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天魔の子・藤堂高虎  作者: 宇井崎定一
第八章 上杉謙信の挑戦
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織田信忠、藤堂高虎に泣き付く

「中納言様はあんな逆臣を放っておくのですか!」

「そんなつもりはない、だがあくまでも上杉だ。私が上杉ならばこんな絶好機を見逃すわけがない。この岐阜城も最前線になる可能性が高い」







 四月十一日深夜、織田家当主織田信忠の元へたどり着いた信忠の弟の神戸信孝は信忠に向かって必死に光秀征伐を願っていた。




「苗木城はもう危ないかもしれないのです!岩村城だってどうなっているのかわからんのですぞ!」

「苗木はともかく岩村など簡単には落ちまい!何なら俺がこの岐阜城に入り上杉を受け止めて見せても良いのだ!」



 信忠ではなく、一緒について来た滝川一益に向かって信孝は強弁する。



 実際岩村城は元より要害であり、二年前に天竜川の戦いで武田軍が全面後退した勢いで織田が攻めかかったものの守将が将兵の命を守るからと言う条件を飲ませて全面撤退と言う形で入手したに過ぎず、陥落と言うより譲渡であった。



「今すぐ近江で浅井殿と共に兵を集め、京で明智光秀をお討ち下さい!」

「足元を固めるのが大事だ!中国には伊賀守、筑前守、山城守がいるのだぞ!彼らがそうたやすく崩れると思うのか!」

「なればこそです!彼ら織田の忠臣を助けなければ織田は見捨てられます!」



「お前に上杉が凌げるのか?」



 信孝が熱弁を振るい信忠が受け止める中、まるで自分の家のように岐阜城の天守閣に侵入して来たまた別の男が信孝を押しのけるように信忠の前にひざまずいた。 一見真剣そうな顔をしていたが、顔面からは滂沱の如く汗が吹き出していた。


「兄上!」

「おいおい、兄を差し置いて何のつもりだ信孝?」

「こちとら伊勢から駆け付けて来たのですよ!尾張で何をやっていたのです!」

「お前のほうが京から近い分だけ報が届くのが早かったのだ、その分の差に過ぎないだろう」

「では何ですか、その上でなんか提案でもあるのですか!」



 その織田信雄は「兄」として信孝をたしなめにかかるが、信孝はまったくひるむ様子がない。口だけ敬語を用いながら、今度は一益ではなく信雄に向かって吠え掛かる。



「だから、お前はあの明智光秀を討てばいい。兄上共々な」

「結局やる事は私の言う通りではないですか!」

「それの一体何が悪い?弟が頭を動かしたのだから兄が体を張るのだ、うん公平だな」

「だったらなぜわざわざ割り込んだのです!すると何ですか、お前には上杉は凌げないと言うのですか」

「実際できるのか?」

「ああできますとも!」

「おい一益、信盛、二人ともつまみ出せ」


「武田をしのぐのすら相当大変だったのにか?」

「どうせ上杉はかなり遠くからくる以上疲弊しております!」



 信忠の言葉すら耳に入らない二人を一益と信雄付きの佐久間信盛は抱え込んで連れ出したが、それでもなお言い争いをやめようとしない二人の弟の声が信忠の耳から消えるのに数分の時を要した。










「こんな調子で抗戦ができるのか……?」

「いっその事二人とも先制攻撃と言うわけで前線に送るとか」

「駄目だろ……」


 額に手を当てながらうつむいた信忠の姿は見る者に心痛を与え、そしてその原因が父親とその伴侶の非業の死ではなく弟たちにある事が更なる打撃を与えた。


「方針はすでに決まっている、だがあんな風に兄弟が壊れている時点で団結して抗戦などできるはずもない……」

「どうします……」

「とりあえずだ、軽挙妄動する者は上杉に与する反逆者だとしておけ。それから徳川殿にも救援要請を頼む」




 自分で言っておきながらあまりにも情けなく、そして悲しかった。




 徳川が兵を寄越すか否かなど、目に見えているではないか。




 もし上杉が光秀と示し合わせているなら、武田や北条ともある程度話を合わせているはずだ。と言うか美濃を攻める以上、武田と和睦していないはずがない。今の弱った武田家でも徳川領になりきっていない駿河や、三河や遠江の北側を攻めるのには十分である。無論北条はなおさらのはずだ。そんな状況で徳川が兵を美濃まで送り込めるはずもなく、送れたとしても数は知れているだろう。


