藤堂高虎、大倉見城へと帰る
四月二十一日大倉見城に帰って来た高虎は、出撃時のそれを大きく上回る歓声をもって迎えられた。
自らの居城の中の、そのまた居住空間と言うべき本丸屋敷では、二人の妻が三つ指ついて主人を出迎えていた。
「よくぞ無事に帰ってまいりました」
「そちらこそ無事で何よりだ」
「貞操を守る事も出来ました」
「何の心配をしているかと思えば、まったく心配性だな」
これまでの戦でも領国を獲得するにあたり多くの兵士、つまり父や夫や兄を殺したせいで生活の成り立たなくなった人間たちが体を売る事はかなりあった。そういう女性を買って女中や妾にする話もまた山とある。実際、大倉見城にいる女中の中には朝倉家で重臣の妻や侍女をしていた人間もいた。だがそういう体の売り方ができるのはいいとこのお嬢様ぐらいなもので、実際には多くの人間、取り分け若い娘は本当の意味で体を売らなければならなくなる。
あまりよろしくない話ではあるが実際藤堂家の中にもそういう女を買っている人間は多いし、現金や米以上に女が目当てだと言う兵士も多くいた。
「いいえあなた様、明智光秀を甘く見てはなりませぬ。明智光秀にとりあなたは絶対的な悪党であり、その眷属はすべて悪です。あの下間頼照や七里頼周はかつて朝倉や浅井を絶対的な悪の存在として喧伝し良民たちを戦に駆り立てました。明智光秀はその気になればいくらでもやれる男です」
だが上杉謙信でもあるまいが、清廉潔白を気取る明智光秀にはそんなことはできない。
そう思って四葩に勝った気分になっていた高虎だったが、また負けた。
「奥様」
「ああすみませんあなた様!」
敗北を悟った高虎が二人の真似をするかのように腕を床に付きそうになると、四葩があわてて高虎の体を支えた。
「申し訳ございません、つい悪癖が出てしまいまして」
「いやいやその通りだ、自分がその手で勝ったくせにすぐ忘れてしまう私も私だからな…………」
「その手でとは」
「ああ目一杯のお食事を作らないと、私は失礼いたします!」
お桂が理由を付けて早歩きして去っていく中、高虎は妻に肩を抱かれながら本丸屋敷へと入った。やがてあらかじめ敷かれていた布団に座らされ、その上で改めて四葩に三つ指を付かれた。
「我ながら口ばかり達者になってしまいまして申し訳ございませぬ」
「気にしていない。つい浮かれ上がってしまったのが悪いだけだ」
四葩がどうしてここまで口達者な人間に育ったのか高虎はわからない。天性のそれなのか越前から加賀に亡命して事実上朝倉家の長となったその時期に培われたのかはともかく、いずれにせよ今回もまた四葩に高虎が勝てなかったのは同じだった。
「しかし内大臣様が明智光秀によりお亡くなりになり、あの柴田殿もお亡くなりになるとは、人と言うのは本当あっけない物ですね」
「ああ、本当にいつ死ぬかわかりはしない。天命とは残酷だな」
「私やあなただっていつ亡くなるかわかりませぬ」
血の気の多い人間ではあったが、間違いなく悪人ではない。そんな人間が山と死ぬのが戦だが、それでも柴田勝家の死は予想外に重たかった。
勝家の墓は、若狭と丹後の国境に建てられているらしい。まるでお市を守らんとするかのように東向きに置かれた墓らしいが、高虎には自分を見張っているようにも思えた。
「私は柴田殿と戦っていたら負けていた、断言できる」
「その勝利を盾に何を得ようと言うのでしょうか。まさかお館様と奥方様を引き裂くためとか」
「前田殿から受け取った遺言には似たような旨記してあったがな。それほどまでに奥方様の事を思っておいでだったのだろう」
「お館様が側室をお取りにならぬ事、そもそもその必要がないほどに奥方様がご壮健な方でいらっしゃる事をとか」
今年の二月お市は第五子にして、二人目の男児を産んだ。諦めるには十分すぎる数のはずなのに、まだそれでも純粋に執着していたとでも言うのか。
「逃げる事は恥ではない、と言うやり方で私は生きて来た。初陣の時さえ逃げ回って最後におこぼれのように敵将の首を取った。卑怯と言われても言い返せるそれではない」
「こんなに戦果を挙げている以上、卑怯ではなく慎重とか精巧だと思いますが。と言うか一万の一揆勢に三千で突っ込んだのはどこのどなた様なんでしょうね」
「それでも許せない人間はいるだろう。お前の言った通り許せない人間と言うのは、理由より先に許せないと言う単語が来る」
