松永久秀、全てを終わらせる
「明智光秀が死んだか……」
松永久秀は高虎のそれより少ない手勢を率いて、天王山のわき道を登っていた。
光秀の死と共に歓声が上がる中、それでもなお久秀はわずかに笑いながら残党狩りと称して兵を動かしていた。
もはや、明智軍は残っていない。
山崎にいる三者連合軍でない兵士たちはもはや敗残兵か、さもなければ本願寺軍だけである。
(結局の所、俗人に聖人は勝てなかったと言う事だ……俗人の織田や浅井ほど聖人たちは民百姓を引き付ける事ができなかった……いわんやこの松永久秀さえもな。
ましてやこの松永久秀が何をやろうと松永久秀だが、明智光秀が何をやれば明智光秀でいられるのかわかっていなかったのか?)
藤堂高虎ですら朝敵にしたはずの光秀だから、松永久秀を朝敵にするのはもっともっと簡単だったはずだ。
しかし、光秀は朝敵の前に仏敵であり幕府の敵でもあるはずの人間を叩くこともできない。その程度に脆弱な力しかない政権がその座を維持するには何をすればいいか、そんなのは目に見えていたはずだ。
織田の政の否定を志すのは勝手だが、なればこそ織田の政を喜んでいない人間を引きずり出すのではなく、喜んでいる人間を味方にすべきだった。
信長を焼き丹波と山城を占拠できる程度の兵力をもって守りを固め、その間に京や堺などの民を懐柔し、なつかせるべきだった。だが現実はその真逆で、信長に懐いている民百姓から財産を搾り取り旧勢力の寺社仏閣地頭層に偏った政を行い、圧倒的に数の多い彼らの不興を買った。目先の金が必要なのはわからないとは言わないが、だとしてもあまりにもうかつなやり方だった。
「幕府再興とか言うがな、所詮幕府はもう限界だった。こんな男すら斬れないほどに弱り切ったのを、これ以上支えられるほど強い奴はどこにもいないのだよ…………」
もうこの辺で滅ぼすべきではないのか。そんなあいまいな物言いでは納得されないかもしれないが、いずれにせよ今更室町幕府などにもう何の意味もない事を誰もが気付いているはずだった。
「松永殿、もうよろしいのでは」
「そなたらは帰っても構わんぞ。だが私はまだやりたい事がある。帰る者には伝えてくれ、松永久秀は最後の最後まで血まみれのまま死ぬとな」
その血まみれの血が誰の血か、主だった者は皆知っていた。松永殿と言うえらくよそよそしい言い方をした島左近でさえ、その顔でよくもまあそんな事が言えた物だなと苦笑していた。
その苦笑いに耳を傾ける事もなく、久秀は馬を飛ばし続けた。
「いやいや、簡単に見つかったな。忠臣ならば明後日の方向を教えるなりだんまりを決め込むなりするものだが」
「そんなのは全部閻魔大王に面会してますよ」
「まあ、長宗我部のように織田にしっぽを振る連中にでも見つかったらまずいからな」
逃げ遅れた明智軍の兵士たちから、その目当ての人物の動向は探れている。
織田も浅井も徳川も、本隊は明智残党狩りや本願寺との対峙と言う段階に入っている。
あるいは本当はそんな人間を斬る事に価値はないのかもしれないし、実際その通りなのだろう。
だが同時に自分にしかできない事でもあると、久秀は実感を込めていた。
「二つ引き両です」
「まったく、旗など投げ捨ててもいいものを……」
結果四半刻もしないうちに、天王山のわき道から西へと逃げようとする一行を発見した。
いかにもそれらしく大将旗などをかかげ、その上でまったく隠す様子がない。大方光秀が無理強いしたのだろうが、それにしてもお粗末な逃げ様だった。
「これは公方様、どうもどうも!」
「ま、松永久秀!」
そのお粗末な逃げ様にふさわしく、怯え切った声をしながら目当ての人間は後ろを振り返る。
謀叛人中の謀叛人、悪逆非道の松永軍はほぼそっくりそのまま二千、一方で正統なる政府のはずの足利義昭一行は五百。
しかも松永軍はこれでほんの一部なのに対し、足利軍はこれで全部だった。
「さて、人間いたるところ青山ありと申します」
「ふざけるな!余はこんな場所を青山とする気はないぞ」
「その科白を明智光秀に申し述べて来てはくれませぬか?」
「光秀……光秀が死んだと言うのか」
