柴田勝家、丹後に死す
「残念ながら、もはや手の施しようがないと」
「ああそうか!」
次に勝家が目を開けた時、そこは地獄ではなかった。紛れもないこの世であり、その上やけに空が高く見える。
「親父殿!」
「利家、か?」
「ああそうです!よくぞご無事で!」
前田利家が自分に取りすがって泣いている。泣き声も涙も間違いなく本物であり、そして利家の顔色の良さもまたここがどういう場所か語っていた。
「まだ生きていたのですか」
「そのような!」
そしてその利家と自分に向かって悪意に満ちた言葉を投げつけて来たのは、間違いなく一色義道だった。
「ここは」
「一応救援に来たのですよ、右衛門佐殿には逆らえませんからね!」
右衛門佐こと田中吉政が利家とこの義道を自分の救援に寄越したのだろうかと考えた所で急に痛みがぶり返し、体をよじりそうになる。
やがて横になりながら聞いた所によると意識を失ってすぐ後方より田中・一色・前田連合軍がやって来て吉川軍を後方より攻撃、それにより戦力の損耗を避けた吉川軍が追撃をやめたらしい。
「八千人がたったの千八百人ですか、ああ実に素晴らしい用兵ですね!」
「一色殿!」
「私はこんな男に下げる頭なんか持っておりませぬので!」
義道は相変わらずえらく不機嫌だった。利家の前でさえ自分をあからさまにそしり、その上でまったくそれを撤回する気配もない。利家すらもひるみそうになるほどの悪意をむき出しにして、横たわる勝家を見下ろしている。
「わかりませんね、なぜにあんな真似を!」
「それは……」
「いえ、明智光秀の事ですよ?あそこまで優遇されておきながらよくもまあ裏切りなどできる物です、逆に羨ましいと言う言葉はまさしく彼のためにありますな!私はそんな大胆な真似などできない小心者なので!」
「口を慎んでいただきたい!」
「手を慎まなかった人間に対し口を慎めと?」
ここぞとばかりに悪意をまき散らす義道の顔は見えないが、その挙動に対し納得することはできた。
自分自身、高虎が会いに来たと聞いた時からその事ばかりを考えていた。
天魔の子と言われながら、同時に逃げの達人とも言われている男をどうやって引き出すか。ない頭を絞って考え出し、ああして実行した。それだけの事だった。
「但馬はもはや毛利の……」
「そうなるでしょうね、あなたが山名親子を殺しちゃいましたから!」
「山名親子を!?」
毛利軍に走っていた但馬領主の祐豊、氏政親子が自分の手にかかっていた事を知って目を見開くと、義道はこれ見よがしに頭を抱え込んだ。
「威が落ちていたとは言え山名は但馬の領主でした。国人は柱を失い西の毛利か東の浅井に従うかしかなくなってしまった!」
「仕方がないでしょう、目の前の敵を討っただけなのですから!」
「だいたい山名を手なずけてからでもまったく遅くはなかったはずです、まさか若狭守殿ならばそうするだろうからしなかったとでも」
「それについては私にも責任はあります!」
利家と義道が言い争う中、勝家は先ほどのどこかの誰かの言葉を思い出していた。
「もはや手の施しようがない」
まだ生きている事さえ信じられないほど、身体が痛み出した。それこそその言葉が事実であり、自分があとどれだけ生きられるかわからない事を雄弁に物語っていた。
「これを……」
痛む手を動かし、懐に手を突っ込む。そして書状の感触を得て、震える手でつかみ上げた。
「親父殿!」
「これを、若狭守に……」
「私は結局置き去りですか!」
利家が自分の書状をひったくるのを感じた勝家はまぶたを閉じようとしたが、それでも義道はそんなことでごまかされるなとばかりに足を踏み鳴らす。改めて義道の敵意の強さを感じ、そしてため息を吐いた。
「最期に聞きたい!何故あんな馬鹿げた真似を!」
「馬鹿げた……?」
「なぜ、なぜ若狭守殿を殺そうとした!!」
「……そうか。殺そうとしたように見えたか……つまらぬ嫉妬よ」
予想通りだなと言わんばかりに首をすくめた利家と開いた口が塞がらない表情になった義道に構う事なく、勝家はその全てを話した。利家が悲愴な顔で勝家の遺言を聞く中、義道はだんだんとその顔から気力が失せて行った。
「詰まる所十幾年にわたり、浅井越前守様に自分が恋慕していたお市様を取られたことが気に食わず、五年前にその越前守様の代わりにいたぶってやろうとしたのに逃げられた若狭守の事が腹立たしかったと………………」
「ああ、だからこそ、真剣な戦いぶりを見たかった……」
「たったそれだけですか!?はっきり申し上げます、私はあなたがもう持たないと思ったからこそ助けに来たのです!」
「やっぱりな……」
「何がやっぱりですか!前田殿でしょう、あんな殊勝な文を寄越したのは!あなたなどにあんな事が書けるはずがない!」
「ああ、その通りよ。わしは、結局いい年をして十年以上前に人様の物になった女を忘れられず、五年以上前に逃げられた相手を未だに忘れられない程度の男よ……その二つの未練が殺意に化け、隠し切れなかったという事だ……」
「あな情けなや……!」
「若狭守殿にお伝え下され、どうか上様の仇を、討って、下されと……」
そこで柴田勝家の呼吸は止まった。呆れるほど安らかな顔で眠りについた勝家の遺体を見ながら利家は泣き崩れ、義道は勝家と利家から大きく目を背けた。
「なぜに、なぜにこんな事に……どこまでも情けないお方だ……」
勝家が息を引き取って四半刻後、一色義道が勝家の事をあくまで非難し続ける中、涙を涸らした利家は無言で文を記していた。
