丹羽長秀、越前の統治を図る
丹羽長秀の立場は、それほど強い物ではない。一乗谷城の城主と言う程度の良い物ではなく、ただの代官である。
「さて、此度織田がこうして攻め込み朝倉をこの地からほとんど追いやる事となってしまった。どうかこれよりはこの織田のために、丹羽五郎左のためにどうかお願いしたい」
一乗谷の本丸屋敷、義景が暮らしていた居住空間の庭に集められた職人や名主たちの後頭部に向かって長秀は両手を合わせながら頭を下げる。
義景時代にはなかった丁重な礼であり、こういう事を徹底するのも大事だと言うのが長秀の方針だった。
「それでこれもまた我々織田の為した事とは言え戦乱に見舞われ庶人は大変であろう。そう言う訳で、翌年までこの越前の年貢は三公七民とする旨申し渡す」
その上でのこの長秀の宣言に、名主も職人たちも驚いた。
三公七民、要するに三割でいいと言うのだ。義景時代はだいたい五公五民、つまり半分を税として持って行く事になっていた。と言うかこの時代だいたいが五公五民だし織田領もほとんどが五公五民だが、それでもこの戦乱に見舞われた地としては非常にありがたい話である。
それに、この「越前」のである。
一乗谷城は越前の中央よりやや西側にあり、当たり前だが北方は戦にはほとんど巻き込まれていない。そこでも三公七民になるのだから、その地域の人間にとってはずいぶんと恵まれた話である。
あからさまな人気取りかもしれないことはわかっている。だがそれでも、越前と言う場所を治めるにはそれぐらいの方が良いかもしれないと長秀は判断していた。
尾張はそれこそ織田家の本拠地であり、美濃は斎藤道三の娘婿と言う土壌があった。南近江は織田の同盟国である浅井家の北近江の隣国であり、何より野良田の戦いの後六角家の求心力が低下していた事もあり比較的新たな領主を迎え入れる用意はできていた。そして伊勢はと言うとゆっくりとではあるが着実に一益が攻略を進めている事もあり、織田家の支配は浸透していた。
だが越前には、まったく織田を受け入れる土壌はない。織田なんとかかんとかと言う神社はあったが、信長ですらだから何としか思っていない。
(「柴田殿には悪いが、思いっきり鞭を振るってもらいたい。その泥をかぶった分だけお館様は正当に評価してくれるはずだ、あるいはこの地に封じられるのは私ではなく柴田殿かもしれないしな」)
朝倉義景がその統治の中で敵意を抱いたのは一向一揆だけであり、嫌悪感を抱いたのは信長だけである。
朝倉と織田は共に細川家・畠山家と並ぶ三官家の一角である斯波氏の守護代だった家柄であり、同格かそれに近い存在だった。だからこそ義景は信長の勢力伸長が面白くなかったし、信長としても少し不愉快だった。
もちろん不愉快だけで軍を興した訳ではなく足利義昭を将軍として擁立するに当たり周辺の有力大名として収集をかけたのを拒否したと言う名目を立てたのだが、両家が不仲だったのは紛れもない事実である。
織田に従えばよし、逆らえば罰を下す。極めてわかりやすいやり方であり、経世済民とはこういう物だと言うお手本通りのやり方をする。そうして住民を懐かせ、その上で改めて兵を進める。
信長にしてみれば甘いと言われるのはわかっているが、それが長秀なりの方針だった。無論信長から指令が来ればある程度手のひらを返すつもりもあるが、美濃でも南近江でも伊勢でもない地ではこういうやり方の方が良いと言うのが長秀の感覚だった。
自分がこのまま越前を与えられるのか、それともどこかで交代させられるのかわからない。それでもその時まではせいぜい最善を尽くし、織田になつかせ尽くした上で誰かに渡したいのが長秀だった。
後は南の浅井である。長政は開明的な人物で信長との仲も良好でありさほど問題は感じないが、久政は頑迷で未だに朝倉に難渋していると言う噂がずっと届いている。
子はかすがい、いや織田の子は滓がいいと言わんばかりに万福丸とさえ会おうとしないでいると聞いた時は頭痛を覚えた。
(お館様とて信勝様をそうしたように斬るべき時は斬った。いくら同盟国とは言え、出来る事と出来ない事がございますぞ)
一応その信長の嫡男の奇妙丸、十四歳の男子よりずっと幼い駄々っ子の男が勝手に景鏡に泣きつかない様に言い含めてはあるが、もし織田家にいたら適当な理由を付けて真っ先に首を刎ねている存在に対する甘さが、長秀には歯がゆいと共にありがたかった。
