藤堂高虎、上杉謙信に討たれる
トリックオアトリート!
「岩村へ向かえ!」
最後方に構える藤堂高虎は、大きな声でそんな指令を飛ばしていた。
武田軍が占拠している岩村城など、本来ならばとてもこんな状況で行ける場所ではないはずだった。
だが、待てよと言う人間はいない。
「岩村の民は織田を慕い、上杉を憎んでいる!岩村へ行けば敵は手出しできない!」
岩村から武田軍が出てくればそれこそ思う壺であり、出て来ないとしてもいくらでも逃げ場があるのが藤堂軍だった。
岩村という地は一応武田にとっては旧領国ではあるが、いかんせん現在の状態が悪すぎる。武田が普通に攻めて普通に落としたのならばともかく、武田の友軍となっていた上杉が徹底的に戦闘員を虐殺したのだから心象は良くない。下手に城を出て迎え撃てば、それこそ内部から動乱が起きる可能性がある。
「おそらく上杉はすべての力を兼山につぎ込んでいる。岩村までは何の障害もない、だが真正面から突っ込んで落とせる城ではない」
細久手へと突っ込もうとした所で、高虎は部隊を二つに分けた。
自分は大将らしく千の兵で最後方に構え、そして残る四千を細久手へと進ませる。両軍とも急激に速度を落として兵を休ませ、その上で止まる事はしない。
高虎の太刀が初夏の光を浴び、輝いている。一体この太刀で何人の人間を斬ったのかと思わせるほどには美しく、そして高虎もまた大きかった。
「北条や武田は追って来るのでしょうか」
「来られないだろうな。赤尾様の軍勢にかかずっておいでだから」
「それにしては何か……」
「ああ。また別の敵がいるからな、我々には」
「岩村の武田ですか」
「先陣だけで片が付けばいいがな、絶対そうはならない」
高虎は愛馬から降りて小便を地に垂れ流しながらため息を吐く。大胆と言うより悠長な行いかもしれないが、実際戦場では恐怖や暇がないと言う理由で大小問わず失禁する兵は少なくない。
「愛王様もよく失禁なさっていたそうだからな、年とかうんぬん以前にそういう目に合うのは武士として仕方がなくはある、とは言え死んで小便で濡れた褌を見られたいか?」
「確かに……」
「さてと、もう終わったし、改めて前進を開始するか」
高虎がふんどしと鎧を直しながら馬上の人となって東を向き、前を行く将兵たちがそれに追従せんとした途端、後方から歓声が響き渡った。
「これは!」
「北条か?武田か?」
「違うわ!!」
追跡して来たのは毘沙門天の旗を立てた軍勢だったが、先鋒にはなぜか朝倉の旗が混じっている。
「敵が来たぞ」
承知していたと言わんばかりにゆっくりと向きを変え、そして先ほど吠え掛かった男の面相を高虎は確認した。
「俺が、俺たちが……この日をどんなに待ち望んだ事か!今日こそそのふざけた頭、叩き落してやる!!」
「そなたの名は」
「朝倉家重臣、朝倉景恒だ!やがて、四葩様と妹様達、そして愛王様を何としても救い出す!貴様だけは絶対に生かしておかん!」
「そんな妄想を信じている狂信者に付き合うほど暇じゃない。上杉家の家臣として繁栄せよ」
景恒の中では四葩も愛王も義妹たちも、日々奴隷のようにこき使われて泣いている。それで今か今かと助けを待ち、朝倉の栄光を取り戻す事と自分たちを踏みにじった浅井と織田の没落を望んで恨みつらみと共に生きている、そう信じて疑っていない事を察した高虎の言葉はまったく冷ややかだった。
「全く予想通りだったな、では岩村城へ行ってくるので」
「その分厚い面の皮、叩き斬ってやるわ!!」
いつものように踵を返し、岩村城へと駒を飛ばした。景恒は怒り狂って向かって来るが、まるで気にする様子もない。
「まったく、都合が悪くなるとすぐ逃げる!天魔の子ってのはただの逃げ上手か!?」
「それも才能だろう、そう妻は言っていた!」
