34 レイモンドの温室2
「そんなに俺が、軟弱に見える?」
「ううん、そうじゃなくて。レイくんはあの時、領主権限を使って刑を執行しなかったでしょう。それが、心残りになっていないか心配だったの」
あの時の彼は、子どもたちを見てから抜きかけていた剣を収めた。
これまで実際にこの事件を捜査してきたレイモンドなら、自分のトラウマ以外にも、子どもたちの被害に関するさまざまな憤りを感じてきたはず。
その気持ちに決着をつけるためにも、彼自らあの親子に裁きを下すのが最良の方法だっただろうに。
「リリのためにも、あの場で刑を執行すべきだと考えていたけれど、俺たちのトラウマを消すために、子どもたちにトラウマを植えつけるわけにはいかないから。これまで苦しんできたリリなら、きっと理解してくれると思ったよ」
もしあの場で刑を執行していたら、子どもたちは誘拐から助けられた安堵感よりも、目の前で人が死んだことのほうが恐怖となり、トラウマを抱えた可能性が高い。
レイモンドは今日まで、子どもたちがトラウマに苦しむことのないよう、最善を尽くしてきてくれた。
「あの時、レイくんのことが心配だったけれど、同時に感謝もしたわ。私もレイくんと同じ気持ちだったから」
リリアナ自身も、子どもたちが事件のことでトラウマを抱えないよう、馬車での移動中からずっと気にかけてきた。レイモンドとは相談したわけでもないのに、同じ事を考えていたのがとても嬉しい。
「そういう優しいレイくんが、大好き。これまでもずっと大好きだったし、この気持ちはいつまでも、変わらないと思うわ」
レイモンドのことが好きすぎる気持ちが溢れてそう告げると、レイモンドはリリアナから目を逸らしてうつむいた。
そして困ったように、額に手をあてる。
「レイくん……?」
「リリはいつも、俺より先に行動する……」
「どういう意味?」
確かにリリアナのほうが年上なので、レイモンドよりしっかりしなければという気持ちはあるが、なぜそれを今、言われるのか。さっぱり理解できない。
レイモンドの顔を覗き込むようにして首をかしげると、彼は横を向いてリリアナを恨めしそうに見つめる。心なしか彼の頬が赤い。
「そして、その大好きには特に意味はないんだろう?」
「大好きは大好きよ。それ以外に、意味がある?」
ますます彼が何を言いたいのかわからずにいると、レイモンドの表情は冷ややかな笑みに変化する。
「リリちゃんはもう少し、大人になろうか」
またやってしまった。
素直な気持ちを伝えたはずなのに、彼を怒らせてしまった。本当に年下の気持ちはよくわからない。
これ以上話すと、ますます機嫌を損ねそう。リリアナは逃げる体制に移ろうとした。
けれど、レイモンドに腕を掴まれ、反対の手で耳の辺りを押さえられ、そしてなぜか、唇が重なる。
(いっ……いきなり何で?)
ぽかんと彼を見つめるリリアナの目の前に、レイモンドは眩しいくらいの素敵な笑顔が広がる。
「リリ。俺も大好きだよ」
「…………っ!」
こんなふうに言われたら、さすがにリリアナも理解する。彼が向ける「大好き」と、リリアナが向ける「大好き」が、かみ合っていないと。
「この事件が解決したら、ずっと言いたいことがあった。――リリアナ、俺と結婚してください」
「こ……公爵家からの求婚を、男爵家が断るはずないでしょう。なぜ、わざわざこんな大変なことまでして……」
これが立場が逆ならば、リリアナは必死に出世して王妃の補佐官にでもならなければ、大手を振ってレイモンドに求婚などできる立場ではない。それでも足りないくらい。
しかしレイモンドは違う。次期公爵や現侯爵という地位だけで、王女に求婚しても不釣り合いではないほどの立場だ。
男爵令嬢に求婚するために、これほどの成果を残す必要などどこにもない。
「俺がトラウマを抱えたままだと知れば、リリは罪悪感から俺と結婚しただろう? それが嫌だったんだ。リリを本当に幸せにするには、俺たちのトラウマは必ず克服しなければならなかった。お互いに負い目を感じることなく、愛し合いたかったから」
「レイくん……」
彼の言うとおりだ。レイモンドにトラウマが残っていると知る前から、リリアナはあの事件のことで、レイモンドに対して負い目を感じていた。
その状態で求婚されたなら、レイモンドへの罪悪感や、彼を守って支えなければという義務感で、「好き」以外の感情の方が大きくなっていただろう。
その上、公爵家からの求婚など断れるはずがないと、貴族社会の常識に囚われている。
けれど、そういった義務が生じる結婚を、彼は望んでいないようだ。
「求婚を受けるかどうかは、リリ自身の気持ちを一番大切にして。リリの気持ちを確かめてから、正式な求婚書を出すから。――リリは俺のこと、どう思っているの?」
切なそうに見つめるレイモンド。リリアナの気持ちを大切にとは言うが、あまり待ってはくれなさそうな雰囲気だ。
「急に言われても……。レイくんのことは弟として大好きだったから……」
「へえ……。リリちゃんは、その弟に何度も唇を奪われても、弟としか感じなかったのかな? あんなに顔を真っ赤にさせておきながら、一ミリもドキドキしなかったわけ?」
本当にこの幼馴染は、ピンポイントで痛いところを突いてくる。
リリアナは彼からのキスに対して、毎回のように心を乱されて来たし、先ほどのキスは今でもドキドキが止まらない。
「ドキドキした……けど。レイくんとは結婚できないと思っていたから、すぐには気持ちを切り替えられないよ」
気持ちの問題だけではない。公爵家に嫁ぐとなると、勉強しなければならないことも山ほどある。
今、思い返せば、スカーレットはこれを見越してリリアナの派遣を求めたようだが、それでもぜんぜん足りないくらいだ。
レイモンドに見合う女性になるためには、もっともっと努力しなければ、リリアナ自身が満足できない。
「わかった。俺もリリを追い詰めたいわけではないから、リリが決心してくれるまで、いくらでも待つよ」
「……本当?」
「うん。俺の望みは、リリに愛されることだから。――けれど、困ったなぁ。俺たちの偽装婚約期間は、もうすぐ終了してしまうよ。一度婚約を解消してしまったら、また婚約を結ぶのは家門のイメージが悪くなるし、陛下も許してくださるかどうか……。どうしようか、リリ?」
レイモンドは困ったように、こてりと首を傾げながらリリアナを見つめる。
「どうしよう。そんなに早くは決められないわ!」
「こんな時、人事調整課ならどうするの?」
「えっ? 期間内に任務の収拾目途が立たない場合は、期間延長申請書を提出してもらって……」
そこまで言いかけたリリアナは、レイモンドが何を言わんとしているのか理解した。いくらでも待つと言われたのに、どんどんと追い込まれている気分だ。
けれどリリアナとしても、レイモンドとの縁は途切れさせたくない。
今はまだ、急なことで気持ちが追いつかないが、これからじっくりと実感して、レイモンドと結婚できる喜びに浸りたい。
そしてしっかりと自分の気持ちがレイモンドに追いついてから、正式な関係へと進みたい。
レイモンドは、そんなリリアナの気持ちなど手に取るようにわかっていて、このような質問をしてきたのだろう。
年下に主導権を握られて悔しい気持ちもあるが、彼なりに猶予を与えてくれたとリリアナは思うことにした。
「偽装婚約延長でお願いします……」
次話でラストになります。明日の昼に投稿予定です。





