北政所と淀殿の話 魔の女
おねが秀吉と結婚したのは、秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗り、足軽に毛のはえたような身分の頃でした。
おねの母の朝日はこの結婚に最後まで反対していました。秀吉の一見、陽気で人好きをする影に隠れていた冷酷な本性を嗅ぎ取っていたのかもしれないと後になっておねは思うのでした。
織田信長に可愛がられ、秀吉の才覚もあり、彼はどんどん出世してゆきました。それにつれて秀吉の女遊びも激しくなりました。それでも、秀吉はおねを正夫人として大切に扱ってくれたし、ほかの女もおねを尊重してくれました。
秀吉はさらに出世を遂げ、ことに本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたあとは、とうとう天下を統べるまでになりました。その頃から、秀吉は茶々という女性を深く寵愛するようになりました。秀吉の主君・織田信長の姪にあたる女性でした。そして茶々は秀吉の子を妊ったのです。秀吉には何人もの女がいましたが、彼の胤を宿した女はいませんでした。
それは様々な憶測をよびました。茶々に宿ったのは秀吉の子ではないのではないかと噂にもなっていました。そのような意味の落首がされました。それを聞いた秀吉は激怒しました。そして、その落首を書いていたものの犯人探しが始まりました。犯人はわからなかったのですが、疑わしい、、、、それだけの理由で何人もが罰せられました。その中には、とても口では言い表せないような罰を受けた者もいました。おねは驚きました。秀吉は女遊びはしても、そのような見境のない男ではなかったからです。おねは諫言しようと、秀吉のもとにきました。そこには、茶々もいました。おねは言いました。
「あなたも、どうか、あのようなむごいことをやめるように言ってください」
「どうしてですの?殿下は私の名誉を守ってくれただけですのに」
そう言って茶々は微笑んだのです。そのゾクッとした美しさにおねは思いました。
「魔!魔じゃ!この女は魔じゃ」
茶々は、無事、珠のような男の子を生みました。この頃、茶々は秀吉に淀に城を建ててもらい、そこに住んだので、以来、茶々は淀殿とか淀のおん方とか呼ばれるようになりました。
秀吉はその子を大層可愛がりました。溺愛といってもいいぐらいでした。おねは複雑な思いで秀吉とその子を見つめていました。
ですが、その子は三歳にもならぬうちにこの世を去ったのです。
秀吉の嘆きはひととおりでなく、髻を切って喪にふくしました。おねは秀吉の嘆きはもっともと思いながらも、どこかほっとしている自分がいました。
秀吉はもう、実子は望めないとあきらめたのか、甥の豊臣秀次を後継者と定めました。
おねはこれで、落ち着くだろうと思ったのですが、またしても、淀殿が秀吉の子を妊ったというのです。おねは不安に襲われました。そして、今度も、また、子の父親についいて取り沙汰されました。
おねは、また、以前のようなことにはならないだろうかと秀吉の元へ向かいました。
秀吉は淀殿にひざまずいていました。なにごとかと思い、おねはその様子を眺めていました。
淀殿が口を開きました。
「そなたに、海のむこうの国をさずけよう」
「海の向こうの国ですか」
秀吉と女は笑い始めました。
「かの神功皇后に神が降り、海の向こうの国を与えようといったのに、仲哀天皇は信じなかったために死んでしまったのですよ」
「そのような話があるのか」
「ええ、、、」
「だって、この国はあなたの甥の秀次殿に与えてしまったでしょう。だから、この子のためにとってくださいな」
そうやって、また、淀殿は、以前見たゾクッとした微笑みを称えたのです。
やっと、この国が落ち着いてきたのに外国と戦をする・・・
おねはそんな暴挙は止めなければ・・部屋から出てきた秀吉の跡を女おねは追いました。しかし、秀吉は笑って言ったのです。
「なに、あの淀の戯言に付き合ってやっただけだ」
それを聞いたおねは安堵しました。ああ、秀吉は理性を失ってはいない。
間もなく、今度も淀殿は珠のような男の子を生みました。今度も秀吉はその子を溺愛しました。
おねはその赤子が秀吉に似たところはどこにもないと思いましたが、秀吉はむしろ、自分に似たところがないことを喜んでいるようでもありました。ですが、これで、秀吉も落ち着くだろうと思っていたのですが・・・
なんと、秀吉、自らが後継者とした秀次に謀反ありとして、追放してしまったのです。おねはそんなはずはない。なんということを、諫言せねば。おねの諫言を秀吉は聞いてくれました。そのとき、淀殿は言ったのです。
「そうですわ。あの方が謀反など考えられません。聞けば、あの方は高野山に入っていったとか。あの方の言い分を聞くため、使者を遣わせてはいかがでしょうか」
「それも。そうだ。よし、そうしよう」
このときも、また、淀殿は美しい微笑みをたたえました。おねはそれを聞いて自分は誤解していたのだろうかとさえ思いました、しかし、どうしょうもなく不安でした。おねの不安は的中しました。秀次は自らの潔白を証明するために腹を切ったというのです。どうやら、言い分を聞くためというよりは詰問に近かったようなのです。そして、使者に立ったのは淀殿の父にかって仕えていた石田三成ら江北出身の者たちという話もきいたのでした。もしかして、すべて、淀殿が仕組んだことでは・・・