「貴様ごときが姫様を妻呼ばわりする資格などない!」
「私が死ねば、妻も死ぬ!朝倉の血を引く、左衛門督の孫も死ぬぞ!」
「どこまでも減らず口を!」
後ろを向きながら減らず口を叩く高虎に釣られ、景恒は全速力で馬を飛ばす。兵たちも付き従い、藤堂高虎を求める。
「その威張りくさった面、今すぐ叩き落してくれる!」
「いずれ私は死ぬのだからあわてる事もあるまい」
「その前に姫様が死ぬわ!」
高虎は憎たらしい事に、少し距離が開くとわざとらしく休止する。そして差を詰めようとするとまた走り出す。
「どこまで岩村の武田勢を舐めているのだっ!」
「その責任は上杉謙信にあろう、なぜに川尻の人間を皆殺しにした?」
「上杉様の正義と慈悲を理解しなかったからだ!」
「危険だ、危険すぎる。そんな存在が天下を治めようなど大それた真似をするな」
「何を、ただ公方様の下でまともに生きれば良いと言うだけの話だ!それがそんなに難しいのか!?まったく、貴様のせいであの磯野とやらもあんな真似をしたのだな!」
藤堂高虎は逃げながらも、嫌味ったらしく景恒に言い返し続ける。
景恒の頭はどんどん沸騰し、この戦まで全く関係のなかった兵たちを引きずり回す。
「私憎さに加賀守様まで言いくさすとはな、と言うよりあの事件はそもそも農民が勝手にやった事だと聞いているが」
「馬鹿も休み休み言え!貴様の魔力に当てられて善良な民百姓が狂ってしまったのだ!
いや貴様のせいで磯野も、こら待て浅井長政をもその怪しげな力でたぶらかした主君殺し男めが!」
ついに付き合っていられないとばかりに言葉も出さず逃げ出した高虎は、やけにきれいな太刀を抜きながら東へと走って行く。
景恒も口を閉じて追いかけるが、差が詰まらない。
(だいたいの話、一体どこにいたと言うのだ!)
実は高虎はあらかじめ美佐野の南東、土岐川沿いに陣を張っており、兼山城の方にばかり目が行っていた上杉軍から隠れていただけである。北条も武田も二線級の上に土地勘などまったくない人間の集まりであり、織田の同盟勢力である藤堂軍を探知する事などとてもできなかった。
いずれにせよ、藤堂高虎を殺さねばここまで来た意味など何もないと言わんばかりに必死に追いすがる景恒であったが、その景恒をあくまでも嘲笑うかのように高虎は急に最後方から前方へと駆け出した。
「おい待て!ふざけるのも大概にしろこの簒奪者めが!」
景恒の言葉に対して返って来たのは、馬蹄の轟きと弓矢の羽音だけだった。かろうじて景恒は矢を叩き落したものの、数名の上杉兵が客死を遂げる事となった。
「朝倉景恒殿……もうこれ以上四葩様の御心を悩ませるな。おとなしく上杉の臣下として生涯を全うせよ」
「そうだそうだ、真柄様の言う通りだぞ!」
そして高虎と入れ替わりのように出て来たのが、真柄直基だった。自慢の太刀を持ち、馬上から上杉軍を見つめる姿はまさしく猛将のそれであり、上杉軍すらひるんでいた。
「き、き、貴様!真柄直基!おのれ、浅井に殺された父親の事を何だと思っている!」
「戦場で死んだのだから仕方がない。今のこの太刀は私を拾い上げてくれた若狭守様のためにある。私は藤堂軍の真柄対馬守直基だ」
「何が対馬守だ、毘沙門天の名の下に目を覚まさせてやるわ!」
対馬守などと言う高虎が投げて寄越しただろう虚名を、正々堂々とすまし顔で名乗る直基、かつて同僚でもあった存在の変節は景恒の血をさらに沸騰させた。
景恒は朝倉でも筆頭級であったはずの武勇の持ち主にもひるまず斬りかかり、怒りと憎しみと悲しみを武器に直基を死体にしてやろうとするが、直基の刃はさすがに鋭い。
景恒と戦いながらも直基は上杉の兵を斬り、その上で弓兵に援護させる。
「こんな所で戸惑っていては藤堂を逃がしてしまうわ!」
「別にいいではないか」
「いい訳があるか!」
