上杉謙信、藤堂高虎を喰らいに行く
このわずか三日足らずの間に、謙信は織田軍に三連勝していた。
「織田軍幾万と言えど、ひとりも勇士はなし……しょせんは不義理を好む夜郎自大の輩の集まりだな」
「とは言えあくまでもまだ肝心の本隊を倒した訳ではございませぬ」
「川尻は織田の譜代、佐久間は織田の宿老、そしてあの二人は織田の今の首領の弟……まだ足らぬとでも申すのか?」
謙信は元より、織田軍の戦闘能力を高く評価していない。数と武装だけで無理矢理に勝ちを収めているだけであり、時に信長の奇想によって勝ちを得る事もあったものの、その信長もいない以上もはや大したことはないと思っていた。
「織田の将は互いに互いを競わせ目先の功を争わせている……柴田とやらと羽柴とやら、共に一体となって進めばたやすかろう物をわざわざ……実に愚かだ」
「一体となれるかどうかは別問題でしょうけどね」
だがいくら謙信が絶対的な存在とは言え、どうしても家内に不和は生まれる。ましてや謙信がもう四十六歳と次代を考えなければならない年であり、甥である景勝と謙信自ら見初めて養子にした景虎と言う二人の養子をめぐってどうしても争いは起きる運命である。
一応北条家から景勝を景虎の兄とすると言う約定こそ取り付けたものの、だからと言って長尾為景の三男坊で長男の晴景を押しのけた謙信がすんなりと「兄」に家督を継がせることができるだろうか。
「与六、一体何を心配している?わしが斬り込まずとも、上杉の誇り高き将兵は織田の者たちを斬り刻んでいる。素直に毘沙門天に帰依し、織田信長が犯した罪を悔いれば害しないとさんざん伝えているのに……。岩村の者たちはどこまでも哀れであったな」
上杉景勝の小姓である樋口与六は、岩村城の虐殺と言うべき処断をはっきりと目の当たりにしている。
誰一人逃げる事もなければ、降る事もなかった。逃げたとしても信忠のために窮状を伝えに行く者ばかりで、今はおそらく兼山城か岐阜城に置かれているか、あるいは今ここで既に死んだかもしれない。
(たった一人だけでも良かったのだ、たった一人だけでも!)
秀隆を一刀両断にし、その上で武田軍に捕らえさせた秀長を自ら斬った。
そうして大将の親子を斬って力の違いと正義を見せつけたにも関わらず、ほとんどの兵が殉死を申し出、そうでない人間は捕虜となったふりをして逃げ出して斬られ、残りわずかな者たちは上杉の強さを織田信忠に伝えて来ますとか適当な事を言って織田のために逃げ出した。
「暴君の桀王に飼われた犬は、聖君の堯に向かっても吠えかかる。彼らがもし味方となれば、どれほどまでに正道の流れる世に役に立ったであろうか…………」
「それが織田の恐ろしさとも言えます」
「だが強くはなかった、所詮は邪道に身をゆだねてしまった罰だろう。滝川や佐久間も、我が旗の下に立てば望む物も得られただろうに……」
磯野員昌のみならず伊勢で半ば独立的に活動していた滝川一益どころか、織田の譜代中の譜代である佐久間信盛にさえ本気でこんな事を考えていたのが謙信だった。
「どうもこの与六殿は、それがしがこうしてここにいる事が気に入らぬと見受けられます」
「うむ、景恒。先ほど佐久間たちを追い払った戦いぶりは見事なものだった。いずれは共に岐阜城に入り、そして金ヶ崎にてあの長政と高虎の首を挙げようではないか」
佐久間軍を撃退した朝倉景恒の事を、謙信はますます気に入っていた。
「真田殿はあなたを連れて来ないで欲しかったと申しております」
「真田か。ではうかがいたいが、なぜ真田はそれがしをまず寺に入れたと思う?」
「それはあくまでも、決して血気に逸らぬようにと。お館様とて毘沙門堂に籠り精神を統一すべく祈りをささげております」
「そんなに血気に逸っているように見えたと言うのか?」
「ぶしつけながら、飛騨の山中を通り信濃まで逃げ込むなど、なまなかな体力と精神力では叶わぬ事。おそらくは浅井や織田に対する並々ならぬ敵がい心の賜物かと思われまする」
そして同時に、与六の理知的な面も謙信は好いていた。無論景虎の配下の小姓にも才知ある者はいるが、ここまでの人間はいなかった。景恒についての分析も実に正確であり、その上で恐れる事なくしっかりと批評している。
「なればこそ、この決戦の場に不可欠だと思い連れて来たのだ。見たであろう?先ほどの戦いぶりを。
真田もやはり武田信玄の弟子だ、六分の勝ちを上とする信玄の発想からは抜けられぬ男だな」
六分の勝ちを上とするのは、兵たちの慢心を避けるためである。
こうして織田軍を押している以上わざわざそれを気にする必要もないし、織田家そのものと言うべき川尻佐久間の二人を倒しておいてこうして頭が冷えている以上、結局は杞憂ではないか。
