田中久兵衛、武田の将と戦う
田中久兵衛が綱親の軍勢に加わり、浜松城に着いたのは六月半ばだった。
城外の天幕には浜松城の城主である家康や酒井忠次、あらかじめ来ていた織田家臣の明智十兵衛光秀が控えていた。
「是非とも武田を遠江より追い払いましょう!」
「浅井様のご配慮、痛み入ります」
「十兵衛、もう少し愛想良くできぬのか!」
「これは柴田殿、私はあくまでもお役目を果たすことが第一であると」
海北綱親率いる三千。これが、今の浅井が出せる精一杯だった。大将の格はともかく、兵数はとても十分とは言えない。
綱親たちの先導役となったのは柴田勝家であり、直接その役目を請け負ったのは前田利家である。表向きには浅井からの援軍の先導役に命じられた事になっているが、勝家はこの前の敗戦の懲罰と思っていた。
秀吉もまた唐突に任期満了とか言われ、越前を離れて京に向かっていた。今越前には長秀に景鏡と、美濃から来た氏家卜全と安藤守就が入っている。
ただでさえ左遷めいた任務を申しつけられた上に元々の面相と相まってかなり凶暴そうな勝家であったが、出迎え役となった光秀の仏頂面も負けず劣らずだった。
「親父殿、せっかくの援軍を前にしてそんな顔をしていては士気が萎えてしまいます。浅井とて今はそんな楽な状況ではないのですから」
「わしは藤吉郎やお主と違って愛想をよくする事は不得手だ、なればこそお主に海北殿の世話を丸投げしたのだ」
「とりあえず任務は果たしたのですから」
「常在戦場よ!」
利家がたしなめても勝家は面相を変えず、今度は利家をにらみつけた。浜松城と言う前線に近い位置に入る手前常在戦場と言うのはわからなくはないが、何も家臣同然の身である存在にむかってこんな風にすごむ理由は普通ない。浜松城主の家康や忠次も所在なげになる中、勝家は一人きりで戦場の中にいた。
「この場には我々も、徳川殿もいるのですが」
「わかったわかった!この戦に勝ちし暁には目一杯大笑してやるわ!」
「我々も全力を尽くします故」
半ばやけになったように勝家が頭を振り回して無理に口角を上げるが、その笑顔はまるっきりただのお面であり、そこに戦勝と言う魂は込められていない事が明白だった。一方で光秀は、自然な調子で渋面を崩す事なく座っていた。
「お館様が参られます」
その使者の言葉と共にようやく光秀は面相を崩し、信長を出迎えるべく立ち上がった。
わかりやすく顔を変える光秀の腹芸に内心舌打ちしながら、自分の立場はわかっていますからと言いたげに勝家も付き従う。
「海北殿か。此度の援軍、まことに痛み入る」
「ありがたきお言葉です」
信長は長政の家臣に過ぎない綱親に向けて手を差し出し、握手を求める。綱親が差し出した手を振る姿は実に寛容な人間のそれである。
(これが織田の当主か……)
長政の命により副将扱いされていたためこの場にいた吉政は、初めて触れた織田信長と言う存在のやり方に感心していた。
此度の戦はそもそも徳川家のためのそれであり、家康にそれほど気を使う要はない。あったとしてもとっくにそういうあいさつは済ませていると考えるべきであり、ここで見せつけるのはいかにも浅井を置き去りにしているように見えるし、かと言って光秀や勝家のような家臣にいの一番に向かってはよその家をないがしろにしている感がある。
だから浅井に声をかけたと言うのは理屈通りではあるが、それにしては振る舞いがあまりにも自然だった。常在戦場とか言うが、それこそ常在礼節場とでも言わんばかりに当意即妙な答えを引き出してぶつけて来る。
容姿とか、領土とか、それとも年齢とか、そんな単純なそれではない力の差。
その上にこの度量と、あと単純な威圧感。何もかもが、自分とは違う。
「とは言え、浅井は少数でございます。何をいたせばよろしいのか」
「少数には少数の使い方がある。とにかく備前守が誠意を裏切らぬ人間であった事が余は嬉しいのだ。権六、よくやってくれた」
