本願寺顕如、忍耐を選ぶ
当たり前ではあるが、この信長の暴挙は石山を震撼させた。
「何だと……織田信長め、本物の魔王になったとでも言うのか!」
「天罰を、我らの手で天罰を……!!」
集まっていた坊主たちが怒りと恐怖に震え上がった。堂全体が震え、本来ならば軽く笑みを浮かべているはずの盧舎那仏の像が、いつの間にか不動明王に代わっているような錯覚に囚われた。
「その上に……」
「その上に何だ!」
「越前では七里様が入滅なされました!」
「それで越前の一向宗は」
「ほぼ全面撤退です、もう今年は加賀から南下する事は不可能であるかと……」
「浅井が北上するのも無理と言う事だな」
ひどい負け惜しみだった。
本来ならば不安定になっていたはずの越前全土を物にする予定だったはずなのに、まったくの大惨敗としか言いようがない。さほど厳しくない朝倉からあの織田の同盟国である浅井に越前の支配者が変わった以上、それこそ加賀全土が越前や延暦寺のようになってもまったくおかしくないのだ。
そして何より農民たちもさることながら、頼周の損失が大きすぎた。
「浅井の将は我々僧侶のみを徹底的に狩り、いくら天罰が下ると称してもまったく退こうとしなかったと聞きます」
「天魔の子と呼ばれし武者は次々と僧たちを入滅させ、その上に高笑いをしていたと言う話も……」
浅井の配下にいる「天魔の子」と呼ばれる、一人の武者。最初は押し気味であった越前の戦が彼一人でひっくり返ったと言う話まであるぐらい、とんでもない男らしい。まさか第六天魔王とか言い出した信長の関係者でもあるまいが、いずれにせよとんでもない人物である事は間違いない。
「天魔の子を討ちし者には大金を与えると傭兵たちに申しておけ!」
「はっ」
顕如がじっと沈黙を貫く中、下間頼廉たちは怒りに震えながら動き回る。
まめまめしくと言うよりせわしく動き、何も事を起こさない顕如を焚きつけているかのようにさえ感じられるほどに足音を立てまくる。
「住職様!」
「うむ……それでだ、どのようにして越前に入った一向宗は負けたのか、誰か存じておらぬのか?」
「それはその、天魔の子なるものの暴威により」
「天魔の子が浅井の将だとしてだ、我々は一体どれだけの人数でどれだけの相手と戦い、どうしてこのような結果になったのだ」
やがてあまりにも動かない顕如にじれて所用を終えて戻って来た頼廉が吠えかかり、それに対しゆっくりと越前の戦いのいきさつについて質問した顕如であったが、その顕如の問いにまともな数字を出せる者は誰もいなかった。
「それはその、彼らに殺されたり囚われたりしており、その上に彼らが流した虚報の可能性もあり………………」
「それでは民が浅井や織田になびくはずだな」
「はあ?」
「相手の事もわからぬような存在がどうやって勝つ?仏道修行は御仏の教えを理解するためにするのだろう。仏道の修行に励むことは無論非ではないが、相手がどういう物かわからずに挑むのは無謀としか言いようがないし、また民百姓の望みを理解せずに己の道ばかりを説くのでは彼らは言う事を聞かぬ。
愚僧も織田や浅井の事はよくわからぬが、地獄だの、仏罰だの、そのような言葉だけで動かぬ事ぐらいはわかる。その事を踏まえた上で動け。
これからは、ただ清らかな僧となるのだ」
丁寧な口調ながら冷静を通り越して冷淡か冷血にも思えるほど鋭く、そして重い言葉。
極楽だの天罰だの唱えて来た人間からしてみれば、それでは通じないといきなり言われた所でどうにもならないと言おうとした所に投げ付けられた顕如の言葉は、僧たちの目を見開かさせた。
「小僧から高僧まで、意見を述べる分には上下なしと心得よ。無論、我らに手を貸す者たちの意見にも等しく耳を傾けるべし。僧であるから是、俗人であるから非と言う考えでは必ずや織田の者たちに負ける」
「ですがあの、織田については」
「これより先、我らと戦う者はすべて死んで地獄へ行く事を覚悟している存在だと心得よ。彼らにはただ真心をもって当たるより他に勝つ道はない」
「つまり僧の本分を決して忘れてはならぬと」
「そうだ、真に民から受け入れられる僧になればおのずと人は集まる。さすれば勝手に勝利などやって来る。
決して無理に仕掛けるな、ひたすらに守り、守れなければ逃げよ。逃げられなければあえて生をむさぼれ。仏を信ずる心を捨てる事を余儀なくされるのでなければそれで良い。弱き敵には慈悲をもって懐柔せよ」
