藤堂四葩、倒れる
ご心配なさらず、アレです(笑)。
11月11日、上野介→上総介に訂正。
ただ単純な力量差だけで、高虎は反武田軍二千五百の内七百を討ち取り千名を捕虜にした。
自軍の犠牲は景鏡軍を含めても百名にも足らず、まったくの完勝である。
その大勝利をきっかけに若狭の反武田勢力をあっという間に服従させた高虎は、若狭の主と言うべき武田元明の居城へと足を運んだ。
「これはこれは、上総介殿……」
武田元明はひどく疲れ切った顔をしていた。傍らには妻で長政の姪の京極龍子が付き添っており、足元のおぼつかない夫を支えている。
「織田美濃守様のお言葉によりこの若狭を治めてまいりましたが、この通りの有様でございます」
「なぜまたずっと」
「武田は朝倉の庇護下にあり、あの戦でもずっと織田や浅井とは敵対関係でございました。ですからとりあえず若狭の主にしていただいた恩はありますが、それ以上頼る事もできず」
「そんなのは関係ないと愚考いたしますがね、私だって元々朝倉配下の男ですよ」
長徳は気休めのように温かい言葉をかけるが、元明の頭はまったく上がらない。高虎より年上とは言えまだ二十歳そこそこの人間が、まるで尾羽打ち枯らした老人のようになっている。
「これよりは備前守様の甥と言う身をお生かしになり若狭を良くお治めください」
「いえ、私はそれすらも怠ったのです。つまらぬ片意地を張り続けて。全ては武田家の威信を守らねばならぬと言う枝葉末節に難渋した罪です」
「それならばこれより取り戻せば良いだけではございませぬか」
「これまでで結果は出ておりましょう。百姓は美濃守様や上総介殿になついていても、私にはなついておりません」
反武田の国人たちはあまり若狭の民に好かれていなかったが、元明とてあまり変わらなかった。
租税とか軍役とかではなく、ただ単純に織田にも浅井にもすがろうとせず自分勝手に自己解決しようとする元明が気に入られていなかったのだ。
「美濃守様は私をどうせよと」
「我が主君に任せると言っておりました。金ヶ崎城へと共に参りましょう」
「はい……」
「私も参りますから」
「龍子……どうか頼む……」
本城に景鏡を残し、藤紋と浅井の紋を掲げながら若狭を進む高虎が戦勝軍の大将の顔をしているのに対し、元明はまったく敗軍の将の顔をしていた。
「武田様」
「ええ、上総介殿……」
「武田様はお見事に戦い抜いて来られた。実にご立派な事です」
「そうですよあなた、よく備前守様に暇ができるまで耐えられました!」
「…………ああ」
「奥方様に頼るのは全く恥ではございません、私も妻には全く頭が上がりませんゆえ」
馬車の中から龍子に励まされながらも、頭を上げる事はない。高虎の言葉とそれに続いて巻き起こる笑い声にさえも、元明はわずかに目を吊り上げただけだった。
金ヶ崎城に着いてなお義理の叔父の前で元明は身長以上に小さく縮こまり、一刻も早くこの場を去りたそうに震えていた。
「上総介、本当によくやってくれた。若狭に城を与え、その上で若狭国内に一万四千石の領国を与えよう」
「ありがたきお言葉……!」
「それで残りは半分が浅井の直轄領、半分を元明殿に与える。元明殿にはどうかこれで我慢していただきたい」
「そのような!」
その叫び声が若狭の半分以上を持って行かれるのは何事だ、でない事はこの場にいる誰もが分かっていた。
「本来は高虎に与える分以外全部そのままと行きたいが、浅井としても領国を何とかせねばならぬ手前と言うのがあってな」
「いいえ、あまりにも多すぎます!自分一人で領国もまとめられない人間には。なあ上総介殿!」
「いや元明殿、やはりあなたは若狭に戻るべきだ」
「そのような事をおっしゃらないでいただきたい!私はもう疲れました。できれば山にでも上って修行に専念したいのです!」
金ヶ崎までの道中ほとんど言葉を発さなかった元明が急に多弁になり、そして恐ろしく早口になった。山に登って修行とは、ほぼ俗世を捨てるのと同じ意味である。
「藤堂殿に若狭の大半をお治めいただければ良いではございませんか」
「まだ上総介は十八歳の若輩、元より領国は一万石にする予定だった。それで此度の功績で一万四千石にした訳だが、元明殿は若狭一国で何万石あると思っている?」
「四万石ですか?」
「およそ八万五千石だ、既に本多正信と言う上総介の配下が調べ上げている」
「そんな!」
若狭一国でどれだけあるのか、元明は本気でわかっていなかった。
四万石とか言い出したのは半分は出まかせであり、もう半分はその内一万四千石が藤堂高虎領になり、残ったうちの半分の一万三千石ぐらいならばなんとか背負えなくもないからと言う情けない計算だった。
それなのに長政が額に手を当てたのを見て目を激しく泳がせ、八万五千石と言われて開いた口が塞がらないまま前のめりに倒れそうになった。
「藤堂殿の配下にはそれほどの能吏が……」
「若狭は北近江以外で初めて浅井領となったこの地域から見ればほぼ隣国だし、さらに元々織田領も同然だ。資料を得るのはたやすい事だ、まあまとめるのは難しいが」
「それがその、そのような領国をほしいままにした事は一度もなく……」
「とにかくだ、やはり若狭を三年間よく守って来た功績は低くない」
長政と正信によりますます追い詰められてすっかり枯れ果てた正明の泣き言を長政は必死に薙ぎ払うが、ちっとも元明の頭は上がらない。
