本願寺教如、大和へ攻め入る
下間頼廉にしてみれば、あまりにも遅すぎたという気分にしかなれなかった。
「住職様は何を考えておられる!あのような調子では織田にこの国が蹂躙されてしまうぞ!破門宣告もいいが、その先の事を考えておいでなのか!?口上ひとつ取ってみても腑抜けた訳でもなさそうだが、あの連中が我々のどの寺を破壊した?」
「そうです、確かに御仏の教えと違う神の教えではあるが、それならばあちこちにある神社とさほど大差がなかろう!」
「それだと言うのに織田や浅井よりも彼らを狙えなど、まったく住職様は何を恐れているのか!」
顕如の目がないのをいい事に、頼廉は馬上で吠えまくった。そしてその頼廉に呼応して顕如に対する非難の声が高まり、それと共に熱量が高まり始めた。
比叡山焼き討ちから、もう二年以上経つ。その暴虐を極めた行いを目の当たりにしておきながら、顕如はまったく動こうとしなかった。
今の本願寺では信長には勝てないの一言を繰り返し、それでありながらまともに軍備を整えようとしない。せいぜいが僧たちを派遣して教えを広め、それに共感した人間たちを取り込んで喜捨させるなり僧兵にするなりと言う極めて緩い動きしかしていない。
この二年間で本願寺がとった大々的な動きは三つしかなく、まず一つは加賀に派遣していた下間頼照と七里頼周の二人に破門宣告を出した事である。
「耶蘇教と言う教えを南蛮人が広めておる。それが何ゆえ可能かわかるか?仏の教えが庶民に受け入れておらんからだ。仏道がより庶民に利益をもたらす事が分かれば耶蘇教などあっという間に廃れる。勢いこそあれどまだ数は少数だ、彼らをまず止めるのだ。
ただし決して暴力に訴えてはならぬ、あくまでも教えによってのみ戦うのだ。できる事ならば彼らの書を入手して来い。おそらく彼らは耶蘇教を広める事が唯一最大の目的だから簡単に渡してくれるだろう。あまり褒められたやり方ではないが、その上でどこが勝りどこが劣っているか学ばねばならぬ。その弱点を突いたうえで、また仏道のどこがどうなのか改めて学ばねばならぬ。
このまま織田が跳梁しようが、あるいは将軍家が力を取り戻そうが必ずやこの耶蘇教から逃れる事は出来ぬ、そういう事だ」
二つ目が、最近京や堺に、いや九州などに増えている耶蘇教と言う南蛮人が持ち込んで来た教えを研究するように命じた事である。それが最大の命令であり、その命に当たった坊主は寺の中でかなり出世している。
だが耶蘇教の宣教師など、頼廉たちの目にも入っていなかった。それが仏道の邪魔をするとはかけらも考えておらず、ましてやその教えの書を手に入れようなど顕如は何かおかしくなってしまったのではとさえ思う僧さえいた。
「拙僧はなぜに小谷城に赴けなかったのか、それを不満に思っております」
「小谷城か……あそこは浅井の本拠地。いかに信仰心厚き者たちとしてもとても無理だったと言う事なのだろう。その点、此度の地は実にやりやすい。ああまったく、住職様も何を怯んであのような真似をなさって来たのか。と言うか松永久秀などいつでも討てただろうに!」
そして三つ目が、小谷城にひそかに僧兵を送り付けた事である。これをもし表立った動きでないとすれば、顕如文字通り本願寺に引きこもって一向宗の経典と耶蘇教の書ばかりを見ていた事になる。
一応そうやって裏で手を引いたり、若狭などの織田・浅井領に対してひそかに一揆をそそのかしたり領主に反抗できるような戦力を整えさせたりしているが、表立って織田領に戦を仕掛けることは一度とてしていない。と言うか、防衛戦すらしていない。