武士に向かって人殺しとか言う事は、犬に向かって犬と言うのと何も変わらない。武士とはそれこそ人殺しが職業であり、それで飯を喰っているのだ。
仮に戦に出ないとしてもその人殺しの練習が仕事であり、あるいは治安維持のために領内の不埒者を捕らえたり斬ったりする事もある。その時点で武士とは、殺生を犯したと言う理由で地獄へ行く事が確定している身分とも言えるのだ。
「そのような弱腰では敵に蹂躙されます!」
「それを蹂躙するような敵ならば大した事はないぞ」
顕如は喰ってかかった頼廉を平板にあしらいながら、数珠を軽く振った。
大きな堂にその音が鳴り響き、僧たちが一層身を引き締める。
「良いか、僧の武器とはあくまでも祈りの力だ。決してむやみやたらに敵を増やす事ではない。無理をして攻める事はない、守るのは良いがな」
「そのような!」
「あくまでも清らかなる心をもって挑むのだ。搾取をしてはならぬ、慎め、慎め。そして良民たちを第一に思え、危険にさらすな。さもなくば良民たちは織田や浅井の民となる事を進んで選ぶ」
顕如の言葉は、頼廉にとってあまりにも意外だった。
血の気の多い頼廉は、それこそ顕如の許しがあれば今すぐ全力で蜂起する予定だったのだ。
「この本願寺にある御仏の像やこの寺その物、そして僧たちを送り込んだのは一体誰だ?」
「御仏のおぼしめしかと」
「たわけが!民百姓ではないか!」
「そのような……」
「無論、僧の中にも仏像を彫る者はいる。だがそれはこのような大きくきらびやかなそれではなく、小さな木彫りの像に過ぎん。あくまでも御仏の教を受けた民百姓が建てたり作ったりした者であり、我々は後から入って来たに過ぎん」
「では住職は、後から入って来た僧たちが振るわぬからこそあのような事になったと」
「ああそうだ。もし延暦寺にいる僧がもう少しまともであったらこのような事は起こらなんだわ、ああ嘆かわしい!」
「そのような!なぜ織田を擁護するような!」
「では聞くが、我々以外にあの焼き討ちを非難した者は聖俗問わずどれだけいた?言ってみろ」
顕如の質問にまたもや僧たちが黙ってしまうと、顕如は言わない事かとばかりに僧たちの前に拳を突き付けた。
「いずれ出るとか、織田の力を恐れているから言えないとか言うのは高望みだ。本当に恨んでいるのならばそれこそすぐさま何らかの反応をしてしかるべきだ、表には出せずともこの本願寺を頼る者が出てしかるべきではないか。どれほどの者が応じるのか、確信もなしに動けば逆にこちらが損をする」
「ここで動かねば本願寺はあの暴挙を傍観していたのかと言われますぞ」
「無論その角で動くつもりではいる。だがその上でどれほどの人数が味方するのか、それを把握する事が第一となろう」
「つまり織田は当分生き延びると」
「ああそうだ、場合によっては信長のような責任者だけ殺してそれで仕舞いとなるかもしれん」
自分の弱腰とも言える答えに居並ぶ僧たちが沈んで行くのはわかるが、それでも言うべきことは言わねばならぬと思いながら顕如は口を開き続ける。
織田が一戦で崩せっこない巨大な家である事は知っているし、そしてそのやり方を支持する人間の多さもわかっている。浅井や徳川が加われば、あるいはこちらが一気に潰されかねない。
「今は自重せよ。決して無為に動いてはならぬ。織田が秩序だって動き、良民の支持を得ている間はたやすくは崩せぬ」
「なればこそ長引けば民は織田にすっかりなびいてしまいます!」
「修行を専一にし、心を統一せよ。さすれば必ずや敵に隙が生まれる。そこを、あくまでも清らかな心をもって突くのだ。
良いか、残念ながら今の本願寺の心は乱れている。なればこそ信長のような存在の跳梁を誰も止めないどころか支持する者まで出る。確かに少しやりすぎかもしれないが、あるいはここまでやられてもしょうがないかもしれないとまで思っている者は、残念ながら少なくないだろう」
「そんな!」
「彼らは我らの心を戒めるために、死んだ。そう考えねばならぬ。まあ単純に、あれほどの惨事などこうでも思わねばやり切れぬと言うのもまた事実だがな」
御仏の元へ行けるとか言う美辞麗句を飾り立てる訳でもないが、それでも一己の人間としては単純に仲間の死が悲しかった。だからこそほんの少しでもその意味がある事を願い、そして自分たちの手で意味をつけなければいけない。
