上杉謙信、岩村城を奪取する
さて、兎大友皇子こと四月十一日の二日前、四月九日。
上杉謙信は、すでに信濃に入っていた。
「さすがは不識庵様」
「そのような平べったい美辞麗句を聞きに来た覚えはない」
武田軍の総大将を務める仁科盛信にも、謙信は無愛想に答えるだけである。
旗を掲げることもなく、じっと息をひそめて来た。二万の軍勢をここまで静かに動かせるほどには、謙信も優秀な軍略家だった。
「武田信玄……紛れもなく英傑であった。敵対することになったのは惜しいとは言え、あくまでも源氏の正統なる者としてなすべきを為したのは間違いない……」
「父上は甲斐のために生き、そして死んだのです」
「そうだ、だから信玄については幾たびも刃を交えて来た者として理解もできる。
だが何だあの織田信長とか言う不埒者は!」
謙信にしてみれば、信玄は欲深ではあるがあくまでも家臣団ありきの欲深でしかないし、氏康にしてもまたしかりだった。
だが信長は破壊のために破壊している、その必要もないのに。無駄に敵を作り、そしてそれにより破滅していく愚か者。さらにその破壊の対象が事もあろうに歴史と伝統を持った比叡山延暦寺であり、その上何よりも大事にされるべき幕府まで滅ぼしてしまった。
怒りとか憤りもさることながら、単純に不可解だった。魔王とか自称しているが、まさしくその類のそれとしか思えないほどの狂気に取り付かれているのではないか。
「明智光秀とやらも目を覚ましたのだろう、あるいは最初からそのつもりだったのやもしれぬな」
「明智光秀が信長を討ったかどうかはわかりませんが」
「駄目なら駄目で構わぬ。あの魔王の息子を討つまでだからな。
それでだ、あの戦で武田は数多の将を失ったのだったな」
「ええ、この戦いはお館様たちの仇討ちでもあります」
「彼が新たな武田の中核か?」
「そのような!」
「謙遜するな喜兵衛、いや真田昌幸」
武藤喜兵衛改め、真田昌幸。天竜川の戦いで兄二人を失い、真田家の当主として据えられた武田信玄の愛弟子。この戦における武田軍の軍師として、前線指揮を執る事になった男が、堂々と盛信のそばに控えていた。
その昌幸が渋い顔をしているのが自身のせいだと謙信はわかっているが、それでも頭を下げる気にはならない。
「兄の仇を討ちたいか?」
「それは無論……」
「歯切れが悪いな」
「一応、要求は致しましたが」
「この絶好の機会、浅井が捨て置くとは思えん。一刻も早く盟友を助けに来るだろう。浅井長政とか言うのはその程度には優秀な犬だ」
謙信のそばに控える、目を滾らせたおそらく三十歳の昌幸とそれほど年の変わらない武者。その武者の悲願を叶えてやりたくて仕方ないと思うほどには、謙信は謙信のままだった。謙信の側仕えの豪傑鬼小島弥太郎と並ぶその男は、弥太郎以上に鼻息を荒くしていた。
「おそらく浅井は兵を出す」
「大将は長政か赤尾清綱、そしてあの藤堂高虎…………あの男は信長めに鼻薬を嗅がされていたから絶対に来ます!朝倉を滅ぼしたあの男だけは何があっても確実に殺します!」
「まことに健気な男よ」
朝倉景恒。加賀に逃げ込んでいた父景紀とはぐれまだ織田の手が付いていなかった飛騨を通って信濃に逃げ込み、上杉と武田が和を結んだ際に謙信の元へと移った。その男を、謙信はずいぶんと気に入っていた。
「後悔しているのですか?それがしを手放した事を」
「している。この戦においてそなたはあまりにも危険すぎる。藤堂高虎がいるとは限らないし、いたとしても所詮脇役でしかない。この戦における我々の標的は織田信忠だ」
「真田。今の景恒は我が上杉の人間だ。上杉の当主でありこの軍勢の大将である存在がたかがひとりの兵卒を連れて行くことさえ叶わぬと言うのか」
「くどいですが、あくまでも我々の目標は織田信忠であり、岐阜城であります。その岐阜城を落とすためには少し我慢していただかねばなりませぬ」
「わかっています、あの簒奪者の強姦男を殺めるまでは死ねませんからな」