「前を見ろ。お館様が前線から少し下がってもなお織田勢は崩れかけではないか」
「それはそうですが、ですが浅井の姿が」
「いずれは出てくる、最後のお願いとしてな。それさえ止めれば織田はもうしまいだ。徳川などもう間に合わん。たとえ岐阜城に籠ったとしても、もう満足な兵は残っていないだろう。織田が消えれば次は浅井だ、あの浅井長政と言う親殺しの男だ!」
「捕らぬ狸の皮算用と申しますが」
「景恒、まずは目の前の戦を勝ち切る事だ。そなたの言う通りまだ浅井の姿を見ないのはおかしい。この状況を覆すためにどこかで来る。その時のために少しぐらい控えていても良いではないか」
実際問題、信雄と信孝を跳ね返してからと言う物織田軍は防戦一方だった。
佐久間軍はまだともかく滝川軍はあまり強くなく、信忠軍は数を頼みに耐えているような状態だった。いくら後方に自分たちの城があるからとは言え、織田軍の思惑通りに長引かされていると言う感じは薄い。
「まあ、与六の心配ももっともだ。そろそろわしがとどめを刺しに行くとしよう。景恒、付いて来られるな?」
「無論でございます!」
謙信は無表情のまま笑いながら、右手に姫鶴一文字、左手に愛馬の手綱を握りしめた。
「申し上げます!」
「何だ!」
「後方の武田軍が襲われております!」
そんな所に東から飛んで来た北条の兵らしき急使の言葉を与六が引き取ると、謙信の笑みが吹き飛んだ。
「北条勢はどうした!」
「北条もまた攻撃を受けており思わしくありません!このままでは」
「まったく、敵はいくらでも道があるからな!」
元より美濃は織田領と言うか織田の本拠地であり、さらに岩村城虐殺の一件以降美濃の住民たちの上杉に対する風当たりはかなり強くなっている。その責任を半ば負わされている岩村と苗木の武田軍がかなり苦労している事など、謙信も景恒も知る由はない。
その結果反動的に現領主の織田や同盟相手の浅井・徳川に対してより密接になり、あるいはひそかに間道の一つでも教えていたのかもしれない。
「それで誰だ!徳川か!」
「蔦紋の旗であると」
――――蔦紋。
その言葉を聞いた途端、景恒の体の向きがからくり人形のように真反対になった。
「お館様!どうか私にあの藤堂高虎を討つ許可を!」
「おやめください!」
蔦紋、すなわち藤堂高虎。
この絶好の機会を逃す理由はないとばかりに体中の血管を開かせた景恒に向かって、与六は頭から水をぶっかけた。
「何のつもりだ、小姓の分際で」
「藤堂高虎は、逃げる事をまるで恥と思わぬ男だそうです」
「それが一体何だと言うのだ?」
「犬の犬一匹になぜこだわるのです!」
「あれは犬ではない!すべてを喰らい尽くす暴食の天魔であり、犬だとすれば地獄の番犬だ!」
「蔦紋だから藤堂であるなどと限った事ではないでしょう!」
「いえ、紛れもなく藤堂高虎でした!」
北条の使者の叫び声に与六が立ちくらみを起こしたように倒れ込むと、景恒は得意満面の表情で気弱な小姓の頭を槍の柄で小突いた。
「お館様……!」
「与六、何を見ていた?織田はもはや崩れるのは時間の問題だ。それを見捨てた浅井は不義理であるとか言いふらせとでも言うのか?」
「そのような、あくまでもまずは信忠を倒してからでも」
「逃げるを恥とも思わぬ男なら、尾張に逃げる事もあろう。そこで徳川や尾張に残った人間たちを集め、岩村城を突いて我々を包囲する可能性もある」
謙信はもはや、織田信忠を脅威だと思っていなかった。
(魔王かと思っていたが、所詮はただの小僧だったな。景勝と景虎で十分務まろう)
川尻は織田直属軍と言いながらただの猪突猛進の短慮な男であり、真田とやらの策略で簡単に討ち取れた。配下の兵の無思慮とも思える抵抗には心を痛めもしたが、結局は匹夫の勇でしかない。
退き佐久間とか言われていた佐久間信盛とやらも、少し押してやったら簡単に崩れた。
そしてついさっき自分の左右を付きに来たつもりらしい織田の兄弟も、適当に姫鶴一文字を振って適当に言ってやったらすぐさま固まってしまった。
残る滝川勢も先ほど当たった所とても強いとは言えず、この調子では信忠軍も知れた物だろう。
だが、藤堂高虎は許せなかった。
現実的な事を言っても現在進行形で後方を守っていた友軍を食い荒らしている恐ろしい男であり放置する事はできなかった。
そして何より主家と言うべき朝倉義景を殺しその娘を孕ませ、加賀では坊主を虐殺し、そして小谷では主君の父親を斬った男である。
(後生畏るべしとか言うが、あんな男が天下の中枢に居たらこの国はおしまいだ。信長の方がまだましなぐらいだ!)
