明智光秀、幕府再興に挑む
四月二十日、室町御所に二年ぶりに戻ってきた足利義昭であったが、その本来の主を歓迎する声は意外に少なかった。
「朝廷はどうしたのだ」
「朝廷には織田に鼻薬を嗅がされている者が多く、大っぴらに動けない人間も多いのです」
光秀の言葉に一瞬不機嫌になった義昭も、ここまでの数年間でだいたいそのことはわかっていた。
まともに天皇の葬儀も行えないほどであった天皇家も、織田の援助によりなんとか立ち直りつつあった。関白の近衛前久も石高で言えば藤堂高虎はおろかその家臣である山崎長徳以下であり、それで豪華絢爛な朝廷の行事をこなさなければならないのだから窮乏はあまりにも深刻である。
そこに目を付けた信長は近衛家以下かなりの貴族に援助を施しており、朝廷内にかなりの勢力を築いていた。
「朝廷が動かんのでは浅井や織田をしのげんぞ」
「無論追討の綸旨を願っているのですが、主上様も織田によりかなり潤っていたようで、それに負けず劣らずの給金を集めねばならぬかと……」
「そんな資金などどこにもないぞ」
「なればこそこれより集めねばなりません」
もちろん軍資金もいる。だがそれ以上に朝廷を動かすための金も要る。
それこそ織田信忠や浅井長政、徳川家康と言った連中に対する追討の綸旨をもらう必要だってある。
それらすべての資金を、織田家なしで調達せねばならない。
「誰か持ってないのか」
「毛利はくれましたがそれでも量としては知れており、本願寺は十分な額が集まるまで待ってくれとしか言って来ず……仕方ありませぬ、堺より強引に徴収をかけましょう」
「ああそうしてくれ。と言うか吉川元春も案外薄情だな、次は南の羽柴と丹羽がどうとか言ってとっとと帰ってしまいおって!」
「悲しむべきことに正論ですがね。あの二人が息を吹き返せば毛利の危機が再来いたします。但馬を失えば毛利軍は京に来る道を失います」
但馬は抑え込んだとは言え、播磨の国人は動きがない。
一番気を見るに敏そうな宇喜多直家もまだ動いているとは思えない。
頼りにしていた本願寺も、最近どうも幕府に対して冷たい。
「とりあえずだ、畠山家と一色家を三官四職から追放する旨布告しておく。その上でそなたを四職に任命する」
「そのような!浅井の眷属と化した畠山と一色の追放はわかりますが、なぜにそれがしを」
「考えてみよ、織田は羽柴秀吉とか言うどこの馬の骨かわからぬ農民上がりを平気で押し付けて来た。そんなだからこうして崩れたのだ。そうだろう、土岐光秀」
この展開を、光秀が予想していなかった訳でもない。
確かにただの家臣の分際で幕府を動かすのは義昭公認だとしても越権行為でしかないが、管領の細川昭元はまったく無気力であり、執事の伊勢貞興ではやはり格も年齢も足りない。
明智家の先祖である土岐家は歴代美濃守護の一族であり、四職にする家としては十分である。その上で浅井の家臣と化した畠山家と一色家を放逐するのも自然である。
「そのような!」
「何、謙遜する事もあるまい。それとも何か、余の命令が聞けぬと申すのか?」
「ですが荷が重いと」
「幕府再興の最大の功績者が何を言うか」
「そうおっしゃられましても」
「余に頭を下げさせる気か!」
「……わかり申した。謹んでお受けいたします」
三度は拒否するのが作法だと言わんばかりに時間を引き延ばした光秀と義昭を、光秀の重臣斎藤利三は笑って見つめていた。
実に礼儀正しく、その上でほほえましい小芝居であり、どうやってケチが付けられるのかわからないぐらい完璧。利三もまた、光秀とまったく同じ思考の中にいた。
「にしてもだ、余の命の行き届きがまだ甘いようだが」
「無論京の市中のみならず山城や丹波、摂津河内和泉のみならず近江にも徹底させておりますが、どうにもまだ一週間ですから……」
「一週間か……その一週間で世はかなり大きく動いた、そのはずだろう?」
「そのはずなのですが……なぜに皆倒木にすがるのでしょうか」
だがその二人の仲良し主従の会話は、いつも同じになってしまう。
いまだに信じられなかった。
丹波を通りながら京へと入った四月十六日、義昭と光秀の耳に入った報告は実に絶望的なそれだった。
「上杉謙信、織田・浅井・徳川軍により惨敗!」
「ふざけるな、何を言っておるのだ!」
「ですがその、武田は千五百の兵を失い北条は氏照が討ち死に、さらに上杉軍も一万以上の損害を出して越後へ撤退したと」
「虚報を流すな!」
「残念ながら確報です」
武田・北条軍も多大な被害を受け、上杉軍の内五体満足で逃げ切ったのは四人に一人。
一人や二人ではなく十人単位で次々とその報告が入り、京に入る頃にはすっかり凱旋気分などなくなってしまった。まるで三日後の藤堂高虎のように暗い顔をしながら御所に入る征夷大将軍一行の姿は、ほとんど敗残兵のそれになっていた。
――――上杉謙信ですら駄目だった。
あの越後の竜、毘沙門天の生まれ変わりと呼ばれた軍神、そして足利将軍家最大の忠臣をもってしても、信長のいない織田家を討てない。
いったい誰が織田を止められるのかと言う悲愴感が、義昭を包み込んでいた。
「佐久間信盛、滝川一益、池田恒興とか言う連中はまだ健在だ。秀吉や長秀が潰れたとか言う話も聞かない。あの場から逃げ切った前田とか言う男も残っている。その上に」
「追討令は間違いなく広めているのですが……あと滝川や阿閉、酒井にも誘いの手をかけていたのですが……」
