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天魔の子・藤堂高虎  作者: 宇井崎定一
第八章 上杉謙信の挑戦
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上杉謙信、無念を胸に抱きしめる

「景勝様、景虎様共に撤退!と言うか敗走!」

「何をやっている……!」

「景勝様はある程度軍勢の体裁を保っておりますが、景虎様と斉藤様、そして色部様の軍勢はとても……!」




 謙信は徳川軍から逃げ、そして藤堂高虎を討つべく西に馬を走らせながら、白い顔を憤怒と返り血によって真っ赤に染めていた。

 そしてようやく戦場に戻って来るや自軍の惨状を聞かされてますます顔が赤くなり、同時に顔以外は白くなった。







 上杉勢がなぜ、そうも簡単に崩れるのか。




 自分が藤堂高虎を追い回したからだとでも言うのか?


 あらかじめ自分が単騎突撃をした際に備え万一の場合に備え景勝に主導権を任せるように命じたのに?


 いくら徳川軍の襲来により自分たちが危機に陥ったとしても、ここまで簡単に崩壊するのはおかしいではないか。



「天魔の子は、天魔の子は……」

「もはやこれ以上あんな男にこだわっている暇はございませぬ!早急に信濃まで引きましょう!」

「上杉の将兵を見捨てる訳には行かぬ……今頃天魔の子と魔王の子の爪牙にかかっているかもしれぬのだからな…………」


 自分が藤堂高虎にかまけて置き去りにしたくせに、まったく反省することなく謙信は駒を飛ばす。


「絶対あの男は我が将兵を後ろから食い荒らしているのだ!我が上杉の精鋭を犬の犬の餌などにされてたまるか!」

「ぶしつけですがせいぜい数千で二万の後ろを突いた所でどこまでできるのか、むしろ大歓迎かと思われますが」

「ただ対陣しているだけの最中にやって来る五千と全軍突撃の最中に向かって来る五千では訳が違い過ぎる!いくらお館様が藤堂を常日頃から憎んでいたとしても結局は織田が第一だった軍勢だ、それを急に向きを変えられる者などいる訳がない!」

「それでは高虎を最大限に評価しているではないですか!」



 景恒の理屈で行けば、上杉軍の中に高虎のような自在に兵を動かせる存在はいない事になってしまう。

 それではさんざん犬の犬とか言う蔑称で呼ばわって来た謙信たちはそれ未満になってしまいますがと言う真っ当な兵士の指摘に対し景恒は刃をもって報い、そして謙信もまた彼の言葉を顧みる事はしなかった。




 ちなみに上杉軍が崩れたのはいきなり総大将にして最大の戦力が消失したことによる混乱と戦力低下、それを確認した織田軍の謙信敵前逃亡と言う虚説に滝川勢の立て直し、そしてここぞとばかりに兼山城からの池田軍出撃があったからである。




「どこだ、どこにいる、どこの後ろを突いている……景勝か、景虎か……それとも斉藤か鬼小島か……」


 謙信は必死に藤堂の旗を探し求めるが、どの軍の後ろにも蔦紋の旗がない。突破されたかもと思ったが、織田勢に混ざっている様子もない。


「どこだ、どこへ逃げた……」



 わからないが、とにかく討たねばならない。



 あの男を生かしていては民に安寧はない、この遠征に意味はない。



 織田信忠か藤堂高虎を殺す。いや信忠は頭を下げれば生かしてもいいが高虎だけは絶対に放置できない。

 謙信と景恒は、すべての神経を張り巡らせて藤堂高虎を追い求める。


「やはり逃げたのです!」

「どこへだ!」

「美濃は織田の本拠地、その気になればいくら迷ったとしても信濃に入らぬ限り安全地帯です!」


 だが美濃の北は飛騨、南は尾張。いずれにせよ浅井の人間を受け入れる土壌である。山地にでも抜けられたらそれこそ一巻の終わりだ。


「俺は……ここまで一体何しに来たのだ、何のために生きて来たのだ……」

「別に終わった訳ではございません!いったん逃げ延び、次の機会をうかがいましょう!」

「なぜ止める!」

「藤堂高虎にとっての勝利とは、我らを討つ事ではありません!逃げる事です!」


 若狭からわざわざ出てきておいて逃げるのが正解とは、まったくずいぶんな話だ。

 景恒はおろか謙信の知る兵法にも一文も載っていない戦い方であり、同時にありえないぐらい卑劣な戦法でもあった。


 一応後方に控えていた北条軍と武田軍に大きな打撃を与えたと言う戦果を出したとしても、そんな枝葉末節の現場で戦果を挙げたぐらいで知った事かいと言わんばかりに逃げ回るなど織田にとってさえ不義理ではないか。


