5
ウニの卵割の写真と、朝咲がにらめっこをしている。夕食後、二人は無駄に広い洋館の居間で、生物のテキストと向かい合っていた。アンティーク調に統一された部屋の真ん中で、ソファーに腰掛けた朝咲は難しい顔で唸っている。
「この写真だと、動物極側に八つの割球と、植物極側に大きいのと、小さいのが四つずつできてるだろ?だから、これは第四卵割なんだ」
「……ダメだ、こんがらがってきた。ちょっと休憩しない?お茶でも飲んでさ」
懇願するような口調で、朝咲は上目遣いの視線を送ってくる。
「そうだな。一度に詰め込みすぎてもつらいだけだし」
優人の許可を聞くや否や、彼女は「しめた」と言わんばかりの表情で席を立った。そのままキッチンに向かう朝咲を視線で送った後で、優人はふと思考にふける。
件の大火災の後、住んでいた家を焼かれた彼は、町外れのこの洋館に住んでいた祖父に引き取られた。街では偏屈者として有名だった祖父は、優人の両親すらほとんど顔を合わせる機会もなく、他人から距離を置くように一人でこの洋館に暮らしていた。
他に親類もおらず、やむなく彼に引き取られた優人は、そこで二年ほど一緒に生活をした。病で彼がぽっくりと亡くなったのが、ちょうど優人の高校受験が終わるくらいの頃だった。あのしぶとかった祖父が、あまりにもあっさりと死んでしまったことに、今でもあっけなさを思い出すことがある。
祖父が残した物は全て、優人が相続することになった。遺産にはかなりの額があり、うまくやりくりすれば大学卒業まで困ることのないようになっていた。祖父の計らいをありがたく受け取り、あの事故以来親交のある朝咲が世話を焼いてくれるおかげで、今はどうにか生活しているのである。
「アサキがうちに来るようになって、もう三年くらいか……」
今では当たり前になってしまっている日常に、彼は小さく微笑んだ。
夜の九時近くになって、優人は朝咲にそろそろ帰るように促した。いくら彼女の父親が了承しているとは言え、さすがに倫理的にも問題があるし、何より遅くの夜道を歩くことは危険である。彼女は渋ったが、優人が家の前まで送っていくことを聞くと、ようやく首を縦に振った。朝咲が「泊めてもらうつもりだったんだけどなぁ」と呟くのを、聞こえない振りで誤魔化した。
例のごとく長い坂道を下り、繁華街とは反対方向の道を進んでいくと、その先は住宅街になっている。その中にある彼女の家の前まで送り届けてから、優人は来た道を一人戻っていた。
「さすがに、寒いな……」
吐いた息が、白く凍って落ちてしまいそうになる。彼はコートのポケットに両手を突っ込みながら、身をすくめるようにして街灯の照らす道を急ぐ。
「少し、近道するか」
彼はそう呟くと、大通りから外れた道に進路を変更する。近道と称し、彼が選んだのは、街灯など半分消えかかっているような、薄暗い路地だった。頼りない明かりの中で、人影は全く見られない。程なくして、薄明かりの中にぼんやりと姿を現したのは、同じく無人の公園だった。もっとも、公園とは名ばかりで、置いてあるのは廃れたベンチのみの、ほとんど広場としか言いようがない場所ではあるが。寒さから逃げるように、優人はその場を横切ろうと、足を踏み入れる。その、直後だった。
「──ごめんなさい」
不意に聞こえてきた声に、足を止める。顔を上げれば、公園の中央に一人の少女が立っていた。見たところ、中学生くらいだろうか。月光を受けた長髪は白銀に輝き、まるで雪原を彷彿とさせる。人形のように整った顔は、どこか虚ろな表情で、ぼんやりと宙を見つめている。焦点が合っているのか分からないその瞳は、美しい琥珀色をしていた。
どこか作り物じみた美しさをした少女は、静謐さを秘めた顔で空を見上げる。それはまるで、名のある画家が描いた名画を思わせた。時折吐き出される白い息だけが、彼女が生物であることを証明している。息を呑むような光景に、優人は誘われるように近づく。
「ごめんなさい」
もう一度、少女が呟く。それが何に対する謝罪なのか分からないまま、彼は少しずつそこに近づいていった。すると、気配を感じ取ったのか、少女がぼんやりとした顔のまま、こちらを振り返る。その瞬間に、白く、淡く、幻想的なその光景に、ポタリと赤が零れ落ちた。
「──あ」
血で真っ赤に染まった彼女の顔の右半分を見た瞬間、優人はその一音を発しただけで動けなくなる。鮮烈な赤は、白い幻想から自分の目の前に広がる現実へと、意識を引き戻す。
少女の足元に、首のない胴体が転がっていた。
