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天魔の子・藤堂高虎  作者: 宇井崎定一
第八章 上杉謙信の挑戦
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上杉謙信、信ずるままに刃を振るう

「美佐野は無事押さえましたが、細久手はすでに武田に抑えられている模様です」

「やはり細久手か。それにしても危なかったな」




 細久手は文字通りの細い一本道を通らねばならない地で、南北からの山地の奇襲を受けやすい厄介な場所である。無論わかっていればその威力は落ちるとは言え、面倒くさい事に変わりはない。

 いくら山地とは言え美佐野と細久手はその気になれば二十分も要らない距離であり、その先はあっという間に御嵩である。


「おそらくは武田の誰かなのだろうが、まったく面倒な事をしてくれる。それで数は」

「岩村城と苗木城は武田軍に当てがわれているようでそれ相応の守備兵が残っておりますのでさほど多くはないかと、下手すれば残る全軍で細久手に控えているかもしれませぬと」

「徳川殿はどうだ」

「残念ながら予想通り、駿河で北条と武田の攻撃を激しく受けておられるとの事。武田も北条も当主自らの攻撃で兵たちもかなり張り切っており、さらに副将として松田憲秀及び高坂昌信がいると」

「それだけで十分だ」



 今の武田に残る精鋭はわずかしかいない。高坂軍か、小山田軍である。一応天竜川の戦いから逃げた兵たちはそれなりに練度も上がっているが、まだ両軍には及ばない。


「すると小山田信茂だろうな。その旨わかっているとは思うが丁重に伝えてくれ」

「ははっ」


 使者の後を追うように、織田軍は前進する。

 岩村大虐殺のいきさつを知らされているからか、織田軍の将兵には殺気が立ち込めていた。勝つか死ぬかの二者択一。もともとそれが戦場なのだが、上杉謙信と言う存在の恐ろしさを知らされてますますその気持ちがみなぎっていた。



「細久手の入り口、南北に武田の伏兵を発見したとの事です!」

「よし、だがおそらく向こうも気付いただろう。良いか、武田は弱っているとは言え山岳戦では一日の長がある。決して油断せぬように頼むぞ」

「兄上、左右の伏兵をそれがしと信孝に!」

「待て信雄、そなたらにはそなたらの使い方がある。その時まではじっと耐えろ。あわよくば二人がこの戦の功績第一になれるかもしれぬのだからな」

「しかし兄上滝川は!」

「あれは囮だ」


 出しゃばりたがる弟をなだめながら、信忠は滝川軍の戦いをじっと見守る事とした。


 一益は平然と細久手に入りながら、伏兵たちが動くのを待っている。泰然とした動きは信忠からもわかるほどのそれであり、自分のような若造との格の違いを思い知らされるには十分である。

 その事すらわからない弟にため息を吐こうとすると、いきなり歓声が起こり始めた。



「いよいよだな!全軍、戦闘態勢に移れ!」


 信忠の声とともに、織田軍全軍が戦闘態勢へと移行した。




 ※※※※※※※※※




「おっと!これは小山田軍得意の石投げ攻撃か!まあいい。横撃部隊はよくやっている。我々ももう少し耐えるのだ」



 先鋒の一益は、街道で襲い掛かって来た伏兵たちの攻撃を冷静に楽しんでいた。

 織田軍で随一の鉄砲隊を持つ滝川軍にとって石などまるで児戯のような武器であったが、それでも胸や顔に当たれば打撃は小さくない。

 もっともわかっていれば対処のしようもあり、あらかじめある程度の距離を開けた上で守れば問題はなかった。


 ましてや、半ば挟撃状態になっているとすればなおさらである。



 街道に入った滝川軍は四千しかいない。残る六千は三千ずつに振り分けて南北の伏兵に迫っている。



「逃げ時をよくわきまえている。しっかりとしているな」


 小山田軍は簡単に後退し、南の武田軍も後退した。


「あわてる必要などない、一歩一歩着実に押していくのだ。どのあたりに潜んでいるかわからないからな」


 武田軍の後退を確認した一益は再び前方に向きを変え、その上で一歩一歩確実に前進して行く。ずっと伊勢担当で美濃に詳しくなかったことが幸いしてか、一益にとって新鮮な光景であったゆえ警戒心も強くなった。