「なればこそ、策の通りに動いてもらわねばなりませぬ」
景恒の言葉は、恐ろしく汚い。一応重臣の息子として教育を受けて来たはずだし、武田内部でも食客としてそれなりに扱われて来たはずだった。
おそらくそれを押し留めなかったんだろうなと言う不信を込めた目を投げられた謙信は昌幸を軽くにらみ返したが、昌幸はまったくひるまない。
「策があるのであれば聞かせよ」
「人払いを」
「…………」
「ですから」
「駄目だと申すのか」
「はい、駄目です」
策と言うのは所詮、精巧に作られた計画書でしかない。その計画から外れた事をされては、一挙に狂って破綻してしまう危険性がある。景恒は、その最大の危険要因だった。だと言うのに謙信は景恒を斉藤朝信か鬼小島弥太郎のように外そうとせず、ずっとそばに置き続けている。
「それがしは猪ではないわ!」
「まず、岩村城を落とさねばなりません。いくら目標が岐阜城であるとは言え、岩村城を放置していては後方を突かれ続けます」
「岩村城を攻める事の何が悪い!」
「岩村城の敵将は川尻秀隆、まったく織田の譜代の将です。浅井と戦う前に死ぬおつもりですか」
「とんでもない!だがほんの少し拝聴するぐらいの権利はあってもいいはずではないか」
「どうか曲げて聞き届けてはくれまいか」
「わかりました……」
自分に手を合わさせて昌幸がようやくその気になったことに謙信は不満を抱きながら、昌幸の策を聞いてやることにした。盛信がさほど面相を変えずにいる所を見ると、盛信も同じ気持ちなのだろう。確かに万全を期さねばならないのはよくわかるが、だとしてもずいぶんな態度ではないか。
「それはしょせん岩村城を落とす策ではないか」
「その通りです。岩村城は要害、悲しむべき事に二年前我が武田は守り抜けず撤退を余儀なくされました」
「意味は分かった。別に美濃の領国などに興味はない。岩村城とやらは此度の出兵の礼として武田に進呈しよう」
気前のいい事を言ったのは、領土欲とか信忠と高虎を討つのが第一だとかではない。
ただ真田と言う男の思慮の浅さに軽く失望しただけだ。
(武田信玄も結局、この程度の男しか残し切れなかったか……大義を守る事こそ成功の早道であり、急がば回れとは覆しがたき真理であろうに……)
盛信も結局は信玄の息子であり、勝頼より出来がいいかもなどと言うのも結局は身内の欲目に過ぎないのか。
(毘沙門天よ、我を許したまえ……)
謙信は心の中で、毘沙門天に深く頭を下げた。
※※※※※※※※※
「ついに来たと言うのか」
四月十一日正午、岩村城の川尻秀隆は北東からの来訪者を歓迎する準備を整えていた。
「数はおよそ五千。まあ、今の武田にそんな力はない。おそらくは囮だ。本隊は次に来る」
「父上、本隊と申しますと」
「武田と上杉が手を結んだ可能性があるらしい。上杉は武田と違って大きな打撃を受けていない以上兵は強い。精鋭兵ができるのにはそれこそ二十年の歴史と十回の戦争が要るんだぞ」
秀隆は息子の秀長に向かって武田家の現状を説明する。信長から伝えられていた言葉の受け売りであるが、秀隆自身今の武田は大量の精鋭と装備を失った雑兵の集まりでしかないと認識していた。精鋭は全部浅井勢にやられ残ったのは二線級の血族と、小山田信茂・高坂昌信ぐらい。
(高坂や小山田が来るようならばわからない。だが徳川が激しく攻撃を仕掛けている以上、そんな暇はないだろう。北条と上杉が武田に接近しているとしても、武田には使える将が少なすぎるのには変わらないからな)
徳川軍は駿河にずっと攻撃をかけている。家康は決して派手に勝ちを追い求める事はせず、戦勝の勢いや今川氏真の書状などの有利な要素を生かして一歩一歩確実に領国を徳川色に染め上げ、二年かけて徳川領にしようとしていた。駿河を失えば甲斐が剥き出しになる以上、武田は甲斐に一線級の存在を置いておかねばならない。
だからこそ囮を買って出たのだろう。実際に攻撃するのは、上杉か北条。
