのだろうということ、飼い主の切実足る想いが多く書かれている。一瞬の躊躇いのうち、義仁は、意を決したように、黒猫へと向き直った。しかし何かを察したのか、目の前のそれは突然、塀を飛び降り逃げ出したではないか。
「あ! 待て五万!」
善人義仁はそう口にして、慌てて先を急ぐ小さな背中を追いかけたのだった。