余裕がある側とない側の戦いがどういう結果をもたらすかなど、答えは見えている。
一刻も早く討たねばと言う焦燥に駆られた景恒の刃はだんだん滑り出し、足止めに成功すればそれでよしの直基の刃は実に軽い。
その間に矢が次々と放たれ、上杉軍の犠牲が増えていく。
「こんな調子では……!」
なぜだ、なぜ勝てないのかと景恒がうめきそうになる中、また一人の男が飛び込んで来た。
「真柄直基と言ったな。なぜ藤堂などに与する」
「おお、お館様!」
「私は自分を拾ってくれたもののためにこうして戦うまで」
いつものように投降の勧誘をしてから刀を振るう上杉謙信に対し、直基は改めて気合いを入れ直しながら斬りかかる。
「家臣と言えど主の乱行にはその身を賭して諫言すべし。今からでも遅くはない」
「いつ何時乱行をしたのだ?」
「それが世に名高き真柄親子の見識か……あな情けなや」
「景恒、千福丸様を泣かせるような真似をするのが朝倉の家臣の役目か?」
「千福丸だと!高虎めが四葩様を犯した末の忌み子ではないか!そんな人間は泣かせて構わん!」
「謙信の名を汚すな!」
二対一なのにも構う事なく、直基は刃を振るう。
景恒の言葉と謙信の刃を同時にいなし続けながら、藤堂高虎を逃がさんと欲していた。
「真柄直基。彼女には良き男が他にいる。魔力に当てられた哀れなる姫を解放してやれ」
「ああそうか、付ける薬などもうどこにもなかったわけか。ありがたくその言葉受け取っておくぞ!」
自分の理想のためならば赤子を殺す事さえいとわないと言い切った景恒とまったくそれを止める気のない謙信に愛想を尽かした直基はなおも刃を振るい続けるが、さすがに謙信の刃は鋭く重たかった。援護の弓兵の矢を物ともせずに姫鶴一文字を振るい、直基を追い詰めていく。
そしてついに、直基の脇腹を姫鶴一文字がかすめた。
「うっ!」
「真柄様を守れ!」
「藤堂高虎など見捨てれば良いのだ、さすればわしはそなたらを追わん」
直基を救うべく兵士たちが一斉に取って返し謙信と景恒に取り付くが、謙信はこれまでと同じように哀れみを込めた刃で彼らを薙ぎ払う。しかし謙信の強さを感じた兵士たちは逃げもせずに景恒に取り付き、数発の打撃を食わせながらも美濃に散った。
「ああ、どこまでもどこまでも!!」
「景恒、こうなったのもすべて藤堂高虎のせいだ。我らで討とう」
言葉通りに取り付いてくる兵士たちもいつのまにか消えていた直基も無視して二人は東山道を突き進み、藤堂高虎を求めた。
蔦紋の旗を掲げた兵士たちが次々と逃げ去って行き、勝手に道を切り開く。
やはり高虎は見捨てられたのだと気分を高揚させながら、二人は走った。
そしてついに、土岐川を抜けた所で蔦紋の旗を掲げる大男の姿を捉えた。
「藤堂高虎!この日を、どんなに、待ち望んだ事か……!」
「朝倉景恒に、上杉謙信だと?何しに来たのだ?」
「貴様はもはや救いがたいほどの悪逆だ。一刀のもとに斬り捨てる事が最後の慈悲であろう」
「そういうのを独り善がりと言う、そんなのに付き合っている暇はない」
「その減らず口、二度と叩けないようにしてやる!!」
全ての感情を込めて、景恒は槍を突き出した。だが高虎は適当に声を出しながら簡単にあしらい、これまでの戦いの反動のように景恒は大きくよろめいた、
「地獄にて、第六天魔王と共に己が罪過をなめ合うがいい!!」
景恒単独では無理と判断した謙信が飛び込み、高虎に斬りかかる。
「誰かこの男の首を取らんとする者はおらぬか!さすればこの国の全ての人間はそなたを歓待するぞ!」
「結局人頼みか、上杉謙信とは存外軟弱なのだな!」
「人はみな悪を憎み善に誼を求める。それだけの事よ!」
そこまで言ってもなお動かない藤堂軍の兵士たちに失望しながら、謙信は高虎を殺そうとした。
