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東京銀世界  作者: 温泉街
6/7

盛夏

 暦の上では秋になったはずだが、当然のように暑い。夏休みが始まったばかりなのだから、当たり前だ。8月の頭に行われた第二回マーク模試はなかなかの出来だと思ったのだが、偏差値はわずか0.2上がっただけだった。下がるよりマシか。私は自分にそう言い聞かせて、結果表を見た。国語の現代文と世界史は偏差値60近くに達しているが、英語と古文がひどい。偏差値45を少し超えているだけだ。

 藤谷は英語の試験で適当にマークしたら、200点満点で120点を超えたらしい。なんという強運の持ち主だろうか。しかし本番でそれが発揮できなければ意味がない。

 学校の図書館は空いていた。夏休みだから当たり前だ。同じクラスの女子二人が仲良く勉強している他には、人の姿は見えない。私は結果表を鞄にしまった。いつまでも睨めっこしていても埒が明かない。とりあえず目下の目標は英語をなんとかすることだ。塾のテキストを広げる。

 「おい」 頭を小突かれた。

 振り返ると、ショートカットに意志の強そうなきりりとした眉、姉に似てくりっとした丸い眼をした小柄な女の子が憎たらしい笑みを浮かべて立っていた。高村智香の妹、高村純香たかむらすみかだ。顔はいいのだが、いかんせん姉を凌ぐ口の悪さだ。

 「あんた、先輩に向かってその口の利き方はなんや」

 「先輩? ああ、そういえばそうやね」

 純香は本当にいま気付いた、というような調子で言った。

 「なっちゃん、受験生やで夏休みも図書館で勉強しとるかなと思って来たらほんまにおった」

 「まあ、やらな受からんでな」 私は苦笑しながら言う。純香は私の隣に座り、英語の長文を覗き込んだ。

 「純香はなんで今日学校におんの?」 

 「あたし今日部活やったでさ」 そういえばこいつは中学の時から吹奏楽部だったはずだ。中学の「三年生を送る会」で、まだ当時中一だった純香たち吹奏楽部の演奏を聴いたが、なかなかの腕前であった。小学生までピアノを習っていたが全く上達しなかった私から見れば、なにかひとつでも楽器ができるのは十二分に胸を張れることだと思う。

 「ほんでな、なっちゃん今日自転車やろ? 帰り家まで乗せてってよ。勉強終わってからでええから」

 数秒前まで抱いていた純香に対するほんのわずかな尊敬の念が瓦解した。

 「・・・・・おまえ、定期は?」

 「昨日で切れた。今日は普通に切符買って学校まで来たら、帰りの電車賃ないことに気付いた。姉ちゃんに聞いたら多分図書館におるよって言うで来てみたらほんまにおった! あんたら付き合っとるんか?」

 へらへら笑っているなら鼻の穴に指でも突っ込んでやろうと思ってテキストから顔を上げたが、彼女は至極真面目な顔していた。私はそれには答えず英単語帳を純香に渡し、「おい、なんか問題出せ。あと今度アイス奢れ・・・・」

 私がそこまで喋ったとき、またあの重低音が聞こえた。純香が身体を強張らせ、私の腕をきつく握った。青い空を銀色の双発機がかすめていく。梅雨が明けたころから、プロシア軍は東北地方の空軍・陸軍基地の無血占領を開始した。北海道を完全に占拠しており、日本軍が抵抗すれば北海道の都市に無差別爆撃を加えるというので、全くなす術がない。

 「小さいのが一機だけやわ・・・・」 私がそう言っても、純香は固く眼を閉じたままだった。エンジン音が小さくなっていくと、彼女はようやっと汗ばんだ手を離した。「あたしあの音嫌い・・・」 それは誰でもあまりいい気持ちはしないだろうと思ったが、彼女を顔を見て、口に出すのをやめた。

 

 「なんで俺が奢らないかんの・・・・・」

 私と純香は入江を見下ろす高台の公園のベンチに座ってジュースを飲んでいた。夕暮れの海風が心地よく頬を撫でていく。夕凪の海を眺めながら、私はふと以前にもこんなことがあったことを思い出していた。私がまだ小学生の5年か6年の夏ごろ、智香と純香を連れてこの町の探検に出かけた。しかしまだ幼い私たちは道に迷ってしまい、泣きだす純香を奮い立たせながらようやっとこの公園に辿り着いた。そこで私はなけなしの200円で二人にジュースを買ってやったのだ。あのときも夕凪の海だった。もう遥か遠い昔の話だ。

 「喉乾いたんやでしょうがないやん。なっちゃんも疲れたやろ?」

 純香の声で我に返った私はそれには答えず、「飲んだら行くで」とだけ言い、缶をゴミ箱に放り投げた。純香も「はいはい。つれん人やね」と言って、私の自転車の後ろにまたがる。

