泳げない理由
緑豊かなクリー湖の奥で、私と殿下達はボートに乗ってその景色を眺めていた。
「この辺だったら、魚が泳いでいるかな? ねぇジュリー嬢、どう思う?」
「さぁ、どうでしょうか。釣り糸を垂らしてみれば、わかるかもしれません」
カイル殿下は魚を探すように水面を眺めると、試しに釣り糸を垂らす。
だけど、なかなか魚が食いつく様子はない。
魚を待つだけの、静かで緩やかな時間が流れた。
「…そういえば、二人は泳げないんだよね? なんで泳げないの?」
カイル殿下は沈黙を破るように話を振ってくれたけど、正直、気乗りしない話題だ。
それでも、せっかく話を振ってくださったのだから、あの日のことを話そう。
と思ったが、私が喋るより先にユミル殿下が話し出していた。
「嫌いな奴が水が好き、っていうのもあるけど、シンプルに泳ぎ方がわからないからだよ。水の中に入った時、どうやって身体を動かせばいいか、わからないんだ。あと、水中の生物が気持ち悪くて怖い」
「ユミル殿下、その気持ち分かりますわ。水中の生物と一緒に泳ぐなんて、考えただけでも悍ましいですよね」
「そうかな? 魚と一緒に泳げるなんて、素敵だと思うんだけどなぁ。ところでユミル兄上の言う『嫌いな人』とは、一体誰のことなのですか?」
その話題に触れた途端、ユミル殿下は遠い目をしながらクリー湖の景色を眺めた。
「…それは言えないけど、強いて言えば遠い昔の仲間、かな」
そもそも17年くらいしか生きていないのに『遠い昔』って、大袈裟な言い方ね。
「てっきりアンサム様のことかと思ったのですが、その話ですとアンサム様ではなさそうですね」
「ははは。彼には敵対視されているけど、嫌いではないよ」
「アンサム様ですら嫌っていないのであれば、ユミル殿下が嫌う相手というのは相当…その……反りの合わないお方なのでしょうね」
「まぁね。元々、反りの合わない奴だったよ。マイペースで、自分の好きなことにしか興味がなくて…とにかく子供みたいに幼稚な奴だっだ」
ユミル殿下にそんな友人がいたなんて、知らなかった。
殿下の派閥にいる貴族令息・令嬢を思い出したけれど、思い当たる人物がいない。
一体、誰のことなのかしら?
「それでも、大事な仲間だと思ってたんだ。あの時までは」
「何かあったのですか?」
「そいつは……僕の大切なものを壊したんだ!」
殿下は眉間に皺を寄せて、握り拳を作った。
ここまで怒りを露わにするユミル殿下は、初めてかもしれない。
「…って、いけない! 怒りに囚われて悪魔憑きにされちゃうところだったよ」
殿下は慌てて、誤魔化すように笑った。
「それより、ジュリー嬢はなぜ泳ぐのが苦手なんだい?」
「正確に言えば、泳ぐのが苦手というわけではありません。ただ、生き物がいる水の中に入るのが怖いのです」
私は、トラウマになったあの日のことを思い出しながら、語り始めた。
「…昔の話ですが、ロザリア様に嫌がらせをされて、誕生日にお母様から貰ったネックレスを池に投げ捨てられたことがありました。大切なネックレスだったため、私は池の中に入って必死に探しました。その池は薄汚れていて底が見えなかったため、手探りで見つけるしかありません。幸い、すぐに見つかり、池の中からネックレスを取り出しました。すると…」
「すると…?」
「ネックレスにも、手にも…ナメクジのような生き物がびっしりと、くっついていたのです」
当時のことを思い出しただけで、鳥肌が立った。
「そ、そうなんだ。嫌なことを思い出させてごめんね」
ユミル殿下は私の話に、青ざめている。
「君にそんな思いをさせるなんて、ロザリア嬢は酷すぎる!」
カイル殿下は私を思って、怒ってくれた。
「…って、ダメだ! 危うく悪魔憑きにされるところだった。とにかく、ジュリー嬢が水の中に入りたがらない理由がよくわかったよ」
「ジュリー嬢の話を聞いたら、余計に泳ぐのが怖くなったな。…このボート、沈んだりしないよね?」
「大丈夫ですよ、ユミル殿下。頑丈なボートですから、絶対に沈みません。絶対に」
