1−1 今日から始めるマスター生活
日本には数百もの大学があり、それぞれの特色も様々である。
この俺、葛城健が通う西洋大学という大学にももちろん、特徴はある。
東京郊外に比較的広大な土地を持ち、文理各種の学部を揃えていること? いやいや、それは他にもいくつか同じような大学がある。
俺の大学が他と違っている点、それは校内に一歩足を踏み入れてみれば分かる。
「ペラペラペラペラ?」
「ペラペラ〜」
「ワーオっ!」
「イェーイ!」
俺には理解不能な言語を操り、妙に高いテンションで笑い合う謎の生物、「リューガクセー」が、うちの大学は異様に多いのである。
アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカなど、皆出身は様々であり、日本人の学生の方がかえって少ないとさえ思えてしまう。
「はぁ……」
全ての学部生が履修できる教養科目の教室にも、やはり外国人学生は多数見受けられる。
そんな中、俺は比較的日本人の割合が多い教育学部に昨年、入学した。
家から近く、兄も通っている大学ということでロクにオープンキャンパスなどにも参加せず入試を受け、受かったから入学したことを後悔してもしきれない。
なぜなら俺は、外国人が苦手だからである。
日本が好きだとか国粋主義だとか、そういうわけではない。
大陸系の外国人に多い、自己主張してなんぼと言わんばかりの大胆不敵さに、俺は圧倒されてしまうのである。またそんな彼らに同調する、兄のような日本人にも俺は、なるべく接触しないように心掛けている。
俺にこの性格が取り憑いてしまったのは、おそらく小学校に上がる前。教育熱心だった母親がインターナショナルスクールなるものに、物心もつかない俺を入校(投獄)させたことが原因だと思われる。
本来日本に暮らす外国人の子どものための学校でありながら、近年日本人にも一部解放され、英語や国際感覚を小さい頃から身につけ(させ)たい親に人気を博しているインターナショナルスクール。
そこで約3年間、文字通り揉まれた俺は何を身に付けたか。アルファベットをひと通り書けるようになったのと、10までの数字を英語で言えるようになった……だけである。
その他に挙げるとすれば、人見知り特性に外国人恐怖症?
まあ総括して、幼少期の俺を形作るうえで大きく貢献した3年間であった。
講義も始まったことだし、とりあえず話を進めよう。
その後俺は小、中、高と順調に上がっていったわけだが、その結果として「コミュ障ぼっちでゲーム好き」で英語が苦手な、どこにでもいそうな好青年(笑)が完成。
高校1年生にして英検準1級に合格、TOEICで800点を獲得する兄や、中学校から海外の学校に通う妹と両親を同じくすることが疑わしい人間なわけだが、俺たちは血の繋がった正真正銘の三兄妹である。
天は二物を与えず、などと言うが、俺には何が与えられたのだろうか。
入試科目の中では国語が比較的できるだけで、それ以外にホモ・サピエンスとしてのスペックで優れているところは……思い浮かばない。
その唯一と言える長所にすがり、俺は大学を卒業した後は高校か中学の国語科の教師になろうと、漠然とだが考えている。けれど履修単位数は多いし、来年には教育実習なんていう羞恥プレイを母校で行わ(せてもらわ)なければならないことを考えると、気が遠くなりそうである。
しかも俺は1年時必修の初級第二外国語の単位を落としているため、今年も余分に授業を取らなくてはならない。兄に「二外取るならチャイ語が楽単」(日本語に訳すと、第二外国語を取るなら中国語が楽に単位が出る)と言われたのを鵜呑みにしたのが悪いのだが、「楽単」の基準が兄と俺とでは違っていたことを恨むばかり。