 「そういえば『つれない』って古文ではどういう意味なん?」 純香がいたずらっぽい笑みを浮かべながら私の顔を覗き込んだ。

 「『冷淡である』」 私が即答すると、「チッ」とつまらなさそうに舌を打ち、私の腰に捕まった。あの時は半べそをかいていたのに、大した成長っぷりである。彼女のふくよかな胸が背中に当たり、私は少しだけ、自分は恵まれているのだろうかと考えた。

 「ねえ」

 なだらかな坂道を下り切ったところでまた純香が口を開いた。あとは小さな漁港沿いを20分ほど走れば家に着く。

 「・・・今度の休み、あんた暇? 息抜きがてらどっか行かん?」 渇いた潮風を長いこと浴びていたからなのか、純香が幾分掠れた声で言った。

 「おぉ、いいよ。さすがにこっちも勉強ばっかだと息が詰まるわ。ちーちゃんにも・・・」

 「あ、姉ちゃんは用事あるらしいでさ・・・、二人で・・・」

 そのとき夕凪が終わって最初の潮風が私たちの顔を直撃したので、彼女の言葉尻を聞き取ることはできなかったが、私の背中を掴む彼女の手の力が少し増したように思えた。



 開け放した窓から、潮の香りを孕んだ心地よい夜風が流れ込んできた。この街で暮らしていると、自分の記憶にある限り潮の匂いを嗅がない日はなかった。梅雨時の潮風は苛立ちを助長させるが、それでもこの風を厭わしく思ったことはなかった。ベッドに寝転んだまま夜空を見上げると、カシオペアが見えた。いささか夜風を肌寒く感じ、高村純香は窓を少し閉める。涼波夏乃に送りかけていたメールを消去し、携帯を部屋のクッション目がけて放った。

 小さい間取りのマンションながらも、姉の智香と別々の部屋を与えられているのがありがたかった。純香は先ほどよりかは幾分見える範囲が狭くなった夜空を見上げる。カシオペア座は何億年も前からあの光を放ち続けているんだなぁ、と思うと、ありきたりな感想だが、自分がとても無力で小さい存在に思えた。

 夏乃のことを意識し始めたのはどれくらい前だったろうか。小さい頃、海が見える公園で姉と彼の自分の3人で沈んでゆく夕日を見ながらジュースを飲んでいたときからだろうか。純香は今でもあのときのことを思い出す。自分があちこちへ夏乃と智香を連れ回し、結果的に道に迷ってしまった。今考えてもよく帰れたものだ。幼い自分には、夕日を一種のタイムリミットのように感じていた。夏乃はもうあんな昔のことを覚えてはいないだろう。今日の夜風もあの日の潮風と同じ匂いがする。そう思うと純香は無性に懐かしくなり、玄関の外に出てみた。立ち入り禁止の柵を乗り越え、屋上への階段を上る。夏乃がいた。座り込んで望遠鏡のようなもので空を覗いていた。「夏乃!」 純香は驚いて声を上げた。彼も少し目を大きくした。

 「な、なにしとるん?」 純香がおずおずと夏乃に近づく。

 「今日はよう星が見えるわ」 夏乃が相好を崩し、望遠鏡を覗き込む。その顔があまりに少年のころの彼に似通っていたので、純香はどきりとした。彼が覗き込んでいるのはやはり天体望遠鏡のようだった。

 「あんたも見る?」

 夏乃が腰をずらし、場所を譲った。純香は言われるままに望遠鏡を覗きこむ。微かに白い靄がかかったようなものが見える。

 「オリオン座の三つ星の下にあるオリオン大星雲や。ピント合わすの苦労したわ」

 「ふーん・・・」 夏乃が星が好きだとは知らなかった。純香は望遠鏡から目を離して胡坐をかく。「食べる?」と夏乃が差し出してきたポテトチップスの袋に手を突っ込んだ。

 「しかしあんたが星見るのが好きやったとはなぁ、意外やわ」 菓子を口に詰め込みながら言うと、「小学生のころから好きやったけどなぁ」と彼は少し遠い眼をして呟いた。

 「そうなん? 全然知らんかったわ」

 「屋上でしか望遠鏡覗かんからな」

 「なっちゃん、向かいのマンション覗いたりしとらんやろね?」 純香はにやけながら夏乃に尋ねた。夏乃は鼻で笑い、「そんなアホなことせんわ」と純香の頭を小突いた。「上下左右逆転したもん見てもなんにも面白くないよ」

 「いってえな。結局見てんじゃねーか」 純香は袋に入っていたわずかな菓子を鷲掴みにして口に放り込む。「おい、仮にも女子なんだからそんなみっともないことをするな。あと菓子食った手で望遠鏡触るなよ」

 「仮にもってなんだよ」と彼の脛をつねっていると、視界の端に一際明るい灯を放っている場所があった。海の方角、南勢工廠だ。5月に爆撃を受けて修復中だが、まだプロシアに占領はされていない。その灯を見て、彼女は少し気分が沈み込むのを自覚したので、夏乃の方に向き直ったが、言い様のない小さな不安は首をもたげたままであった。

 夏乃がピントを合わせたオリオン大星雲は、自転により、とうの昔に視野から外れてしまっていた。

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