藤堂高虎、兎大友皇子と言う言葉を知る
第七章突入。この一話で一年経ちますのでご注意を。
天正二(1574)年三月、丹後の国は揺れていた。
建部山城に居を構える国主の一色義道は、まったく若狭の浅井軍に対する策を練っていなかった。正確には、練れなかった。
織田と言う一応の後ろ盾があった若狭と違いまったく孤立無援だった丹後の一色には縋る事の出来る権力基盤もなく、次々と義道から離れて行った。
「一刻も早く兵たちを集めよ!この城に籠城して但馬や丹波へ援護の使者をやる他ない!」
「毛利は駄目ですか」
「毛利はこちらの動向を知っている!そんな所に頼めば本格的に足元を見られるぞ!」
「しかし但馬や丹波とてそれほど」
「敵将はまず間違いなくあの天魔の子だ!若狭の軍勢が一日で吹き飛ばされたのだぞ!」
足利義昭が丹波から西へと向かい毛利領に入り込むに当たり、因幡で戦っていた山中鹿之助を毛利は激しく攻め立てた。その結果鹿之助が毛利の攻勢に抵抗しきれず、この丹後から丹波に入り織田領へと逃げ込んだのは昨年秋の事である。もちろん鹿之助は毛利征伐をせよと急かしているが、信長は尼子家に仮の領土として二万石程度を与えるとそれきりあまり構っていない。
それはさておき今の敵は高虎だ。丹後一国の兵力はだいたい三千程度であり、これは若狭を実質一戦で平定した藤堂軍の数とあまり変わりない。それを迎え撃つには、籠城を決め込んだとしてもせめて半分から七割ぐらいは必要だろう。
「そのような弱気でどうするのです!」
「わかっている、だからこそ籠城して援軍を待つのだ!こうしていればいずれ敵も逃げざるを得なくなる。兵が集まらんのもこうなればかえって都合がいいわ!」
だがこの時建部山城にいた兵はたったの千二百である。一応兵の数が少ないから長く籠城できるぞとうそぶいてみせた義道だったが、内心では無力感にうちのめされていた。
おそらくは、去年の間にかなり籠絡されていたのだろう。若狭八万五千石の内藤堂家の領国は景鏡と合わせても二万五千石しかなく、武田家が越前へ移封されたため残る六万石は浅井の直轄領となっている。だが直轄領と言ってもしょせんは地元の人間がいなければなかなか回らない物であり、大倉見城周辺以外の大半はあの戦いに参加しなかった日和見のそれや武田家に忠義を尽くした国人により管理されている。
それと同じ事が丹後にも保証される可能性が高いと言いふらされたらどうなるか。ただでさえ天魔の子を相手にしてこれまで大した戦の経験もない軍勢しかいない以上勝ち目は薄いとなれば、保身のためにも浅井に付くとなるのはまったく自然な流れだった。
「引き付けるだけ引き付けろ!その上で援軍により浅井を追い返す!無論未だ登城していない国人にも敵の側面を付けと命じておけ!」
吠えれば吠えるだけ、虚しさが膨れ上がる。それでも国主として、やるべきことはやらねばならぬと思いながら義道は動いていた。
「申し上げます!」
「どうした援軍か!」
「いえ、浅井の使者です」
その傍から、まったく予想もしえない事が起こる。まだまともに戦も始まっていないのに何のつもりだと言うのか、義道は頬を膨らませながら浅井の使者の所へ出向いた。
「見せろ!」
わざと居丈高に出てやったのに、使者はまったく動じないまま書を差し出した。
浅井軍の傘下に入れば六万石は保証する――――内容はたったそれだけだった。
「真面目に物を書け!」
「犠牲者は無に近ければ近いほどよろしゅうございましょう。見た所この城にはおよそ千少々しか兵がおらぬ様子、我々は三千以上の兵を有しております」
「兵が少なければ戦に負けるなど誰が決めた!」
あまりにも分かりやすい降伏勧告に思わず怒鳴り散らした義道だったが、使者は全く動揺していない。叩き出そう物ならばあの天魔の子の軍勢がすぐさまやって来る。
「いい事を教えてやる!いずれ援軍が来るのだ!そうすれば藤堂など」
「なればその旨を主にお伝えいたしますが」
「六百の兵が北西から来ました!」
「国人たちの援軍か!ほら見ろ」
「先頭が山崎と言う人物で、藤紋を掲げています」
それでも必死に虚勢を張る義道の心は、家臣の手によって簡単に折れた。山崎こと山﨑長徳は高虎の重臣であり、それがこうして北西から来ている時点でその方面の国人を取り込んでいる事は間違いなかった。
