傭兵、家に帰る(1/2)
夏。傭兵として働く俺が、実家に帰省する話です。
岐阜、長良。いいとこです。
姉ちゃんと祖母の住む家へ、帰ってくる安らぎのある時間を書きました。
玄関に腰を下ろして靴を脱いでいると、
「あんた、またタトゥー増やしたね」
姉さんに頭をはたかれた。
「なんですぐわかるん?」
タンクトップ着てるんやからわかって当然や、兵隊か!
指先まで入れ墨まみれになってからに!
と、葉月姉さんは笑って俺の荷物を両手に抱えて廊下を進んだ。
スーツケースはセントレア国際空港の税関で検査の後、
この家に配送される手筈になっている。いつものことだった。
外資軍事関連従事者は、日本入国の際にレベルSの入国審査を義務付けられる。
文句はないけど、傭兵の扱い方がここまで厳重なのは日本だけだ。
日本の治安の良さを支えているのは、この種の仰々しいまでの慎重さなんだろうと俺は思う。
一長一短?
少し違うか。いや、合ってるのか?
姉さんの運んでくれているバッグには2日分の服、身分証明書、
そして姉さんとおばあちゃんへの土産が入っていた。
姉さんに両手で抱えられたバッグが、黒い大型犬に見えた。
揺れる肩掛けのストラップが、はしゃぐ犬の尻尾に見えた。
「外国の香り、前回とは違う、すこし埃っぽいね?
嗅いだことの無い国の香りがする」
俺のバッグを顔に押し付けて匂いを嗅ぐ。
姉さんの「おかえり」の儀式なのかもしれない。
部屋にバッグを運ぶ姉さんの背中が、
なんだか懐かしくて心が安らいだ。
実家に戻るのは三年ぶりだった。
一年半年で戻れるはずが
政策としてのロックダウンと感染拡大予防のために、
契約をそのまま更新して、
また一年半中東に留まった。
まだ開けっぱなしている玄関の外から、セミの声がした。
柔らかい温風が、涼しい玄関に入ってきた。
お盆はまだ先なのに、旅行ラッシュなのか帰省ラッシュなのか、
セントレア空港は混雑していた。
二年前のパンデミックがおさまった反動なのかもしれない。
ハワイ行きのゲートが、有名ラーメン店の軒先に見えた。
むごいレベルの搭乗客の長い列だった。
緩んだ口元をおさえられないまま、最終ゲートをくぐった。
空港を出た時点で、初めて外部者との連絡を許可される。
契約だから仕方ないけど、事前に便名を知らせて空港やら名古屋駅やらで待ち合わせて、
家族を食事にでも連れていきたい。毎回叶わない。
『家に帰るまでが任務』とまでは言わないけど、
実家の玄関をくぐると銀行アカウントに契約完了で成立する残金が、
チャリン、と振り込まれた気分になる。
実際はもう振り込まれているはずなんだけど。
現実と身体感覚が一致する瞬間は、紙の上で定めた期日とは異なる気がする。
「あんた、前回もこのポーターのバッグやったね、これ丈夫なん?」
「丈夫なんてレベルじゃないて。
同僚から買うてきてくれ頼まれたわ。えらいかっこいいし全然やぶけへん。
隊で評判やったよ。東京駅にでっかい店舗がある意味ようやくわかったわ。
今度は成田空港使うから、東京駅でポーター大量買いせにゃらん」
移動用の軽量アーミーブーツを脱ぐと、
靴下も脱いで、丸めてブーツに突っ込んだ。
ふう…はあ。深呼吸。
開けっぱなした玄関から、お山と田んぼが見えた。
廊下の向こうから、
帰ってきた瞬間に出てくときの買い物の話せんといて!
