一色義道、柴田勝家の戯れにより崩壊する
二月二十五日。
丹後と但馬の国境で、藤堂高虎は吉政、一色義道と共に三人の客を迎えていた。
天幕の中で東側の中央に吉政、右側に高虎、左側に義道が座り、吉政に柴田勝家、高虎に佐々成政、義道に前田利家が向かい合っている。
「柴田伊賀守様、ようこそお越しくださいました」
「そなたも従五位若狭守になられたか、全くどこまでも高く上る男よ!」
「右衛門佐(吉政)殿も今や万石取りだからなあ、本当に負けてられないな」
織田軍大将・柴田勝家の側に控える前田利家はさわやかそうに手を上げ、吉政と手のひらを叩き合わせる。一方で佐々成政はじっと唇を結びながら、高虎を見つめていた。
柴田軍は直属の六千に織田家の兵を合わせて八千である。藤堂・田中・一色軍の合計の倍近い数であり、その上装備もずいぶんと豪勢である。
高虎や吉政でも感心していたぐらいだから、義道はまったく飲まれていた。
「しかしここ最近いろんな事があり過ぎまして」
「わしも驚いたわ、いきなり上様が大殿様になられるなど」
「実はその、松永殿だけはある程度見抜いていたようで」
「かーっまったく恐ろしいお人だねぇ、それで実際どう思ったんです若狭守殿は」
「何か及びも付かない事をするのではないかとは思いますが、それが一体何なのかはとんと見当も付きません。わかるのは、それが外に向けたそれではない可能性が高いって程度です」
「ああなるほど、なるほどねー。ったく、本当にものすごい事が見られるかもしれねえって訳かい!親父殿、上様は何をする気ですかね」
隠居を決め込んでおいて出兵するのでは、それこそある種の特攻でしかない。おそらくは内政で何かとんでもない事をするのではないかと言う予測を立てるのは難しくはないが、だとしてもそれが具体的に何なのかと言う答えは誰一人持ち合わせていないのも事実だった。
実際前田利家などは納得した風ではあったが、勝家はさあとでも言いたげな毒気を抜かれた顔をしていた。もちろん義道などには何もわからない。
「まあわしらに出来る事は、上様のために領国を手に入れる事だ!それで但馬の山名と言うのはどうなっている」
「丹後が浅井領になってから一年近く経っていると言う事です」
「その上でだ、それで裏切りの当てになりそうな」
「それがその、それがしが為した不義理により交渉は滞っており……」
「不義理とは何だ一色殿」
「山名は昨年この丹後が攻められていた際に援軍を出そうとしていたのですが、この右衛門佐殿にそれがしが降伏してしまったせいで顔が潰されてしまいまして、その結果……」
「毛利が目を付けているという訳か」
「ですがその様子もまるでなく……」
「本当に毛利と山名が組んでいるという話はないのか」
義道が高虎と吉政を横目に見ながら両手を合わせつつ深々と頭を下げ、吉政も高虎と共に勝家に頭頂部を見せつけた。
但馬の西の因幡は毛利領であり、そこを補強しないのはいかにもおかしい。だと言うのに毛利が何らかの手を差し伸べているという証拠も発見できなかったし、山名がそれを言いふらす事もなかった。
「すると毛利が山名を見捨てたか、さもなくば毛利が但馬を取られてもいいと考えているか」
「どっちも同じではないか」
「いいえ、例えば因幡で山名家の身請けをしても良いとなれば別の話になります」
「一国を囮に使うのか、だとしたらそんな条件をよく山名は呑んだ物だな」
山名は一色と同じく三官四職の家柄だが、現在となってはその家柄などまったく形骸化している。もはやただの但馬の大名であり、それも西の毛利と東の浅井に挟まれる哀れな小大名である。こうなって以上どちらかに付いて生き残るしかないが、それでも本来は但馬に援軍を招き入れるのが筋と言う物だろう。
