上杉の死者、如月十四日に死す
10月13日、誤字訂正。
二月十三日、正五位上加賀守・磯野員昌の元に「毘」の字の旗を背負った男はやって来た。
「これは上杉殿の使者と見えるが」
「いかにも、関東管領上杉家の当主、上杉謙信が使者である」
十五万石まで加増されたにしてはあまり強固ともきらびやかとも思えぬ城をなめ回し、改めて上座に構える員昌を見上げながら男は書状を員昌の部下に差し出した。
「水でも一杯」
「従者に持たせております故」
ふんぞり返りたさそう顔をして、じっと員昌を見据える。
「読んで良いのだな」
「読ませるために持って来たのだからな」
「読むまでもなかろう」
雑な口上で雑に座り、敵意を隠す気持ちすらない。員昌が鼻を鳴らしていると、使者は勝手にしろと言わんばかりに書状を畳の上に投げ落とした。
「真面目にやれ!」
「本当に読むまでもないか否か、読まずに確かめられるとでも言うのか?」
「ああわかった、読んでやりますとも!」
員昌はこのぶしつけ極まる使者に対し、まったくいら立ちを隠さないまま書状を開いた。
「織田信長は公方様を追放し、この国の政権をほしいままにしている。公方様に非道があったとか言う言い訳に耳を貸すつもりはない。
浅井家当主に伝えよ。いずれ上洛の軍を率いる場合には、この上杉謙信に同道し、もっと悪逆なる織田信長を討つべしと。なおこの書状は徳川家にも送っている。
いずれかの者も何が正しく何が誤っているか気付き、必ずや正義のために立ち上がる事は必定である」
ある意味まったく予想通りの文面であり、そしてある意味まったく予想外の文面だった。
「まさかと思うが、お館様の奥方様がどなたなのか知っての手紙か」
「全く知っている」
「生木を裂くような真似を勧める気か」
「ああ、本来なら朝倉家への恩義を忘れることなく当初から断るべきであった。今からでも遅くはあるまい」
「それから徳川殿の嫡子は織田の姫君とも婚姻を結んでいるが」
「なぜそのような真似をするのか、てんで不可解だ。ましてや、そちらはあの暴挙の後であろう。徳川殿もお気の毒な事だ」
独身の謙信が遣わしたからでもないだろうが、まったく女性の気持ちをわかっていない。
織田を許さないと言うのであれば、それこそお市の方のみならず信長の甥である万福丸や茶々たちも許されない事になるだろう。その時点で浅井の存続に関わる。また家康にしても嫡子の信康が十七歳にして男やもめになるなどあってはならない話だ。
「上杉は浅井徳川両家の乗っ取りを企んでいるのか」
「どうしてそうなるのだ、別に織田にこだわる必要があるのかと言っているだけだ」
「北近江の小大名だった浅井家が、織田と組んでから十年ほどで百五十万石の大名になった。それだけで十分だ。徳川殿とて当初相当に苦しかったところから同盟を結ばれ、三河遠江だけでなくまもなく駿河全土を治められるようになるらしい、相当な利益を受けて来た以上こだわるのは当たり前だ」
「そういうのをあぶく銭と言う。悪銭身に付かずであり、いずれはその財貨も罪過となって跳ね返って来る」
「…………どうせ上杉の好かない人間など認めないのだろう。そういうのを支配と言うのだ。それとも何か……?上杉の傘下に入った方が幸せだとでも言うのか……?」
何べん理屈の穴を付きに行っても、まったく使者はへこたれる事がない。
員昌の言う通り信長と結んでからの十年間、正確にはこの五年間で浅井家は六倍に膨れ上がり、員昌そのものの石高も数千石から十五万石になった。そんな贅沢な蜜を好んで手放す理由などどこにもない。
ましてや頭から謙信に従えと言っている以上、もしそうなれば領国も家族も好き放題にいじられても何の文句も言えなくなる。
「そんな事我が主は一言も言っていない、単に足利家に膝を折れと言っているだけだ!そのためにはまず公方様を都より放逐した」
「おい、時間の無駄だ、すぐ帰れ!」
「浅井家は徹底的に将軍様と敵対する意思があると言う事になるがよろしいのか!」
「早く帰れ!無事にその報告を届けたいのであればな!」
「まあそうなるが、詰まる所織田にしがみついて共に地獄へ落ちる覚悟が出来たと言う事か。まったく、つくづく度し難い連中よ……。まあせいぜい、我が軍神が刃をその身に受けてから悔やむが良い……」
上杉の使者が肩をいからせながら気味の悪い笑顔をして去って行く中、員昌は両手を合わせていた。
※※※※※※※※※
「一刻も早く春日山に戻らねばなるまい」
「とは言え、ここに長居するのは」
「浅井下野(久政)のような事をすれば信望を失う。気を付けるべきは遅れる事だけよ」
越中の半分が実質浅井領と化している以上、加賀から春日山に帰るのはかなり難儀である。とは言え、いくら争いになろうとも互いの使者を害してはならないのは武士の作法であり、それはあの織田や浅井でも同じはずだ。
あの天魔の子(藤堂高虎)が殊勝ぶって寄越して来た和睦の使者を百叩きにして放り出して決定的に信用を失った以上、表面的には真摯ぶっている存在がこの使者を襲えばどうなるかわかっているはずだ。
(それにしても……!)
