北条氏照、天魔の子と戦う
「やれやれ、このまますんなりと岐阜城が落ちれば良いのですが」
「そうでなければ困るからな!」
北条氏照は部下の軽口に対し怒鳴り声をあげるが、兵たちがそれを咎める様子はない。北条氏照はともかく、北条の兵士たちはそれほど本気ではなかった。
兼山城の東では北条軍五千が上杉の真後ろに立ち、仁科盛信軍二千五百がその南東に、小山田信茂軍二千五百が仁科軍の北に構えていた。
氏政は口では駿河攻撃に力を注いでいるのでとか言っているが、北条にしてみれば徳川はともかく織田も浅井もまだ遠い家だった。
織田が関東で一番面倒くさい佐竹の同盟相手であると言う事はわかっているがそれ以上の存在感はなく、謙信のようにあわてふためいて潰す必要があるのかどうか疑わしいと思っている者も少なくなかった。
「佐久間信盛めはなかなか面倒な相手でしたな」
「退き佐久間の二つ名は伊達ではなかったと言う事だ。だがそれにしても、上杉謙信公の前ではあの程度だとも言えるな」
「北条にとってこの戦は、少しでも織田徳川浅井の力を削るために重要な戦だ。連中が弱れば上杉はここぞとばかりに上洛に向けて突き進み、武田は駿河を奪還し勢いを取り戻す。
北条は佐竹らを堂々と攻める事ができる。決して忘れるな!」
確かに氏照をして、この戦は退屈だった。岐阜城周辺まで一挙に迫った上杉軍に対し、自分と武田軍は後方に控えるだけ。一番難しいところは自分たちが何とかするとか言っても、いよいよ本番と言う所を抑え込まれるのは面白くない。
ましてや武田は緒戦で囮の役目を見事果たしたと言うのに対し、北条はただその後ろをついて来て適当に当たっただけである。
(少しは功績を立ててやろうと思うたが、部下たちにやる気が出ていない……まあこちらも強くないのだから仕方がないのかもしれないが……)
武田は駿河と美濃に二人の大将を振り分けたが、北条の強い所は氏政の配下として駿河を攻撃しており、氏照に付けられているのは二線級である。
氏政にしてみれば美濃は遠い国であり、それより上杉が口を挟まなくなった事により下野や下総などに手を出したいのが本音だった。小田原城に近い駿河に力を注ぎ込む気になれても、美濃などに全力を出す意味はないと言うのが氏政の方針なのだろう。
「敵軍が向かって来ます」
「誰だ」
そんな訳で悠長に振る舞っていた北条軍であるが、いきなり向かって来た兵を見て目を見開いた。
「蔦紋の旗……藤堂高虎です!」
「あれが天魔の子か。まあ普通の軍勢ではないか」
織田と上杉の戦いを無視するかのように、後方に控えている自分たちを狙って突っ込んで来る。
一体何のつもりなのか。とりあえずまあいいかと思いながら陣を組もうとしたが、藤堂軍はぜんぜん自分たちと違う方向を狙うように動き出した。
「どうしたのでしょうか」
「目的は武田のようだな。まあ良い、ゆっくりと向きを変え包み込んでしまえばいい。
にしても小山田め、当たりもしないのにもう援軍要請を願うとは……」
北条とて強くはないが、武田はもっと弱い。小山田軍もこれまでの滝川軍との戦である程度の打撃を受けており、仁科軍はさらに弱い。
その弱い軍勢を二つに分けているのだから、なおさら単体となれば力弱くなる。その上で自分たちの弱さを見越してかのような援軍要請に、氏照は思わず頭を抱えたくなった。
その二つの武田軍の内南に構えていた仁科軍に、正面から高虎軍がぶつかった。高虎軍五千に対し、仁科軍は二千五百。
あっという間に形勢は高虎軍に傾く。氏照軍が横撃をかけようとするが、仁科軍が崩れるのが早すぎた。
「こら待て!この北条の力を見よ!」
武田だけでは支えきれないと見た氏照はここぞとばかりに兵を向けるが、その途端に高虎は先鋒の二千程度の兵を自分側に向け、さらに千程度の兵によって小山田軍に突撃した。
結果的に兵が分断されたからよしとばかりに氏照は突っ込むが、高虎は小山田軍に突っ込むと、そのまま小山田軍を突破して北へ向かってしまった。
「武田め、あまりにも弱すぎる!小山田勢は何をやっているのだ、まったく面倒をかけさせる!だがどうせ狙いは武田だ!待ち伏せさせろ!」