「確報ではございませんがね。ですが良かったではございませんか、これで悠々と罪をかぶせられます。何もかも明智光秀のせいであり、公方様はその光秀により側近をも殺された哀れな君主。それだけの事です」
光秀の死と言う報にも、義昭は顔を歪ませない。心が接近していなかったのか、それとも単にとっくに諦めていたのか。
後者だろうと言う欲望を叶えてくれるほど光秀が真摯な人間でない事を、久秀は既に知っている。
「だったらなぜ青山ありなどとか言い出す!」
「公方様の青山ではございません、室町幕府の青山です。ご存知なのでしょう、毛利がどういう態度になったか。ご存知なのでしょう、本願寺がどうしているか」
「それがなんだ、それがいったいどうしたと言うのだ!どうせ殺す気だろう!」
「まあ、そういう事です」
久秀自ら得物を構え、幕府軍に襲い掛かる。
征夷大将軍の首級ともなれば、それこそ光秀のそれ以上の財宝だった。兵士たちの目も、正気を失い、欲望に満ちたそれになる。
一方で明智光秀の死を知らされた足利軍の兵は、腰が引けていた。
この足利軍は「足利軍」ではなく、「明智軍」に過ぎない。
将軍を守っていたのは斎藤利三であって、幕府軍ではない。彼らにとって主は明智光秀であり、足利義昭ではない。口では公方様公方様と言っていた光秀だったが、光秀自身が足利義昭と言う人間をそれほど大事にしていない事を兵たちはよくわかっている。
彼らは、明智のために働けても足利のためには働けない兵だった。
挑みかかろうとするのは、義昭を守るためではなくここで死ぬため。光秀のためにか、利三のためにか。
頭の中の主への辞世の句を吐きながら、足利軍は次から次へと松永軍に挑みかかる。
義昭は絶望的な顔色になりながら後ずさる。だが松永軍の数が違い過ぎる。
「征夷大将軍様御免!」
「私の手柄となってください!」
五百名の防備をすり抜けた千数百の兵たちが一気にやって来る。だが大半が歩兵のためか、駿馬に乗せられている義昭には追い付きにくい。
「おやおや、部下を見捨てるのが征夷大将軍ですか?」
「…………」
ついにこんな挑発に対して返事すらしなくなった義昭を久秀は騎馬隊と共に追いかける。山道を拙いながら必死に逃げ回る義昭を追いながら、旗を捨てようとしない義昭をただただ追いまくる。
ほどなくたった一人で逃げるみじめであわれな最高権力者様が旗を捨てたが、それでも征夷大将軍のそれにふさわしいきらびやかな甲冑が自己主張をやめなかった。
それでもそんな男を追う事をやめる気はなく、ただ前を向いて宝に向けて舌なめずりする連中を引きずり回すのが自分の役目だと割り切っていたのが松永久秀だった。
そんな滑稽で必死な逃亡者の動きが急に止まり、首を落としたのを確認した久秀が速度を緩めると、そこにはまったく思いも寄らぬ旗が並んでいた。
「おやおや!」
「松永殿!?」
天魔の子、いや今は天魔外道にして朝敵である、藤堂高虎。
その藤堂高虎率いる軍勢が、足利義昭と言う男を囲んでいた。
「また会う事になるとはな」
「なぜまた……」
「深い理由もあるまい。私はあくまでも織田の配下のまま死にたいだけだ」
半年ぶりに出会った藤堂高虎は、相変わらず間違いなくおのぼりさんだった。それ相応に顔は垢抜けず、だが同時にその武勇は研ぎ澄まされている。主のため、いや世界のためならば何でもするような顔。
「浅井越前守、朝倉四葩……まったくここまで人間恵まれる者もいると言う事か」
「こちらをご覧になりますか」
「やめておこう。貴殿は嘘を吐ける男ではあるまい」
そして太刀。かつて浅井長政から賜ったと言う太刀は薄暗い森の中でも輝きを放ち、高虎の姿を大きくしている。
さらにその腰にぶらさがっているのは明智光秀の首級だった。本人が言うには部下が取った物であり自分は運搬役をしているだけとの事だが、いずれにせよ高虎がこの勝利の最大の貢献者なのは間違いない。
「貴殿は、もう少し綺麗な手をしているべきだ」
「これは松永殿!」
この青年に、これ以上手を汚させる必要もあるまい。久秀は、善意と憐れみを込めた目をもって得物を強く握りしめた。