「まさか当初からこのつもりで!」

「そうだとすればつじつまは合います。そして残念ながらお館様は藤堂めの策にはまってしまったかと……………………」


 逃げ回るのが、藤堂高虎の策だと言うのか。織田信忠でもないくせに。上杉軍を混乱させるために見栄も外聞もかなぐり捨てて、挑発のためにだけ出て来たと言うのか。




「ふ…………ざ…………け…………る…………な…………」




 絶望が景恒の心をわしづかみにし、そして地に叩き付けた。元からたまっていた怒りと憎しみが景恒を悪鬼羅刹に変え、すべてを侵して行く。


「は?」

「ふざけるなぁ!あの簒奪者め!せっかくここまで来ながらまた平然と尻尾を巻いて逃げ出すのか!そして姫様を堂々とそのふざけた肉体で犯し、そしてこれが朝倉の子だとか言って浅井の前でへこへこするのか!」

「まだ機会はございますが」

「うるさい!もうこれ以上、あんな男を生かしておけるか!」

「所在すらわからないのですよ!」


 必死に止める上杉兵を槍で叩きのめすと、景恒は持てる感情の全てを憎悪に変えながら馬を走らせ出した。


 天魔の子に勝つには自分が天魔になるしかないとでも言いたげに、景恒は「藤堂高虎」と言う存在を求める暴食の獣と化した。




「フハハハハハ!!天魔外道の藤堂高虎め!この朝倉景恒が全てをかけて、貴様を地獄、無間地獄へと送ってやる!上杉のために、朝倉のために、四葩様のために!!」




 人間のそれではない笑い声を挙げながら、景恒は一人きりで細久手へと入り込む。

 まったく根拠のないあてずっぽうを、しかもめちゃくちゃな速度で。



「お館様……」

「期待しようではないか」


 謙信の言葉に、決して後悔の念はなかった。

 苦しい時の神頼みを地で行くような最後のお願いにすがりながらも、真田昌幸の言葉に耳を傾けなかった自分を諫めるつもりはびた一文なかった。


 細久手の先は岩村である。岩村は武田軍がいるが数は知れており、下手すると内乱が起きているかもしれない。とは言え逃げるならば悪くはないが、あれだけの事を言っておいて逃げるような腹芸のできる人物であるならばこんな決断をするわけはない。

 もう細久手などどうでもよく、ただただ単純に藤堂高虎の血肉を喰らおうとしているだけ。そこまで落ちた存在に対し、謙信はまだ期待を抱いていた。



「必ずや彼は犬の犬の血肉を食い尽くし、天下に安寧をもたらすであろう。そのために我々は何としても邪魔をする織田を食い止めねばならぬ。行くぞ」

「はい…………」




 冷静な顔のまま謙信が能天気な事を言い出し、兵たちもまた元気なくうなずく。


 ただでさえ今日だけで細久手から御嵩までおよそ五里(約二十キロ)の道のりを往復させられており、その上に高虎追撃で走り回っている。その上にまた走るとなればどう考えても体力が持たない。

 いくら上杉謙信に対する絶対的忠誠心があったとしても、重たい装備を付けている兵たちにはもはや限界である。


 実際謙信軍五千はこの時二千になっていたが、戦死者は三百もいなかった。それ以外の犠牲者はすべて疲労困憊による落伍者であり、謙信はまったく彼らの存在を顧みる事はなかった。




 そんな人間ばかりになっていた事に謙信が気付いたのは、景勝と景虎を追いかける織田の兄弟を見た時だった。


「父上!どこへ行っておいでなのです!」

「疾く退きましょう!」

「…………やむなしか」


 自分はまだ元気だったが兵たちが付いて来られない事を悟った謙信はようやく敗北を認め、織田の兄弟を受け止めにかかった。だが信雄も信孝もまるで謙信を気にせず、二人の息子の率いる部隊の中から逃げ遅れた連中を適当に狩っているだけだった。


 二人は先頭だったので逃げられそうだが、少しでも逃げ遅れた兵はすぐさま死体に変えられる。何とか謙信の所まで逃げ込んだとしても、そこで力尽きて倒れる者も続出した。倒れている人間を回収しようにもただでさえ逃亡中の上に他の人間も疲れているため、次々に仲間の足によって踏み殺される。