「できませぬ!まだ南には本隊が残っております!」
「ああそうか面倒くさい!ならばこちらが武田に擦り寄るしかないか!おい誰か、仁科殿に北上して一体となるように伝えてくれ!」
「しかし仁科軍は残った兵により押されています!」
「まったくもう、先ほどのはしょせん真田とやらの策が当たっただけの結果か!おそらくは朝倉景鏡か、わし自らちょっと行ってくる!」
苗木に守将として起き残されている真田昌幸が居なくなった途端にこのざまになるのが、今の武田だった。何よりかにより、小山田勢とか言うがその実態は仁科軍と同じく北条との関係が良化して精鋭を勝頼直属軍や高坂勢に回された二線級か新兵の集まりであり、氏照軍ともさほど変わらなかった。
それとほぼ同じ状態である仁科軍は浅井軍に押されている。これを放置すれば武田が壊滅しかねない。
そういう訳で氏照は小山田軍を吸収するようにゆっくりと接近し、さらに仁科軍を取り込んで高虎の標的であろう軍勢の数を増やしてしまう事にした。
しかし高虎がいないはずの高虎軍では景鏡率いる残った兵が正確に動き、仁科軍を確実に減らしている。このままでは次は自分たちだとばかりに氏照は急ぎ兵を向けたが、すると景鏡は仁科軍を圧倒しているのだからとばかりにまた兵を振り分ける。あらかじめ予想されていたかと思えるほどに手早く、そして仁科軍のふがいなさが際立っていた。
「いくら何でも弱過ぎはしないか!」
「武田はあの天竜川の後上杉が近づいて来たのを見て安全地帯になった北信の兵を引っこ抜いて駿河に回していたようです。今の仁科軍はおそらくその後に補充された新兵でしょう」
「ああもう!勝手に逃げて来いと言っておけ!」
全くその通りだが、だとしてもそれをなぜここに回さなかったとか言う文句が思わず口から飛び出しそうになる。人の事を言えない話だが、だとしてもここまでだとは思わなかった。
景鏡率いる残された軍勢も正確に動き、自分たちをよく受け止めている。
「まったく藤堂とやらもすばしっこい奴だ。これまである程度の打撃を受けた小山田軍と武田軍本隊を正確に狙っている」
「なかなか手強い相手のようですね、上杉殿に伝えますか」
「放っておけ。北条と武田で一万いるのだ、いて五千程度の軍勢に兵を割かせる必要はない」
確かに面倒くさい相手ではある。だが所詮は少数だった。
「上杉軍はよく戦っている。この調子では織田軍とてほどなく崩れる。いかに天魔の子とやらが正確に強弱を付き暴れ回ろうとも、所詮は枝葉末節の雑兵狩りしかできない男。確かに小手先の功績を稼ぐのはうまいが、それだけが取り柄の雑兵上がりか!」
相当武田相手に暴れまわった分だけ疲弊しているだろう、なれば自分たちに来る時は弱っている。別に手柄をむさぼるつもりもないが、いずれにせよ正面から当たれば藤堂高虎など大した脅威ではない。目の前の大戦果を挙げる存在を見てそこまでの分析の出来る北条氏照は、確かに北条屈指の猛将だった。
「さあ来い、正面から受け止めてやれば大した事などあるまい!」
「後方からも来ますが」
「こちらは一万、向こうは五千!ここでうかうかとやられて逃げ帰るようでは、北条も武田も知れた物だぞ!小山田殿に北から来る浅井軍に当たるように申し付けよ!北条の兵を使って構わんとな!」
これが最後のお願いに近いのだろう。なれば正々堂々と立ち向かい、その上でそのお願いをぶち壊してやるまでだ。
勢い任せに押してくる景鏡勢に、どんどん大きくなって来た藤堂勢。両側からの攻撃で食い破ってやろうと言うのならば、その牙を折ってやるまでと言わんばかりに両向きに陣を組んだ氏照は、いよいよ高虎もこれまでだとばかりにほくそ笑んだ。
「大変です!西からもう一部隊来ました!」
「もう一部隊、誰だ!」
「赤尾勢と見受けられます!」
「ああ面倒くさい!仁科勢を南側にぶつけ、その上で西側の軍勢を盾にしろ!」
そんな中やって来た第三の浅井軍と言うべき赤尾軍の到来に氏照は歯嚙みしながら、とりあえず目の前の軍勢を倒してやろうと得物を振る。