そしておそらくは関東にしか目の向いていない北条ではなく、自分たちに敵意を向けている上杉だろう。
「すると上杉は」
「数はだいたい武田と同じぐらいだろう」
「五、六千ですか」
「まあそうなるな。そういう訳で出るぞ」
秀隆にしてみれば、ただ引っ込んでいるのは面白くなかった。このまま引っ込んで岩村城を包囲されれば、織田は弱っているはずの武田も討てない弱腰と言う事になる。
「そんな父上!」
「何、武田としか戦わん。上杉とは無理に戦う必要もない。ちょっと出て行って少ない武田の国力をさらに削って来るだけだ。五千の軍勢がどれだけの速度で行軍するか、そんな事はわかっている。
それより秀長、お前は岐阜城の中納言様に援軍を要請してくれ。この岩村城さえ守れば岐阜城など絶対に落ちんからな」
「ですが!」
「お前は何か?父親をなめているのか?わしはこれでも黒母衣衆の一人、織田の精鋭の中の精鋭だ。桶狭間、いやそれ以前からずっと織田を支えて来た男であり配下たちもまたしかりだ。上杉になめられてもいいのか?」
「構いませぬ」
「たわけ!」
侮られても構わぬときっぱりと言い切った秀長を、秀隆は足蹴にした。
「そんな弱腰で織田の側近が務まるのか!織田家が呑んでかかられる事がお前の望みだとでも言うのか!」
「甘く見て油断してくれれば好都合だと思いますが」
「ならばここで引きこもっていろ!せいぜい籠城の準備でもしておけ!」
秀隆の心の中には、歴戦の雄としての意地があった。若い連中に自分たちの姿を見せ、奮い立たせなければならない。武士と言う代物がどんな存在であるか、まだ一戦しか経験していない秀長に見せてやらなければならないと言う思いがあった。
それをあっけなく裏切った秀長に腹を立てた秀隆は、捨て台詞と唾を吐いて大股に岩村城を飛び出した。
「最近の若武者はなっとらん!あんな風に城で震えているだけで戦が務まると思うのか!」
軽く一戦して武田の先鋒を叩き、それにより戦意を喪失させる。籠城などそれからでまったく遅くない。
二千五百の兵を率いて城を飛び出した秀隆は、秀長への憤りとふがいなさで頭が一杯になっていた。
「武田軍を発見しました」
「勝手知ったる美濃の土地だ、攻撃をかけて潰すぞ。上杉軍の到着は」
「あと一刻はあるかと」
「よし半刻もやっていれば十分だ、攻撃をかけよ」
兵たちもまた桶狭間以来の古強者の集団であり、秀隆とは気安い仲である。そんな部下と言うより同僚たちと話しているうちに、秀隆はまったくその気になっていた。
「よし行け!」
秀隆の合図とともに、鉄砲と矢の音が鳴る。不意打ちにこそならなかったものの先制攻撃としては十分な打撃を与えられたと判断した秀隆は、いつものように攻撃をかける。
そしていつものように自ら切り込み、いつものように敵兵を斬った。
「やっぱり武田は弱っているな。おそらく相当無理をして兵を集めたのだろう。それをこうして削ればほどなくして甲信は織田か徳川の物になろう」
その暁には自分が甲信にとか言うつもりもないが、だとしても予想通りとは言えここまでもろい軍団なのかとあきれるほどに武田は弱かった。
「あまり深入りはどうかと」
「わかっている、そろそろこの辺で引き揚げよう」
半刻どころか四半刻でもう十分な打撃を与えられたと判断した秀隆は悠々と駒を返し岩村城へと向かった。
「まったく炊煙を上げおって、まったくどこまで秀長は悠長なのか……」
岩村城からは炊煙が立ち込めている。籠城にしてもあわてて炊き過ぎではないのか。一体どうしてこんな早い時間から飯を炊く必要があるのか。それより先に米がどれだけあるか数えるのが先だろうに。秀隆はまったく我が子の出来に失望した。
「あれは狼煙です!」
「何を言っているのか意味が分からん、なぜ狼煙など…………!」
だと言うのに先ほど軽口を叩いていた側近からそんな事を言われて首をかしげようとしたが、次の瞬間白くない煙が立ち込めているのを見てすべての気分が吹っ飛んだ。