加賀の民は、予想以上に浅井になついていた。越中に手をかけてからの数年間ずっと浅井方面も探ってみたが、いくらやっても浅井を疎む声が出て来ない。一向宗の政がまずかった反動と呼ぶにはあまりにも団結しており、能登畠山家のように分断できる隙もない。
ただでさえ産業が歪で土地も痩せ気味であるこの加賀では、目前の大きな力はどうしても偉大なそれとして映ってしまうのだろう。もしそれが民の目を曇らせているとしたら不幸でしかない。
一刻も早く正しい形での富貴をもたらさねばならない、そう思うと使者の足も自然と速くなった。
「ここを抜ければ越中か、ずいぶんと急いだ物だな」
「まだ油断はなりませんぞ、西越中は今や事実上の浅井領です。ここを抜けねばまだ安心はできません」
「その先は親不知子不知だからな」
「一刻一秒でも早く、この国をお館様に解放してもらえるように頼み込まねばならない、せっかく立ち直ろうとしていると言うのに、また魔王の眷属、いや天魔の子によって汚されるのを見られるほど厚顔でもないからな」
そして城を出て次の日の朝、上杉の使者一行は国境をまたごうとしていた。
強行軍としか思えない速度で越中を抜け出したのは使者の使命感の為せる業であり、従者たちもまた同種の人間だった。
「一刻も早く、上杉領へと入るのだ」
そう意気込みながら馬を進めていた集団の最後方にいた男が、いきなり落馬した。
「何だ!」
あわてて使者の男が振り返ると、背中に矢が刺さっている。作りは雑で威力もない矢だが、それでも不意打ちとなれば十分に効果はある。
「おいてめえ!磯野様に何を言った!」
「ああ知ってるぞ、浅井の殿様に奥方様と別れろっつったって!」
「てめえら生かしちゃおかねえ!」
ぼろきれに体を包んだ農民たちと思しき集団が一気に現れ、上杉の使者たちを取り囲んで棒や鎌で襲い掛かり始めた。
「やめい!我々上杉は農民を手にかけるつもりはない!」
「じゃあ殿様に奥方様と別れろっつったのはでたらめだってのか!」
「それは本当だ!あのような公方様を放逐した人間と一緒にいては誰も幸せになれんだろうが!」
「その公方様ってのが一体何をした!?俺たちに答えろ!」
「公方様がいたからこそこの国は治まる!織田信長は簒奪者であり、この国の秩序を」
「上杉の方がよっぽど乱してるだろうが!」
正しいと思っているからこそ、そんな事を堂々と言えた。一日前に使者を拷問にかければ久政と同じだと言っていたくせにまったく同じ要求をしていた事に気付かなかった上杉の使者が逃げようとすると、一人の農民が真っ正面から馬に体当たりした。
それにより落馬した使者の胸に竹槍が突き刺され、血が地を赤く染め出した。
「うう……無念だ……御仏よ、彼らを、第六天魔王の毒牙にかかりし彼らをお許しくだされ……」
最後の最後まで上からの物言いをやめなかった男の死体は誰にも顧みられる事のないまま、息の根を止めたと確認されるまでなぶられ続けた。
※※※※※※※※※
「父上!これはもはや!」
「わかっておる!だがいくら吠えても彼らは帰って来ん。そして残念ながら、おそらくは自発的行動だろう。加賀国内は無論西越中の民も我が上杉を受け入れておらぬ。この勢いに乗って攻め込んだとしても加賀すら突破できるか怪しい。やはり狙いは美濃だ」
景勝の叫びにも冷静を装う謙信だったが、その腕は激しく震えていた。
(下間頼照め……貴様が浅井に、いや誰でも名君になれる土壌を作ったのだ!)
謙信は長政や員昌の統治をさほど評価していない。良くも悪くも平々凡々、普通の政に過ぎないと思っている。それでもその前がよほど悪ければ名君になれるし、同時に民も簡単に懐く。そんな国を攻め落とすには悪政により国力が弱っている所を突くしかないが、もう四年も経てば土壌は既に潤っている。
「ですが本当によろしいのですか」
「何をだ」
「書状一枚を当てにして」
「書状など信じてはおらぬ。あの書の通り動くのであればよし、駄目ならば駄目でわが手によって織田を切り裂くのみ。そう、兎大友皇子の日にな」
兎大友皇子、の日。
それについての答えを、謙信は既に教えられていた。
だからこそか信長が隠居したという急報が入ってもなお謙信は眉一つ動かさず、兎大友皇子の日に向けて武田と最後の交渉を済ませたのである。