「しかし四千で大丈夫ですか」

「武田はともかく上杉は美濃に長居できない。とすればいっぺんに攻勢をかけるしかない。この戦は粘れば勝ちだ」




 上杉謙信は岩村ですさまじい数の兵士を殺した。いきさつはどうであれ、それでは岩村の民は上杉にはなつかない。どうせ目標である信忠を討てばとっとと帰ってもいいぐらいの気持ちでいる謙信からしてみればどうでもいい存在なのだろうが、少しでも長引いて岩村を初めとした美濃に留まるとなると非常にまずい。よそ者が歓迎されるのは統治者がよほどひどい時だけであり、美濃の統治は悪い訳ではない。


(いざとなれば後退しても良い。どうせ佐久間殿も最初からその気だったしな)


 確かに岐阜城に籠っているのはあまり望ましくないが、かと言って岩村城まで一挙に出ていく必要はなさそうだと言うのは一益も信盛も共通していた。



「南北の武田軍はどうした」

「大きく後退しております、再び取って返す可能性もありそうです」

「上杉がいよいよ来るかもしれん。者ども、今こそ上杉に織田の底力を見せてやる時だ」



 滝川軍は一斉に鉄砲を構える。

 南北は支隊が抑えているはずだ、自分たちは前だけ見ていれば事足りる。




 そう考える間もなく、毘沙門天の旗が接近して来た。


「一斉射撃だ!この道なら数で押す事はできまい!」


 石っころなどとは違うのだと言わんばかりに、滝川軍は鉛玉を上杉に送り付ける。銃声が鳴り響くと同時に上杉兵が倒れ、それと共に次がやって来る。


「鉄砲隊は後退、そして白兵戦で時間を稼ぎその上で再び射撃の用意をさせる!」


 せいぜい三列ぐらいでしか通れない道である。柵もないとは言え数の有利不利を補うには悪い場所ではない。


 さすがに白兵戦ならば上杉も強く犠牲も出たが、そのたびにまた射撃が決まり犠牲が増えていく。戦と言うのは時に非情であり、軍全体の勝利のために個人の人格が無視される事はままある。

 長引けば勝ちと思っている一益からしてみれば、五十や百の犠牲は仕方がないと割り切っていた。


 だが、どうもおかしい。戦って十数分もしないうちに、既に上杉軍の最後方が見えていた。



「どうも上杉軍が少ないようです」

「少ないって、どれぐらいだ」

「ここにいる我々と同じぐらいかと」

「細久手でなければどこからくるのだ、まだ武田上杉連合軍は岩村と苗木周辺ぐらいしか抑えていないはずだぞ。ましてや岩村の大虐殺で上杉は不興を買っている。もう十分敵に損害を与えた、ゆっくり後退しろ」

「はい、わかりました!」


 混乱を必死に抑え込み平静を装いながら後退を開始した滝川軍であったが、その瞬間前の上杉軍がより激しく迫って来る。無論極めて整然とした撤退だったので損害は膨れ上がらないが、だとしても厄介な事には変わらない。


(囮だとしてもずいぶんと本気なものだ。問題は我が軍の分隊がどこまで耐えられるかだが、あるいは殿や佐久間殿に任せてしまうのも良いかもしれぬ)



 一益はまだ余裕気取りのまま、ゆっくりと後退していた。



「申し上げます!南側より北条軍が乱入!我々を飛び越して佐久間軍を攻めております!」

「挟撃狙いか、だが所詮北条は北条だ。それほど本気と言う訳でもあるまい」


 そうか南側の山地を通って来たのかとか、そこで北条かとか思わなかった訳ではない。

 だが自分たちを飛び越して攻めて来るとまでは思わなかった。


 しかし北条はしょせん援軍、ましてや遠い関東の存在。上杉や武田ほど真剣になる理由もなく、一益は大したことはないと見ていた。


(北条は関東に野心はあっても駿河にすら野心はない、あくまでも小田原城を守るために出兵したのだ。ここまで来たのは文字通りのお義理。適当に戦ったところではいさようならだろう)