激しく火花が散り、血も流れれば首も飛ぶ。勢いと用兵だけでここまでやっているような軍勢には負けられぬと言わんばかりに氏照軍は気合いを込めて戦い、景鏡も激しく得物を振って首を飛ばす。
もちろんその間に高虎は再び衝突し、その太刀をもって北条軍も武田軍も斬り倒す。名のある将の討ち死にの報が飛び、功績となって行く。
そこに飛んで来た赤尾軍もまたひとかたまりとなった北条・武田軍一万の横撃部隊となり、三方向からこちらを攻め立てる。全体からすれば七千とは言え、それが一万の軍勢を三方から包囲していると言う状況は実に面白くない。
「このままでは上杉の一人勝ちだぞ!」
「そう言われましても!」
「覚えておけ、このままではたとえ岐阜城を落としたとしても浅井の武名は残る。織田は弱いが浅井は強いとなったら、最悪の場合浅井が織田を受け継ぐぞ!そんな事になったらこの出兵には何の意味もなくなる!」
開き直りそのものではあるが、同時に事実でもあった。徳川が強いと言う評判が関東にまで伝わったのは、朝倉義景と織田軍が対峙した際にほぼ単身で朝倉勢を打ち倒した時からである。
「上杉は織田には勝った、だが浅井や徳川に勝ったとは言えない」
とでもなれば、それこそ織田の民はより一層浅井や徳川に依存する。なればこそ何としても耐えなければいけない。
だが高虎と景鏡の猛攻の前に武田勢が崩れ、さらに赤尾軍の横撃が北条軍にも打撃を与えて来る。
押し返せない。それどころか潰されそうになる。まさかこんな所で果てるのかと言う悲観的な妄想が頭がよぎった所で、急に南北の圧力が弱まった。
「若狭守!もう良かろう!」
「赤尾殿、わかりました!」
清綱の叫びに呼応するかのように、いきなり高虎勢と景鏡勢が再び向きを変え出した。西から上杉勢の背後を付く気かと一瞬思ったが、すぐさま進行方向が東である事に気付いて頭が動かなくなった。
「まさか岩村城でも狙う気か!?まったく、いくら住民が織田に懐いているとは言えできる事とできない事があるだろうに」
上杉軍は全軍で兼山城と御嵩に攻め入っており、細久手にはほとんど兵を残していない。
だが岩村と苗木には武田の兵が残っており、いきなり落とせる城ではない。あるいは南に向かって尾張に逃げ込む気かもしれないが、だとしてもこんな状況でそんなことをやっている暇はない。腹立たしいほどにきれいな蔦紋の旗を立てながら、東へ向けて合流した藤堂軍が走り去って行く。武田軍が打撃をかなり受けていて追い切れない事をうらめしく思う間もなく氏照は西に部隊を向け、とりあえず赤尾だけでも討とうとした。
だがその首の動きが急に止まり、右斜めを向いたまま動かなくなった。
「どうしたのです」
「どうした?上杉軍がこちらに向かってくるぞ?まさか崩れたのか?」
「そんなはずはございませぬが」
「あと一押しだと言うのに何があった、まさか徳川か?」
「確認はしておりませんが……」
毘の字を掲げた軍勢が、いきなりこちらに向かって来た。
まさかたかがこの程度の浅井軍を心配して来てくれたのだとしたらむしろお節介であり、それ以上にやっぱり上杉ありきの勝利だったのと文句を言われてしまうなとため息を吐こうとしたが、その前に自分たちの事を思うと何も言えなくなってしまう気まずさが先立ってしまった。
まあ挟撃して勝利を得るのもいいかと思いながら上杉軍を眺めていると、いきなり五千ほどの上杉軍はこの戦場から離れた街道筋へと向かい出した。
「そんな馬鹿な!一体何のつもりだ、岩村城を信じていないのか!」
「北条!武田!貴様ら何をやっている!」
「何とは!」
「あっ、朝倉景恒!!」
上杉軍の先鋒らしき将が、自分たちに向かって吠え掛かる。それと共に仁科盛信からその将の名前が上がり、それと共に武田勢の顔色が消え失せた。
「ま、ま、まさかとは思うが……この、この軍勢の大将、は……」
「無論だ!毘沙門天の名の下に、軍神自ら、天魔の子を滅すのだ!!」
「では我々は赤尾軍を滅ぼす」
氏照が萎え切った調子で当たり障りのない事を抜かすと同時に、朝倉景恒の姿は東へと消え失せた。
そしてその側にいた男の姿を三度見した氏照の顔は、まったく敗軍の将のそれになっていた。
「上杉、謙信……!?」