「ええ、必ずや勝利に結び付けて下され!」
徳川が八千、織田が一万七千に対し浅井は三千。あまりにも数の差は多い。だから浅井に徳川や織田と同じ事をやれと言われても絶対できないと言う事だけは伝えておこうとした吉政を、信長は丁重に制した上で長政と勝家の事もほめる。
実に気が利いている。
翌日、攻略戦が始まった。遠江にある三つの武田方の城を陥落させ、徳川方のそれにするのが目標である。
「それにしても凄まじい戦ですね」
「ああ、本当にな」
吉政と綱親は、感心したような呆れたような顔をして城の北側から戦を眺めている。
織田軍一万八千が、数百名しか守備兵のいない武田の城を南と西から押す。城内から申し訳程度に矢が飛んでくるが、圧倒的な数の前に何の意味もなさない。
北には浅井と徳川がおり、徳川は門を抑える役、浅井はわざと空いた東から逃げ出す敵を討つ役である。
三つの城に一万ではなく、一点集中により城を一つ一つ確実に落とす。それにより遠江の武田軍を居竦ませるか逃げ出させるかさせ、徳川の遠江支配を完成させるのが信長の計画だった。一応駿河はほぼ完全な武田の支配地だが、一日で落とせば援軍の出しようもない。
「しかし兵士をこのような使い方をするとは、全くぜいたくな攻め方です」
「圧倒的とはこの事なのだろうな」
「味方で何よりです」
近江や越前、美濃などでは見た事のない城だがいずれにせよこの数の前では全くの無力である事はわかる。数の力の偉大さを思い知ると共に、それと対峙させられる事になる今後の浅井家と阿閉家に対する不安も吉政の頭によぎった。
「織田兵が城内に突入したようでございます」
「よし、ほどなく終わるだろう」
浅井軍は予定通り、城内突入を織田と徳川に任せて東側に回ろうとした。
「おや?」
だがそこに、自分たちよりさらに北東からいきなり叫び声が飛んで来た。
「武田軍です!」
「面倒な」
甲陽菱の旗を掲げた、紛れもない武田軍だ。数こそ多くないがその速さは疾き事風の如くを掲げた信玄の配下にふさわしいそれであり、織田ならともかく徳川や浅井ならば崩せそうなほどだった。
と言っても不意打ちのつもりとは言えどうせ数は知れている、まるっきり手すきの自分たちが動けば問題はないだろう。今さら城から逃げ出せる兵もいないだろうし、焦らなければ大丈夫のはずだった。
「それがしが向かいます!」
それでも吉政は動いた。
ここが、ある意味勝負どころだ。この武田軍を破れば何かが変わる。
(ここで死ねば犬死だろう、だがどうせ浅井の旗の下で戦える機会はそう多くない。阿閉様には悪いが、それがしはそれがしの活躍で名を売る!)
外様同然の上たかだか平侍、そしてかなり自分勝手に動いた吉政に付いて来た兵は三百程度だったが、それでも吉政にとっては十分だった。
「こしゃくな!」
敗北を数のせいにすれば、武田の打撃は最小限で済む。一軍にでも打撃を与えられた、あわよくば守将の命を救えれば最上と言うつもりで出て来た武田軍の前に、いきなり吉政は突っ込んだ。
「田中久兵衛、推参!」
「御大将か、覚悟!」
吉政が先鋒の豪華な装束の武者を名のある敵と見て気合を込めて貞征からもらった刀で槍を叩き落とすと、返す刀でその男を真っ二つにした。
「敵の先手大将はこの田中久兵衛が討ち取った!」
「ああっ御大将!」
名前を知らなかったゆえに先手大将と言う一般名詞で呼ばわった人間がこの千近い軍勢の総大将である事を吉政が知ったのは、まったく敵からの情報である。
その大将をいきなり討たれた武田軍は激しく動揺し、奇襲攻撃のつもりが逆に奇襲を受けた軍勢になってしまった。
その中に向けて、吉政は突っ込む。見る者すべてを斬り捨てにかかり、家宝ともなり得る物をまったく本来の用途に使っている。
(武者とは人殺しを生業とする物……なればその生業を極めなくてどうする!)