 だがその一益の楽観は、一瞬で崩れた。


「上杉軍がまた来ました、しかも先鋒は上杉謙信です!!」




 ※※※※※※※※※




「受け止めてみよ!」


 山道を通り越して中軍の佐久間勢に衝突した北条氏照は、鋭く織田軍を突いてくる。


「落ち着け、敵はしょせん五千!滝川軍が突破されている訳ではない以上、少し凌げばたやすく崩れるぞ!」


 その氏照軍を、信盛はきっちりと受ける。体制を整え、突進力で数の差を補おうとする氏照を受け止める。

 もっとも、いきなり一万をもって当たる事はしない。



(滝川軍を数で弾き飛ばしたのは認める。だが弾き飛ばすと殺すは全然違う)


 北条軍五千と、いったん追われたと思いきや引き返して来た武田軍を三つに分けられたうちの三千で凌ぐ事はできない。あっという間に後退させられ、今では自分たちどころか信忠軍の後ろまで下がってしまっている。

 しかし、それは体制さえ立て直せばいくらでもいけると言う意味でもある。


「不意打ちをかけたのにこれとは、意外としぶといな」

「こんな物不意討ちでも何でもない。まあとにかくまずは一勝をもぎとる、そして流れを変えるのだ!」


 信盛にしてみれば、強行軍も戦術としてはありだと言うのはわかっていた。

 謙信の自業自得とは言え短期決戦しかしようがない以上、かつて武田信玄がそうしたように謙信もまた全力で最大級の勝ちをもぎ取るだろう。


「北条よ、あんな狂信者に付き合う理由はないぞ」

「付き合わねばいずれ武田が倒れ、次に北条が倒れる!」

「攻めるのは実に簡単で、しかも得だな。まったく羨ましい事この上ない。しかも前後を考える必要がないのだからな」


 北条軍に向かって、嫌味ったらしくそんな言葉をぶつけてやる。北条がこの戦に際しどれほどの条件を付けてもらったのかわからないが、いずれにせよ美濃をいくら荒らそうが北条が受ける打撃は大きくない。ある意味一番お気楽な立場であるとも言える。


「武田でも使う気か?」

「無論だ。武田の大将は貴様らによりあえなく最期を遂げたあの信玄公が五男仁科殿。織田に対する恨みつらみは半端ではない。ほんの少し滝川に戸惑いもしたが、共に合わさればこの程度の柵などあっという間に崩せる」

「言うなおい、だが佐久間はまだ本気を出していないぞ?」


 武田軍が滝川軍と同じように分割されていたことは既に知っている。その上でまだ五千程度の兵で北条軍を受け止め、残る兵で滝川軍本隊と共に上杉軍をいなす。できれば自分たちだけで上杉軍を細久手に押し込み、信忠や浅井軍の手を煩わせずに片付けたい。


(ここで奇妙丸様に万一の事あらば、今度こそ織田はしまいやもしれぬ……わしはもう五十も目の前だしそんなに惜しくはないが、織田が滅ぶのは耐え難いのだ…………)


 織田のために生きる。そして織田を守る事により、民の平安も守れる。織田内戦時代からの宿老は血塗られた手を握りしめながら、北条軍を抑え込もうとしていた。







 その甲斐あってか、北条軍が後退し始めた。さすがに鍛えの入った軍勢だけに追いに行く者はなく、次に来るであろう武田軍を待つ者、やがて来るであろう上杉軍本隊を待つ者にきちんと分かれていた。