「降伏する!その代わり条件は守ってもらうからな!今すぐ藤堂殿の元へ連れて行け!」
「犠牲者が皆無で済み幸甚でございます」
義道は、降伏勧告を飲んだ。武士として最後の意地を張るかのように背筋を伸ばし、使者と共に高虎の陣へと赴いた。あまりにもあっけない終焉に誰も何の行動も取れないまま、丹後は浅井の手に入ったのである。
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「素晴らしき判断でしたな」
「ちゃんと約束を守っていただければの話ですがね」
「無論です。一色家の領国は是非ともお守りいたす事、この藤堂上総介の名に懸けて約束いたしましょう」
せめてもの意地だと言わんばかりにふてぶてしく答えた義道に高虎は深く頭を下げ、その上で丁重に金ヶ崎城へと送った。
やがて降伏の条件として嫡子を金ヶ崎城に送る事により一色家は約束通り六万石を保証され、その代わりのように田中久兵衛吉政が一万石で丹後に入る事となった。国人たちは分散されて浅井家の支配下に入り、吉政を軸としてまとめ上げられた。
そこで次は但馬だと言う所で織田家から静止が入り、能登を与える代わりに但馬は織田が攻め込む事が決まったのが天正二年の五月である。
それからずっと、能登は磯野家の担当と言う事でやる事のなくなった高虎は生まれたばかりの千福丸と共にやって来た四葩や、出産間近のお桂と共に一家団欒の時を過ごしていた。
「この子のためにも私はもっと頑張らねばなりませぬからな」
「投げ出せるところは投げだすのも強さと言う物だ」
「皆様にそうおっしゃられて自覚なさいましたか」
「ああ、そうだな」
武田信玄とその配下の猛将二人を討ち取った事になっているが、それが背中を向け続けて雑兵狩りに勤しんだ結果である事は高虎が一番よく自覚している。それ以前もいきなり熱っぽくなって派手に突撃して熱が冷めると急に静かになって命を守ろうとする、そんな不思議な戦をしているのが高虎だった。
いざとなれば平気で人を殺せると同時に、いくらでも背を向ける事ができる。極端に野蛮な人格と臆病な人格が同居し、その両方を平気で使い分けられるのが高虎だった。
「布団の上でもそのようですからね。私にはまるっきり頼りまくると言うのに、お桂殿には自分がいかに勇猛か見せようとして」
「男とはずるい物だな、都合の良い時に女を使い分けられて」
「私だって元々姫であり、今では奥方です。都合のいい悪いに応じて人を使い分ける権限はあります」
四葩が千福丸を孕み、さらにお桂が孕んでいる事が確認されてからは共に寝る事はほとんどなくなったが、それでも寝る前にどちらかと会話を交わす事はたびたびあった。基本的に元気がある時はお桂を呼び、ない時は四葩と口を動かし合っていた。
「お桂殿の子はどちらでしょうか」
「どちらでも壮健であればそれでいいのだがな」
「ありきたりな物言いですね、それで次の戦場はどちらになるのでしょうか。丹波や但馬には行けないでしょうし」
「わからんとしか言えない。私に出来るのはせいぜいその時までこの地の民をいつくしむ事と、そなたらを守る事ぐらいだ」
「あるいはこの子を江姫様と婚姻させるとか」
「冗談は休み休み言ってくれ」
「まあ、そのようにするのが私の仕事でもありますので、あなたはあなたの出来る事をなさってくださいませ」
何を言っても、高虎は四葩に勝てない。ありきたりと言うかごもっともな事を言えばこうして突発的な冗談で返され、少し大物ぶっても簡単に上を行かれる。そしてその上で最終的には自分を励ましてくれるのが四葩なのである。
「私は足軽であったご時世の旦那様をご存じありません」
「今とそんなに変わらんぞ」
「それはそれは、ではその時からそんなご武勇を」
「武勇ではないわ、単に運が良いだけだ。後はもう、どうせ兄上がいるからと開き直れていたのも大きかったかもな」
「でも実際数多の将を倒して来たのですから」
「一応な」
「でも武田信玄を討ち取ったのはあまり面白くありません」
「まさか四葩のおかげで勝てたからと言うまいな」
「もう旦那様ったら!」