そんな顕如に頼廉や教如のような強硬派が必死に顕如を訴え続け、最近ようやく討伐の許可を得た存在が、松永久秀だった。
宗教界からすれば大仏殿を焼いた男、俗人の権威で言えば将軍を殺した男。
そんな人間を討つのに、何をためらっているのか。
「父上は弱気になっていらっしゃるのだ。だからこそここでそなたと共にあの男を阿鼻地獄に送る事ができれば少しは父上も御仏の力をお信じになろう」
「教如様、住職様に向かって御仏の力をお疑いになっているなど」
「だってそうとしか言いようがないではないか。織田勢が我々に対してはおとなしくしているとか言う理由で伊勢や伊賀、さらに河内に和泉、そして浅井や徳川と手を組み若狭や駿河など我々と手を組んでいる勢力を次々に襲わせながらまったくの傍観ぶり。このままではいざ立ち上がっても叩き潰されるのが落ちと言う物だ」
「そうです。その教如様に向かって凡俗のごとき欲にまみれていると言い出すなど、住職様は憶病の虫に取り憑かれておいでです!」
十六歳の教如は列の真ん中で熱っぽく声を上げ、父親さえも信仰が足らぬと非難してみせる。それに頼廉たちも同調し、壁に耳あり障子に目ありなどと言う言葉すら忘れた一万四千の僧兵集団は、大和の国と国境へと進軍を続けた。
「すでに国境に陣を張っているようです」
「松永久秀め……この地で討ち取ってくれる!」
河内と大和の国境にたどり着いた頼廉たちは、すぐさま松永の旗を掲げた陣を発見し対抗するように陣を組んだ。
敵の数は約七千、自分たちのほぼ半分。しかもよく見れば兵たちの腰が浮き気味になっている。それでも油断など要らぬとばかりにじっと陣を組み、松永軍をにらみ付けている。
後方では久秀たちに対する呪詛の言葉が吐かれ続け、その度に戦意は高まって行く。
「しかし、こんな役目でよろしいのですか」
「雑賀衆はあくまでも傭兵。無論功績は大事ではあろうがあくまでも罪を受けるは我らが役目。何より、織田が寄って来ないとは限らない」
教如の傍らには雑賀衆の雑賀孫市こと鈴木重秀がおり、八百の鉄砲衆をその傍に並べ立てていた。この鉄砲衆は本願寺にとって最高の武力だ。孫市とて信長のやり方や久秀には反感を覚えており、顕如の弱腰に憤る事もこの出兵に参加する事もやぶさかではなかった。
「北より織田がやって来た場合、それを守ってもらいたい。安心して我々が突撃できるようにな」
「東からも可能性があるのでは」
「その時は伝令を出す。ゆっくりと後を付いて来てもらいたい」
「ですが久秀がそう簡単に崩れるとは」
「ご存知ないのか、久秀めはあの陣にずいぶんと米を運ばせている。ここで一挙に突破すれば物資を一挙に奪取できる」
その孫市が食い下がると、教如は予想外そうな顔をして俗っぽく笑った。物資は戦いを続けられる原動力でもあるが、同時に相手に活力を与える道具でもある。それをあえて大量に運ぶ事自体、この陣で耐えようと言う何よりの証拠だ。
「久秀は逃げぬ、いや逃げられぬ。おそらく当てにしているのは織田の援軍だろう、それもなしにこんな真似をする理由もあるまい」
「そうですか、織田の援軍を押さえろと?」
「来なければ来ないでいい、雑賀衆の存在自体が紛れもなく最大級の抑止力なのだからな」
「それでこの戦の暁には私は色町にでも通いたい物ですが」
「孫市殿はそれで良い。皆様には皆様の娯楽があろう」
「そうですね、まあ人妻に執着する趣味はございませんが」
頭を撫でながら飛んで来た孫市の軽口に、教如は頭を殴り付けた――自分の頭を。
(しのぶれど 色に出でにけり わが恋は……だと、ええい腹立たしい!)