とは言ったものの、私も少し不安になってきた。
その気持ちを誤魔化すように、何度も『大丈夫だ』と自分に言い聞かせる。
「二人とも、大丈夫? 陸に戻った方がいいかな?」
「大丈夫!」
「大丈夫です!」
偶然にも、ユミル殿下と全く同じタイミングで同じ台詞を口にした。
そんな私達を見て、カイル殿下は目が点になる。
「…そっか。二人とも、息がぴったりだね」
笑顔を見せるカイル殿下。
だけどその顔は、どこか切なそうにも感じた。
「ねぇ、ずっと気になっていたんだけどさ。二人は、その…」
殿下は言いあぐねているのか、それ以上は言葉が出てこないようだ。
「何でしょうか?」
「だから…あの……」
「聞きたいことがあるなら、はっきり言いなよ」
カイル殿下は大きく深呼吸をすると、意を決したように私達に訊ねた。
「二人は、お互いのことをどう思っているの?」
「えっ」
その質問の意図が理解できず、一瞬、言葉が詰まった。
「どう、というのは…?」
「好きかどうかを聞いているのです!」
ユミル殿下が、好きかどうか?
私が返答に戸惑っていると、先にユミル殿下が答えた。
「勿論、好きに決まっているよ。なんたってジュリー嬢は、同じ生徒会の仲間なんだからさ」
あら、そういう意味ね。
それなら答えは簡単ね。
「私もユミル殿下をお慕いしています。生徒会の仲間でもありますし、何よりこの国の王子殿下ですから。この国に、ユミル殿下とカイル殿下を嫌う人間はおりませんよ」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
「…だったら、どういう意味?」
「二人は、その……い、異性として好きかどうかを聞いているんです!」
カイル殿下は声を荒げるように、核心を突くような訊ね方に変えた。
その質問に、私はふとユミル殿下の顔を見る。
殿下も私に顔を向けて、ずっと目を見つめていた。
私が、ユミル殿下を男性として好きか?
「………わかりません」
悩んだ末に、私はその一言しか言えなかった。
私が好きなのは、ウイン様だ。
もしユミル殿下がウイン様であれば、ユミル殿下が好きだということになる。
だけど、もし違っていたら?
ウイン様の正体がわからない以上、私が好きな人がユミル殿下だとは言い切れない。
「僕は、ジュリー嬢は魅力的な女性だと思っているよ」
「えっ?」
ユミル殿下の言葉に、心臓が跳ね上がりそうになった。
殿下が仮にウイン様だったら、もしかしたら…。
その先のことを想像すると、思わず頬が緩みそうになった。
「………そっ…か」
ユミル殿下の返答に、カイル殿下はなぜか呆然と憂いを帯びた表情をしている。
そもそも、この質問に何の意味があったのかしら?
「そういうカイルは、ジュリー嬢のことをどう思っているんだ?」
「僕が、彼女を?」
逆に質問されるとは思っていなかったカイル殿下は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情になる。
殿下が私をどう思っているかは、聞くまでもない。
だけど殿下は私をじっと見つめるだけで、なかなか答えない。
もしかして『女性として意識していないと言うのは失礼』とでも思ってくださっているのかしら?
無言の間が続き、少し気まずくなった。
「……あっ、釣り糸!」
カイル殿下は、沈黙を破るように話し出したかと思ったら、話を逸らすように釣竿を強く握り締めた。
どうやら魚が引っかかったらしい。
釣竿を引き上げようとするも、魚はなかなか姿を現さない。
「僕も手伝うよ!」
ユミル殿下も一緒になって釣竿を握り、引き上げようとした。
「ぅわぁ!!」
だけどユミル殿下は体勢を崩し、そのまま大きな水飛沫を上げて湖に落ちてしまった。
私とカイル殿下は、慌ててユミル殿下を引き上げたものの、ユミル殿下は溺れて気を失っていた。
「兄上、大丈夫?!」
「とりあえず、岸まで戻りましょう!」
私達は急いで岸までボートを漕ぐと、受付の人にお願いして、ユミル殿下を医務室で寝かせてもらった。