義昭が織田信忠、浅井長政、徳川家康の三名に対する追討令を丹波で発布してから五日になるが、それに誰かが応えて兵を挙げたと言う話は一つも入って来ない。筆頭と言うべき上杉謙信が惨敗したのもあるが、三家の内部からもまったくそんな兆候がないのは光秀をして予想外だった。
「どれも重臣だぞ、そんな所を誘ったのか」
「そんな所だからです。そうして敵中核にくさびを打ち込んでこそ思うがままにできるのですから」
「確かにその通りだな、だがどうもそんな簡単には思えないのだが」
「業腹ですが簡単な事をやっていては勝てる相手ではございませぬ。信長が用いた突拍子もないやり方も真似をせねばなりませぬ」
絶対に転びそうにない相手に誘いをかける事により疑心暗鬼を生じさせ、家内の和を乱すのはよくある戦法ではある。
光秀自身織田家内部で競争に明け暮れていたから、家内の競争を強いる信長のやり方はわかる。そしてそれが軋轢を生み家内を壊すそれである事もわかっていた。実際柴田勝家と羽柴秀吉はかなり不仲であり、勝家の配下の前田利家と佐々成政も不和であった。その結果焦燥に駆られた柴田勝家は足元が固まらないまま強引な侵攻で足元が崩れ、佐々成政を失い最後には自身も力尽きた。
紛れもない朗報ではあったが毛利家がその後の出兵を渋っているのに対しこの時の損害が何とかかんとかと言う理由ができてしまい、その上に四職の一つである山名家が当主親子を失うと言う立ち直れないほどの大打撃を受けてしまった。
「本来ならば堂々と親征を興し逆賊を討伐したい所だがな……そんな兵を雇う金はどこにもなしか……」
「金だけで動くような傭兵を当てにしたくはないのですがね……」
今の義昭に直属軍などいる訳がなく、明智光秀軍も一万しかいない。山城からも兵を集めているが、それとて量は知れている。
一方で織田は尾張美濃伊勢の三ヵ国だけでも三万近く動員可能であり、松永久秀や高山右近らが加われば最悪の場合五万になる。浅井もあちらこちら守らねばならないとは言え安全圏の越前加賀から二万は動員できそうだし、すっかり両家に鼻薬を嗅がされている家康だって下手すれば一万人単位の数を持ってくるかもしれない。
「そう言えば堺からの金はどうなっておる」
「まだ届いておりませぬ。幕府の名の下に逆賊の三家に与した商家を中心に多額の徴税を行っているのですが、信長により堕落しきった商家どもは拒んでいるようで、秀満にも強硬姿勢を崩すなかれと伝えております」
「信長の下でくすぶっていた寺社や地頭層の支持を得るためにもな」
「それは無論心得ております」
もちろん光秀も義昭も、織田の政策を支持しない人間の存在を当て込んでいた。
本願寺以外にも多くの寺社仏閣や幾百年の歴史を誇る地頭がおり、幕府を代々支えて来た。その彼らのほとんどは信長の政策により没落し、貧窮の最中にあった。光秀は幾度となく古くよりこの地域を知る彼らの意見を聞くように信長に申し出ていたが返事は梨の礫に近く、その間に彼らはますます没落した。既に光秀を通じ、彼らの権限を認め信長が叩き壊した関所や座も復活させるつもりで動いていた。
「無論その関所から取った関銭の一部を我が元に集めるのだな」
「ええ、その資金をもって幕府再興の礎とするのです。苦く汚い織田と違い正当なる政権である幕府ですから、まともな人間は好んで喜捨するでしょう」
「はっはっは、光秀、おぬしも大した男だな」
昭元も貞興も置き去りにして、ほぼ二人だけで何もかも決められて行く。
三人目の斎藤利三は末席でじっとしているだけでほぼいてもいなくても同じであり、せいぜい二人の決定事項を頭に叩き込むぐらいしかする事もなかった。
とりあえず話がひと段落したと言う事で義昭は腰を上げ、光秀と利三と一緒に飯を食いに行くことになった。
だが相変わらず、飯はまずかった。
京を追われた際に残っていた膳部もすべて織田家に渡ってしまい、引き戻そうにも戻ってきた人間は一人もいない。その上に食材も織田や浅井に渡っており、今頃は浅井長政辺りに流れているのかと思うとまったく気分が悪くなる。
「上様」
「良い……未だ幕府再興遠しと言う事を感ずるには良い味だ」
「上様にも左馬助(秀満)殿にも悪いですが、拙者は殿と一緒に飯が食えるだけでも良いのです」
「構わぬ、さすがは明智光秀が忠臣よ」
少しは気分が晴れたものの、二年前は飯はうまいのにまるで展望がなく、今は気分は良いのに飯がまずいと言う世の中のままならなさを感じた義昭の箸の進みは依然として悪い。利三のらしくもないお世辞に少しだけ気分が良くなったものの、それでも焼け石に水だった。
「上様にはいずれ良き食事を召し上がり、ゆっくり休んでいただかなければなりませぬ」
「わかっておる、そのためには余も尊氏公や義満公のように」
「露払いはお任せ下され」
膳を片付けさせた義昭は、征夷大将軍たる事を示すように肩で風を切って歩き、光秀と利三もそれに続く。
幕府の完全なる再興と、とりあえず目先の問題として山城で丹羽に属していた連中を狩りに行く日を楽しみにしながら、光秀は頭を下げながらも笑っていた。
※※※※※※※※※
「未だ攻略ままならずと伝えておけ、いいな」
その光秀が一番あてにしていた本願寺の独裁者である顕如がここまで醒め切っていた事など、義昭も光秀も知らなかった。




