織田信長、比叡山を焼く
願わくば、止めてもらいたかった。
「うちの人は自分が何をしているかわかっているからね。あなたもちゃんと手助けをしてあげなさい」
幼馴染とまでは行かないにせよ、それこそ三十年単位の付き合いをしていたはずの彼女が寄越した返事はただそれだけだった。
主君と呼ぶ人間の手助けをするのはまったく当然である。だがその主君が何をやったのかわかっている以上、どうしても耐えられる物ではなかった。
自分が織田家内では新参であり、その分だけ立場が弱い事はわかっている。
それでも、何とかして欲しかったのだ。
尊敬しているつもりの主人を、一番止められそうな人間は誰か。それを必死に考えて選び取ったはずの手段であり、最適なはずの人選だったのにこの始末である。
(いっその事土田御前様を……いや無駄か。もうあのお方には何にもできはすまい……)
信長の母である土田御前は、かつて信長を疎い次子の信勝を擁立しようとした人間だ。その信勝が信長に討たれ、そしてそれから桶狭間の戦いを始めとした織田の快進撃が始まってしまった以上、織田家内での評判は最低に近い。
いやたとえそうでないとしても、仮にも出家の身であるとは言え奇妙丸(信忠)や三介(信雄)、三七(信孝)と言った信長の息子、すなわち孫たちにもなかなか交わろうと言う姿勢を見せなかったような人間が尊敬されるはずもない。
信長以前に、他の家臣が許さないしまずこの濃姫も許さないだろう。
「自ら第六天魔王と名乗られたと聞いた時には、ただ武田への挑戦状でしかないと思っていた……」
話せばわかる、そのはずではないのか。いやそうでないとしても圧倒的な力をもって示せば、いずれは本分をはみ出している事に気付くのではないか。
甘ったるいの一文で片付けられるだろう提案だとしても、そう言わずにいられなかった。
そして物の見事にその通りの結果になった上で、申しつけられたあの戦い。いや、それはあまりにも戦いと言うには遠い物だった。
「行け!」
その一言と共に、あの日は始まった。
後方支援の一言だけで、それ以上何をするのかも聞かされないまま比叡山まで連れられた光秀が見た物は、文字通りの業火だった。
「あれはいったい!」
「十兵衛。そなたは醜く現世にしがみつこうとする者を極楽浄土へと送れ」
「ぶしつけながらお館様、私はここで何をするのか聞き及んで」
「売僧どもを裁くだけよ」
自分なりに悲痛な叫び声を上げたつもりだったのに、信長が返したのは詰まる所敗残兵狩り以外の何でもない命令のみだった。何の抑揚もない平板な命令であり、まるで童に使いを頼むようなありさまである。
売僧とは商売に手を染める僧侶の事を指す言葉だが、実際問題比叡山にはその手の僧は少なくなかった。それでもまだあくまでも公平な商売を行っているのあればまだともかく、多くは仏の名前を盾にして法外な取引を行う事をためらわない人間たちばかりだった。
(口では商売を賤業と蔑んでおきながら何のつもりだ!)
織田信長と言う人間は、決して商売や貨幣を軽んじてはいない。平氏の末裔たることを示す赤旗や織田木瓜以外に、永楽銭を描いた旗を戦場に持ち込む事があったし、千利休のような割り切って商売をしている人間を蔑む事はしなかった。だがだからこそ、仏の名前を振りかざすような人間が許せなかった。
焼け。殺せ。
その命令はたった二つだった。幾百年の歴史が刻み込まれた建物を木瓜紋を背中に刺した兵士たちが焼き、逃げ惑う者たちを叩き斬った。
「なぜです!」
「キャー!」
「な、な、な……」
売僧を裁くと言いながら、織田軍は目に付く織田軍以外の全ての者の命を奪って行った。老若男女聖俗何の区別もなく、刃にかけたり火を点けたりして行く。その分だけ比叡山の大地は朱塗りに近付き、極楽浄土の住人は増えて行く。
「そこをどけ!」
「これ以上の狼藉は許さん!」
「…………」
たまに得物を持って立ちはだかろうとする勇敢な者もいたが、それでどうにかなる物でもない。死ねとか言われるならまだましで、多くはどけだの邪魔だの物扱い同然の言葉と共に不帰の旅人にされ、無言で斬られる事も全く珍しくなかった。
そして斬る側も斬る側で、まるで表情を変える事もしない。まれに変える者がいたとしても、笑ったりさらに興奮したりで怯む者は皆無だった。
「ここだけは、ここだけは触れさせるわけにはいかぬ!」
「大事な大事な仏宝を守れば極楽浄土行きか?ああたやすい話だ!」
そんな織田軍をますます高揚させたのは、僧兵たちが固まっている仏殿だった。それこそ五百年単位の古い書や像が眠る蔵を、まるで金蔵を破る盗賊団かのように襲い、古紙や金属の塊として十把ひとからげに持ち去って行く。
地獄に落ちろという呪詛など雑音にすらならず、ただただ破壊して行く。
まるでなすすべがない。これまで自分がすがりついて来た全てを踏みにじる集団の前に、ついに逃げ出そうとする者まで出始めた。
だがもちろん、彼らもまた亡骸に変わっていく。