仮に毛利から国を放棄して毛利領に逃げ込めば勝てると聞かされたとしても、それを飲み込むには相当な条件を出せねば飲み込んでくれないはずだ。
「公方様と言う事は考えられませぬか」
「公方様……!」
「確かに、義昭公はあの時以来行方知れずだ。毛利がかくまっているのはほぼ間違いないだろうが、だとしてもこんな時に使うか?」
「ええ、公方様の旗振りがあれば確かに少しは士気が上がるやもしれませぬ、だがそれだけではもはや弱いのではないでしょうか。もうあれから二年以上経っております、その間ずっと寝ていたとでも言うのですか。まあいずれは出て来るやもしれませぬが……その時はその時ですね」
「ああ。細川幽斎のように、また別に生きる道もあるだろうに。上様まで何も命を奪おうとはするまい。それで本来ならばとっくに喧伝しているはずだぞ。それに山名がその事を認識している節はないのだろう、一色殿」
「え、ええ……はい……」
ああそうか公方様がいた、それを頼りにしているのだと成政によって気付かされた義道が一瞬だけ青い顔になり、すぐさまその青みが消え失せた。
高虎にも勝家にも、足利将軍家などどうでも良いのだ。浅井及び織田が第一であり、それに対しどういう扱いをしているかだけが重要だった。田舎者と自負している高虎にとって将軍家など遠い存在であり、勝家もまた一度信長に牙を剥いた反動のように織田べったりになっている以上将軍家など大した意味もなかった。高虎と勝家に誰一人反論しないのがほぼすべてだったとしか言いようがないのだ。
「もし公方様が出て来たとしても、決して怯む事なくお進みくだされ。いざとなれば何にも知らない田舎者の私が代わりにやりますので」
「気にするな、主君の父親に刃を向けた男に心配される筋合いもない」
「私が向けたのは武田信虎だけですよ」
「まあ、今の主君に刃を向けた男には負けるだろうがな」
義道とて一応大名として、他国の情勢に気を配ってはいた。だがそれでも天魔の子と呼ばれる藤堂高虎と、織田随一の猛将と言うべき柴田勝家の凄まじいまでの戦歴を生で聞かされてはただただ身がすくむより他ない。
隣国の主が事実上の織田方の勢力となって三年、藤堂高虎が来てより一年、そして正式に浅井に付属してから一年経つというのに、あまりにも知らなさすぎた。聞いた所で信用する気になれなかっただろうが、こうして巻き込まれてみると空気が全く違う。
大勢力の出なかった隣国ばかりだったせいで朝倉家程度の騒乱も起きないままなんとなく時を過ごし続けて来た義道にしてみれば、まったく後腐れも起きなさそうな程に苛烈な過去を茶飲み話のように話せるのが不思議すぎた。
「では伊賀守様のご武運をお祈り申し上げます。後の事は右衛門佐にお任せくださいませ」
「では若狭守殿はこれっきりと」
「ええ、内府様からも我が君からもこの件は右衛門佐に一任されておりますので」
浅井側の代表はあくまでも田中吉政であり、高虎ではない。この場における高虎の役目は浅井側の代表と言う名の名目的な最高責任者であり、ただの陣中見舞いと大差なかった。
もちろんいざとなれば援軍を送る用意は出来ているが、だからと言って積極的に絡むつもりはなく、あくまでも最後のお願い扱いなのだろう。
「せいぜい、右衛門佐殿の援軍を仰がずとも良いようにせねばな」
「ご健闘をお祈りいたしております」
「なれば一戦、やってみるか?五年ぶりに」
「謹んでお断り申し上げます」