 ましてや軽挙妄動するなも何も、一番軽挙妄動しそうなのは二人の弟である。下手するとお互いがお互いを軽挙妄動しているとか言い放って、なおさら混乱するかもしれない。




「こんな調子で父上の仇が討てるのか……!!ああ、父よ!もう少し長く生きていて下されば!」



 明智光秀より先に弟二人を何とかしなければならないと思うと、あの弟たちをまとめ上げてくれなかった信長が急に恨めしくなった。












 十二日朝、まともに眠っていない信忠は美濃だけではなく尾張伊勢の諸将を岐阜城の広間にかき集めたが、当然の如くその目線に力はなかった。


「もう知っていると思うが、我が父織田信長が逆賊明智光秀により討ち死にした!

 無論、逆臣明智光秀を許すことは絶対にできない。だがこの機を東の上杉が逃すことは絶対にないだろう。あるいはあらかじめ光秀と示し合わせているのやもしれぬが、いずれにしても私の方針はこの美濃一帯の防衛である。

 上杉・武田・北条が三位一体となって押し寄せて来るが、何としてもこの苦境を乗り切らねばならぬ。内大臣(信長)様の無念を晴らし、織田の健在を見せつけるためにも、何としても勝つのだ!」


 この場にあの二人の姿はない。二人が連れて来た兵は揃って信盛と一益の配下に置かれ、二人とも千ほどの兵しか持たされていない。



「それで上杉軍はいつ来るのでしょうか」

「とんとわからぬ。苗木城や岩村城に使者をやっているのだが報告はない。だがおそらくはすぐだろう」

「もう数日はかかると思われますが」

「確かにそうかもしれん、だがあるいは明日かもしれないと言う事も考えておかねばならん」


 信忠自身、あの信孝の苗木城がどうの岩村城がどうのと言う熱弁をあまり真剣に受け取っていなかった。信長の死の衝撃もあったが、それ以上に信孝が信雄に対して上に行きたいと言う心理が見え見えだったからである。


(仮に上杉が武田と和睦していたとしてだ、越後からこの美濃までいったい何日かかる?川尻が見落とすはずもなかろうに)


 確かに尾張や伊勢はまったく暇だったが、美濃は武田との国境であるからその点の連絡はしっかりしていた。いずれはこちらが徳川や浅井と組んで逆に信濃を攻めてやろうとさえ思うほどには信忠はやる気であり、その用意も整っていたはずだ。



 それに、上杉がどうやって光秀と示し合わせるのか。光秀の領国は丹波であり、そこから越後までは北近江・越前・加賀と言う浅井家の領国か、南近江・美濃と言う織田家の領国を通って行かねばならない。信濃は武田家のそれだとしても、そんな中を上杉への密使が歩けるのだろうか。


「若殿、いや殿。光秀が上杉と示し合わせていたとは考えられませぬか」

「三七はそう言っていたがな、私はあまりにも不自然だと思う。明智光秀を父上はいつないがしろにしていた?丹波一国を与えるなど、伊賀や山城に匹敵する寵愛ぶりだぞ。なぜそれが謀叛を起こしたのかはわからないが、それが謀叛を起こすからと言われたとしても私なら真っ正直に受け取らない。ひっそり兵力を集めさせておいてそれを迎撃させる策だとか考えるだろう」

「甘うございますぞ」

「ハァ?」


 越中の半分近くは浅井の領国になっており、美濃を攻めた所で下手をすれば越中から本拠地と言うべき越後を攻められるかもしれない、それこそ本末転倒でありただの自滅でしかない。ましてや敵の重臣であるはずの明智光秀からの書状を真に受けて動くなど上杉謙信はお人好しを通り越したただの馬鹿ではないのかと思っていた信忠だったが、信盛から頭を叩かれて呆けた顔になってしまった。