まだ二十歳のその男がこれからあと三十年天下の中枢に居続けると考えるだけで、謙信は真夏でも真冬の気分になれた。
尾張に逃げ込まれて挟撃されたらうんぬんと言うのは後付けの言い訳であり、とにかく高虎を討ちたかったのだ。
「西では毛利家が我らに呼応しているはずだ。若狭守ならばまずそこを助けに行くだろう?ああ無論、明智殿の丹波を踏まえて動かないと言うのもある。
そんな存在が美濃まで出て来たのだ、それこそ天の助け、毘沙門天の采配と言う物ではないか!」
「おやめください!」
「与六、なぜ止める?」
「今は岐阜城と信忠がお先でしょう!」
「天魔の子を見過ごせと?」
「いかにも!お館様は北条と武田を、いや二人のお子様を信じていないと!」
それでも必死に止めようとする与六に対し、謙信は鋭い目線を、景恒は刃を突き付けた。にもかかわらずなおひるむ事なく両手を広げようとする与六の姿は実にいじましく、だがそれでいて男たちの心を引き付ける事はなかった。
「黙れ!」
「朝倉殿!」
「所詮貴様はぬくぬくと過ごして来たのだろうな!上杉が滅んだ事もなければ仙桃院様を素性怪しき男により襲われた事もない、所詮は坊やなのだな!貴様のような輩に謙信公の無念など分かる訳があるか!」
「ですがここで!」
「黙れ小僧!」
諦め悪く抵抗する与六に向かって、謙信は視線を急に柔らかくした。
それでもほだされはしない、首が飛んでも知った事かと言う顔をして謙信を見上げる与六が、景恒にはだんだんと高虎に見えて来た。
「与六、天魔の子のもたらす害をこれ以上捨て置く訳には行かぬ。その事をわきまえよ」
「下手をすると尾張に誘い込まれます!真田殿のお言葉を」
「真田だと!あんな人の心のわからん男の言葉に耳を貸すとは!この絶好の機会があの男のせいで危うくふいになりかけたのだ!もう貴様のような小僧の言う事など絶対に聞かん!」
「お館様!」
「与六、聞き分けてくれ。第六天魔王は死んだ。だが天魔の子は生きている。
たとえ岐阜城に毘沙門天の旗を立てようが、天魔の子が生きている限り上杉の勝利はないのだ」
「たかが援軍の、ああお待ちください、お待ちください!!」
馬の尾にしがみついてでも自分たちを引き留めようとする与六をこれ以上相手する暇などないと見たか、謙信は景恒と共に東へと走り出した。
与六は五千の手勢がいなくなり一人置き残された戦場で、直属の上官である景勝の元へととぼとぼ歩き出した。
(お館様、なぜです、なぜあのような、あのような、小物に……織田の大将と浅井と言う犬の犬…………、まったく重みが違う事など明白なはず…………ああ、ああ毘沙門天よ!お館様に勝利を!!)
与六が頭の中で犬の犬と言う言葉で高虎をそしりながら毘沙門天に祈っている事など、謙信も景恒もまったく知る由はなかった。
蔦紋を掲げた軍勢が、ほぼ無人の東山道を走っている。騎馬隊が全速力で行ったとしても岩村城まで一刻はくだらない山道であり、その事をわきまえてかずいぶんとゆっくりした進行であるが、止まる事はない。
「岩村へ向かえ!」
最後方に構える藤堂高虎は、大きな声でそんな指令を飛ばしていた。