武田信玄と戦った時でさえもここまでではなかったほどの武術を、小田原城でさえも見せなかったほどの気合いを、精神力と信仰心をもって振るう。
「正義は勝つ、簒奪者などに負けはせぬ!!」
「自分だけの正義を振りかざすな!」
「これは皆の正義なのだ!」
太く重たい声を出しながら、高虎も粘る。
謙信をしてどうしてここまでついていけるのかと思わせるほどにはしぶとく強く、そして嫌らしい。
――――そう、謙信をして、である。
「馬鹿めが!!」
謙信の方ばかり向いていた高虎から、景恒の存在が消えていた。
その一瞬の隙を突くかのように、退かされていた景恒の槍が謙信の刃以上の速さで高虎の胸を捉えた。
「見ていて下され、お館様、四葩様、愛王様!!この朝倉景恒、見事皆様の仇を取って見せますぞ!!」
「この、うぬぼれ屋が……!!」
「これ以上貴様などの言葉は聞きたくないわ!!」
景恒は胸から槍を引き抜き、高虎の喉を貫いた。
「はっはっはっはっは……あーっはっはっはっは!!ついに、ついにやったぞ!」
「天晴なり、朝倉景恒!」
高虎の周りにいた兵たちもいつのまにか消えている。わずかにひとり北の山へ消えて行ったが、今更追う必要などどこにもないとばかりに謙信は高虎の首をもいだ景恒をほめたたえていた。
「しかし、藤堂高虎は二十歳だったはずでは…………」
「何を言っている、どう見ても……」
だが、その喜びが終わったのは一瞬だった。
この高虎、二十歳にしては老けていた。よく考えてみると声が太く、さらに雑兵が逃げているのに逃げないと言うのもおかしい。
そして何より、兵たちの動きが乱れていなかった。まるで予想通りであるかのように、悠々と高虎を見捨てて逃げていた。
「偽物か……加賀に続いて下らない手を!」
「影武者だと?」
「ええいやられた!あの男は加賀でも影武者を使い一向宗徒たちの心を折っていた!全く、どこまでも汚い男だ!!」
景恒は実は、藤堂高虎と対面した事はほとんどない。五年前に一乗谷が落城した際に加賀へ逃げ込み、そこから飛騨を経て信濃に入り越後へ来ていた。
越前は無論加賀でも、下間頼照らにくっついて無理矢理な稽古ばかりやらせていた景恒の出番が来る前に一揆軍は農民たちにより頼照を殺され事実上の壊滅。後先を考える暇もなく飛騨へと逃げ込み、その際父親とも生き別れた。今景恒が口にした加賀の戦の顛末も全くの伝聞であり、景恒に高虎の顔を確認する機会など元々なかったのだ。
おそらくこれは影武者であり、本物はとっくの昔に岩村か、さもなくば北か南へと逃げ去ったのだろう。
「どこまでも面倒な男だ!」
「なれば追うまで」
「わかりました、せっかくここまで来ておきながら!これ以上、これ以上コケにされてたまるか!!」
景恒が再び目を光らせて、死体となった藤堂軍の兵士を叩き起こして居場所を聞き出そうとする。
だが当たり前だが何の反応もなく、そして景恒のいらだちを紛らわす事もない。
「南西だ!」
だからこそその「南西」と言う上杉軍の兵士の声は景恒にとって天の声であり、すぐさまそちらに向けて走り出そうとした。
「違います!」
「じゃあ何だ!」
「敵です、敵!」
「藤堂ならば上等ではないか!今度こそ、今度こそ!」
悲痛な叫び声を上げる兵士に向かって知った事かとばかりに南西に馬を向けた景恒の目が、一瞬で迷いに満ちたそれに変わった。
「西だ、西へ引き返せ!」
「そんな勝手な!」
「……行くぞ。犬の犬めは西へ逃げたからな」
謙信をしてそういう取り繕いをするしかないほどには、今の状況は絶望的になっていた。
馬蹄が轟き、これから自分たちの命を奪いに来る。自分だってそうしたくせに、まったく調子のいい絶望だった。
「徳川家康、見参!!」
トリックオアトリート!……まあそういう事です。