足弱のものを守らんとした心ある人間たちの手により逃されたというのに、その配慮は簡単に踏みにじられる。
「どうか、どうか、お命だけは!」
「命を今更惜しむのか!」
兵士にすがりつかんとした坊主頭でない男の首が飛び、前のめりに倒れ込んで地を濡らす。
その血によって足の滑った童子が転倒し、涙と鼻水とよだれをこぼした童子もまた、最後に股間から黄色い水を流しながら赤い池へと沈む。
「どうか、どうかこの子だけは!」
「ああそうかい」
子どもを前に出して救いを乞おうとした女性も、まったく無反応で膨らんだ胸に槍の穂先を受け止めただけだった。その女性の子どももまた、同じ槍で母親と同じ場所へ旅立つ事になった。
こうして比叡山延暦寺のほぼすべての住人がこの世のものでなくなってからすぐ、満足そうに比叡山を見つめる信長の真横で光秀は震えていた。
「ああ、ああ……」
下も真っ赤なら、上も真っ赤。前も真っ赤であり、後ろも真っ赤。
かつて信仰の集まる徳深き地であった比叡山延暦寺は、織田家の人間によりこの国で一番赤い場所になっていた。血だまりがあふれ、火によって寺院が灰燼に帰し、そして今や逃げ遅れた人間たちが絶望のあまり自ら不帰の旅人になる事を選んでいる。
「どうした光秀、何をおびえている?」
「恐ろしいのです」
「何がだ」
「これほどまでに強大な力を持ってしまった事が」
「すべては使いようよ。にしてもだ、なぜわざわざ犠牲を出しに行く?」
「私はそれでも、斬るべき人間についてだけは斬らねばならないと思っております」
実際、僧兵を斬ると言う事についてはさほど良心の呵責を覚える事はなかった。侍童たちはまだともかく、女を侍らせていると言うのはどうにもおかしい。それが尼僧ならばまだ許せなくもなかったが、それこそ俗人の女性を連れ込みあまつさえ子供を作らせるのはとても許容できる範囲ではなかった。
だから光秀は自ら進んで僧兵たち、唯一の戦力と言うか一番強い所に立ち向かい、一方的な虐殺ではなく死に物狂いの相手と戦をしていた。その結果、明智軍はこの戦で唯一犠牲者を出していた。
「進んで泥水を飲みに行くか。だがそれはあまりにも非効率だ、数を持って圧すればそれだけで良い事。その功績、さほど加味するつもりはないぞ」
「進んで得た役目です」
「詰まる所何が言いたい。ためらう事もない、すぐに申せ」
「では申し上げます!私は常日頃よりこの売僧たちに憤りを覚えておりました!しかしです!仏像や書には関係のない事です!」
だがこの比叡山にある仏像や経文などは今この時の堕落した人間たちではなく、ちゃんと徳を積んだ高僧が作った物ではないか。そういう僧侶が中心となる様な寺院にすべく中身を入れ替えるだけで十分ではないのか。
それでも死ねば極楽浄土とか謳って来たくせに自分たちが現世にしがみつくような真似をした場合、その際に敵城に突入するように建物を焼く事まではまだ覚悟ができていた。
「あるわ」
「敵の城を焼くように焼いて良いのかと言う事です、敵がこの山を城塞とし己が命に今更執着するのであれば」
「あるわ!」
その本音をようやく光秀が胃から吐き出した途端に、信長の声が野太くなった。先ほどまで穏やかで温かかった声が、急に重たく冷たくなった。
「仏像も書も、かように腑抜けきった坊主たちの行いを何故傍観していた!?いや傍観どころではない、黙認、いや公認だ!」
「そんな!」
「そんなではないわ!きゃつらが仏罰だ仏罰だとわめくのであれば、女色や暴力にふける売僧たちにまず当たってしかるべきだろう!その仏罰を下さん時点で、仏像とやらには何の価値もないわ!」
これ以上、言い返す気にはなれなかった。
さらにしゃべらせれば、何の価値もないどころか暴虐行為への大義名分を与えているだけだからむしろ害悪であると言い出しかねない事がすぐわかってしまったからだ。
(破戒僧どもめ!)
相手よりも優秀でなければ戦いに勝つことなどできない。
個人の武力、兵の数、兵の質、装備、作戦、地形、戦の始まり方、将の器量。その他色々な要素が組み合わさって初めて戦に勝てる。
この点、今の僧たちはあまりにも弱い。弱いくせに威張っている。
信長はそれを叩いたに過ぎない。あくまでも弱者を叩いただけではないのか。
弱い者いじめが何をもたらすか。品位の低下、他の敵への侮り。
何より、破戒僧であるから叩いたと言うにはあまりにも他の敵を増やし過ぎた。
(これから待つ敵は、決してこんなに甘くない!その事をわかっていただかねば結局織田もまた倒れてしまう。何とかしなければならない、伝教大師様のためにも、天下のためにも……)
なんとかして濃姫に訴え、敵を増やすような行いを止めてもらわねばならない。その使命感が、光秀の顔を比叡山にいる時以上に厳しくしていた。
そして濃姫に訴えかける前に光秀は信長すら知らない伝手、一時朝倉家に身を置いていた時に作った伝手を使い、一枚の書状を信長も知らない間にある場所に送っていた。
幾重もの伝手を経て、明智とも織田ともわからぬ人間の書状として。