体型からすると、恐らくは女性のものだろう。切り落とされた首からは湯気が立ち上り、それが少し前まで生きていたということを証明している。そして、少女の手には、血で塗れた長剣が握られている。それが何を意図するものなのかを判断するのに、数秒の時間を要した。
彼は、足が棒になったかのように、その場から動けなかった。もちろん、それが恐怖からくるものだと明らかだったが、それ以上に、彼はこの光景に見惚れていた。猟奇的ともいえる殺人現場に出くわしているのにも関わらず、優人は白と赤のその光景に、目を奪われてしまっていたのだ。人影のない深夜の公園で、二人の視線は静かに交錯していた。
まるで興味のなさそうな、どうでもいいものを見るような目で、少女は眼前の人物を見返す。その視線は、今ここで目撃者を消すかどうかを、思案しているようにも見えた。
「……あ」
いずれにせよ、何か反応を示すべきだと思い、優人は口を開く。長い時間呼吸を忘れていたためか、彼の口からは濃く白い息が出た。
しかし、彼が言葉を発するより先に、乾いた重い音が辺りに鳴り渡った。背筋に響くようなその音は、周囲に反響しながら広がっていく。それが銃声であり、それもすぐ近くから聞こえてくることに気づくのに、特に時間は要らなかった。
その瞬間、茎の折れた花のように、少女の体が地面に倒れた。あまりに突然の出来事に、一瞬反応が遅れる。少女の体は、地面に倒れていた死体に重なり、目を開いたままピクリとも動かなくなっていた。彼女の左のこめかみには、赤黒く生々しい穴が空いている。
「ようやく、くたばったか」
状況を理解しようと思考が巡る中で、唐突に聞こえてきた女性の声が、それを中断させた。寒さか、それとも恐怖のせいか、強張ったままの顔を声のしたほうに向けると、街路樹にもたれかかる一人の女性が、こちらを見ている。
「まったく、本当にしぶとい奴だった。殺り終わった後でもなかなか気を抜かない奴だったから、どうしたもんかと悩んでたんだよ」
そう口にしながら、女性は少女の方へと歩み寄ってくる。真っ赤な髪をショートカットにした女性は、この時期に寒くないのかと思えるほどの薄着をしている。何か違和感を覚えさせる風貌の女性の右手には、リボルバー式の拳銃が握られていた。
「まあ、その辺はお前のおかげってことになるのかな。最後に一瞬、お前に気を取られた瞬間に、こうやって狙い撃つことができた」
眼下の少女を観察するように見下ろしながら、そう口にする。優人は全く体を動かすことができず、彼女の一連の動作を見ていることしかできなかった。
「けどな、お前も大方予想はついてると思うんだけど、やっぱり目撃者を残すわけにもいかないんだよ」
女性はそう言って屈むと、少女の手に握られていた長剣を手に取る。
「だから、うん。お前にも死んでもらうわ」
特に感情の感じられない顔で言いながら、彼女は立ち上がった。それを見て、優人はよろよろと数歩後退りをする。
「音が出るし、弾がもったいないから銃は使ってやれないんだけど、大丈夫。協力してくれた礼に、綺麗に一発で死なせてやるよ」
まだ血の滴る長剣が、女性の手で大きく振り上げられる。
「悪いな。運が悪かったと思って、諦めてくれ」
ヒュン、という空を切る音が鳴る。その音が優人の耳に届くよりも先に、長剣が振り下ろされていた。一切の動きには無駄がなく、その切っ先は彼の体を真二つに両断する
──はずだった。
「……あ?」
彼女の握っていた長剣が地面に振り下ろされるまでの過程に、優人の体は存在していなかった。彼の体は、振り下ろされた剣から数歩分だけ離れている。額に汗を浮かべた彼は、白い息を吐きながら顔を引きつらせていた。
「おいおい、避けるなって。変に抵抗されると、痛い死に方する──ぞ」
恐らく、素人がまぐれでかわしただけだろう。そう思い至った彼女は、大きく一歩踏み込みながら、目にも留まらぬ速さで剣を切り返す。右わき腹から左肩へ、掬い上げるような太刀筋は、しかし優人の体を捉えることはなかった。
「……何だ、お前?」
一度ならず二度までも、目の前の凡人じみた少年が、繰りだされる太刀をかわす。どう考えても偶然ではない。明らかに、その筋の道を究めた者でもなければ不可能な動きを、彼はやってのけていた。
「タダ者じゃない、ってか?見た感じ、そうも思えないが……」
そう呟くと、女性は剣を両手に持ち直す。相対する優人は、次の攻撃に備えて目を凝らしながら、神経を尖らせていた。右の眼球が、ひどく熱い。絶え間なく、彼の眼球は脳に新しい映像を送り込んできていた。