「上杉が来たぞ!」

「大丈夫だ、」



 上杉を迎え撃つ側に回った信盛が受け止めてやろうと言おうとした途端、その目に刃物の輝きが入り込んだ。




「北条殿、よく引き付けてくれた、感謝いたす」



 白い頭巾に頭を包み、一本の刀を持った男が先鋒となり、こちらに突っ込んで来た。

 その男の言葉に甘えるかのように北条軍が下がって行くと共に、その男は近付いてくる。


「上杉謙信かっ!」

「いかにも上杉謙信である。織田の者よ、この国のすべては公方様に帰するべきだ。今すぐ悪徳の主を捨て我が元に降るべし」




 まったく抑揚のない調子で、まるで息をするように投降を呼びかける。その上で刃を振るう事をやめず、川尻軍にしたのと同じ降るか死ぬかの二者択一を迫る。


「ふざけるな、川尻様の無念を思い知れ!」

「惜しいかな川尻秀隆、その武勇まだまだ幕府のために使えた物を……」

「口ばっかり殊勝ぶりやがって!」

「来世は正しき道を歩め、その罪は謙信がいただいておこう」


 無論兵たちもこの最大の功績を追い求めるが、片手どころか小指一本で次々と蹴散らされて行く。



「滝川殿はどうした!」

「みっともなく織田へとしがみつく輩の事か?とっくのとうに逃げ去ったわ。

 何故だ?あれほどの才覚を持ちながら何故に織田などにこだわる!?」

「織田に恩を受け、織田により大きくなった!それに仇で返すなど武士ではない!」

「武士であろうがなかろうが正道は歩ける。武士などにこだわる事もあるまい」


 頭のおかしいとしか思えない事を、真顔で言ってのけている。どこまでも本気であり、どこまでも狂気である。


「貴様のような奴が天下を治めたらこの国は壊れるわ!」

「この国を治めるのは公方様であって上杉ではない……そうか、自分がそうだから我々も同じだと思うたか…………あな口惜しや!」


 謙信が目一杯の大声を出し、信盛に斬りかかる。

 姫鶴一文字が謙信とほぼ同い年の信盛の槍に叩き付けられ、信盛の体を激しく揺らす。



「佐久間様を守れ!」

「地獄へ行くか公方様に従うか、どちらかを選べ」


 多くの兵たちが謙信に向かって来るが、相手にならずに斬られていく。

 特に謙信の側にいた若武者の働きはすさまじく、謙信が信盛に構っている間に十人の雑兵を切り捨てていた。


「正道に行き、正道に死すれば未来は明るし。欲を貪り邪道に生きれば未来は暗し。それだけの事であろう」

「将軍を守ろうと言う欲に取り付かれた男が何を!」


 信盛の必死の抵抗も空しく、謙信との七回目の斬り合いで信盛は平衡を失い、落馬してしまった。


「いつでも謙信は待っている。我が旗の下にその身を投じる日をな」


 殺されもしないまま置き捨てられた信盛が兵たちに助けられる中、謙信は信盛落馬により生まれた隙間を切り開くように、自ら先鋒となって織田信忠の陣への突進を開始した。




「殿!」

「刀が駄目ならば銃がある、我らが犠牲になるもやむなし、撃たさせよ!」


 落馬しながらも闘志を失わなかった信盛の号令と共に味方撃ちとでも言うべき一斉射撃が始まったが、それにより佐久間軍の兵士十幾名が無駄死にと言うべき形で死亡。


 そして謙信はと言うと一応かすりはしたようであり足を止める事はできたが、上杉軍が止まった訳ではない。







「見たか聞いたか、これが毘沙門天に帰依せし軍神の力ぞ!」

「しかしさすがに少し危険かと」

「よかろう……少し任せよう。そなたら、もはやこれ以上織田信忠が跳梁を許す訳には行かぬ。織田信忠の目を覚まさせよ」




 あっという間に軍勢を突破され真っ二つにされた自軍の南側で、信盛は謙信たちの会話を聞きながら敗北感に打ちひしがれようとしていた。



「また別の上杉です!」

「やむを得まい、この軍勢だけでも凌ぐのだ!」



 信盛は半分にされた兵と半分以下の闘志と共に、新たなる上杉軍を待ち構える。


(織田のため、世のため……ここが死に時かもしれん!)


 絶対に狂信者たちに信忠の首を取らせまいと言う闘志と祈りの心が、信盛の老体に鞭を打たせていた。

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