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天魔の子・藤堂高虎  作者: 宇井崎定一
第六章 本願寺の落日
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上杉謙信、静かに怒り狂う

 姫鶴一文字の刃が、わら人形を一刀両断する。



「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」



 呼吸は荒く、目は血走っている。



 本当ならわら人形などではなく別の何かを斬りたい事を隠そうともしないまま、上杉謙信は愛刀を鞘にしまった。







「義父上……」

「景勝、景虎、しばらく話しかけるな。これより毘沙門堂に入る。少し逸る気持ちを押さえねばならぬ」


 ようやく春が本格的な物となった越後春日山であるが、春日山城内だけは依然として真冬のままだった。寒の戻りが来たかのように城内が冷え込み、謙信の養子である景勝や景虎さえもまともに言葉をかけられなかった。



 やがて謙信は言葉通り毘沙門堂に入ると、毘沙門天の像に向かって座禅を組んだ。軍神と呼ばれる人間が、本当の神に縋っている。








(関東管領を放逐した北条も捨て置けんと言いたいが、それ以上に許しがたきは織田信長よ!公方様を放逐し権力の中枢にたち国をほしいままにしようなど……まったく、どこまで人の道を外れれば気が済むのだ!)


 謙信の敵は、ずっと武田信玄であり北条氏康だった。


 信濃の国人である村上義清らから領国を奪った武田信玄、鎌倉公方と言う幕府の決めた存在をずっと支えて来た上杉憲政を追い払った北条氏康。その両名との戦いにより、謙信はその名を高めて来た。


 しかし、その二人はもうこの世にいない。氏康は年によりこの世を去り、信玄は天竜川の戦いで討ち死にした。


 そうなってみると不思議な事に、両名ともさほど悪い人間ではなかったように思えて来る。氏康とは一時期反武田で組んだ事もあり、その時に養子としてもらいうけたのが景虎である。現在は手切れ状態とは言え、まったく話が通じない存在ではない。

 そして武田信玄は、川中島を巡って五度も争った事もありある意味で共感できるような関係になっていた。容認は出来ないが、理解は出来た。それに最後まで俗人のまま死んだ氏康と違い、信玄も自分も得度を受けた坊主である。


 ましてや、今の武田は弱者だ。天竜川で半数以上、それも強い所の兵を失い、あまたの将や物資も失っている。自業自得と言えるほど謙信は厚顔ではないし、それに仮に罪があるとしてもそれは信玄の罪であって後継者となった勝頼の罪ではない。




(比叡山を焼き、僧侶たちを殺し、殺させる!その上に公方様を放逐し、さらにあの非道な輩もまだ生かしているらしい!かような人間が中枢にいては、この国は腐敗し滅亡する!)




 しかし、信長の事は理解できなかった。


 ただの私利私欲による領国拡張などではなく、むしろその為の手段を好んで行っている。領国拡張のための残虐行為ではなく、残虐行為を行うための戦線拡張。さほど激しく抵抗しているとは思っていなかった比叡山を焼いて僧も俗人も殺し、秘宝も破壊する。金銭欲すら感じられない、ただただ野蛮な破壊行為。

 そしてその同盟相手である徳川は三河一向一揆を潰し、今は武田領の駿河を侵略しようとしている。さらに長男の嫁として信長の娘をもらい受け、今や完全な親類縁者となっている。


 

 さらに醜悪なのは、浅井だ。



 祖父の代からの恩人と言うべき朝倉義景を織田共々滅ぼすと、その因果応報だと言わんばかりに越前に入った一向宗の僧たちをなで斬りにする。

 さらに一年もしない内に加賀へと攻め込み、やはり当地の僧を殺める。

 

 いや、それはまだその僧たちを顕如が破門した旨耳に入っていたから理解はできた。


 理解できないのは、その地に亡命していた朝倉義景の娘を無理矢理家臣に押し付けて孕ませた事である。しかも、ほんの少し前までたかが足軽であった男に。




「毘沙門天よ、天魔を滅する力を我に授けたまえ!」




 誰にも聞かれない程度の大声を上げ、目を開いて西南西方向に向けてにらみを飛ばす。


 出来得る事ならばこの目線だけで憎々しき男たちを抹殺できることを願うかのように、毘沙門天像の視線を総身に受けながら二人の天魔を名乗る男を呪った。


 一人は無論、第六天魔王こと織田信長。暴虐な殺戮者にして、征夷大将軍を放逐してやがては天子をも脅かさんとする男。




 そしてもう一人、少し前までほんの少し前までただ足軽であった男こと、藤堂高虎。







 天魔の子と言う醜悪な称号を投げ付けられておきながら、まったく恥じる様子もないどころかむしろ誇るかのように平然と罪に罪を重ねる男。

 信長が部下に殺戮をやらせるのに対し、こちらは実際に殺戮をしている側である。坊主だけでなく、農民や朝倉の将を殺し、さらに酷い事にそのかつての主家同然の存在である朝倉の姫を無理矢理に犯し、孕ませた。


 しかも理不尽な事に、朝倉の姫はむしろその事を歓迎しているらしい。女人禁制だからと言う訳でもないが、謙信はその朝倉の姫の気持ちが全く分からなくなった。


「浅井長政め!あそこまでの仕打ちを受けておきながらなぜまだ分かろうとせぬのだ、罪には罪の報いがある、文字通りあれは天誅であり正道のはずだ!実の親にあそこまでされておきながら……!親より一人の、いや一匹の尻尾を振り続ける犬の方が大事だとでも言うのか!」


 自分もまた兄と家督を争った身ではあるが、それでも実父の長尾為景だけには忠実なつもりだった。


 しかし長政は父親の久政に背かれておきながら、まるで反省する様子もなくその主犯である高虎に城すら与えようとしている。織田の長男が討ちましたからとか言う下手くそな言い訳を振りかざす事さえせず、ただの謀叛人扱い。

