藤堂高虎、斎藤龍興にとどめを刺す
永平寺の東にあるのが村岡山城である。「裏切り者」朝倉景鏡の領地である南の大野城を攻撃するために一揆勢により奪取、改築された城であったが、今その城に残っている兵力はあまりにも乏しい。
「頼照殿……」
「天魔の子め、いつか天罰が下ろうぞ……」
「どうやってだ」
大広間などない小城の片隅で、下間頼照は斎藤龍興と本多正信と言う二人の武士に囲まれていた。
二人とも頼照に比べればずいぶんと若年であったが、どちらもそれにふさわしからぬほど顔に皺が増えていた。
「織田が弱いと広めたのはまだいい、だがその結果どうなった。浅井もまた徳川以上にとんでもない存在であると上層部に知れる事になったぞ」
「それがどうした斎藤殿!」
「もはや越前から撤退するより他ありません。織田はともかく浅井に加賀までやって来る力はございません」
「おい本多、そんな弱腰でどうする!」
「ですが一乗谷城に向かった僧侶たちの内、一体何人が生きて帰ったのです」
龍興にしてみれば、この前の戦は不満だらけだった。
織田信長の重臣を討つ好機だったというのに後方にとどめ置かれ、挙句の果ての惨敗。しかも三連勝からのたかが一敗だと言うのに、僧も農兵たちもまるで自信を無くしてしまった。いくら収穫間近の時期とは言え、兵もなしでは戦などできるはずもない。
このまま越前から全面撤退して、朝倉の端くれと言うべき将とかつての部下であった将、何なら味方同然の人間を三人斬っただけで終わっては龍興にとってはただの自滅でしかない。
「そうだ、だから戦は武士にやらせれば良いのだ!」
「言ったな」
「ああ言ったとも!」
「斎藤殿、まさかこちらで死ぬ気では」
「ああその通りよ、ここで蝮の血筋は消えるのだ」
「そんな!」
「ああ、惜しいかな」
ほんの少し前まで悪あがきしてやるつもりでいたのに、急に魂が冷えた。
どっちつかずを気取りながら、あそこまで一揆衆のために働いた自分。どんなに正体を秘匿したつもりでいても、もう織田に露見してしまっている以上どうにもならないと言う現実。
(本多殿、俺はもう決めた。そなたも決めろ)
心底から自分を惜しむ正信と、ただ嘆くだけの頼照。
朝倉家が攻撃される事を見越し、越前侵攻の手はずを整えていた正信と、それをはいはいと聞いていたばかりの頼照。
――いや、あくまでも織田と浅井にだけ的を絞り寛容な政治を行い数年かけて一向宗になつかせその後小谷城を狙うべきだと進言した正信と、そんな不信心な真似ができるかと言って一向宗になつかない住民たちから略奪をするように指示した頼照。
自分では正信の言う事を聞いて来たつもりだったが、もう世間は斎藤龍興は頼照や頼周の手先として三人の将を斬ったとしか見ないだろう。
「下間頼照、天魔の子とやらを地獄に送る事ができたらわしは極楽浄土へ行けるのか?」
「約束する」
「ありがたい事だな!」
「それがしは残った兵を守るべく頼照殿と共に行く。さらばだ、斎藤殿」
「ああ!」
叔母の帰蝶は信長の正室だが、子どもはいない。一応女系では道三の血筋は残っているようだが、それとて織田の臣下にすぎない。
女系の事を言えば、自分だって浅井の当主の資格がある事になる。大名の家督とは男系が重視される物であり、女系の親族など男系に家督にふさわしい存在がいなくなって初めてかつぎ出される程度の存在である。
男系の親族、それも力のもっともある存在が認めて初めて女系の親族は当主を名乗れる。だがそんな家はもはや滅びかけか、大きすぎて滅ぼせないかのどちらかしかない。
(越前の当主が織田になるか、あるいは浅井になるかはもうどうでも良い。せいぜい、本多殿のような男をまともに使いこなせる家であってくれよ)