秀吉は秀次を葬ったことを後悔しているようでもありました。残った妻子たちには身をたてられるよう考えようと言いました。淀殿も言いました。
「まこと、慈悲深いお心です。かの池禅尼のようですわ」
「池禅尼?誰だ。それは」
「平清盛の義理の母にあたるお方ですわ。その方の情で生かされたのに、源頼朝は平家を滅ぼしてしまったのですわ。だから、私、源頼朝は嫌いですわ」
そのとき、赤子の泣き声がしました。
「あら、乳を欲しがっているようですわ」
そう、言って淀殿はその場を立ち去っていきました。
秀吉はその場で何事か考えているようでした。
ま・・まさか・・あの方の妻子まで・・
それから間もなく、秀次の妻妾、幼い子どもまでことごとく首を刎ねられたのです。
おねの言葉は秀吉には届かないようでした。魔・・魔に魅入られてしまった・・・
また、外国への戦も秀吉は決めてしまったのです。
淀殿が生んだ子供はすくすくと育ちました。庭で淀殿と子供が散歩をしている姿が見えました。
「あなたは・・いったい・・何がしたいのです」
「なにも・・すべてはあの男が自らしていることですわ。私は何もしていませんもの」
「く・・狂っている・・あなたも秀吉も・・・外国との戦だなんて・・」
「では、止めればよろしいわ。あなたは私を悪女にしたいのでしょう。何もしていない私をね」
「よろしくてよ。そんなに私を悪女にしたいなら。あの男は私の言うことなら何でも聞いてくれますもの。妊婦の腹の中を見たいといえば喜んで妊婦の腹を切り裂いてくれるでしょうね」
「な・・なんということを・・」
「あなたは自分ばかりが善良な人間だと思っていらっしゃるようだけど、あなたの今の身分もあの男が殺した者たちの上に成り立っているとは考えもしないのでしょうね。おそらく、あの男の殺した中には無辜の民もいたでしょうね」
「母上様・・なんのお話をなさっているの」
子供があどけない顔で聞いてきます。
「ええ、あなたのお父様があなたのために悪いものを成敗してくださったり、国を広げようとしていることを話したいたのですよ」
そう言って、また、淀殿は微笑んだのです。ゾクッとした美しさにおねは後ずさりました。
外国への戦をしている最中、秀吉は病に倒れてしまいました。
おねは甲斐甲斐しく看病をしていましたが、夫が意識を取り戻すことは稀でした。
「兵を・・兵を引け・・」
意識を取り戻した秀吉は言いました。
「なぜ、わしは外国との無謀な戦などを・・」
「あなた・・」
そのまま、秀吉はこときれてしまいました。
秀吉が亡くなったことで、外国との戦は中止されました。そして、その戦によって、兵站を請け負ってものたちと外国で戦をしてきた者たちとの間で隔たりができてしまったのです。
おねは思いました。今こそ、皆が手を取り合わなければならないときに争っているなど。これも外国との戦などしなければ・・そう思えば、秀吉にその戦を焚き付けた淀殿が憎く思えるのでした。そういえば、彼女、は今、何をしているのか。
淀殿は子どもと遊んでいました。
「あなたは悲しくはないのですか。あの方が亡くなったというのに」
「悲しい・・おかしなことをおっしゃいますのね。そもそも、私は好きでこんなところにきたのではないわ」
「あなたが外国の戦など焚きつけなければ」
「私は何もしていないわ。あなたも何もしていないではありませんか。そう思うなら、あなたがあの男と刺し違えてでも止めればよろしかったのよ。そうしたら、少しはあなたのことを見直したかもしれないわ。私なら、愛する男が老醜をさらすような真似をするなら、その前に生命を絶って差し上げたわ」
「でも、あなたもそのようなことをしなかったではありませんか」
「だって、私、あの男を愛してなどいなかったもの。あの男を愛していた女なんていたのかしらね」
「少なくとも私は・・私だけは・・」
「そうかしら。あなたが大事だったのは自分の評判だけではないの。もし、私があの男を愛していたなら、老いさらばえる前に殺してあげてよ」
その後、おねは仏門に入り、秀吉の菩提を弔ってましたが、秀吉が一代で築き上げた豊臣家は徳川家に敗れ、淀殿とその子・秀頼も自害してしまいました。
豊臣家が滅んだあと、おねが思い出すのは魔のような美しい淀殿の笑顔でした。
自分は淀殿を魔と思ったが本当にそうだったのだろうか。もしかしたら自分こそが豊臣家にとって、秀吉にとって魔ではなかったろうか。そして、それをただ一人、見抜いていたのは淀殿ではなかったのか。おねは自問自答する。
おねは徳川家の捨扶持を食み、天寿を全うし、賢婦人と称えられ、淀殿は豊臣家を滅ぼした悪女と評されたのでした。
おねは賢夫人として持ち上げられていますが、なぜ、彼女は老年になって常軌を、逸した行動をとるようになった秀吉を止めなかったのか。彼女が誠の賢夫人だったなら朝鮮出兵や豊臣秀次やその妻子たちの処刑なども止めたのでないかという疑問があって作った話です。