「上杉謙信と言う毘沙門天の化身気取りは、越後などあまり顧みておりません」

「そんな馬鹿な!」

「無論北条や武田に追われた諸侯を守ることも重要なのでしょうが、それ以上に重要なのは公方様であり将軍家なのです。元より単独でも我々を討ちに来るつもりであったとしたらつじつまも合います」

「つまり明智光秀など元から信用していない上で……」

「ええ、だとするともっと速いかもしれませぬ。無論探らせてはおりますがどうなるかは正直未だわかりませぬ」



 関東管領を名乗っている上杉謙信だが、しょせん関東管領は幕府の一役職に過ぎない。将軍は関東管領以上に大事な存在であり、そのためならば平気で命を捨てられるのが上杉謙信だった。



「結局また、狂信者を相手にせねばならないのか」

「忠義心と言うのは厄介な怪物です。尾張(信雄)様も伊勢(信孝)様も、殿のために尽くしたい気持ちは同じなのです」

「よくわかった、二人とも後で自分の所に来るよう伝えてくれ。手勢はそのままにぶつける時は一緒にぶつける。抜け駆けは厳禁だと伝えた上でな」



 第六天魔王とか名乗りながら自分がただの人間であることを信長が自覚していたのを、帰蝶と佐久間信盛、丹羽長秀、池田恒興らの寵臣はよく理解していた、


(父上は狂信者たちと戦って来たのだ。そのためには第六天魔王とか言うとんでもない仮面をかぶり続けるしかなかった……)


 アニミズムが土着信仰として存在し、その上に仏教が覆いかぶさったこの国には神は山のようにいた。それでもその神の化身であると自ら名乗るなど、よほどの覚悟か信仰心がなければできる真似ではない。

 一向一揆と言う名の狂信者集団に、織田家かそれ以上の武勇がくっついた存在。そんなのとの戦いを強いられると思うと、また父と明智光秀を恨みたくなった。




「少し横になる。信盛、何かあったら一益と共に対処してくれ」

「はい……」




 昨日以上に疲れ果てた表情で横になった信忠は信盛と一益が痛々しい顔をしながら離れていくのを目の当たりにしながら、腰にかかる布の感触を感じ取った。

 事実上たたき起こされてからずっと神経を張り詰めていた信忠の寝顔は十九歳の青年のそれよりずっと幼いそれでしかなく、襲い掛かる者すべてを悪人にするに十分な力を持っていた。彼の父親や今度の相手がそれに斟酌されるような人間でないことはわかっていても、情にほだされるには十分な力を持っていた。










 そんな信忠を含め城全体で報告を待つべく寝たり起きたりを繰り返しながら迎えた十三日早朝、一騎の騎馬武者が岐阜城に到着した。


「申し上げます、西から一人の騎馬武者の方が来られました!」

「誰だ!おい何がおかしい!」

「藤堂若狭守様です!」

「ああ藤堂若狭守か、それで……」


 ここ一日の張り詰めた空気のせいで重たい体を動かすのにもひと手間かかる自分にいら立っていた信忠は思わず大声を上げ、その上でなお笑っている兵士についまた怒鳴ってしまった。







「私が会いますゆえ殿は少しお控えを」

「………………頼む」


 重たい顔をした信盛に言われてようやくやって来た人物を把握した信忠は持ち込まれた白湯を頭からかぶり、濡れ鼠になりながら腰をかがめて床を拭いた。


「誰か褥(座布団)を持って来い」

「床が輝いていて良いではありませんか」

「ああ、そうだな……」


 情緒不安定になった自分を慰める侍女に甘えたい気持ちをこらえながら威厳を保とうとするが、それでも自分のふがいなさが目に見えてなおさら嫌悪感が増す。


 侍女を下がらせ、無理矢理当主らしい姿を作ろうとする。天守閣の床はむやみに輝き、自分の醜態を責め立てている。

 まるで奇妙丸と呼ばれていた頃にやらかした夜尿のように思え、自分がまったく成長していないようにすら感じられて来る。







「藤堂若狭守でございま、っ!」

「ああ藤堂殿、藤堂殿……!」

「お、織田、織田様……!」


 そのせいでもあるまいが、本来ならば一益か信盛にやるべきだった事を、信忠は高虎にやった。全体重を自分に向けてひざまずいた高虎に投げかけ、そしてそのまま捨て犬のように首を振りながら泣きわめいた。