龍興は次の越前の支配者の事を思いながら、村岡山城を出た。
守備兵すら一人も残さず、文字通り空っぽの城を残して運命を共にするすべての人間をかき集めた、と言っても武士などほとんどいない。
朝倉の旧臣たちは二人の将を殺した時点で自分になつかず、帰農したり頼照についたりで味方にはなってくれなかった。そして都合四年も流浪していた自分には譜代の臣などもう両手の指ぐらいしか残っておらず、彼らと越前の農兵がほぼすべての戦力だった。
「まあ、逃げろと言っても聞くまいが……」
「斎藤様の武勇があれば、親兄弟の仇も討てます!」
「一緒に、どうか一緒にあの天魔の子を討ち取りましょう!」
まともな武器もない農兵たちだったが、それでも自分を思う気持ちだけはあった。思えば道三はこんな兵を率いて立ち回り、そして一国を盗み取ったのだろう。だがそれはしょせん相手の失態や油断ありきである。織田にせよ浅井にせよ、もう油断してくれるような人間は残っていない。
天魔の子と呼ばれる将、おそらくは浅井の男。その男に会ってから死にたい。出来得る事ならば刃を交えた上で。勝てる勝てないの問題ではなく、自分に事実上とどめを刺した男と言うのを見てみたいだけ。
まだ二十三歳のくせに自分が殺した卜全のような事を考えながら、まともに攻めるつもりもない大野城を目指す。
「どうせ敵はすぐに気づく。臨戦態勢に入っておけ」
得物を構えながら、疲れさせない速度で進む。
一向宗の連中は根こそぎと言う程度に足羽川以北の民の物資を収奪した。
それらは今頃は加賀から船の上に乗り、どこかの港に運ばれて石山本願寺へと向かうのだろう。あるいはそれならばまだいい方で、頼照のような破戒僧の懐を潤すだけになるかもしれない。
そんな人間の側にいる存在が好かれる訳がない事ぐらい誰でもわかる、奇襲こそないにせよ織田または浅井に次々と密告をかけ、自分たちを丸裸にするだろう。
果たせるかな。不思議なほど妨害を受けないまま大野城までたどり着いた斎藤軍を、浅井の旗を掲げた兵が待ち構えていた。
「斎藤龍興殿ですか」
「ああそうだが」
「私は浅井備前守家臣、藤堂与右衛門でございます」
朗々とした声を響かせ、兵たちの先頭に立つ大男。自分よりさらに若い、まだ二十歳にもなっていなさそうな男。晩夏から初秋に移り変わろうとするこの時期の木々に負けぬほどの青々しさを顔に浮かべながら、それでいて背丈だけではない貫禄と威信を感じさせる。
「間違いない、天魔の子だ!」
農兵のひとりが藤堂なる男を指して天魔の子と叫ぶ。
なるほど、これが頼照が言っていた天魔の子かと理解した上で、改めて藤堂とやらを眺めてみる。
天魔と呼ぶにはあまりにもまぶしく、それでいて三十人以上の僧を入滅させて面相一つ変えなかったと言う頼照の言葉が嘘ではなかった事を証明するかのように背筋は伸びている。
「まさかお前がこの軍勢の総大将とは言わないだろうな」
「磯野様から命じられたのです、この戦は任せると。ああ磯野様は一乗谷から街道沿いに出陣しています」
一乗谷城から大野城までは足羽川を越えねばならない以上、この軍勢の総大将は間違いなくこの男なのだろう。
おそらく逃げ出した農民の中に浅井の元へ逃げ込んで城の状況をしゃべったのがいるのだろう。村岡山城が空城であり、そこさえ抜けばほぼ越前は手にしたも同然である事も掴んでいるのは間違いない。
「降伏してはいただけませんか」
「ふざけるな!ここにいる者たちはみな死に場所を探しているのだ!」
「浅井はすでにこの越前の支配を織田様に認められました。丹羽様が約した来年までの三公七民の教えも必ずや守ります!」