今年取るのは再履修用の授業のため、去年のように中国語で討論をしたり、創作の京劇をやったりすることはないと思われるが、金曜日の2限にある初回授業のことを考えると、今から気が重くなる。
「にーはお、どーしゃおちえーん……」
こんにちは、いくらですか。
同じ意味なのに、どうしてこうも音が違うだろうか。
俺はノートの端に「你好、多少钱」と書き付けながら、小さくため息を吐く。
そんなことをしているうちに教壇の講師は授業終了を知らせると共に、次回授業のアナウンスを始めるが、まだ始まってから30分も経っていない。
しかし大学の初回授業とはこんなものである。
俺は他の学生が席を立つのに合わせ、教室から退出すると、次の授業に当たる4限目の教室に向かう。
「んな……マジかよ」
しかし教室に着くと扉には、「休講のお知らせ」なる紙が貼り出されているではないか。履修授業を登録したり、大学からのお知らせを受信したりできる学生用のポータルサイトをスマートフォンで確認してみると、やはり火曜日4限目の教育学科の授業は休講になっている。
やはり大学の授業とはこんなものだ。
俺は気を取り直して遅めの昼食でも取ろうかと食堂に向かったが、ランチタイムの混雑が未だ収まりきっておらず、諦めて退散。
「帰ってゲームでもすっか……」
やはりそれが一番、と自分に言い聞かせつつ正門の方へと向かうが、運命とやらは俺のゲームライフを全力で妨害したいようだ。
「お前がタケルか?」
謎の美少女とドラマチックな邂逅を果たし、誰もが羨む王道ラブコメを繰り広げたい。
恥ずかしいことながらその昔、俺もそんなことを考えておりました。
けれど大学2年になり、4月生まれの俺は20歳を迎えた。
成人にもなれば、そんなラブコメ幻想なんて捨てて、それなりの女の子とそれなりに付き合って、それなりに幸せになれればいいと、身の丈に合った、まだ見ぬ相手方には多少失礼な悟りを開くものである。
しかしこの時、俺を呼び止めたその少女……いや見た目からいうと、女性という形容が正しいかもしれない。
「……はいっ?」
「カツラギヤマトの弟、カツラギタケルだろう?」
俺が振り返ると、透き通るような金色の長い髪と高い鼻、そして青色の目をした、モデル体型の美しい女性が無表情で立っていた。グレンチェック柄のワンピースを着ており、年齢はおそらく俺より少し上、外国人は大人びて見えるため、実際は2、3歳しか違わないのかもしれない。
「私について来い」
「ちょ、ちょっと……」
その女性は俺の腕を掴み、スタスタと校門とは反対方向に歩き始める。
「俺、今から帰ろうとしてたんだけど」
「外せない予定があるのか?」
「外せないと言われたらそんなことないけど……」
「ならばついて来い」
元々外人恐怖症なのに加えて、据わった目で言われると適当にあしらうことも出来ず、俺はされるがまま、金髪の女性に連行されたのであった。
「入れ。ここが部室だ」
サークルの部室が軒を連ねる旧校舎の一室に連れて行かれた後、俺は尋問を受ける囚人の如く、そこに備えてあるパイプ椅子に座らせられた。
室内には会議用の机や数脚の椅子、ホワイトボードやティーセットの他、何かのサークルに特有の備品は見当たらなかった。
「国際交流サークルのか?」
「そうだ。ヤマトからどこまで話は聞いている?」
「どこまでって……日本人の学生がいないから俺に入れって言われただけだよ」
すると、机を挟んで目の前の椅子に座りながら女性は続けた。
「私やジュリアのことは聞いていないのか?」
ジュリアって誰だよ。バブルの時に有名になったディスコか何かか?