高虎には負けたくない。その思いが吉政を動かす。
先ほどの突撃とて、実はそれほど自信があったわけでもない。高虎とて、いざという時は身を投げ出してやってみせたのだ。それで死ぬならばそれまでであり、生きるのであれば今のように活躍する事もできる。
もし敵が自分ごときに実質一太刀でやられるような弱将でなければ、あるいはそれでもひるまない兵であれば。
自分はただ単純に賭けを行い、それに勝った。
その勝ちにより得た運を逃す理由はないとないばかりに、予定通り本格的な突撃を敢行した。武田軍が無残に崩れて行く。
「おいおいどうなってるんだよ!」
「浅井は少数で本気じゃなかったはずじゃないのか!」
「このままでは織田が来るぞ!」
しょせんは援軍、それも少数ゆえにお義理程度で本気では来ないだろう。
義景と同じ過ちを犯す程度には未熟であった将に率いられた軍勢は次々と遠江の大地に自分の血を吸わせ、抵抗した所でさらにやって来た綱親本隊の兵により後を追っただけだった。
結果的に東側は本当にがらんどうになったものの、城内の武田軍は逃げる暇もなく圧倒的な数に押しつぶされ、そのまま一兵残らず全滅していた。
その上に武田の千名近い援軍はその三分の二が死に、残る三分の一も遠江を捨てて駿河へと撤退した。
「浅井にはずいぶんといきの良い若手がいるのですな」
「徳川とて十分いきの良い存在はおります!」
「余をして予想外だったこの事態に対応できたのはその田中殿のおかげだ。深く礼を申し上げねばならぬな」
信長にしてみればこの数の差を見て信玄の増援も頼めないのに戦を仕掛けて来る理由が理解できなかったし、家康だって吉政だってそうだった。吉政は単なる敵として戦いを挑み、単なる敵として勝ったのである。
いずれにせよ実際にやって来た軍勢をなぎ倒した吉政の働きの大きさには全く変わりはない。ただそれだけなのだ。
そしてその無謀な軍隊が、ちょうど明日から攻めようとしていた二城の兵をかき集めていた軍勢であったため、次の日のうちに徳川軍はほぼ無人となった二城に入城し、葵紋の旗を立てる事になった。
これにより遠江はまったく徳川家の領国となり、その城に武田が攻撃をかけても家康が援軍として出ればたやすくは落ちないと言う状態になった。立場が逆転したのである。
「海北殿、浅井は実に良き将を持った物だな」
「久兵衛はあくまで阿閉殿、今の金ヶ崎城城主である阿閉殿の配下です。将が足りておれば」
「彼もまた浅井の中核となる将よ……また会いたい物だな」
久兵衛の方を見ながら、信長は別れを惜しむような言葉を吐き出す。久兵衛は信長に向けて片膝を付きながら、この戦でたくさんの血を吸った刀の事を思った。
この初陣にも等しい戦で自分が残した結果がどういう未来を生むのか、その事まではまだわからないし考えるつもりもない。
(阿閉様、この刀はあなたのくれた愛情、そして願い事……なればこそそれがしはこの刀で作り上げた血だまりの分だけ、あなたに相応の物を求めますぞ)
もしそれが叶わぬ時は、あるいはこの刀を丁重に返還した上でまた別の決断を取るかもしれない。
その事だけははっきりと主張すると心に決めながら、久兵衛は浜松まで来た時の数倍の人間に囲まれつつ、近江に帰る綱親の軍勢の一員となった。
――――自分を勝家と光秀が睨んでいた事など知る由もなく。