「ああそうだ、私を藤堂殿の組下に」
「主君の甥を組下にすればそれこそ上総介は何様だとなる。そんな事ができる家は浅井には存在しない」
「でも……」
「ああもうわかった、元明殿は我が直轄地から一万石を与える。これで決定だ」
結局、元明は高虎より多くの領国を得たくないと言う本人の希望を叶えるという理由で、金ヶ崎城の少し北にある杣山城近辺に一万石を与えられる事になった。
それでも叔父をいら立たせたと言う事でかなおさら小さくなる一方の元明に、高虎も不憫さを思わずにいられなくなった。
「ああ……」
「しゃんとなさって下さいませ!」
「それがしはもう、何ができるのかわからぬ。生まれてすぐ戦乱に巻き込まれ、そして若くして朝倉により若狭から引き離され、そして三年前にようやく戻って来た。だがそれはまったく自力ではなく、流されるままだった。だからこそ自分の手でなんとかして若狭を平穏な国にしたかった」
「素晴らしき発想だと思いますよ」
「発想だけではどうにもなるまい……」
「聞けば国人たちには本願寺がひそかに助成していたと。なればこそ苦戦したのは致し方なき事であり」
「いや、知らなかった。知っていたら尚更手など出せなかった。天魔の子と呼ばれるような上総介殿とはそれがしは違う。むしろ無知ゆえに今まで生き延びられたのだ」
自分なりに必死だったのだろう、そして高虎だってそれは同じだ。
しかし高虎は成功し、元明は失敗した。石高と言う武士の値打ちを示す分野において高虎は大名の息子であった元明を追い抜き、一城の主となろうとしている。
「今でも本願寺と僧兵たちは恐ろしい。国人たちは表立ってその名を出さなかったから未だに生きているだけで、南無阿弥陀仏の旗を掲げられたら生きていた自信がない……。どうか彼らを恐れぬやり方を教えてもらいたい」
「それで伺いたいのですがなぜまた朝倉の旗を若狭の国人が」
「……はぁ?」
「誰がどうしてこんな旗を持ち込めたのかと言う事です」
一応戦場に出ていれば敵国の旗など否応なく見る事になるが、だとしてもあの時の朝倉の旗は出来が良すぎた。一体誰があそこまでの旗を寄越したのか、あるいは旗の意匠を教えたのか。
「そのような事を急におっしゃられましても」
「おそらくは景紀ではないかと思われます」
元明がそのような事を言われてもと相変わらず沈み切った声でしゃべると、やけに高い声で目の前に立つ一人の女性が口を挟んで来た。
「っておい、四葩!!」
「ええっ!?奥方様が!?」
「これは武田様、私は藤堂上総介が妻、藤堂四葩と申します」
「ちょっとおい、どうしてこんな所に!」
やけにゆったりとした着物を身に纏いながら深々と頭を下げる四葩を前にして高虎はあわてふためき、元明は顔を大きく上げた。
「お館様より龍子様の供応役を任されたのです。それでひと段落付いたゆえ龍子様と共にこの城をお巡りにならんと」
「ああ、そうか、そういう事にしておくか…………ハ、ハハ、ハハハ……」
「ハハハ……」
本当は自分や元明に会いに来ただけだろと思いながら言葉を濁し、笑い声を口から漏らしながら震えた。
そしてその笑い声に釣られるように、元明の口からも笑い声が飛び出し始めた。
「お、おい……!」
「これは武田様、何やら面白き事でも」
「ここに来る前にな、上総介殿やその家臣から奥方様には頭が上がらぬと聞き及んでおりましたが、なるほど意味がわかりました」
高虎と出会ってから数日間、いやおそらくそれ以前からずっとこんな覇気のない渋面をしてばかりだったはずの人間がこんなに笑っている。自分でも長政でもできない事を平気でやってのける四葩と言う存在が、改めて大きく思えた。
「ささ、龍子様」
「これは四葩殿、本当に上総介殿は良き女子を妻としたものですね」
「ええまあその……」
四葩は横に下がりながら、龍子を前に出す。元明をずっと励ましていた龍子も元明の笑顔にほだされるかのように柔らかい笑みを浮かべ、四人の中で高虎だけが恥ずかしくなってしまっていた。
「それでだ四葩、さっき景紀と」
「ええ、景紀はおそらく浅井を心底より恨んでおります。ですから浅井を潰すために自分の旗を貸したと思われます」
「その事についてはお館様に申し述べて置く。だが何もわざわざ」
「私はあの親子を許すつもりはございませぬので」
「やはり、上総介殿が味方で良かったわ……なあ」
「本当におっしゃる通りですね」
自分なりに威厳を見せようとしても、簡単にそれ以上の力を見せつけて来る。どこまでも敵う気がしない。妻が内政に干渉して来るのを許すのかと言うお題目など彼女の前では通じそうにない事を学ぶには、四葩と数分触れるだけで十分だろう。
「とにかく役目が終わった以上」
「わかりました、では」
そこまで言った途端、急に四葩がくずおれた。そして口に両手を当て、苦しそうに息を吐いている。
「おいどうなされた!」
元明があわてる中、龍子は泰然とした様子で四葩の背中をさすり、高虎は頭の中に浮かんだひとつの可能性を信じたくなった。
「龍子様、それは!」
「どうやらその時が来たようですね」
龍子の笑顔が、全てを物語っていた。
それと共に高虎は内心のみで安堵し、心配そうな外面を作り上げた。
———―紛れもなく、つわりだった。




