藤堂高虎、若狭へ出兵する
「京から帰って来るなり若狭出兵ですか」
「そうだ。知っての通り私は成り上がり、私に向けられる目は常に厳しい。お前の力に頼る訳にも行かない。お館様にもだ」
「武田信玄もずいぶんと安い男なのですね」
「信玄を討ったのは私と同じ浅井家の家臣の力だ。その功績のおこぼれをもらったに過ぎないのだからな、一部将として」
今の浅井家の領国は百二十万石であるが、阿閉・磯野・赤尾と言った重臣だけで三十万石近く分け与えており、さらにほかの家臣や小物の領国を合わせると直轄領は半分程度しかない。
そんな中で高虎に一万石もの領国を割けばますます浅井家の領国は狭くなり、その分だけ権威も低下する。ましてや寵臣とも言うべきまだ十代の男にいきなり投げ与えればなおさらだろう。
無論武田信玄を討ったのだからと言う大義名分は存在するが、それとて大将の浅井政澄や清綱、景鏡、同じ部将の吉政と言った人間たちにも同じように加増される権利はある。
「にしてもなぜまたお館様は景鏡だけで行けと」
「先に言ったであろう、自分の力だけで何とかせよとの仰せだ。景鏡殿はどうしても私に付いて来るだろうから最初からそのつもりで配置したらしい」
「景鏡でよろしゅうございましょう。それで件の側室の話ですが」
「集まったのか」
「上は景鏡の親族から下は小作人の農婦まで手広く募集をかけた所かなりの数が集まっておりまして。ああそれから一人と言わず二人三人とお選びくださいませ」
高虎は改めて、四葩の存在の大きさを叩き付けられた。
虎高は無論四葩も農婦同然の暮らしをしていたからまったく差別意識がなくなっているのはわかるが、だとしてもここまで懐の大きなところを見せられてはどうにもならない。
「絶対に元気な顔を見せるからな!父上と母上を頼むぞ!」
「ご心配には及びませぬ」
口に手の甲を当てて笑う四葩から逃げ出すように、高虎は屋敷を飛び出した。
「いやー、本当すごいですね上総介様の奥様は!」
「やめてくれ……」
若狭への道中でも長徳がまったく悪気もなしにかつての主家で今も主家の女性の事をまるで悪気なしに褒め上げるものだから、高虎ひとりが顔を赤くしてうつむいていた。
「上総介様、国人たちの筆頭である武藤友益なる男はどの程度の物なのかと」
「かなり強硬に反織田・反浅井を唱えておりますが口ばかりで、元明殿の治世を激しく脅かしておりますがその先の展望は何もない状態です」
若狭武田氏は一時期朝倉に事実上吸収合併され、その朝倉の滅亡と共に織田家によって若狭一国に復帰した家であるから徹底した織田方であるが、国人たちはまったく織田のひも付きである武田になついていない。
信長自身もさほど関心を持たず、浅井もまた余裕がなかった事もあり若狭は半ば捨て置かれた地になっており、その分だけ国人たちも好き勝手出来ていた。
「すると国人たちはともかく民は」
「比較的なつきやすいと言えます。ですがその後援にいる存在は油断できぬかもしれませぬ」
「本願寺ですか」
「おそらくはそうでしょう。昨今の本願寺を見る限りそうでした、かもしれませんが」
ここ二、三年、本願寺が急におとなしくなっている。
さすがに伊勢長島一揆が潰れた時には非難声明を出して残った民を紀州に逃させたが、それが最大の反発だった。比叡山焼き討ちの時でさえ信長は仏敵であるというありきたりな声明を出しただけで、天台座主である武田信玄の死に対してもまともな行動を取ろうとしない。小谷城の一件を忘れた訳でもないが、だとしてもあまりにも静かである。
力を貯め機をうかがっているのかもしれないが、だとしてもそれは一揆衆には合わないやり方である。
「いずれは動くかもしれぬと言う事か、まあとりあえずは目の前の敵を討つだけだ」
「ええ」
まずは織田にも浅井にも従わない敵たちを討つだけだとばかりに藤堂軍二千景鏡軍千五百、合わせて三千五百の兵が、若狭に入った。