上杉謙信は、どうしても藤堂高虎を許せなかった。口では天魔の子がどうとか後方を脅かされているとか言っていたが、本来なら景勝か景虎にでもあしらわせておけばよかったはずだった。たかが七千ごとき、放っておけば良かった。ましてや自分たちでなく岩村城などに向かっている以上、信忠を討てば即孤立無援の敗残兵と化したはずだ。
だが上杉謙信はその自分を放っておけなかった。許せなかった。その事を信忠は読み切った上で、あんな事を自分にやらせたのだ。
実に巧みな策であり、そしてそれをこの世界で唯一成功させる事ができたのが高虎だった。逃げに逃げた高虎により謙信は本隊から遠く引き離され、総大将を急に失った上杉軍は一瞬にして瓦解した。
ほんの少しだけでも、許せていれば。北条や武田など所詮他人だと割り切っておけば。
それができないのが、上杉謙信の限界だった。
では柴田勝家は、何が許せなかったのだろうか。
「どうしても、あなたと斬り合いたかったのですね」
「くどいが、勝てない戦いに付き合う趣味はなかった」
「はっきり言うのですね」
「間違っていないから仕方がないだろう」
あの遺言の文面通り、本当に命を狙っていたのかもしれない。なればこそ一色義道がおびえ、後に怒り狂って勝家が追い詰められるまで援軍を出すのを渋っていたと言う話もある。これに対して長政は今の所義道を責める気はなく、利家もまた義道の判断を飲み込んでいた。
「柴田殿はおそらく、自ら一本の刀剣となって働くのが武士の理想と言う所から離れられなかったのだろう。だからこそ逃げ回る私や、あるいは人斬りより知略により出世した羽柴殿を受け入れられなかったのかもしれない」
「だとしたら本当にもったいないですね。まだまだ活躍できたはずなのに」
「ああ、そうだな」
そうやって夫婦揃って戦の話に明け暮れている間に、女中が二人を呼び付けた。
いつもの倍以上の米が炊かれた食卓は実に豪華であり、千福丸もはしゃいでいた。
自分と四葩と千福丸、親子三人水入らずの食卓である。
「ほーら千福丸、父が食べさせてやるぞー」
「あまり多く突っ込まないでくださいね」
「わかっているとも、ちゃんとよく噛んで食べろよー」
千福丸のこめかみが、文字通りよく動いている。赤子だと思っていた千福丸が歯を動かし、農民たちが必死に取って来てくれた米を口に含んでいる。
「戦勝記念とは言え、ずいぶんと盛りが多いな」
「それだけではございませんけど」
「まさかと思うがお桂が孕んだとか」
「よくご存じで」
「それは素晴らしいな!千福丸、お前にまた弟か妹ができるぞ!」
飾っても無駄だとばかりに高笑いし、その上で改めて自分の飯を口へと運ぶ。
実にうまかった。ただただうまかった。
「戦場ではこんな落ち着いた食事はできませんでしょうからね」
「確かに落ちつけはせんが、実は戦場では案外食糧事情は良い。ただ暇と余裕がない」
「確かにその通りですね」
「だからこそ落ち着いて食事をすることは重要だ、よく噛んで含めろよ」
千福丸に語り掛けながら、高虎は汁をすする。戦場で失った塩分を補うかのようにすすり、そしてぐっと飲み干す。
「でも戦場で食べる食事もおいしいのでしょう」
「それはそうだな、何せ戦場と言うどこよりも力を使う場所で喰うのだからな。ましてや私は数年前まで戦でもなければ一日三食など無理だったのだから」
「それもまた戦の成果の一つでしょう。少し腹が立ちますが、どんな場所で食べようと米は米ですから」
「どこにいても幸福になれるし不幸にもなれる、か」
「そうですよね、別に浅井にこだわらずとも幸福にはなれたのですからね」
朝倉景恒は、最後の最後まで自分を朝倉の救世主だと思い込んで死んだ。
自分が謙信にある意味利用されていたとも気づかないまま、高虎への憎しみだけを糧に飛騨を越え、信濃へ行き、越後へと送られ、美濃で死んだ。
もし彼が真田昌幸の言う通り、越後に置かれていたらどうなったか。戦でたらればもあった物ではないが、少なくともまだ今は生きている。まだ三十路にもならない以上次の機会をうかがえたかもしれないし、あるいはそのまま天寿を全うしたかもしれない。
「最後は美濃の農民に袋叩きだったそうだ」
「ああそうですか。どこまでも幸福な方でしたね」
「幸福か……」
「朝倉が滅んだように、浅井が滅ばないとは限りませぬ。ですが、浅井も朝倉ももちろん藤堂もある。それでいいではありませんか」
まったくその通りなのだ。