「万の上に一の罪を重ねてもどうと言う事もあるまい。先々代様と同じように死んでいただきましょうか、公方様!」
「おい誰か、この男たちを討て!」
「公方様。若狭守殿か、公方様か、その二者択一の結果です。いや、この松永久秀と公方様の二者択一でもあなたは負けたのです」
「朝敵を討てば褒美は望みのままぞ!」
久秀は高虎を制し、ゆっくりと足利義昭にすり寄る。震えながら妄言を吐く義昭を藤堂軍は無表情に取り囲み、道を開ける。
「武家の総大将ならばそれらしく、戦って死んではいかがかな?」
「先々代様の仇!!」
ついに義昭は佩刀を抜き、松永久秀に斬りかかった。
だが、武器の質だけで勝てるわけもない。飾り物の武家の長が、松永久秀に勝てるはずもなかった。
足利義昭は佩刀を弾き飛ばされた上に胸を斬られ、そのまま落馬した。
「表に返せ。征夷大将軍たる者後ろから斬られたとあっては体裁が悪かろう。ましてや首を斬られたとあってはなおさらだ」
「ずいぶんと礼儀正しいお方ですね」
「何、悪い事ばかりしているからほんの少しまともな事をしてみたまでだ。
まあ公方様、こんな人間に斬られたとあらばあなたの行き場はもうわかりますね」
「お、おのれ……天魔め、天魔の子め……!」
素直な高虎に、あくまでも自分は悪に過ぎないと言ってのける久秀。
そんな二人に割り込む、呪詛に満ちた唸り声。もはや、誰の耳にも届かない呪詛を吐きながら、義昭は体を返される。その弾みで烏帽子が落ち、高虎により戻される。
「天魔の子などどうでもよろしいのです。私に何か言う事はないのですか」
「我が乳飲み子を傀儡とし、これまで以上の専横をなさんとする輩に一体何の言葉がある!覚えておけ、我が子は紛れもなく将軍家の男!余を殺しても室町幕府と足利氏が絶える事など!」
最後の最後まで光秀と同じく呪詛を吐く足利義昭、天下人であったはずの人間の心の臓をまったく無感動な表情で突き刺し、そのあまりにも苦しく辛い運命をたどった征夷大将軍の血を、全く無感動にぬぐいをかけて清めた。
「………………」
室町幕府の歴史を十五代目にして完全に終わらせたと言うのに、久秀は特に何か感慨深げな様子もなく、ただ平然としているだけだった。
「私をどう思う?藤堂若狭殿」
「武士として当然のことをしただけでしょう」
「征夷大将軍を殺した男だぞ?」
「その征夷大将軍は何をしたのでしょうか」
「朝敵呼ばわりされたせいかずいぶんと淡泊だな。まあ私が言うのもなんだが」
「私は生まれてからずっと、征夷大将軍と言う存在をまともに認識して参りませんでした。それを敬えと言われても無理であり、同時に憎めと言われても無理でした。私にとって主君とは浅井越前守様であり、主君の師である織田内大臣様も尊敬しておりました。その二人のために、私は脱走兵になり、それから今の今まで戦って参ったのです」
藤堂高虎と言う田舎侍にしてみれば、将軍も天皇も自分たちを顧みてくれる存在ではなかった。
浅井長政が全てであり、それに勇気を与えた織田信長を知りたいと思った。
だからこそあんな風に脱走兵にもなったし、その後もその長政のために逃げたり突っ込んだり、結婚もしたり朝敵にもなったりしたらしい。
「まあ、貴殿はそれで良い」
「そうですか……」
「それよりだ、主の元へと帰られよ。心配しているだろう。それに」
「わかりました……阿閉様の亡骸を拝みに参ります」
高虎軍を見送りながら、久秀は足利義昭の遺骸を馬に乗せた。
(そんなに嘆く事もありますまい、公方様……安らかにお眠りください。鎌倉幕府より百年も長く持ったのですから……。
彼の関わる天下はそこまで悪くはございませんぞ)
久秀は自分が殺した二人目の征夷大将軍の遺体を運びながら、新たなる天下人の靴を舐めるべく、これまで何百回としたのと同じように駒を飛ばした。
その三日後、毛利軍は京から退去。足利義昭と明智光秀の死も布告され、室町幕府はここに完全に滅亡したのである。
あともう1話だけお付き合いください。
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