「斉藤と鬼小島の隊はどうした!」

「既に撤退はかなり進んでおりますが両名の生死は何とも」

「細久手へと集え!あそこは守りやすく攻めにくい場所だ!」

「はっ……」



 織田勢に逃げ場所を布告してももうどうでもよかった。二人の寵臣と手塩に掛けた武将たちの死が惜しく、同時に藤堂高虎への憎しみと怒りが肉体を支えていた。


「おのれ藤堂高虎め……次に会った時こそ貴様の最後だ……!」







 藤堂高虎が、あらかじめ細久手の側に控えていた事。

 ほぼ動かないままじっと時を待ち、北条・武田軍を蹂躙して赤尾軍に後を任せ、影武者まで用意して逃げ回った事。


 そして北にある高根権現山に入り、そのまま木曾川を西へと進み北側から逃げ惑う鬼小島軍を北から叩き、最後にはその命をも奪って兼山城へと帰った事。




 上杉謙信は、それらの事を最後まで知る事のないまま、数百にまで減った兵と共に細久手へと逃げ込んだ。




※※※※※※※※※




 景恒は、たった一人で走った。馬が潰れたと見るや乗り捨て、文字通りの大童になって藤堂高虎を追い求めた。




「おのれ……おのれ……!!」



 上杉謙信も織田信忠も、もはやどうでもよかった。



(四葩様……俺は、俺の手で、あの藤堂高虎を倒します……そして、朝倉の真なる繁栄、真なる栄光、そして真なる正義を、毘沙門天の名の下に……!)


 有難迷惑などと言う次元を通り越した自分勝手極まる妄想が、景恒の中では名案になっている。


「父上のためにも、おそらくは毛利と共に正義のために戦っている父上のためにも!俺は何としてもあの輩の首を取らねば……」


 喜んでいるのは自分と父親の景紀、たった二人のためだけの朝倉再興計画。それだけが男を支え、生かしていた。




 そんな景恒の目に、体勢を立て直せないまま赤尾軍と激突して崩壊し打ち捨てられた武田菱の旗や、遠すぎる小田原からの遠征の上に山越えで体力が尽きてしまう程度の兵ばかり抱えていた北条の三つ鱗の旗は目に入っていなかった。

 もちろん、武田軍の兵士がこれだから真田昌幸は信用されるはずだと陰口を叩いている事など知る由もないし、それがやはり自分を連れて来るなと言った昌幸は正しかったと言うたぐいのそれである事など夢にも思わなかった。







 そんな風に自分の世界に籠っていた景恒は、ひとつの村落にたどり着いた。岩村城から半里余りのその村落の側では、敗走して来た北条や武田の兵が肉体を引きずっていた。







「わしは上杉軍の朝倉景恒だ!藤堂高虎とか言う男がいずこにいるか教えろ!

 おう早く申せ、おらぬならばおらぬで良いわ!」


 景恒は真っ赤な目で、住民に向けて大音声で高虎の名を求めた。

 その声に呼応とするかのようにひとりの老人が現れると、景恒は元気を取り戻して器の大きい所を見せんとした。


 だがその途端、景恒の肉体が大きく揺れた。


「おい何をする!わしは越前より越後に逃れた朝倉家の正当なる家臣朝倉景恒ぞ!」

「ざけんじゃねえこの野郎!」

「越前がどうだか知らねえが、越前なんて浅井様の土地だろうが!」

「上杉だと!貴様らが美濃を荒らし、川尻様も殺したっつーのかよ!」


 ぐらついた景恒に体当たりがかけられ、その上に次々と農民たちがのしかかる。


「ふざけるな、簒奪者の浅井を……藤堂を……!」

「藤堂!?あの殿様がさんざん褒めてた藤堂様を!?」

「そうだそうだ、殿様は藤堂様を召し抱えている浅井様を非常に羨ましがってた!そいつの一体何が憎いんだ!?」

「何もかもだ、何もかも……!貴様らは自分の娘が他人に犯されても」

「何だと、藤堂様って言えば尻に敷かれてる男だって羽柴様や前田様と並んで有名だぞ!」

「ふざ、ける、なぁ……」


 声だけは出るが、肉体が動かない。


 凡人とか天才とか、熟練とか未熟とか以前に人間の限界をとっくに突破していた景恒には、もはやなすすべはなかった。




 朝倉景恒の希望は何一つ果たせぬまま、農民たちによって首どころか四肢まで八つ裂きにされた。




 そして北条氏照もまた、上杉謙信軍への攻撃を終えて待機していた徳川軍の攻撃を受け、その首は榊原康政の手柄の道具とされた。仁科盛信と小山田信茂は逃げ切ったものの、天竜川の戦いに続きまた大きな犠牲を産む事となった。




 そして上杉軍ももちろん数多の死者、負傷者、捕虜を生み出し、春日山城を出た時とは別物の軍隊になって岩村城へと入り込んだ。


 だが自業自得とは言え自分たちにすさまじい敵意を抱いている住民たちの住む城に長居などできず、上杉軍は一日で岩村城から撤退。一日休んだだけの強行軍のためまた余計な犠牲が生まれ、そして武田軍も岩村城内部の情勢を鑑みて岩村城から撤退した。







 この上杉・武田・北条による三軍合同遠征は、武田家に苗木城を取らせるだけで終わったのである。

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