「一色殿の浅井に対する忠義、しかとこの前田利家が見届けた……。
だが浅井越前様はかつて愚父に敵対する家の家臣の娘を押し付けられた身、内大臣様とて帰蝶様と最後まで添い遂げる事ができたとは言え元々は斉藤家と織田家をつなぐかすがいとしてのそれ……私や藤吉郎のような農民でもなければ自由に相手を選んで好く事などとてもできない事。親父殿の立場ならばそれこそ好ましい女など何人でも抱けた。それをしなかったのはすべてお市様に対する恋慕が勝ったからだ」
「馬鹿な!」
「その通りだな。親父殿は馬鹿をやった。だがそれでも私は親父殿を尊敬する。ここまで逃げ込めたのも、その思いを伝えたいと言う覚悟あってこそだったからな。
一色殿、人間すべて死ねば神仏です。どうか親父殿を許して下され……」
田中吉政の手により遺髪は尾張へと送られ、遺骸は若狭で眠りに付く事となった。
東向きに建てられたその墓には、紛れもなく勝家が愛した女を守らんとする気持ちが込められていた。
その後すぐ利家は残った兵を連れて越前へと向かい、義道は田中吉政と共に丹後の守りを固めていた。
毛利軍も一応但馬は抑えたものの損害が少なくなく、また南の羽柴秀吉と丹羽長秀の事もあってこれ以上の出兵はいったん断念する事としたのである。
※※※※※※※※※
話を聞き終わった高虎は、利家から渡された書状を開いた。
「藤堂若狭守殿。これまでの幾度にわたる無礼、謹んでお詫び申し上げる。
わしはかねてよりお市様に対する恋慕の情抑えがたき事を自覚しており、かつて織田の内部で津田(信澄)様のお父君をかついで興した乱もまたそこに起因する物だ。そのような不祥事を起こしておきながら許して下さったお館様に対し、わしは分不相応にもお市様を求めようとした。裏切り者など、しょせん農夫だとさげすんでいた筑前殿より下でも一向におかしくない扱いだと言うのに、まったくその事を都合よく忘れてしまった。
そしてお市様が越前守様に嫁いでから六年もの間、ただただ逆恨みによってのみその命を生き長らえて来た。本当なら、一刻も早くお市様を寝取った男をぶった切ってやりたいと思いながら。だからこそ、その男の寵愛しているであろう若狭守殿を叩き斬って留飲を下げてやろうと思った。大殿様(信長)や筑前には喧嘩をしたいと言っていたが、わしは本気だった。
若狭守殿の兄上を死なせた事に対しても、深くお詫びするより他ない。わしはその亡骸を見た時どこか安堵の気持ちが湧いてしまった、これで少しは若狭守殿を泣かせる事ができたと。無論反省はしたつもりだったが、それでもなお時が我が想いを解決することはなく、逆にぶり返すばかりだった。
ゆえにあの時、既にその戦いぶりを知っていたはずの若狭守殿に向かって衝動を抑えきれなくなった。若狭守殿が避けたのも、犬千代が怒り狂ったのも、丹後(一色義道)殿がそっぽを向いたのも、まったくもっともでしかない。
全てはわしの愚行による罪であり、悪いのはわしだけである。決して他の誰も責めないでもらいたい。無論、若狭守殿ご自身も」
高虎は利家から渡された手紙を読了すると、深くため息を吐きながら懐にしまい込んだ。
「親父殿は、是非とも若狭守殿に前を向いていただきたいと思っておりました」
「私はその気になれば平気で逃げる男です。もしそうでなければあるいは柴田殿を救えたかもしれません」
「逃げる事は才能です、誇るべきそれです。あるいは親父殿はそれに嫉妬していたのかもしれません。私だって逃げられる男じゃありませんよ、藤吉郎は平気みたいですけど」
「逃げる才能ですか、そんな才能を褒めてくれたのはこの世で二人目ですよ」
「一人目は奥方様ですか」
「無論その通りです」
「そうですか、それはそれは……まあ逃げられない人間と言うのは弱い物かもしれませんがね。親父殿もそうだったと言う事なんでしょうか」
「ぶしつけながら、そうかもしれませぬ」
一向宗も、武田信玄も、上杉謙信も、逃げる事の出来ない人間だった。
逃げれば地獄へ落ちると言いふらしてきた以上自分も逃げられなくなった一向一揆、逃げれば家が傾く立場であったとは言えそんな遠征を敢行してしまった武田信玄、そして放っておけばいいはずの自分から逃げられず血眼になって追いかけた上杉謙信。
それらを踏みつけにして富と名声を手に入れたのが、藤堂高虎だった。
「明智光秀もまた、逃げられない男なのかもしれません」
「油断大敵ですぞ」
「わかっております。それで前田殿は」
「とりあえず美濃へと帰ります。そして親父殿と成政の残した兵と共に光秀を打倒したい旨申し上げます」
「織田と浅井と徳川に勝利をもたらすべく、共に戦いましょう」
高虎は利家に向かって右手を差し出し、利家の節くれだった右手をつかみながら振った。
「しかし道中で上杉に対する勝利を聞いた時には、まだ織田も戦えると思いました」
「わしもその事を聞いて実にうれしくなった。東に脅威がない以上、次は安心して西へ当たれる。まあすぐさまとは行くまいがな。前田殿、どうか決戦の時は」
「よろしくお願いいたします!」
利家の背中を見送りながら長政は手を振り、そして勇士の死を悼むかのように手を合わせた。
「若狭守、そなたはとりあえず大倉見へ帰れ。彼女が待っているぞ」
「はい……」
高虎は深く頭を下げながら、城を出て西へと駒を向けた。
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