自分があの藤堂高虎の妻となった四葩と婚約を結んでいた事を知らされてから、顕如によってその女性に対する煩悩を抑え込むような修行を散々積まされ、その上でおそらくは加賀にいるであろう女子をいつか自分の手で救い出すのだと言う野心に昇華して耐えて来た。
だと言うのに加賀が浅井家に落とされてほどなく、四葩なる女性は天魔の子と呼ばれた高虎と結婚してしまい、ついでに天魔の子と実に順当な名で高虎を呼ばわった下間頼照は破門された上に自滅同然に入滅してしまった。
それ以来教如は顕如から、四葩と言う女性の為に一向宗の行く末を誤らせるなかれとより一層深く教えられて来た。その度に内心で反発し、仏道修行にいくら励んでもその怒りが消える事はなかった。その上に最近の顕如のまったく織田や浅井を倒す気のなさそうな弱腰ぶりと相まって、教如の鬱屈は溜まり切っていた。
「それは素晴らしい事ですね、では私はこれより突入いたしますので!」
「まあ、やってみせますよ。自分たちだってあの男を許しちゃおけないんでね」
若き僧はにやついた傭兵団の団長にあいさつを済ませると、僧兵たちへの督戦に向かうべく袈裟姿のまま下がって行った。今日は教如以外の僧は皆、甲冑の上に袈裟を着ている。その分だけ一段と痩せて見える教如の背中は実に小さく、そして細かった。
「かかれ!」
寸刻後、極めて簡潔な合図とともに雑賀衆による一斉射撃が始まり、それと共に僧兵たちが突撃を開始する。一応松永軍からもある程度の反撃はあったが、それでも量質ともに本願寺が勝っていた。
「さあ行け、破戒者たる松永久秀を打ち倒すのだ!」
一万四千の僧兵の内大半は、教如と同じように顕如の弱腰に憤懣やるかたない気持ちでいた人間である。彼らは自分の正義をひとつも疑う事なく、頼照や頼周のように命を惜しむ事もなく、ひた押しに押して行く。まさしく多くの戦国大名が恐れた僧兵の典型であり、それこそ本願寺の一番強い所を集めた軍勢だった。
「父上よ、この戦ぶりをご覧あれ!これが信仰心に満ちた軍の戦ですぞ!」
「あくまでも緒戦ですぞ」
顕如に向かって戦いを優勢に進めていた教如は吠え、頼廉も教如をたしなめがながらも半ば勝ったような調子で物を言っている。
それに疑いをかける者は、ほとんどが石山本願寺やそれに所属する寺に籠って仏典や聖書とか言う代物とにらめっこしていた。一人一人の単位で把握していた顕如により、実によく振り分けられていた。
「心配なのは織田だけだな」
「織田は速いと聞きますからな、たとえ駄目でも取れる分だけは取っておき、その上でその領国を固めねばなりませぬ」
「まあそうだな、とにかく何としても久秀めに敗北をくれてやらねば。よしこの辺りで雑賀衆に再びの」
一斉射撃を頼もう、と言い出そうとした所で急に目の前の敵がいなくなった。
松永軍がいきなり久秀以下見栄も外聞もなく平気で逃げ出し、武具こそ握り込んだままだが旗も食糧も置き捨てて逃げ出したのだ。
「……追いかけようか」
「必要ありますまい、あれほどの物資を得られたのです。この陣に雑賀衆をおきましょう」
やや呆れ気味に松永陣に入った教如は、大量の戦利品を獲得して顔を緩め、その上でその戦利品を石山に送るように配下の僧に命じた。
「申し上げます。孫市様が」
「雑賀衆の方か。何だ、申してみよ」
「此度の戦はこの辺りにすべきではないかと」
「織田勢がもう来たのか!」
「ええ……五千ほど……いや一万ほど北からとの事で……」
そんな所に雑賀衆の使者からぶつけられて来たまったく見え透いた大うそに、教如の両頬の肉が盛り上がった。
「孫市殿はこれ以上前進して欲しくないのか!」
「その通りで、ございます!」
「一万も兵がいれば気付かん訳がないだろうが!見つからん程度の兵の数ならば頼廉を大将にある程度の数の僧兵と雑賀衆を使えば十分抑え込める!松永勢が反転攻勢を仕掛けてもさほど問題なく凌げるであろうが!」
「え、え、えーと……はいその通りでございます!」
「わかったら後方に控えておれと伝えて来い!」
せっかくの戦勝気分を台無しにされた教如の独演会を邪魔する者はだれもおらず、雑賀衆の使者は脱兎のごとく逃げ出した。