「敵が陣を構えております」
「数は」
「およそ二千です」
「大将は」
「一応武藤友益ですが、五百の兵が四組と言う状態で」
ほどなくして敵軍と遭遇した場所は若狭では珍しいほどの平原であり、会戦には向いた場所である。
「強引に突き押すべきじゃないと思いますけどね、この二千ってのは多分全力じゃないでしょ」
「それはそうだな。でも警戒はしているのだろう」
「それは無論。ですが少なくとも南側から他国の軍勢が来る当てはありません」
長徳の言う通り、ほぼ半数の手勢で真っ正面から衝突する理由はない。
それで若狭の西の丹後も南の丹波も言うまでもなく敵国であり、敵援軍が来たとしても自軍の助けが来る可能性はない。だが南からの敵軍は観測できず、そして西からの援軍はこの戦に間に合うほどの位置へと駆け付けられるのか非常に怪しい。
「どうなさいます」
「天魔の子の名を生かして突っ込んで行くまでだ」
「ほぼ同数ですが」
「総大将を討てば戦は勝ちだ、一挙に包囲して来るだろう。そこを景鏡に突いてもらう」
小谷城事変に続いての総大将、しかも今度は織田の救援もない完全な総大将の立場を生かした計略に、長徳は無邪気に感心していた。
そして早速その通り、高虎が援護射撃を受けて敵先鋒が倒れたのを見計らって突入を開始。
「天魔の子、藤堂高虎見参!この太刀の錆になりたくない者はすぐさま逃げよ!」
大音声で言い放った名乗りと共に、敵軍を斬る。その度に血しぶきが飛び、織田との取引により新調した高虎たちの甲冑が汚れる。伝統的と言うより古臭い装備をした若狭の国人たちが、次々と三途の川へと追い込まれる。
(やけに整然としているな……)
だが寄せ集め集団の割にやけにきっちり動き、正面の武藤隊が自分を受け止めにかかり残る三軍が手早くこちらを包囲して来る。二千を二千で包囲したのだから当然厚みは薄くすぐにでも突き破れそうなのに、あまりにも兵たちは余裕だった。
「ずいぶんと自信があるようだがな」
「その通りだ、簒奪者の天魔の子!正しい奴が最後には勝つんだよ!南を見ろ!」
「何」
その言葉に釣られるように一瞬南を向くと、敵軍の一部の兵たちが嫌らしい笑顔に変わった。
――朝倉の旗が南から、ゆっくりと接近している。
「お前のような大名の娘を傷物にした不逞の輩はこの場で死ぬのが正しいんだよ、さあ行け正義の兵たちよ!」
「だから何だ」
「朝倉軍」を使い、景鏡をけん制させつつ自分たちの意を削ぐつもりだったのか。
実際少し景鏡軍の侵攻は鈍っていたが、それがすぐさま戦況に影響を及ぼさない事もすでに高虎はわかっていた。
「敵を目の前にしてするのはこれだけだ!」
高虎はただ太刀を振るい、その世迷言を吐いた兵をぶった切り、それに続くように残る将兵も無駄なことをするなと言わんばかりに西に向けて前進を再開した。
「おいどうした包囲を破る予定の」
「どうせこの陣を突き破ればこの戦は勝ちだ!進め進め!」
臆病な時にははっきりと臆病になる高虎が、まったく臆病にならないまま突進を再開した。その気持ちがはっきりと自軍に伝わり、そして景鏡軍にも連鎖して行く。
※※※※※※※※※
これが、天魔の子なのか。
噂には聞いていたつもりだったが、百聞は一見に如かずだろうと軽く考えていた。
(まるで良心、いやひるみがない……ただ目の前の敵を狩る事だけを考えている)
越前や加賀では百姓のみならず坊主すら狩り尽くした男だと言う。そんな暴虐な男に付き従うような兵などそう多くないと思っていたし、実際三千五百と言う数を聞いてまあそんな物だろうなと楽観していた。
さらに、あの武田信玄を討ち取ったとか言うのも逆に好都合なはずだった。
「恐れるな!有頂天になって自分を天下無敵だと思っているような奴など謀るのは簡単だ!」
「適当に逃げて四散して突っつくのか」
「朝倉を使うのだ!」