「良いか、僧たちに修行を専一にし、決して軽挙妄動するなと伝えよ。それは織田を利する行為である、今は民百姓のために、己の身を清めるために動けと申せ」
「伊勢はともかく、加賀に届けられるでしょうか」
「無論だ、いくら浅井に勢いがあろうとも民百姓がそっぽを向けばそんな物は簡単に止められる。そしてそれは我々とて同じ事だ。どうやら加賀では仏法を踏みにじった破戒僧たちもいたようだがな、その者の名を連ねて書き記して送るように申し付けておく。表向きには高僧を探すとしてな」
「そのような不誠を」
「今は私利私欲に走る僧は敵を利するだけの存在だ。そんな人間はどんどん放逐せねばいずれはこの本願寺その物が織田に呑まれるぞ。わかったならば早くせい!解散だ!」
顕如は僧を追い払うと、供物と言う名の貢物を加賀から送り付けて来るだろう連中のことを思った。
「御仏よ、愚僧に確かな目を授けて下され……」
入滅した頼周がまともな僧であれば浅井や織田に負けなかったとも言えるし、真っ正直な僧であったゆえに狡猾な浅井や織田に負けたとも言える。また供物が少なければ搾取したと言えるし、多ければ庶民から奪い取ったとも言える。
下手に断を下せばそれこそ志高き僧を放逐した事になり、全く自殺行為である。なればこそ持ってくる人間の言葉を直に聞きたいが、たいていそういう人間は大元の人物になついているからまともな事を言うかわからない。かと言って織田や浅井は正当化のために敵を言いくさすだろうから当てにならない。
「もはや加賀はあきらめるしかないのか……せめて頼照がまともな僧であれば少しは何とかなろうが……ああ見誤ったわ」
今の加賀はそれこそ陸の孤島であり、多少の不正を働いた所でそれをとがめる存在はいない。隣国が消極的な越前に脆弱な越中、そもそも国力のない能登と飛騨と言う環境にあった加賀はお山の大将が育ちやすく、よほどの人物を送り込まねばならない地だった。
(仏の名を掲げる者がその教えを踏みにじってはならぬ……そうだな、まったくその通りだな…………)
盗賊が酒色にふけり女や金銭にまみれていてもああそうかで終わる、だが坊主がそうなれば破戒僧として盗賊以上に後ろ指を差される。
坊主のくせにようやくその事に気付いた自分の若さと甘さを嘆くつもりもないが、二十八歳の顕如の頭から前向きな言葉は出て来ない。自分が若年だったからいけないのか、もし少しでも年かさな分だけ修業を積めていたらもう少し良い判断もできたのだろうか。そんな後悔ばかりが顕如の禿頭をわしづかみにする。
(あまりにも急な事かもしれん……だが紛れもなく織田のやり方は支持を集めている……武田殿、気を逸らせるなかれ…………)
我ながら、急に穏健になったと言う自覚はある。この半年間で、織田は言うに及ばず浅井は越前を、徳川は遠江を取っている。暴威と言うにはあまりにも急速かつ確かな領国の増強。あぶく銭か否かはまだわからないが、もしあぶく銭でないとすればそれこそ脅威でしかない。
東へ、北へと領国を拡大した浅井と徳川。いずれその先に待つのは、僧籍に身を置き自分たちの同志となった武田信玄と上杉謙信。ほぼ確実に彼らの敵となる存在。
だが幼少時から修業を積んで来た謙信はまだしも信玄は四十歳になってから、つまりまったく戦国大名となるにふさわしいほどに埃をかぶってから僧になった男だった。
他にも織田・徳川・浅井を取り囲む存在はいるが、大和の松永久秀は元々大仏殿を焼いた男で信徒たちの評判は最低でありその上に最近は織田に接近しているらしく、南近江の六角氏はほとんど雲散霧消しており、摂津の三好三人衆は今や弱小勢力で当てにならない。
だがそれでも、武田と、上杉と、そして自分たちが同時に動けばいけるかもしれない。
武田が信濃と駿河から、上杉が越中から加賀へ、自分たちが近江や伊勢に。
その好機をじっと待ち、力を蓄えねばならない。
その時のためにも綱紀を粛正し、売僧や破戒僧を放り出さねばならない。
顕如はいずれ来るだろう信長との対決に備えるべく、盧舎那仏へと祈った。
そして九月、石山本願寺のはるか北の越前から加賀一揆軍は完全に撤退。
長秀も長政と共に領国の引き継ぎを済ませ、織田領へと帰って行った。
ここに越前一国は、まったく浅井家の物となったのである。
ここで第二章終了と言う事で一日お休みをいただきます。次回は11日からです。どうぞお楽しみに!