 犬にでも食わせてしまえとかよく言うが、文字通り犬に食わせるかのように自分の父親を喰わせたのだ。




「やはり邪悪なる存在は織田信長であり、そしてその義弟浅井長政ではないか!長政の犬め、これ以上尾っぽを振り続ければどうなっても知らんぞ!」



 天魔の子などとか言う御大層な称号など要らぬ。


 ただの、長政の犬。それで十分ではないか。


 だがそうなると、今度は武田信玄があまりにも不憫である。


 自分がすぐさま何とかしてやろうと思っているわけでもないが、そんな男にあの武田信玄とその親が殺されたのかと思うと、世の不条理さを覚えずにいられなくなった。



(だとしてもだ、詰まる所戦をするのは将兵……そしてそれを支えるのは民百姓……その民百姓が好んで尻尾を振っている以上ままならぬか……)



 しかし遺憾極まる事に一向宗の強固な地盤であったはずの加賀を含むそれぞれの支配地からまったく不満の上がっている様子のない以上、下手に侵攻しても住民たちが懐いてくれないどころか後方を突かれる危険性がある。これでは正義の戦いとは言いづらい。かつて小田原城を攻めた時も相模の住民たちにより幾度も兵たちが襲われ落城させる事が叶わなかったのが謙信であり、その無念は身に染みてわかっている。



(もう、やむを得まい……どうか、お許し下され……)



 ようやくある程度の考えがまとまった謙信は再び姿勢を直し、毘沙門天像に向けて再び深く頭を下げながら堂を出た。



















「三国同盟!?」

「そうだ、管領様には誠に申し訳ないがな……」


 謙信が心痛をあらわにしながらこぼした言葉に、二人の養子を含む重臣たちが一挙にざわめきたった。


「管領様にはこれが終わり次第わし自ら謝りに行く。だが今はもうこれより筋道はないのだ……」

「三国同盟とは、武田、北条……」

「そうだ、そしてこの上杉が三位一体となると言う事だ」


 関東管領の上杉憲政にしてみれば、北条は仇敵である。だから氏康の子である景虎とは折り合いは悪いし、再び北条と手を結ぶなどもってのほかだろう。


「そうして手を組んでどちらへ」

「織田を討つ」




 切羽詰まった顔色から放たれる、むしろ先ほど殺気立っていた時の方がましだったほどに余人を近づけがたい妖気が、全員の背筋を容赦なく伸ばした。




「織田を討つのならば越中から浅井を討てば」

「浅井を討たんとすればその間に織田は徳川と共に武田を呑む。さすればこの上杉でも抗するが精一杯。その間に浅井を討てたとしても織田は討てず、悔しき事ながら加賀越前の民は上杉になびくと判断できず……」


 今兵を動かして越中の神保氏を従わせるのはさほど難しくない。

 と言うか今の時点であるいは浅井側から接触があってもおかしくない以上、少しでも動く必要はありそうだ。能登の畠山氏は半ば絶望かもしれないが、それでも何らかの接触はしておかねばならない。

 だが仮にそうだとしても飛騨は既に織田・浅井領も同然だし、そこから横槍が来る事があっても救援は来ない。その上いきなり浅井を討つとか言った所で、浅井の本領である北近江にたどり着くにはまず加賀越前を突破せねばならない。ただでさえ冬になれば出兵など論外と言う土地で、二年連続で出兵などできる物だろうか。浅井ですら一年待ってから加賀を攻めた以上、やはり全体で三年は必要となる。


「美濃ですか」

「おそらくはな。駿河では加賀と同じく、彼奴等の尻尾でしかない。狙いは美濃だ、美濃を狙い逆賊を分断する。本拠地を気取る岐阜城を落とせば織田は一気に滅亡か、さもなくとも分裂する。さすれば浅井も徳川も目を覚ますかもしれん。無論、それは極めて楽観的な想像だがな」

「だからこそ武田と手を組むと」

「そうなる。これはここまでの戦で武田や北条と共に戦って来た勇士たちには全くもって唐突かつ耐え難い事かもしれぬが、どうか聞き分けてもらいたい」


 いずれはまた、北条とそうしたように袂を分かつかもしれない。

 だが今そんな事をしていればそれこそ織田や浅井の思う壺でしかない。


「景虎」

「わかっております父上、兄上たちをどうか説いて見せよと」

「その通りだ。そして景勝は武田を頼む」

「それで、出兵はいつごろになりましょうか」

「楽観的に見て来年、おそらく再来年だろうな。その二年の間にどれだけ敵が伸長し、同時に増長するかわからない。志を同じくする正義の士たちが立ち上がってくれれば良いが、同時にない物と考える事も忘れてはならぬ。今はとにかく両家との同盟を組むことと、越中の神保家を押さえる事だ」




 多くの家臣たちもそれぞれの子たちに付き従い、再び一人きりになった空間で謙信は右手を振りかざす。


(誠意を持ち、正義を持って戦えばいずれは報われる。たったそれだけの事だ。なぜ皆それを分かろうとせぬ……)


 謙信から言わせれば信長も長政も家康も暴虐非道な輩なら、彼らの配下も目先の欲に囚われる情けない人間たちだった。

 何とかして救ってやりたい、教えてやりたい。

 その欲望をこらえながら、上杉謙信は二年後の戦いに備えるべく動き出した。


(お許し下され、管領様……決して軽んじているつもりはございませんが、やはり拙者には公方様が第一なのです……)



 その第一歩として、しばらく存在を反故にする事になってしまう憲政、かつて名前をくれた憲政に謝意を示すべく、謙信はゆっくりと立ち上がった。

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