と姉さんの声がした。
それもそやなと思ったけど、
口には出さずに、姉さん今日は有給なん?と話題を反らした。
蒸れた素足を、玄関で腰を下ろしたまま、冷ます。
もう一回、深呼吸。
岐阜の空気は、
なんて独特なんだと思う。
湿度があって、暑いんだけど、容赦がある。
あついやろー? これが夏やよー。
お空が入道雲を手を仰いで笑ってる。親しみやすい。
かき氷の溶けない暑さなんて暑さじゃない。
土埃が灼ける焦げ臭さがない。
中東の肌と肺を灼き尽くす空気とは全然違う。
玄関の外に拡がる、お山と田んぼに目線を少しおろした。
岐阜のお山は色が深い。
高いお山ではないし、田んぼもうちが持っているのは4反あるだけだ。
地味なものだけど、姉さんとおばあちゃんがよく手入れしてるのか、
黄緑色の稲が風に踊った。
ああ、帰ってきた。
俺は居間に向かうと、畳に膝をついて正座姿勢を作り、
両掌を膝がしらの前でそろえた。
そして、テレビを観ているおばあちゃんに声を掛けた。
浴衣姿のおばあちゃんも三年前と同じだ。懐かしい。
「ただいま戻りました。八月末まで、お世話になります」
おばあちゃんは観ていた『ダウントン・アビー』を一旦停止させて、俺の方を向いた。
「グッドトゥシーユーアゲイン。
無事で戻ってよかったねえ、おじいちゃんに挨拶してきい?
スイカは? 食べるな、食べり。今切るわ」
相変わらずのカタカナ発音のおばあちゃんの英語が嬉しかった。
テレビモニターのダウントン・アビーは英語字幕のまま、
主役らしい女優が僕のほうを見て微笑んでいた。
僕は、いただきます、と答え、
仏壇のあるおばあちゃんの寝室へ向かおうと廊下へ向かった。
俺の背中に向かって、おばあちゃんは一喝をぶつけた。
「おじいちゃんの前では上着来てな。
ハイドユア(バカな入れ墨は)、ファキンタトゥー(隠しなさい)!」
威勢のいいおばあちゃんの『ファキン』の発音に噴出してしまった。
上着は姉さんが運んでくれたバッグの中だ。
俺は客間に向かった。
今年も変わらず俺が寝泊まりする部屋なのだろう場所は、
一階のおばあちゃんの寝室の隣にある客間だ。
たぶん、今年もそうだ。
客間のふすまを静かにあけると、
姉さんが部屋の空調リモコンをクーラーに向けていた。
しょうのうと畳の青いにおいがした。
「まだクーラーいらんよ、今から居間でスイカたべるし」
俺は姉さんに向かって断りながら、床の間の脇に置かれたバッグに手を伸ばした。
「日当たりいい部屋やから、冷えにくいんよ」
姉さんの手元のリモコンがピピピピと連続で音を発した。
設定温度を下げているのか、風量を多くしているのか、
どちらにしても姉さんらしい。ヒトのために徹底して行動する。
「俺おとついまで砂漠にいたのよ、姉さん。長良の暑さなんて可愛いもんやて」
俺はバッグの中から、ジャケットを取り出して皺を伸ばした。
「それでもええの」
姉さんといっしょに、仏壇へ向かった。
「あんた、どこの病院予約したん?」
スイカを頬張りながら、姉さんがアレクサに向かって
「Play “When I Fall in Love” by Bill Evans」と呟いた。
姉さんの英語の発音が、俺は好きだ。
中東でカタカタした現地の英語しか聞かなかったからではない。
同僚のワイルドで軍事用語が混ぜ混ぜられた英語に囲まれた三年間だったからでもない。
姉さんのぜんぶが、姉さんの発音で感じ取れる。
精緻で徹底していて、
夏にスイカ食べながらメロウなジャズナンバーを聴く個性。
前奏が始めると、姉さんは首をスピーカー側に少し傾けて、
俺に向かって小さくウィンクした。
わるくないやろ?