「朝倉!?朝倉景鏡はすっかり天魔の子に服従してるだろ!」
「いいや、これを見よ!」
朝倉家の花押と家紋が記された書面。花押はともかく家紋など、わざわざたかが書面に書く物ではない。
「朝倉家にもまだ勇士が残っている。このお方がこの家紋を寄越して来ると言う事の意味はわかるな」
「偽の朝倉殿の軍を……」
「ああそういう事だ!」
本物の朝倉家の人間がどこにいるかなど、そんなのは友益にとってどうでも良かった。
どうでもよくないのは、この若狭を織田や浅井のほしいままにされない事だけであった。
「このままだと突破されるぞ!」
「むしろその方がいいんじゃないのか!」
「本城の人間は悠々とあの男を出迎える!そうなればこっちが挟み撃ちだ!」
二千五百の内二千の兵を一点に集め、高虎を取り囲む予定だったのに先にぶち抜かれそうになっている。残り五百で景鏡軍の横っ腹を突こうにも、逆に存在が露見したせいでどうにもならない。
このまま前進して武田の本城に到着されよう物ならば、自分が散々逆らって来た国主がどうするか目に見えている。
「何が何でも高虎を討て!討たねばこちらが討たれるぞ!」
自ら薙刀を振り回しながら、高虎に突っ込む。
だがしょせん、景鏡を一時的に足止めしようとした時点で押され気味になっていた寄せ集め軍団である。
高虎だけでなく、兵そのものが強い。鉄砲の威力もさることながら、ひとりでふたりや三人平気で倒せそうな程に強い。
このままでは兵たちが耐えられなくなるか、それとも全滅かのどちらかだ。
「天魔の子め!この地にて散りやがれ!」
覚悟を決めた友益は自ら得物を振り上げて高虎に突撃した。それと共に三人の雑兵が従って突撃して行くが、高虎は彼らを骸に代えた太刀を振るいながら軽く友益の刃をいなした。
「敵将だな、名を名乗られよ!」
「俺は武藤上野介友益だ!」
「藤堂上総介高虎、いざ参る!」
悪鬼羅刹のように暴れ回っておきながら実に礼儀正しくさわやかである。それもまた腹立たしく、同時に恐ろしかった。
「死ね!」
その苛立ちをぶつけるかのように得物を振り下ろすが、高虎は実に軽く受け流す。そして自分の得物を振りかざし、寸での所でよけたと思いきやすぐ振り下ろして来る。あわてて距離を取ろうとすると、その間に寄って来た敵を討っている。
(なんてえ戦いぶりだ……ただ強いだけじゃなく、実に豪胆で己が死を恐れず、いやそれだけじゃなく兵たちをまとめていやがる……)
高虎の配下がある程度強いのはわかっていた。
そして実際に対峙した上で、思っていたよりは強いが耐えられないとは思わなかった。
だが所詮は連戦連勝で浮かれ上がっているだけの存在、武田信玄と言う甲斐の虎の皮を敷布にして笑っている、文字通り虎の威を借る狐。少しつついてやれば簡単に崩壊すると思っていた。
(なるほど、出て来ねえ人間がいたはずだよ……)
反武田と言う名目で集った国人全てが兵を集めれば、二千五百どころか四千以上動員できたはずだ。だが一部の国人や農民は参加を断り、そのせいでこんな数になってしまった。
それでも朝倉の旗さえ使えば行けると思った、簡単に壊れると思ったのに。
まったく見込み違いだった。今の藤堂軍は景鏡軍も含めて全員が戦闘集団であり、義景の代の軟弱な朝倉軍の影もなければ、高虎と言う若造が率いているゆえの驕りもない。武田信玄とか言う名前など関係なく、将兵がみなきれいに機能している。
景鏡軍がやって来たら文字通りこれまでだ、逃げるよりないと思った傍から、事もあろうに自慢の得物が叩き折られた。そしてこれで言い訳が立つと思い逃げ出そうとした所で、友益のへそから頭にかけて真っ赤な縦線が走った。
それと共に武田に歯向かっていた全ての将兵が一斉に逃げ出し、大将であったはずの自分を手柄とする声も出さないまま高虎が追撃を続ける所までが、友益のこの世で最後の記憶だった。




