浅井長政、驚嘆する
二月十五日、金ヶ崎での報告のため丹波を通らず近江から大倉見城へと戻った高虎を見送った長政は、より詳細なそれをと言う理由で本多正信を残していた。
「どうなのだ、実際」
「内大臣様により非常に商売がしやすくなったとの事で、堺の町民はその織田の同盟者でもある我が浅井にも好意的です」
「ずいぶんと安く買えるし高く売れるしな」
「これもお館様や内大臣様の威と言う物です。今後ともお館様とお取引をしたいと言う事で」
佐吉は長政の小姓として下座に座りながら、じっと正信を見ていた。
藤堂高虎に打擲され、松永久秀の暴威をその身に受け、その上でどのように振る舞うのが正しいのかじっと正信を観察している。それが見え見えな分だけまだ若かったが、だとしても正信にしてみれば面白い変化でしかない。
「正直な話、何もかも思ったより早かったと言える。佐吉、なぜ安く買えるのかわかるか?」
「運搬にかかる費用が安く済むからでございます」
「なぜ安く済む?」
「途中で利潤を貪る輩がいないからです」
「全くその通りだ。正信よ、関所に当たったか?」
「まったく当たっておりません。一応織田領と浅井領の境目で一度だけ誰何の問いを受けましたがそれが全てです」
堺の町へ向かう街道には、関所が一つもなかった。織田家の領国だからと言う安心感もあるのだろうが、通行料がない以上輸送費が実に安くなる。織田や浅井だからではなく、それこそどこの家だろうとお構いなしなのだ。本願寺や毛利ですら堂々と立ち入り、平気で商売をしている。それが堺なのだ。
「ああ、関所により利潤がなくなったり物価が高くなったりする世界には戻りたくないだろう」
「関所で儲けていた人間は泣きますけれどね」
「確かにその通りだな」
関所の通行料、いわゆる関銭でもうけていたのは安全を保障する武力のない寺社や、お互いの前線にもなり得る国境にそういう場所を設けていた各小大名である。
この五年間で近江や山城、河内和泉などの諸勢力は織田に従うか滅ぼされるかのどちらかになり、残る寺社もその多くが本願寺の衰勢と穏健化と共に勢いをなくした。
「ですが、その」
「なんだ佐吉」
「その泣いていた人間がどこへ行くかが問題です」
「毛利は首を縦に振らないだろう、そのやり方が正しい事を知っているのだから」
「するとどちらへ」
「上杉だろう、既に聞き及んでいるかもしれぬが」
「上杉が加賀へ迫ったと」
「そうではない。上杉が武田・北条と手を組んだ可能性が高いというのだ」
家康からの伝令を聞いていない佐吉がしまったと言う顔をすると同時に正信は扇子で佐吉の頭を叩き、その反動のように思わず東を向いてしまった。
「まったく、何もかも知ろうとするなど相変わらず面の皮の厚い事だな」
「正確に情報を掴んでおく事こそ臣下の役目であると!」
「まずは分相応のそれで良い。弱みのない男は人に好かれぬぞ、若狭守様を見ろ」
「ああ、そういう事ですか」
高虎が内弁慶ならぬ外弁慶である事は、もう浅井家中の常識になっている。外ではあれほどまでに勇敢に戦う男が、家の中では四葩にまったく敵わない。お桂にはかろうじて威張っているようだが、そのお桂を見出したのも四葩であって高虎ではない。
「ああ、その高虎ならば若狭に帰り着いたはたから気の毒ではあるが数日の休養を経て丹後に向かわせる。但馬より攻め入る柴田殿の饗応のためにな」
「少しやり過ぎにも思われますが」
「若くして出世した者には妬み僻みが付きまとう。田中久兵衛が誰それを讒言したという話はもう三度わしの耳に入っている」
「おぬしは世の悪意を知らなさすぎるのだ。これが本当に敵の間者が流した噂ならばどれほど気楽かのう」
「無論虚言を撒く事は許しがたいが、それをいちいち見つけて暴いていてはまともな人間まで口を利けなくなる。効き目がないと分かればやめるだろう。やめない人間は家中でも孤立して行くからどうでも良い」