「よくぞ、よくぞ来てくれた……」

「織田様……このような事は……」

「わかっておる……でもこのような事とても弟たちの前では……」


 ただひたすらにむしゃぶり付き、泣きわめいた。こらえてきた涙が一挙にあふれ出し、床に流れ出した水分をごまかしていた。悲しみ終わるまで泣くのをやめる気はないとでも言わんばかりに泣き続け、そして高虎も同じように悲しみの涙に濡らした。









「大将赤尾近江守、副将この藤堂高虎率いる浅井軍七千を持ってまいりました」

「誠に痛み入る」


 やがて四半刻後、ようやく涙を止めて当主の顔になった信忠に向けて高虎は改めて深々と頭を下げた。


「越前守様は金ヶ崎か」

「はい、丹波に近い故そこで守りを固めながら攻撃の機会をうかがっております。左衛門督(阿閉貞征)は若狭を経て丹後防衛へと向かい、加賀守(磯野員昌)は越中に向かっておりますゆえ、この程度の数しか用意できませんでした事をお詫び申し上げます」

「十二分だ」


 赤尾軍三千、藤堂軍二千、そして赤尾軍に振り分けられた長政直属軍二千。それに織田軍を加えれば四万近い。


「これに徳川殿が来てくれれば良いのですが」

「難しいだろうな」

「やはり武田は上杉と示し合わせていると」


 信忠は頭を縦に振り、そして東を向いて右手を眼前で横に振り左手を振り下ろした。


「駿河は北の武田と東の北条の攻撃を受けていると」

「ああ、そうだ。無論その上でこの美濃にも攻撃をかけるだろう。北条はまだともかく武田はこの戦に運命をかけている以上美濃にも本気で来るはずだ」


 武田軍の精鋭は天竜川でその大半が消えているとは言え、駿河攻撃が囮だとすれば美濃に残った精鋭を含む本命の軍勢を突っ込んでいても何もおかしくない。


「一応使者はやったがどれだけの軍勢が来てくれるかわからん。とりあえずはここにある兵だけで何とかするよりなかろう」

「私は副将ですので、作戦はあくまでも赤尾殿と共に」

「わかっている、でも私より年下の家臣などほとんどいなくてな」

「私も織田様より年かさですが」

「そうだったな」




 小谷城で事実上共闘したからでもあるまいが、高虎は信忠にとって実にありがたい存在になっていた。父親が高評価していたからとか、単に年が近いからとかではなく、大大名の後継者と言うどうしても孤独を強いられる身にはこういう間柄がどうしても欲しかった。


「今後は遠州(信康)殿とも付き合わねばなるまい。その際にはどうか浅井の代表になってくれぬか」

「私はただの家臣です」

「何、越前守様では少し重すぎる。後継者であろうがなかろうが次代のお家を担うと言う事には変わりなかろう、ならば貴公で良いではないか」

「……私の要求を徳川殿にひとつ飲んでいただけるのであれば」


 高虎が身を低くして信忠にその要求を耳打ちすると、信忠の顔に急速に赤みが戻った。


「そうか、それが望みか。まあよかろう、きちんと叶えてやろう」

「ありがたきお言葉……」


 肉体と肝の大きさに似合わぬ高虎の可愛らしい要求に笑いながら、高虎は信盛や清綱たちが待つ大広間へと足を運んだ。







 みな顔を強張らせ、総大将である織田信忠の登場を待ち構えている。



「おうそなたら、戦議の方はどうなって」

「それが大変です。昨日岩村城が陥落しました!」

「そうか」



 信忠はその衝撃的な報告にも、不思議なほど冷静になれた。一益も信盛も先ほどまでとまるで違う信忠に感心するとともに、改めて高虎の存在の重さを思い知らされた。

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