俺が多少引きつつ首を横に振ると、自分が食い込み気味に話していたことに気付いたらしく、軽く咳払いをして自己紹介を始めた。しかし決して無表情を崩そうとしない。
「私はユリヤ・ベリンスキー。ロシアからの留学生で、国際コミュニケーション学部の3年に在籍している」
「べ……ベリンスキー?」
「ユリヤと読んでもらって構わない。ヤマトにも他の部員にもそう呼ばれている」
謎の拉致犯改めユリヤは、机の端にあったティーセットを使い、手慣れた様子で紅茶を淹れてくれた。そしてなぜか、ティースプーンには少量のジャムが掬われた状態になっている。
「ロシアンティーだ。本場のとは少し違うがな」
そう言うとユリヤは、自分の分の紅茶には直接ジャムを投入した。そしてそれをおもむろに啜ると、「お前も飲め」と言わんばかりにこちらを見詰める。やはり迫力のある無表情で。
「いただきます……」
俺は行儀を気にしたわけではないが、スプーンをひと舐めしてから紅茶を飲んでみた。するとジャムが予想より甘く、ビスケットなどのお茶請けが欲しくなった。
「部員は私の他にもう1人、残念ながら今日は欠席だが2年生のフランス人でジュリアというのがいる」
「はぁ……メンバーはそれだけなのか?」
留学生が多い西洋大にしては珍しい気がする。異国の地ではやはりコミュニティが必要な彼らは、サークルなどを利用して同郷の仲間や日本人の友達を探すと聞いたことがある。
「ああ。このサークルはヤマトが立ち上げたサークルで、まだ出来たばかりだからな。それに似たような部活でESSがあるだろう? 多くの日本人の学生と一部の留学生はそこに入ることが多くてな」
「なるほど……」
English Speaking Society、略してESS。これはどこの大学にでも必ずと言っていいほどある部活で、英会話を学んだり、討論をしたり、スピーチの練習をしたりするのが主な活動内容となっている。
しかし英語の技能とコミュニケーション能力の養成を目的にしたESSは、やはり俺とは縁のない部活だ。あんなところに入った暁には……考えただけで恐ロシア……。
「何か言ったか?」
「いや、別に?」
ユリヤの鋭い視線を受け、俺は首を横に振った。
「それで、このサークルはいつも何をしているんだ?」
俺の問い掛けにユリヤは、困ったように虚空を見上げて言葉を探した後、
「これが活動だ」
と、自信を持って一言。
「これって、お茶飲んで駄弁るのが?」
「ダベル……? 私はその日本語の意味を知らない、教えてくれ」
「ああ、特に目的もなく話すようなことだ。今の俺たちみたいに」
少々硬い言葉遣いと謎の高圧的な言葉尻にも、流暢な日本語を話すユリヤに、彼女がロシア人であることを忘れてしまいそうになる。
「なるほど。駄弁る……私たちの活動内容に最適な言葉だな」
ユリヤは何度か頷きながら、納得してくれた様子を見せる。
「駄弁るサークルなのかよ……。てっきり俺、英語でディベートしたりするのかと思ってたぞ」
「英語でディベート? そんなこと、わざわざやってどうなる?」
「どうなるって、それをやって英語身に付けるんだろ? よく知らんけどさ」
するとユリヤはカップに残っていた紅茶を飲み干し、ため息吐きながら言った。
「ディベートをする前に英語を話せるようになっていなければ、そのディベートに意味はあるのか?」
「でも話せる範囲内ですればいいんじゃね?」
「しかしそのディベートは、より真理に近い命題をアウフヘーベンすることは可能なのか?」
「……ちょっと待て、簡単な日本語で話してくれ」
哲学か何かの講義で出てきそうな言葉を、日常会話で使われては困る。
しかしユリヤは逆に首を傾げてしまった。
「私の日本語が間違っていたのか?」
「いや、そうじゃなくてだな……もういい。何か俺が惨めに思えてきた」
留学生に日本語の解説をされるなんて、国語教師終了のお知らせもいいところだ。
「じゃあ逆に、ユリヤは何が目的で国際交流サークルに入ったんだ?」
俺も同じように紅茶を飲み干すと、ユリヤはお代わりを注いでくれた。
「目的か、少し長くなるがいいか?」
「どうぞ」
乗りかかった船でこのサークルにはどうせ入らされるんだ。徹底的に付き合うとしよう。
「私は将来的に外交の仕事につきたくてな、日本に来る前にもイギリス、フランス、ドイツ、スウェーデン、中国と留学をし、各地で語学の勉強をしてきたのだ」