今の浅井や藤堂は無論朝倉だって、四葩が当主だとすればかなり楽しい生活を送っている。景鏡だとしても、別に不満を抱えるようなことはない。五十万石から一万石になろうが、それでも満足だった。
「それから愛王ですが、金ヶ崎の御義父上から申し出がありまして」
「何だと」
「わしの養子にしたいと」
「なるほど、それが正解だろうな。景紀には気の毒だが」
「あんな男もう気にする必要などございません。むしろひきつけやすくなったと見るべきです」
景紀景恒親子を決して許す気がない程度には、四葩の怒りは深かった。愛王を高虎の弟にしてしまえと言う発想を聞いた時に二つ返事で了解し、高虎に知らずに進めようとしていた四葩に、やはりかなわないと言う気持ちを抱くと同時にその決断を後押しした存在の事を思った。
「やはりその才覚、私などが使いつぶすにはもったいない。これよりどうかお館様の直臣となり、その才を浅井、いや天下に広めてほしい」
「いくらだったのです」
「一万一千石と、次回の徳川出兵の際の約定だ」
「今度はずいぶんと高いのですね」
飯を食い終わった高虎は、正信に向けて頭を下げていた。
長政自身、正信の事を求めている事を知っていた。小谷城の戦の前後に見せたその能吏ぶりにほれこみ、そして大倉見を繁栄させているその技量もまた長政の歓心を買っていた。
いくら功績が大きいとは言え本来なら一万石以上の加増などする気はなかった長政だったが、本多正信を移籍させると言う約定を家康から取り付けたも同然の高虎の行いを評価するとここまで上げざるを得ないもまた事実だった。ちなみにこの戦で赤尾家も一万五千石の加増を受けている。
「とは言え二万五千石、ほぼ倍近くになります。大丈夫ですか」
「大丈夫でなければ受けはしない」
「まあ、あの奥方様ですからな」
正信をして、四葩と言う存在はやはり大きかった。正信自身年の割に女など妻と四葩とお市ぐらいしか知らなかったが、だとしても四葩は特別だった。彼女ならば何とかなるかもと思わせる程度には正信も魅了されていた。
「だが殿がああして上杉を破った事により、明智光秀はなおさら我々を許しますまい」
「真っ先に攻められるのは丹後か、この若狭か」
「私は大和ではないかと愚考いたしております」
「大和か……大和ほど攻めやすい所もないからな。だが攻められるかどうかは別問題だ。本願寺は依然として静かなようだが」
「堺で最近一向宗徒が増えていると言う話をご存知ですか」
松永久秀ほど罪を重ねながら生きている人物もそうそういない。あらゆる意味で絶好の標的であり、第一の目標としては格好の存在である。
そして堺は高山右近をはじめ耶蘇教徒が強く、仏教が勢力を拡大していると言う話はなかった。だがそれが最近になって一向宗が強くなり、耶蘇教徒の拡大を止めていると言う。
「内大臣様が亡くなってからか」
「公方様が追放された頃からです」
「そんな!」
「内大臣様は自分のやる事を邪魔しないのであれば別に良いと言う方針でしたから」
一向宗が伸張しようが耶蘇教が伸張しようが、自分の理想を邪魔しなければ別にいいと言うのが信長だった。弛緩していたとも言えるが、犯罪を一銭斬りよろしく取り締まっていたのとくらべるとその方向にはおおらかなのが信長の治世でもあった。
「堺では今頃相当な収奪が行われています。あっという間に関所が作られており、そしてそれとは別に将軍復位記念と言う事でかなりの臨時徴税が行われるでしょう」
「そんな滅茶苦茶な!」
「滅茶苦茶だと思わなければ滅茶苦茶ではございませぬ。何せ敵なのですから」
敵である以上、容赦は無用。おそらくは織田や浅井と共に利益を得て来た商家も敵扱いなのだと思うと、高虎は背筋が寒くなった。
「わかりましたか。決して明智光秀に天下を治めさせてはなりませぬ!」
「わかった。最後の忠告、感謝するぞ」
今月いっぱいで長政の元へ行き、そして一万一千石の領土を藤堂家は得る事になる。
(単に主人から禄をもらい受ける、それだけの話なのに合点の行かぬ人間も出る。無論内から反論されるのは覚悟しているが、外から云々言われる筋合いもあるまいに…………)
禄高を決めるのは家の主人以外の誰でもない。それにケチをつけるのは単なる内政干渉であり、戦争の火種である。
それを平気でやるのが明智光秀であることを、高虎は改めて思い知った。
そして、その事をとっくに理解していた男は、高虎に先駆けて明智の刃を受け止める事となった。