三公七民など、本来ならば絵空事でしかない。
だが少なくともこのままではまともに生活もできるかわからない足羽川以北住民にとってはまさに天恵だったし、それ以外の住民にとっても戦争に次ぐ戦争で荒れていた所に一息つけるのだからありがたいばかりである。
あるいはそちらの理由で百姓が浅井になついたのかもしれない。百姓に逆らう家は長続きしない事ぐらい、一向一揆と共にいれば嫌でもわからされる。
「言いたい事はそれだけか!この斎藤龍興が、一刀のもとに斬り捨ててくれるわ!」
「では!」
それでも負ける訳には行かぬとばかりに馬を飛ばすと、高虎はあっという間に踵を返して逃げ出した。
高虎に付き従う全ての兵が揃って大野城へと入り込み、騎馬武者など龍興しかいない一揆軍を置き去りにして行く。
「何と弱腰な!それでも武士か!」
口ではそう吠えて見たものの、自分以外まったく追い付けないまま城門を閉じられてしまった龍興は、城門の閉じる音と共に最後の炎が消えるのを感じた。
(どこまでも、どこまでも正確な男よ……)
――すべて読み切られていた。あるいは自分だってそうしたかもしれない。
よく見れば、あの時高虎に付き従っていた兵の多くが腰が浮いていた。最初から逃げる気で城から出て来たのだ。
死に場所探しをしている人間と真っ正面から当たれば自分も損をする。それより徹底的にかわして士気を萎えさせた方が良い。その上にほぼ空城になっている村岡山城を取れば、浅井の越前制圧はほぼ完了となる。最初から籠城しなかったのは他の城を襲われるのを嫌い、ここに自分たちを釘付けにするため。
言うまでもなくもともと死にに来た自分たちにまともな物資などない。金穀を奪おうにも、それこそ足羽川以北の住民からは既に奪い尽くした後である。大野城もまた同様に略奪を受けた上に防御施設の破壊された城だが、それでも一日二日籠城できる分の物資ぐらいは運ばれているだろう。
固く閉まった城門。作りこそ雑だが今の自分たちにはとても乗り越えられない。その上先ほど無理やり走ったから腹も減っている。
「命令だ、浅井に投降して家族を安心させろ」
龍興の命令に逆らう者はいない。
多くの得物が投げ捨てられ、門が開けられると共に身一つで死ぬ気であった人間たちが生きるべく大野城に入る。得物を持った人間が入らないように高虎たちに弓矢を構えられ続けながら次々と人が通り、気が付けば斎藤軍はほとんどいなくなっていた。
「だが、俺だけは、最後の望みを叶えてもらいたい」
「残念ながら、華々しい討ち死にはさせられませぬぞ」
「藤堂とやら、どこまでもお前は臆病であり、それでいて勇敢な男だ。別に一騎打ちなど望みはせん、ただ武士らしく討ち死にしたいだけよ」
高虎が通してやれと言わんばかりに手を振ると、龍興は開け放たれた城門に向かって突進した。高虎たちが弓を引き、矢の雨を浴びせる。
あっという間に矢が刺さりまくった肉体で、ロウソクの火が消える前にとばかりになぎなたを振る。龍興は一本でも矢を叩き落とし、一歩でも目の前の相手に近づかんとする。
だがその努力も虚しく、龍興は誰一人とも刃を合わせられないまま、十数本の矢を体中に受けてこの世を去った。
「丁重に葬ってもらいたい」
龍興の死を確認した高虎は、東向きに倒れていた龍興の死体を前に両手を合わせる。織田にも浅井にも親族である人間としての礼節を守るように、深く頭を下げた。
ここに美濃の蝮、斎藤道三の血は、実質三代で滅びたのである。
そしてその頃斎藤龍興の故郷美濃には、道三の一族の最後の生き残りと言うべき濃姫に、かつての道三の家臣明智光秀の嘆願を願う書状が届いていた。