次の瞬間、女性の体が視界から消える。それとほぼ同時に背後から振り下ろされる剣を、優人は振り返ることすらせずに、横に大きく跳ぶようにしてかわした。
「へえ、やるじゃん!」
間を置かずに、女性が追撃をかける。連続して繰り出される刃を、優人はたどたどしい動きをしながらも、全て避けていた。数秒間に何十回と行き交う剣は、虚しく空を切る。
「お前、なかなか面白いな。動きはてんで素人なのに、こっちの攻撃が全く当たらない。まるで、先を読まれてるみたいだ」
女性は剣を下ろすと、再び銃を構える。その銃口を、肩で息をしている優人へと向けた。眼球の熱は熱さを通り越し、痛みを訴え始めている。
「けどまあ、そこいらが限界だろ?その汗の量は尋常じゃない。どんなトリックを使ったのかは知らないが、ここまでだ。誇っていいよ。だから、お前はこいつで殺してや」
る、という最後の一音を言い終わるより前に、何かが折れるような音が鳴った。
「──な、に……?」
その瞬間、拳銃を握る女性の右腕が、本来曲がらないであろう方向に曲がっていた。
彼女は、弾かれたように後ろを振り返る。先ほど頭部に銃弾を受けて倒れたはずの少女の姿が、どこにもない。
「クソ!まだ動けんのかよ!?」
吐き捨てるように言いながら、彼女は周囲を素早く見渡す。その顔に、不意に影がかかった。
「上かッ!!」
彼女は、その瞬間後ろに大きく跳ぶ。それと寸分も変わらぬタイミングで、少女の体が落ちてきた。少女が体を反転させながら振り下ろした右足が、地面を大きくえぐる。土煙が立ち込める中で、無表情な少女の琥珀色の瞳が、爛々と輝いていた。
「しぶといんだよ!この野郎!」
剣を投げ捨て、左手に持ち直された拳銃が、少女の眉間に向けられる。引き金が引かれるその瞬間、少女は素早く銃口を左手で覆った。銃声が鳴り響き、その手を弾丸が貫通する。だが、彼女の眉間を狙うはずだった銃弾は、強引に狙いを逸らされて的外れな方向に飛んでいく。
「こいつ……!」
ゾクリ、という悪寒が、女性の背中を虫のように這い回る。それは少女の身体能力に対しての恐怖心ではなかった。あんな行動をなんのためらいもなく、無表情のままでやってのけるその思考に、機械を相手にしているかのような気味の悪さを感じていたのだ。
不意に、少女が右手で拳をつくる。それが女性の腹部に叩き込まれるまでに、半呼吸の間も存在していなかった。
「ガハッ──!?」
目に見えるのではないかと思う程の衝撃の後、女性の体が大きく吹き飛ばされる。十五メートルは優に飛んだところで、彼女の体は街路樹に叩きつけられた。その口から、ボタボタと赤い血が滴る。
「…………」
少女は黙ったまま、吹き飛ばされた女性と自分の右拳を見比べる。どうにも、今の一撃で手首が折れたらしく、彼女の手はブラリと垂れ下がっていた。
「戦闘の継続は、困難だと判断。これより、撤退します」
無機質な声で、少女は白い息を吐く。彼女は唐突に、無表情なままで優人の方を振り返った。その瞬間、視線を向けられた優人は体を強張らせる。
「目撃者の対応は、カサネに指示を仰ぐべきだと判断。連行します」
彼女は素早く優人の元に駆け寄ると、その手を取った。穴の空いた手で握られた瞬間、ヌルッという血の感触に、全身が総毛立つ。彼があっけに取られている間に、少女は公園の外へと向かって走り出していた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!いったい、何がどうなってるの!?」
困惑した表情のまま、どうにか声を絞り出す。
「それは、ずいぶんと今更な質問ではないでしょうか」
冷静な顔のまま、少女は振り返らずに答える。彼女は一瞬たりとも迷う様子を見せないまま、グングンと進んでいた。
「だって、聞く暇がなかったじゃないか!? 第一、この手の怪我だって……」
「問題ありません。完全に弾丸が貫通したので、じきに塞がるでしょう」
抑揚のない声でそう言うと、彼女は目だけで左上の方を見た。
「頭部を撃たれた方は、弾丸が埋まったまま治癒してしまったので、後で切開する必要がありますが」
「治癒って……」
先を進む少女が、一瞬だけ優人の方を振り返る。彼女の左のこめかみには、傷跡などどこにもなかった。それを見て、優人は息を呑む。
「キミは……何者なの?」
「残念ですが、それを私からお答えすることはできません」
「そんな……大体、キミは……」
言いかけた瞬間、優人は何かに気づいたように目を見開く。
「伏せろ!」
「はい?それは、どういう……」
「いいから、早く!」
