第×章 プロローグ
突如大きく、それでいてとてつもない嫌悪感を催す断末魔が、鼓膜を震わせた。目の前で起きている現実を噛みしめるように、約束を果たすこの瞬間を見届けるために、彼女はまだここに立っている。もう援護をするための魔力も残っていない。他の味方も魔力切れで横たわっているが、それでも命に別状はないだろう。徹底的な防御魔法を展開していたのだ、むしろそうでなくては困る。
そして決着は、すでについたといっても過言ではない。苦しみに悶える脅威、諸悪の根源である魔王を前に、勇者は聖剣を掲げた。光輝く聖剣には、大量の魔力が集中していく。
その背中に、何度助けられたことか。何度、救われたことか。
たくさんの旅の思い出が、自分たちをここまで強くしてくれた。湧き上がる躍動が体を震わせる。長かった旅が、終わるのだ。人と魔族との長きに渡る戦いに今、終止符を。
勇者は飛び上がり、聖剣を振りかざした。思わず、息を呑む。
「おのれ勇者……!! おのれえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
聖剣の輝きは、耳障りな魔王の声もろとも、この世の全てを一瞬で包み込んでいく。あまりの眩しさに、目を覆った。刹那、強い衝撃。何者かに腕を引かれた感覚があり、その場でバランスを崩し膝をつく。微かに、つんとした鉄の匂いが鼻孔をくすぐった。
光が弱まり、ゆっくりと視界を広げる。
「……怪我はないか、…アリシア」
彼の声が、耳元で響く。そこでようやく、勇者に抱きしめられているのだと気が付いた。
視界の先で魔王が倒れるのを確認する。地面が揺れ、土埃が舞う。魔王はそれ以降、動くようなそぶりはない。ついにやったのだ。じわじわと湧き上がる達成感は全身を震わせ、やがて涙となり、彼の装備を伝っていく。
「やったわね……! 私たちついに、魔王を倒せたんだわ!」
念願である打倒魔王の命を自分たちが完遂できたのだと、かつてない喜びに浸る。それに応えるかのように、勇者はさらに、彼女を力強く抱きしめた。
「ねぇ、苦しいわ。あなたもちゃんと見て、ほらっ」
視界の上から、水の様な何かが滴っている。
この城はもう限界だろう。魔王という主を失ったのだから。その魔力で形成されていた古城は、じきに崩壊を繰り返し、後にはなにも残らない。
「アリシア……ありがとう。みんながいてくれたから、ここまでくることができた……」
とてもか細い勇者の声は、確かに震えていた。
「なに言ってるのよ、一番はあなたよ。勇敢に立ち向かい、いつも私たちを導いてくれたから——」
生暖かい何かが、彼女の純白を示す正装を染め始めていた。嫌な予感がして、しかしそんなことはないと過る思惑を振り切るように、今度はアリシア自身も勇者を抱きしめ返す。ぬるりとした感覚がその掌に伝わり、呼吸が荒くなっているのが分かった。違う、そんなはずがない、あっていいはずがない。だって——。
胸の内を支配するそのどす黒い感情は、彼女から冷静さを奪っていく。震える手に共鳴して、しかし次の瞬間、見ていた世界の背景そのものが偽りであったかのように、割れた。
その隙間からこちらを覗く、爛々とした二つの眼光。世界の欠片に反射して、いやらしく笑った気味の悪い視線と、交わる。アリシアの心の中には言い表せないほどの憤りが募っていく。悪態の一つでもくれてやろうと口を開けば、目の前の勇者に宥められる。
「やめろアリシア。君に、そんな顔は似合わない……」
ゆっくりと離れていくその体温を、アリシアは引き留められずにいた。
そんな勇者を前にし、彼女はやっと、彼におかれた惨状を目の当たりにする。胴体を覆う鎧のその隙間から、永遠のように流れ続けている赤い液体は、言うまでもない。
「ごめん、俺はここまでだ」
「待って!」
伸ばした手は虚空を掴む。距離を把握していた勇者が、一枚上手だったようだ。さらに一歩と半歩、勇者は後ろに下がる。
すると今度はアリシアを含む味方を囲うように、地面には光の大きな魔法陣が生成された。魔術に精通しているアリシアにとっては、それが何を意味するのか、理解するのに時間はいらない。
「魔法は苦手だけど、たぶん、大丈夫だと思——」
大きく咳き込み、その言葉を遮られる。出血の具合から、おそらくは致命傷なのだろう。立っているだけでも奇跡に近いのに、それでもまだ立ち上がり、苦手とする(特に体力の消費が大きい)転移魔法を発動しようとしているその強靭さは、さすが勇者たるその加護と呼ぶべきだろうか。
勇者の背後から、魔王の咆哮が轟く。まんまと嵌められて喜んでいた自分はなんと滑稽だっただろうか。
勇者が手を振り上げれば、陣はその輝きを増していく。しかしその範囲内に、勇者はいない。
「だめ、待ってお願い! あなたも——」
「アリシア」
名を呼ばれ、続けて勇者は確かに言葉を紡いでいた。けれど、今のアリシアには届いていない。大きな耳鳴りに耳を塞がれ、邪魔をされているかのようだ。
魔王から巨大な魔力を感知する。それはすぐに憎悪のように膨れ上がり、やがて大きな斧のような形となった。それを躊躇いなく降り下ろされるその瞬間でさえ、アリシアは勇者から目を離せずにいた。
「すまない。約束は、守れそうにない」
より一層輝きを増した魔法陣が、一瞬のうちに辺りを光で覆い尽くす。
最後に見た勇者の表情はとても穏やかな、それでいてどこか、慈愛に満ちたものだった。
だから狂気の一刀が振り下ろされたそのあとのことは、もう、何も知らない。
目の前にはただ大きくそびえる王都、グレンツェール城正門があるだけだったからだ。アリシアはただ一つの事実に打ちひしがれ、嗚咽は涙と共に溢れ出し、止まることを知らない。
「お願い、一人に、しないでよ……」
消え入るような彼女の本音は、誰に届くまでもなく、そんな姿に寄り添うかのように、そよ風だけが、ただ背中を押し続けていた。