お市やその子ら、そして若い世代、次の浅井を担う世代こそ宝なのである。織田も同じように若い人材を集め教育を施している。義景はおそらくやっていなかっただろうし、久政にもその展望はないようだ。
そんな人間が織田の当主でなかった事に、長秀は感謝していた。
※※※※※※※※※
「ああもうっ!」
半月前に織田の家臣となり十日前に長秀の部下となっていた景鏡は、小丸城の中でうめきながら駆けずり回っていた。
朝倉と違って何事も速い織田の統治もさることながら、木下藤吉郎秀吉と言う農民上がりの人間が信長の寵臣と言って幾度も現れ、次々と仕事を進めていくのにも胃が痛くなる。
自分の顔がどんどんなくなって行く。
「まったく、朝倉の名に懸けて、先の領主の誇りにかけて、木下殿より早く資料をまとめ上げて提出するのだ!」
「そんな事言われましても」
「わしは当主として自ら各村々の状態を把握せねばならぬ、その上でまだ迷っている者がいたら丹羽殿の下に身を投ずるように説得せねばならんから今から出るぞ!お前らはきちんとやっておけ!」
既にこれまでの幾倍の速度で動いている部下を置き残して、景鏡は馬上の人となった。
今更朝倉とか言う名前に未練はないし、誇りだってない。
自分が織田に身を投じたのは、ただ生き永らえたいだけだった。無論それ相応の責任を果たす事になるのは覚悟してはいたが、織田の激務と人の少なさが景鏡の体力と精神力を削っていた。
魚住景固と前波吉継は既に織田に下っていたが、今は両者とも北越前の案内兼護衛役をやらされていてまともな人員は残っていない。他の将は行方知れずである。
景鏡が朝倉家当主となってから、旧朝倉の家臣団の招集をかけていたつもりだった。だが富田長繁や真柄直隆のように最後まで戦う事もなければ、景固や吉継のように返り忠を仕掛けた訳でもなくただ単に義景を見捨てて真っ先に降伏したとみなされた景鏡の人望は、本人や織田家が思っている以上に落ち込んでいた。
その上に織田の激務に兵士たちは疲れ果てて脱走し、景鏡の下には今最初投降した時の三分の二の千三百の兵士しか残っていない。景固や吉継の手勢と合わせても二千余りであり、越前に駐留している織田軍の四分の一である。
「絶対に、絶対に朝倉と言う土台を失った将兵たちは困窮している!そのはずだ!」
「それはそうなのですが……」
「もうすでに七日は経っていると言うのに、どうしてなのだ、どうして誰も一乗谷にやって来ない」
「農兵など農民に専念する事を選べばそれでおしまいです」
「でだ、愛王様や姫君様については」
「依然として消息不明です」
「やっぱり左衛門督の血筋が必要なのか!一体どこの誰が、誰にその血筋を託して何をする気なのだ……!あの二人もなぜに使者を寄越さんのだ!」
残っている兵数の約半数の六百で小丸城を飛び出して北陸道へ向かい九頭竜川を渡った景鏡であったが、先行させた兵からもまともな話はひとつも入って来ない。
先に渡っていた景固や吉継とも音信不通であり、数日の間に逃げ出した人間たちの足取りもつかめず、たまに逃亡兵を捕縛したり殺害したりという知らせがあっても織田の将兵からの報告ばかりである。
足羽川の戦いに駆り出された朝倉軍は一万三千だが、その内根っからの武士は七千程度しかいなかった。残りは農兵であり、その中でも防衛ならともかく攻撃には出て行く事のない程度の練度しかない下級のそれが大半だった。そんな雑兵をわざわざとがめる理由はどこにもない。今や彼らはぬけぬけとただの農民扱いされている。
ましてや三公七民などと言う大きな餌をぶら下げられたのだ。いくら二年間の時限立法とは言え、少なくとも二年間は楽な暮らしができるとあっては帰農に走るのもわかる。
だが、専業の武士さえも来ないのはどうしてなのか。
武士にそっぽを向かれても農民は案外平気であるが、武士はそうも行かない。
農民が寄越してくれる米を食っているのが武士であり、農民に反抗されて米を止められればその瞬間武士は飢える。食い扶持を稼がねばならぬ以上、否応なく織田や自分にすり寄ってくるはずだと言うのに。
(左衛門督の子女が飯を食わせてくれるのか?四葩様でさえまだ十一だぞ?一体どこの民が朝倉と言う名前しかない存在を受け入れる?)
