朝倉義景の話
永禄11年 (1568)6月 ある少年がこの世を去リました。まだ7歳の可愛い盛りでした。
阿武隈君と呼ばれていたその少年は、越前の太守、朝倉義景の嫡男でした。その死を誰よりも悲しんだのは父の朝倉義景でした。
親族や家臣がい並ぶ葬儀の場で朝倉義景は人目もはばからず泣き叫んだのです。大の男が泣き叫んでいるのです。その場にいる人々はいくら悲しいと言ってもと呆れ果てていました。
見かねた1人が言いました。
「殿、葬儀には他国からの弔問の使者も見えられているのです」
それでも朝倉義景は泣くのをやめません。
同盟を結んでいる浅井家の使者は言いました。
「子をなくした事を親が悲しみすぎると、それは…子の罪となるのです。どうか冥福をいのって差し上げて下さい。主からの口上です」
「備前(浅井長政の通称)は子が亡くしたことがないからそのようなことが言えるのじゃ」
そう言って、さらに泣き続けるのでした。
その様子を複雑な思いをしながら眺めていたのは足利義昭でした。彼の兄である第13代将軍である足利義輝が三好三人衆らに暗殺され、一乗院門跡となり仏門にいた彼も命の危険を感じて、細川藤孝や明智光秀の手を借り、ここ越前の朝倉義景を、頼っていたのでした。朝倉義景も義昭を奉じて上洛を果たそうと準備していた矢先の阿武隈君の死でした。
時がたてば、朝倉義景もわが子を失った悲しみから立ち直ってくれるだろうと思っていたのですが。いっこうに自分を担いで上洛の気配を見せないため、義昭は細川藤孝や明智光秀の勧めもあり朝倉義景を見限り、尾張の織田信長を頼ることを決めました。
小谷城では浅井長政が弔問から帰ってきた使者と話をしていました。
「はい。呆れました。大の男が人目もはばからず泣きわめいているのですから」
「どうしてだ。わが子を亡くした親が悲しむのは当たり前ではないか」
「それは…そうですが…」
「まあ、よい。実は織田信長から妹をもらって欲しいと縁談が来ている。わしはこの話を受けようと思っている」
「朝倉義景殿がたつなら浅井としても助力は惜しまぬつもりでいたのだがな。珠玉の玉を手放されるか」
一人の少年の死がその父の朝倉義景をはじめ、大勢の人の運命を変えることになりました。