だがそれでも高虎に対する悪意は、決して小さなそれではない。吉政でさえその有様なのだから、高虎に対してどれほどの怨嗟が飛んでいるかなど想像に難くない。それをわざわざ取り上げて潰していては偏愛と言われるし、家中が息苦しくなるし、本人も肩身が狭くなるしでろくな事がない。
「それで上杉はどこを狙うのでしょうか」
「三つ考えられる。ひとつは我が浅井領の加賀、ひとつは徳川の攻めている駿河、ひとつは美濃。だがおそらくは美濃だろう」
「美濃ですか、ではその、いったいどれほどの兵で来るかと」
「三万は下らないだろう」
「三万……」
佐吉は思わず右手で口を覆った。三万となればいくら武田や北条の援護があるとしても少なくとも一万五千、おそらく二万近くを上杉は出さねばならない。その為には莫大な費用が掛かる。それこそ家運を賭けるとまでは行かないにせよ、失敗すれば桶狭間の後の今川や天竜川の後の武田になっても文句が言えない賭けになるかもしれない。
「愚かだと思うか?」
「美濃を上杉領にしてどうする気なのかと」
「それはわざとか」
「越中や能登ならともかく美濃を取るなど」
「だから言ったであろう、全てを自分の価値観で測るなと。
例えがまずい事は承知だが、徳川殿の奥方様をご存知か。昨年生まれた子の親を殴り飛ばしたお方を」
家康の正妻の築山殿は元々今川の重臣の女で、当然のように織田をよく思っていないし徳川の事も配下の家として見下していた。
すっかり立場逆転した今でもその気分が抜けきれておらず、だから大事な息子を孕んだ侍女を殴り飛ばす事ができていた。その侍女は無事出産したものの築山殿はその子の於義丸とはまったく顔も合わせず、今川氏真自らより糾弾状を書かされるほどであった。もちろん、自分が産んだ長男とも織田から嫁を貰った事もありかなり不仲である。
「よくわかったであろう、わざわざ側室を探し求めるような四葩様が特別なのだ」
「学問に勤しむのも良いが人に触れて来い。そうしてあらゆる人に出会ってこそそなたは大きくなれる」
「その通りだな、しばらく刀を握っていろ」
「はい」
「…………これでまた一歩大きくなってくれればいいがな」
「急にはなりますまいがじわりと効いて来るはずです」
自分が何をすべきかすぐ理解した佐吉はすっと立ち上がり、庭へとゆっくりと歩いて行った。
長幼問わずたくさんの浅井の家臣がいる庭で、あるいは物理的な力にもまれるのかもしれない。その際にいろんな人間に出会うことによって成長できるのか否かが問題であり、それができないならばありえない悪口を言い触らして飽き足らない馬鹿と同じである。その時は自分が切り捨てるまで、そう長政も正信も思っていた。
とにかく佐吉を下がらせ二人きりとなった長政は、一色義道から送られてきた書状を懐から取り出した。
その中身はわずかに五文字、そう「兎大友皇子」である。
「この兎大友皇子、についてどう思う」
「一色殿、畠山殿に続き松永殿からもその謎の五文字が見つかりました。一色と畠山は昨年浅井に付いたばかり、そして松永殿は正直真っ向から織田に従っているとはとても……」
「いざとなれば我々に敵対してもおかしくない家か……それで」
「何らかの暗号なのかもしれませぬが、未だに何もつかめておりませぬ」
「謀叛を起こせという事なのかもしれないが、それをこうして差し出している時点で意味があるのかないのかわからん」
「僧たちが送って来た事だけは間違いないようです」
いろいろ調べている間に、兎大友皇子とだけ大書された書はすべて僧の名の下で届けられており、そして不思議な事にほとんどの寺が住職が入滅すればそれでおしまいの寺だと言う事が分かって来た。
だがその住職からは代筆業の職務だと言う以上の情報は取れておらず、未だ誰が委任したのかまるでわかっていない。
「織田様とも情報を詰めたのですが」