愛王や四葩についてはおそらく朝倉の重臣の誰かが、義景にすら黙って連れ出して逃げ出したのだろう。あるいは織田軍が来れば殺されるかもしれないと考えるのはわかる、それでも自分が信長に必死に嘆願してなんとか命を守るつもりでいた。小丸城に引っ込んだまま投降した自分の責任でもあるとは言え、いつ何時その切り札によって自分の首が涼しくなるかと思うだけで景鏡の頭と胸が痛む。
「そう言えば資金はどうした!丹羽殿は金に糸目を付けぬとおっしゃって下さっていたのだぞ!」
「それが、織田に民が懐いていない事もありまともな情報が入らず……木下殿も自ら信頼を築こうとなさっておいでのようですがままならぬ状態で」
「まったく、自分たちの立場を何だと思っている!一体どこの誰の手によって一向一揆から守られると!」
長秀や景鏡は金をばら撒いて農民たちに捜索をかけているがこれも不調であり、持ち逃げされたりインチキな情報を教えられたりでまるで手掛かりが見つからない。
もう本当に越前にはいないのかもしれない。ならばいずこだと言うのか。
まさか加賀へと向かった訳もあるまい、できれば北東の飛騨にでも行っていてそこでひっそりと暮らすか、さらにそこを抜けて信濃にでも逃げて武田信玄に泣きついてくれた方がまだ気が楽だった。
今一向一揆などに従えばそれこそ降伏を認めたような物だ。仮に織田を追い払ったとしても朝倉はよくて一揆衆の配下勢力、下手すれば即刻切り捨てられる。
朝倉が今こうして生きている事さえ、織田の恩情ありきなのだ。織田か一向宗かどちらかを選べと言うのならば、一方的な結果だけだった分織田の方がましのはずだ。
「この雨、冷たい雨に降られて辛いだろうに……今すぐでも織田様や丹羽殿の庇護を受ければ良いのに、何を難渋しているのか……」
灰色の雲が薄暗く空を覆い、今にも慈雨だがどうだかわからない雨を振らせようとしている。時に五月、ほどなくして梅雨に入る。その事を分かっていないはずはないと言うのに何を無駄な意地を張っているのか。
「申し上げます!」
「何だ!」
「落ち武者らしき者が前方に確認できました!」
「よし話を聞け!」
歯ぎしりの止まらなかった景鏡の耳に、ようやく動きがありそうな話が入った。上機嫌で顔を引き締めると、前から一人の男が肩を貸されて歩いて来る。
「どうしたのだ」
「魚住様、お討ち死に!」
「そんな馬鹿な!」
だがその男は一瞬でも寛容な上司の顔を作ろうとした景鏡の労力を害意なく踏みにじり、そのままくずおれた。
「魚住が討ち死にって、どこの誰にだ!」
「一向宗です!」
「一向宗……まったく」
「まもなく、来ます……」
正規兵だけで北方に向かっていたはずの魚住景固が、討ち死にしたと言うのにどこの誰がやったのだと言う間抜けな質問をしたのをごまかす事もできないまま、景鏡たちはより衝撃的な報告を受け取らねばならなくなった。
加賀の一向一揆が、やって来たと言うのだ。