わるくないわな。
そんな感じ。
BBCのキャスターでもこんなに魅力的なウィンクはハジけない。
俺はそう思う。
人間ドックは岐阜で一番大きい総合病院を予約していた。
個人での受診だし、脳ドックは勿論のこと、
アレルギー・甲状腺・腫瘍マーカー・ウィルス抗体含めて、
追加できるオプションは全て受診する。
総額は、慎ましやかな婚約指輪なら2回分買える。
たぶん。そのくらい。
「領収書、持ってきんさいよ。賭けてるんやから」
居間から続きになっている台所から、おばあちゃんの声が聞こえた。
この賭けも毎年恒例だ。おばあちゃんが誰と賭けてるのか、
何を賭けているのかは、姉ちゃんをいつも問い詰めるけど教えてくれない。
「秘密のない女なんて…つまらんわあ、ねえ?」
おばあちゃんと声を合わせて、姉さんはそんなことを言う。
女の人って、面白いですね?
それとも、俺の身内だけだろうか。
ビル・エヴァンスが終わり、スイカを平らげると、
おばあちゃんがビールを勧めてくれた。
「もうすぐごはん炊けるから待ってな」
アサヒの瓶ビールだ。
銀色に光るビールラベルが目に入って、
俺は、あ、そうだそうだ、と腰を上げて客間に向かった。
ポーターのバッグから二人へのお土産と自分用に買った
ビーフジャーキーを持って、駆け足で居間へ戻った。
「このビーフジャーキー、岐阜で見たことないわ」
せやろ? この味付けは日本で絶対ないからな、
俺これが酒のアテには最高だと思うもん。
コショウとスパイスと硬さが絶妙なんよ!
言いながら、姉ちゃんが笑った。
俺も、あ、そうか、と笑った。
「三年前も、同じこと話したね」
姉ちゃんが俺のグラスにビールを注いでくれた。
三年前と同じビールグラスだった。
掌におさまるサイズのグラスだ。
古い寿司屋とか古い居酒屋にあるデザイン性皆無のビールグラスだ。
三年前より小さく感じた。
俺の手の筋肉が育っているからか、俺の手の筋肉が育っているからか、
それとも俺の手の筋肉が育っているからなのか、
わからなかったけど、
実家で飲むビールが旨さとビーフジャーキーを
姉ちゃんがおいしいねって頬張って
ゴクゴクビールで鳴った喉の音は、事実だった。
「ごはんよお」
食卓から、おばあちゃんの声がしてから、夕餉の支度を手伝う。
おばあちゃんはあくまで主菜を作る人で、
食器を並べて漬物やお茶をテーブルに整えるのは姉さんと俺の仕事だ。
「シチュウか。夏なのに」カレー皿を俺が食卓に並べる。
「昼にそうめんゆがいたのに、あんた昼過ぎに帰ってきたやんか」
先に食卓についたおばあちゃんは、
ビールに口をつけていた。
いい飲みっぷりだった。
「ちゃうて、おばあちゃん、ダウントン・アビーの影響で洋食にしたんやろ?
影響ついでにワインもだそか?」
姉さんがキムチと胡瓜の漬物を鉢に盛った。
麦茶のグラスにプリントされたコカ・コーラのロゴやミロのロゴマークは、
三年前より剥げていた。
俺の箸は、俺の八角箸は、
食器棚の引き出しの箸置きにみんなの箸と同じように納められていた。
「これ、お土産」
オレンジ色の紙袋をひとつずつ、おばあちゃんと姉さんに手渡した。
免税店で購入したエルメスの香水とスカーフだった。
おばあちゃんには緑色の瓶の香水と緑色基調のスカーフで、
姉さんにはオレンジ色の瓶の香水とオレンジ色基調のスカーフにした。
「嬉しいけどお、つけてくとこないわあ、嬉しいけどお」
前回フェラガモを贈った時と同じことをふたりに言われた。
岐阜では珍しくて、女の人が華やぐものを贈りたいだけだから、
今回も成功だと思っておこう。
おばあちゃんのシチュウを一口味わうと、止まらなくなった。
俺の食欲とか食べっぷりなんか見えないみたいに、
おばあちゃんは『ダウントン・アビー』の話をして、
姉さんは職場の機械メーカーでお世話になってるお得意さんたちの話をした。
日本のものづくり産業は順調らしい。安心した。
軍事産業も結構儲かるよ、と口をはさみたかったけど、やめておいた。
来週末は、夏祭りがある。
(つづく)