「同じ調子か。それで兎と言えばお前は何を考える」
「因幡の白兎でしょうか」
「因幡か、あそこは毛利領だ。いずれは柴田殿が攻め込むのだろう。だが大友皇子とは一体何だ」
「大友皇子と言えば大津宮の皇子と言う事で、織田様も羽柴様も南近江にて警戒をしているのですが、何せ織田家の統治が相当に行き渡っている所でそんな不埒な輩はなかなか見つからぬようで。せいぜい尾張美濃と京や堺へ行く織田の人間が行ったり来たりするばかりとの事で」
「明智殿にもその話をしたのだが、何とも分かりかねるとの返事だけだ。それで友好の証とか言ってこんな物を渡されてな」
長政は光秀からの贈り物だと言う一冊の書籍を、正信に差し出した。正信はゆっくりと開きながら字を目で追い、十分もしない内に閉じた。
「物部合戦始末記」とか言う題名のその書籍は歴史書と言うより物部守屋を主役とした小説であり、厩戸皇子はともかく蘇我馬子らは徹底的な悪役として描かれているひどく一方的な作品だった。
「物部合戦など、およそ千年前の話です。その物部の末裔として一体何をせよと言うのか、てんでわかりません。まるで殿と同じです」
「そうか、そういう意味か……わしもようやく気が付いたぐらいだ、ありがたい。若狭守もそう言えば中原氏の末裔だとかでその先祖の話を聞かされたらしいな」
「そのようです、殿にはまったくどうでもよい話だったようであっさり聞き流しておりまして、私もこの前ようやく知ったほどです」
「うむ……明智殿は何を望んでいるのだろうか」
長政自身、自分が物部氏の末裔だという事などまったく知らなかった。知っていたとしてもだからそれゆえにと思う事もなく、ただ目の前の事に懸命になっていた。久政さえもそれを鼻にかける事もいばりくさる事もしていない時点で「浅井家」にとって「物部氏」などどうでも良く、ただ墨付きを得るだけの道具でしかなかった。その意識をわざわざ引き出して何をさせる気なのか、てんで長政には理解できなかった。
「それで話は戻るが大友皇子は壬申の乱で敗れたのだな」
「ええ、それでその勝者である天武天皇の末裔が次の皇位を占めたのですが幾多の動乱が起き、およそ百年で天皇家は天智天皇の系譜に戻ったとか」
「歴史とは不思議な物だな」
「それでその大友皇子について調べた所、その妻の名が十市皇女と言う名前でした」
「十市とは、まさか」
「ええそうですよ、その場にいなくて良かったと思うと共に、殿も実にお見事でした」
正信がうんざりと言う顔で光秀について話すと、長政にもその空気が伝染した。
愛想なしのかと思いきや信長の前で笑顔になるのはまだ良いとしても、好きな話ができると思いきや急に熱くなるのは正直迷惑である。十市皇女と高虎の先祖たる十市氏が同じ字だからと言ってそれを結び付けようなど、ただの駄洒落でしかない。
「若狭守も相当怨嗟を買ったのかもな」
「天竜川の事ですか、確かに明智様をかなり危険にさらしたのは間違いありませんが、だからと言ってあそこまで不満をこぼす姿は正直とても武士のそれとは」
「とにかくだ、明智殿とはあまり仲良くはしにくそうだな。悪い人間ではなさそうなのだが」
悪い人間ではない。実に厄介な言葉だ。
善人か悪人かで行けば、朝倉義景などは実に善人だった。だが、滅んだ。悪人と言うので言えば、松永久秀こそまさに悪人だ。だけど、今でも生きている。弱肉強食うんぬんと言うより、善人でもその善ゆえに滅び、悪人でも悪ゆえに生きる事もある。
ひとかけらの悪意もなく自分たちの生まれに誇りを持って欲しいと言う気持ちは感じるが、それを受けるか否かはまったく別問題なのだ。もちろん社交辞令と言うのはある。だが信長がそういう繫文縟礼を嫌っているのは間違いないし、秀吉を重用している時点で家柄などどうでもいいのかもしれない。
何より織田家は平氏の末裔だと言うが、お市からも十一年間そんな話は出ていないのが全てだった。