一方でお桂は純粋にこちらに甘え、その上で時に拗ねてみせる。
四葩より二つ年上とは思えないほどに子どもっぽく、お桂と共に正信の配下となった一族も昔からそういう性質であった幾度となく高虎に伝えて来た。だからこそ四葩に選ばれたとも言えるが、その陽気ぶりもまた高虎に取っては癒しだった。
「ふー……」
「どうなさったのです殿」
「四葩に勝つ方法が思いつかなくてな」
四葩にやり込められて本丸に現れる高虎の姿を見ても、もう誰も驚かなかった。最初は苦笑いしていた正信も今ではすっかり真顔であり、その度に漏れていた失笑ももはや起こらなくなっていた。
「なあ、丹波攻略はどうなっている」
「丹波は山城のすぐそばだけにどうしても織田様は押さえておきたいようで、美濃中納言様自ら兵を率いて丹波の攻略に当たっておられます。ああそれから、明智殿も相当に張り切っておいでのようでして」
「今年中には丹波は全面的に織田領になるな」
「明智領かもしれませんがね」
長政が高虎に丹後を攻めさせた数日前から織田は丹波の攻撃を開始し、まったく浅井の助けを借りることなく織田木瓜の旗を増やしていた。丹波の国人も頑強に抵抗していたが明智光秀が信長との硬軟両面作戦をうまく運用しているようでかなり織田優勢である。
「柴田様は伊賀、羽柴様は南近江、丹羽様は山城、滝川様は伊勢……あちらこちらに皆独自の領国を持っていらっしゃる。明智殿もとなるのは自然だろう」
「それで美濃中納言様の事だ、あくまでも地に足のついたことしか言い出さないだろうな」
「その際には殿やお館様にも」
「そうなれば良いがな。今一応父上に頼んで系譜を探してもらっている」
昨年末に信長は朝廷から中納言の官職を与えられ、それにより公的には従三位美濃中納言となっている。その上で今は重臣たちに五位相当の官職を与えるように交渉を進めており、いずれは彼らにもそれ相応の官職が与えられるのだろう。
「しかしどうしても気になるのだ」
「一色様からの書状ですよね」
だが丹波よりも、官位よりも、そして能登よりも高虎が気にしていたのは、義道から渡された一枚の書状だった。
「正信、そなたは僧にも詳しいはずだが」
「さあ、かような僧の名は存じ上げませぬ。ですから一度無視しようかと思っていたのですが、中身がどうにも不可解でして」
「ああ、実に不可解だ。しかしそなたでもわからぬとなるとな……」
高虎がお手上げだと言わんばかりに首を横に振る。正信もその書状を思い出し、一体何が狙いなのか送り主の顔を見てみたくなった。
「兎大友皇子」
とだけ大書された書状。義道によれば本願寺の遠縁の僧が届けて来たと言うが、正信に聞いてもまったく出どころが分からない。
わかったのは、この書に使われている紙が非常に質が悪い事と、字が実にきれいだと言う事だけである。
「暗号かもしれませぬが」
「一色殿が意味が分からぬと言うのに何の暗号だ」
「そうなのです、一色殿やその家臣を含めいろいろ当たってみたのですが誰一人として意味が分からぬと言う事で」
「あるいはあの朝倉景紀が丹後に入ったと言う」
「まず間違いないようです。ですがその後は一色様でさえ把握しきれていない様子で」
「まったく、もし兎大友皇子とやらが景紀を意味するのであればその首を切って四葩に見せてやりたいがな」
「まあ、あの奥方様ならばお喜びになるでしょうな。既に関係ない事はわかっておりますが」
「とにかく男は黙って動くしかないな。どうか若狭の民のために頼むぞ」
四葩からまったくありきたりなそれですねと言われそうなあいさつと共に二人は立ち上がり、高虎は武士らしく刀を振りに行き、正信は書面と向き合いに行った。
そんな風に藤堂家の主従が適当に過ごしていた八月半ば、丹羽長秀により能登は平定され浅井領となり、その数日後に丹波は織田領となった。長政は畠山家に一色家とほぼ同等の措置を施し、磯野員昌の領国を拡張させた。
またこの年の年末までに、天竜川の戦いからずっと駿河攻略に専念していた徳川家康は駿河の領国の半分以上を徳川の色に染めていた。
織田も浅井も、徳川も十分に発展した。それが、天正二年だった。
「兎大友皇子」と言う言葉がこの後頻繁に出てきます。