優人は短く叫ぶと、少女の体を半ば強引に押し倒し、アスファルトの上に転がった。その刹那、彼らの頭上を何かが通過する。少女の少し先の地面には、人の指ほどの大きさの穴が空いていた。
「これは、サジタリウスの狙撃……」
「しばらく撃ってこない!今のうちに、隠れよう!」
二人は体を起こすと、近くの自動販売機の影に身を隠す。肩で息をしながら、優人は滝のような汗をかいていた。それが外気で冷やされ、体温が奪われていく。
「あなたは、未来が見えるんですか?」
不意に、優人の隣にいた少女は、さして関心のなさそうな声で尋ねた。
「え……?何が?」
「今の銃弾は、あの場所からでは見えなかったはずです。おまけに、銃声が聞こえる前の時点で、あなたはすでに狙撃に気づいていた。どう考えても、あなたは引き金を引かれるよりも前に、回避行動に移っていました」
彼女はそう言いながら、優人の顔にチラリと視線を向ける。
「それだけではありません。あなたは、ご自分がサジタリウスの太刀を、何度かわしたか覚えていますか?少なくとも、私の意識が戻ってからの約四秒間で、あなたは二十三回の攻撃をよけています。そんなこと、普通の人間ではありえません」
淡々とした口調で、優人が言葉を挟む間もなく、少女が口にする。まるで機械に分析結果を発表されているような、そんな気分だった。
「いや、それは……」
「偶然、などということは、言わないでください。『あれ』は、そもそもそんなことで避けられる剣ではありません」
無機質な目でジッと見られ、優人は思わずたじろぐ。
「そうは言っても……」
不意に、優人は言葉を途切れさせる。彼は何かに気づいたような表情で、自らが背にしている自販機の方を振り返った。
「どうしました?」
「また来る。これは……銃じゃない!」
優人が言うや否や、二人は自販機から大きく飛びのく。次の瞬間、大きな衝撃音とともに、自販機が粉砕されていた。それはまるで、目に見えない巨大な手で、押しつぶされたかのようだった。
「なんだよ、これ……」
「やはり、別の武器を持っていたようです。正体は分かりませんが、今の一撃で終わりということはないでしょう。走ってください」
二人が駆け出したすぐ後ろで、再びアスファルトが砕け散る音が響く。
「……っ、そっちはダメだ!」
優人が叫んだ瞬間、少女が足を止めて振り返る。その鼻先を掠めるようにして飛んできた何かが、少女の背後にあったアスファルトに音を立てて突き刺さった。
「大丈夫!?」
「……はい、問題ありません。それより、先を急ぎましょう」
何事もなかったかのように言うと、少女は再び走り出す。それを慌てて追いながら、優人は額の汗を拭っていた。
「どうですか?」
住宅街の近くまで来たところで、少女が尋ねる。
「たぶん、もう、追ってきてないと思う」
優人は膝に手をつきながら、息を切らして答えた。冬だというのに、彼の顔からは大量の汗が流れている。おまけに、ひどい頭痛がしていた。
「そうですか。では、人目のつかない場所に行きましょう。いくらこの時間帯とはいえ、この有様は、さすがに目立ちすぎる。幸い、当てはあります」
「ああ、うん……これって、警察に連絡した方がいいのかな?」
そう尋ねると、少女は静かに首を横に振る。
「やめておいた方がいいと思います。やってきた警官が、死ぬだけです」
「……そうか、そうだね……」
言いながら、優人は体を起こした。すると、少女は何かに気づいたように、優人の顔へと視線を向ける。
「……?どうかした……」
その時不意に、彼の口元に何かが滴るのを感じる。生暖かいそれを手で拭うと、彼の手は真っ赤になった。
「鼻血が……それに、目も真っ赤です」
暗闇の中でも分かるほど、優人の右目は赤く充血していた。
「あ……うん、大丈夫……ちょっと、頭が……」
「いいえ。自律神経の異常だと推測します。安静にしていてください」
少女は、優人の肩に手を当てながらその場に座らせる。されるがままにされていた優人は、次の瞬間に目を大きく見開いた。
「来る!また、さっきの奴が……」
優人が言いかけるのとほぼ同時に、グラリ、と大きく視界が歪んだ。高熱で頭がボーっとするように、思考が鈍くなる。
「くっ……ぅ……!?コレ……は……?」
その瞬間、彼は体の自由が利かなくなった。どうすることもできずに、優人はそのまま地面に倒れる。
「どうしました?」
少女は、優人の顔を覗き込みながら首筋に手を当て、脈を計る。その手を掴みながら、優人はかろうじて口を開いた。
「ダメだ……早く……離れ……」
その瞬間、何かが砕けるような音が鳴り響く。それと同時に、優人の意識は闇の中に飲まれていった。