「申し上げます!」
厄介な隣人の扱いに苦心する未来を思い浮かべている所に、佐吉とは違うまた別の小姓が金ヶ崎城の廊下と足による不快な音楽を奏で出した。
「何事だ!」
「加賀に上杉から使者が参りました!」
「それで何と」
「上洛の際には上杉に従えと!」
「そうか」
上杉が喧嘩を売って来るのは予想通りであり、その際に単純に討ってやるではなくこういう言い方をするのもまた予想通りであった。
ましてやついさっき武田と上杉が話を結んでいるかもしれないという時点で予想通りの展開であり、長政も正信も驚く事はしなかった。
「問題はその、そうではなく!」
「何だ、それ以上の問題とは!」
「その使者が、加賀の民に殺されました!!」
国が争おうとも、使者を害さないのは戦の約束である。
それを破ったとならば世間体からしてまずいし、ましてや民がやったとなればなおまずい。誰かが扇動していると言われればその責任者を出せとなり、していないとすれば民の管理がなってないとなる。いずれに転んでも大義名分をくれてやる事になる。
「どうしてそうなった?」
「わかりません、どうやら相当に無礼な態度を取ったとも言われておりますが」
「とにかくだ、上杉がほどなく出て来る事は間違いない以上、左衛門督(阿閉貞征)に加賀に入り守りを固めておくよう伝えて置け」
「はっ」
いくら上杉が出て来るのが目に見えていたとしても、これでは加賀の民が危ないかもしれない。もちろん本命は美濃だが、だとしても使者の仇討ちと言う名目で加賀を攻められても何も驚けない。両面攻撃をかけるとは思えないがいくら飛騨が織田・浅井に服属している姉小路家の領国とは言えそう簡単に動ける物ではない以上加賀の守りをおろそかにできなくなってしまったのは痛い。
「これが加賀の民意と言えば体裁はいいが……」
「今年は上杉との戦いに専念する事になるでしょうな」
「申し上げます!!」
「今度は何だ!」
「織田内府様がご隠居、家督を岐阜中納言(信忠)様にお譲りになられました!!」
そんな中、今度はもっとけたたましい足音が鳴り響いた。さらに声を高くして怒鳴り付けた長政に大きくひるんで腰を抜かしたのにも構う事なく、その小姓は城中に届きそうな程の声で叫んだ。
「そうかそうか、兄上が隠居したのか」
「そうか…………」
当初平然としていた長政がその小姓に掴みかかるまで、どれだけの間があっただろうか。その小姓に向けて正信が真顔で振り向く中、長政は小姓に負けじと大きな声で叫んだ。
「兄上が隠居しただと!」
「え、ええ、は、はい!京の本能寺に退去し、その上で岐阜中納言様に正式に家督を譲る旨発布!それに伴い、織田家当主最後の命として柴田様と羽柴様に但馬及び播磨の攻略を命じられ、さらに明智様に丹波へ留まり両者の援軍となるように命じられました!」
「おい市!市!おい正信!」
あまりにも突然の行いに、長政は信長の妹と一番近くにいた男の名を叫び散らした。
「実は……」
「実は何だ!」
「実は殿は松永様よりその可能性がある旨聞かされていたそうなのです」
「なぜそれを先に言わぬ!」
「言ったとしてどうなるのです。それよりこの場で死人を出さぬように」
長政はあわてて胸倉から手を離すが、それでも呼吸は全く落ち着かない。
まだ四十二歳だというのに一体何のつもりなのか、信忠を当主として十分だと認めたとしてもあまりにも早過ぎはしないか。
「それでも大殿様は大殿様です。権力が急速に落ちる事はないでしょう」
「う、うむ、うむ……とりあえずだ、とりあえず……とりあえず水を一杯持って来てくれ!」
「は、は、はい……」
また何かとんでもない事をするのかもしれない。これまでも予想もし得ないことを繰り返して来た信長が、今度は一体何をする気なのか。
冷静な正信のおかげで頭の冷え出した長政だったが、遠くなった目が近くなるのにはまだ少し時を要したのである。