「あれはおそらく上杉軍の攻撃かと!」
「わかっている!だが一体どうやって!どこから来た!とにかく急ぐぞ!」
いくら岩村城が堅城と言えど、こうして不意を突かれてはやっていられない。三千の内二千五百を持ち出した以上、急ぎ戻らねば危ないかもしれない。
歴戦の雄らしく正確に向きを変えて岩村城へ引き返したが、やけに敵の数が少ない。
まあいいか城の中の軍勢と正確に挟撃して討って行けばいいと思って近づいた所で、秀隆は自分が罠にはまっていたのに気付いた。
(「しまった!」)
五千の行軍の速度を基準に時間を計っていたせいで、それより少数ならばもっと速く動ける事を見落としていた事に気付いたのだ。
「ええいそんな少数の軍勢蹴散らしてやる!」
それでも城を守るために突っ込んで行ったが、その瞬間その千名が先鋒に過ぎないと言う発想と武田軍が引き返してくると言う発想が秀隆の頭から消えた。
秀隆自ら得物を振りながら、再び二千五百の軍勢の先鋒となって敵を蹴散らして行く。
二千五百の軍勢全軍を一点に集中させ、いっぺんに打ち砕いてやるべく激しく攻撃をかけたが、制限時間内にその自分に課した任務を達成する事はできなかった。
いや、その制限時間があまりにも短すぎた。
「もう後方から敵が来ています!」
兵力の逐次投入は愚策だぞとか言い返す暇もないと言わんばかりに振り返ると、そこにはまた別の上杉軍千名が来ていた。あまりにも早すぎる。
「手空きの軍勢に迎撃させろ!」
秀隆は吠えるがそれにより城壁に張り付いていた先鋒隊に余裕が生まれ、彼らに引き返して挟み撃ちにする余裕を与えてしまった。ここぞとばかりに岩村城から兵を出そうにも、五百しか残っていない城から兵を出せばそれこそ空っぽである。
「武田軍もこのままでは」
「うるさい!目の前の敵を斬ればいい!」
挟撃体勢を築かれた川尻軍は第二陣に立ち向かうが、形勢が不利なまま上杉軍の第三陣までやって来た。
「車懸だとでも言うのか……!」
とんでもない高速でやって来る上杉軍の前に、もはや秀隆をしてなすすべはなかった。
あの川中島の戦いで見せた車懸のような連続攻撃の前には、自分ですら赤子同然だったと言うのか。
「こうなればせめて一人でもっ……!!」
秀隆が自分のうかつさを悔やみながら道連れを求めて敵陣に突っ込んでやろうとした刹那、一本の刀が秀隆の首を弾き飛ばしていた。
「川尻秀隆は討ち取った。心有る者はこの上杉の元に降るが良い」
秀隆を討ち取った上杉謙信は泰然とした表情で岩村城と残る織田兵を睥睨し、投降などするわけあるかと突っ込んで来た川尻軍の残党を容赦なく斬り捨てた。
「室町幕府に逆らいし者は皆こうなる。一刻も早く幕府の旗のもとに集うべし」
人を斬りながら平然とそんなことを抜かす謙信におびえながら、秀長は必死に矢玉を放たせた。
だが、当たらない。まるで矢玉の方が上杉謙信と言う存在を避けるかのように、ありえない方向へと飛んで行く。
「簒奪者の凶器など我らには当たらぬ」
平然と言ってのける謙信にあらがう事など、秀長では無理だった。秀長はかろうじて城門を固く締め援軍を乞う使者を出そうとしたが、その使者は謙信が目を引き付けている間に後方に回っていた真田により、簡単に討たれていた。
それでも何とか逃げ込んだ兵と共に秀長が守る岩村城は苗木城からの援軍もあり何とか十二日昼間までは耐えたものの、そこに入って来た織田信長死亡の報により士気は完全に崩壊。苗木の援軍は上杉軍により壊乱、秀長らは逃げようとした所を素早く回り込んでいた真田軍により捕縛された。
「最後に聞く。毘沙門天に帰依し、簒奪者の織田や浅井と戦う気は」
「ござらん」
「魔王の手先として朽ち果てるか、あな口惜しや!」
秀長は最後まで織田の将として、上杉軍により首を叩き落された。
それと共に最後まで残っていた兵のほとんどが投降を勧められて拒否と言う流れで斬首され、岩村城と苗木城は織田軍の城ではなくなったのである。