「イギリス、フランス……え? ってことは今、何か国話せるんだ?」
俺が目を白黒させて聞き返すと、ユリヤは奢る様子も見せず、指折りに答える。
「まだ留学してない国も合わせると……英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ノルウェー語、スウェーデン語、中国語の普通語と広東語、そしてロシア語だから9か国語だな」
「日本語を忘れてるぞ」と俺が付け加えると、「そうだな」と少し微笑む。
「そんな超スーパーマルチリンガルさんが、何でこんな駄弁るのが目的のサークルに入ってんだよ?」
「うむ、私は生の日本語を身に付けたくてな。そのためにはやはり、特に活動内容もなく学生が集まるサークルに入るのが最適なのだ。これは今までの留学経験で、自然と分かってきたことだ」
「へぇ……」
とすると、やはりESSのように「話す」のが目的だったり、学ぶことが主体のサークルでは意味がないというわけか。というか英語は既に話せるんだっけ。
意識が高過ぎて何周もしてしまった結果、(一見)意識の低そうなサークルに入ってしまったユリヤは、表情を変えずに身を乗り出して俺の手を握った。
その手はかなり熱いのは、直前までティーカップを持っていたせいだろうか。
「お願いだ。私のためにも、どうか国際交流サークルの代表になってくれないか?」
「だ、代表に?」
「ああ、やはり代表は日本人学生の方が何かと便利なんだ」
「代表になるとは聞いてなかったんだが……」
部活ではなくサークルとはいえ、代表になると学校への届け出など、平のメンバーに加えて負うべき雑務が一気に増える。
今のようにゲームに時間を割くこともできなければ、単位を犠牲にする危険性も出てくる。
俺は兄のように高い意識を持っていなければ、授業とプライベートを両立させることもできない。
毎日学校に通って、授業に出て、家に帰って、ゲームして。それで一杯一杯なのだ。兄とは人間の完成度が違う。
「お願いだ、タケル……」
しかし金髪碧眼の美女に懇願されているこの状況を前に、「無理です」とは言えず。
「しゃーないな……」
「しゃあない?」
「仕方ないな、ってこと」
「じゃあ、受けてくれるのか?」
ユリヤはほんの少しだけ、大きな沼に生息する1匹のアメーバが、仮足を動かす程度にではあったが、その時たしかに表情を明るくした。そして巨大な水田の中の1匹のミドリムシが、ユーグレナ運動をするレベルではあったが、頬を紅潮させた。
「ありがとう! 私は嬉しいぞ!」
「お、おう。そこまで頼まれちゃ断れないって」
そしてユリアは俺の手を放すと、用意していたらしき入部届をカバンの中から取り出し、ペンとともに俺に差し出してきた。
「そうと決まれば話は早い。早速サインして学生生活課に提出しよう」
「あ、ちょっとその前にいいか?」
「何だ? 用紙に何か問題でもあったか?」
「俺が代表ってことはだな、つまり俺がこのサークルで一番偉い人間、要はマスターってことだろ?」
「そうだな。マスターに違いない」
一度やってみたかったんだよね。ユリヤを見た瞬間、この人がピッタリだって確信してたし。
俺はユリヤに耳打ちし、あるセリフを言ってもらえるように頼んだ。すると案の定、元ネタを知らないようで、「そんなことを言ってどうなるんだ?」と困惑する。
「いいからいいから。ユリアじゃなきゃダメなんだよ」
「……ふむ。ならしゃあない、と言ったところか」
ユリアは軽く襟を正し、椅子に座る俺を軽く見下すようにして言った。
「問おう。あなたが私のマスターか?」
俺は全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
「……ユリヤ、これから俺のことさ、マスターって呼んでくれない? 想像以上に似合っててヤバいから」
「別に構わないが……何かタケルが良からぬことを考えているようでならないぞ?」
「考えてないって。……俺に何して欲しいのか言ってくれよ」
するとユリヤは、少し不満げながらもしっかりと俺の期待通りに答えてくれた。
「早くサインをするのだ、マスター」
いいぞ、これはいいっ……!
ゲームを犠牲にしても、単位を少しばかり落としても、ロシアン美女のユリアに「マスター」なって言ってもらえるなら、代表にもなるし、聖杯を巡った戦争にも参加してやる。