丁重に断りを入れた高虎に向かって、勝家はやけににこやかな顔で槍を握りしめた。これまでに幾百人の単位で死屍を作り上げてきた槍を棒きれのように持ちながら、同じぐらいの死屍を積み重ねた高虎の太刀を嫌らしく睨んでいる。
「そうか、噂通りだな。いざという時は恐ろしいくせに、普段は平気で逃げる男だと」
「ええ、その通りです」
「猿と変わらんな。あの男も駄目な時は平気で逃げる」
「筑前殿と一緒とは」
「まったく褒めておらんわ。武人がそれで良いのか」
「逃げるのは我が最大の芸です。妻にもそう言われました」
高虎が戯れるように四葩の事を口にした途端、いきなり高虎の眼前に槍の柄が飛び込んで来た。高虎はあわててひっくり返り、そしてそのまま声を出す暇もなく飛び上がって長徳から太刀を受け取り、鞘から抜かないまま構えていた。
「ああ柴田殿!ちょっと、ちょっと、何て言う事を!織田と浅井の仲を何だと」
「まったく、うかつに冗談も言えんのか」
全てに気が付いた時、失禁しなかった事を幸運に思いながら出せる限りの声を出した義道であったが、勝家は全く悪びれる様子がない。
まるで大罪人を糾弾するかのように腰を抜かしながら手を動かし全身を震わせ、そしてかろうじて右手で脇差を探り当て勝家に向いて抜いて見せたが、そこで勝家の顔がまるっきり醒め切っていた事に気付いて気力が全部抜けてしまった。
「親父殿!」
「すまんな利家、つい血気に逸ってしまってな。わしはただ、ほんの少しだけ若狭守殿とやり合いたかっただけなのだが」
「一色殿……」
「し、し、柴田、殿、あな……た……はっ……!」
なんとか活を入れられて立ち上がる事は出来たが、体重の半分以上が長徳に支えられてようやく倒れずに済んでいるだけだった。口からよだれが流れ、かろうじて名誉を守れる程度の染みを地面に作っている。
「嫉妬と言うのは怖いな。わしにとって逃げると言うのはどうしてもできぬ事でな」
「命が惜しいだけです」
「それもまた天性の才能か……では一色殿、誠に申し訳ござらんが万が一の時はお頼み申します」
「あ、は、はい……」
義道はそこまで言うと力尽き果てたように倒れ込み、家臣に担がれながら本城へと帰った。
その義道の耳に利家の勝家を糾弾し続ける声が入って来た気がしたが、その内容はまったく覚えられなかった。
やがて義道が目を覚ました時には目の前が真っ白になり、柴田勝家への恐怖を恥ずかしげもなく叫び散らした。
「ふ、ふざけるな!なぜあの柴田めは!」
「殿、落ち着いて下さい!」
「織田内府様に申し上げよ!柴田と言う人物は危険すぎる!織田と浅井の仲を壊したい願望でもあるのかと!あるいは柴田自身が毛利の間者ではないのか!」
「落ち着いて下さいませ、ほんの冗談と」
「冗談と言うのは皆が楽しく笑える事を言うのだ!過去の武勇伝を述べるならともかく、いきなり人を殴り殺そうとするのが冗談で済むか!越前守様にも申し上げよ、柴田は寵臣である若狭守殿を害しようとしたと、その上でもっとこの丹後にも兵をくれと!何なら私自ら人質となってもいいぐらいだ、この丹後を守るためならば!」
「落ち着いて下さい、せっかくこうして丹後半国の支配を認められているのに」
「知った事か、この国の安全が守られる方が大事だ!明日にでも田中右衛門佐殿の居城へと我が子を送り込め!」
その上で柴田勝家を糾弾し、浅井への依存を一気に高めるとまで言い出すほどに義道は追い詰められていた。甘ったるい世界にいた罰なのだとしたらそれこそ神も仏もないじゃないか、確かにそれは罰かもしれないが何もそこまで……その義道の憤りと涙が消えたのは、妻に一晩中甘え続けた後だった。
こうして丹後で一色義道が泣きわめいていたその頃、信長は全く珍しい客を迎えていた。




