桜の季節
序
車窓から、雪をかぶった富士山が見えた。2か月前とくらべると白い冠がだいぶ北上しているようだ。今日は晴天であった。沿線の玉川上水沿いには桜が咲き誇り、家族連れやカップルが楽しそうに歩いている。私はそんなものは見たくなかったので、向かい側の座席に移動した。昼下がりの急行は空いている。2か月前の早朝に乗ったすし詰めの急行が嘘のようにガラガラだった。西練馬駅で電車を降りると、私は大学への道を歩き出した。オープンキャンパスも行っておらず、センター試験利用で受かったので行くのは今日が初めてある。南口を出ると桜並木がひろがっていた。玉川上水の桜よりは人通りもまばらだったが、私は慣れない松葉杖をつきながら、少し顔をしかめて歩きだした。
桜の花が嫌いだった。すぐに散ってしまうからとか、はかないからとか、散ったあと雨が降ると汚いといった野暮な理由ではない。とは言っても、花びらの掃除が面倒くさいとか直接的な理由でもない。
咲く時期が嫌なのだ。
総じて桜が咲くのは春だ。毎年春にはいいことがない。中学の入学式も、高校の入学式も、そして今年も・・・。桜の花は希望の象徴などと見なされることが多いが、片腹痛い。とにかく、なにか新しいことの「始まり」というものが、私にはひどく居心地が悪く、不快なものに感じられた。
「今年も咲いた・・・」
私はため息と一緒に言葉を吐き出した。明日から通うことになるだろう、武州大学桜川キャンパスの重厚な正門を見上げた。先月のプロシア軍戦闘機の機銃掃射でところどころ陥没しており、「州」の字に弾がめりこんでいた。私にはそれが滑稽で、少し唇の端を歪めると踵を返した。
1年前 2013年 4月3日
「では、3年7組から順に退館してください」
生活指導の山下が珍しく簡潔に話を終えると、生徒に退出の指示を出した。7組の生徒が我先にと体育館を飛び出していく。6組も5組も、いつもなら気怠るそうに出ていくのだが、今日は違った。
クラス替えごときでそんなに騒ぐなよ・・・。
私は小さく息をつくと、4組退出の指示に従って外に出た。上履きに履き替えていると「3年はどんなクラスやろな」と、私の上から声が降ってきた。見上げると、同じクラスの伊崎康則、通称ヤスが立っていた。いや、正確にはあと数分後には離れてしまうのだろうが。
「期待せんほうがええな。2年のときよりいいってことはないやろ」
私は苦笑しながら答えた。ヤスも「確かに」と言って少し笑う。2年のときはなかなか居心地の良いクラスであった。あれを超えるクラスに巡り合うことはもうないだろう。
後ろから来た2年の生徒が物凄いスピードで校舎へ駆けて行った。私たちは並んでゆっくりと歩いた。
「なぁ、ナツは大学どこ受ける?」
唐突にヤスが口を開いた。
「あぁ、もう3年やもんな。僕は・・・東京行けたらいいかな・・・。ヤスは?」
ちなみに男子高校生で頭の中限定ではあるが、『私』などという一人称を使うのは私くらいのものだろう。もうすっかり慣れたが。
「俺は三河行けたらいいや」
ヤスがしたり顔で応える。謙虚なものだ。しかし、漠然と東京へ行きたいと思っている私に比べれば現実的で賢い選択と言える。私にしても、特に東京に憧憬や夢を描いているわけではない。地元に手頃な大学がないだけだ。
どこからか飛んできた桜の花びらが、私の鼻に貼りついた。私はそれを大きなため息で吹き飛ばした。三重県南部にある私の故郷の桜は、もうあらかた散ってしまっていた。
クラス表の前にできた人だかりを遠巻きにして目を凝らすと、私の新しいクラスは5組のようだ。無情なことに男子で2年のときと同じクラスなのは吉川だけだったが、いないよりは心強い。5組へ行き、そこで初めてクラスの面々を知ることができる。1年のとき仲の良かった奴らや、同じクラスになったことはないが、2年のときに隣のクラスでよくしゃべる奴らが多かったので、とりあえずは安心だ。それに席も後ろから2番目と幸先がいい。前の席が話したことのないチャラ男の様相を呈している奴だったが、私がぶち負けたペンケースの中身を拾ってくれたので悪い奴ではないだろう。
「はい、じゃあ今日はこれで終わります」
提出物を揃え終えた新しい担任、北島がずれたネクタイを直しながら、のんびりとした口調で言った。40代後半の落ち着いた教諭で、確か2年のときは6組の担任だった。どちらかというとアタリの部類に入るだろう。
「どう? 新しいクラス」
となりを歩いていた枡岡くんが、頭頂部に載った桜の花びらを指でつまみながら聞いた。駅へは桜並木の中を歩く。いつもは自転車通学だが、今日は遅刻しそうだったのでだったので列車で来た。
「微妙・・・。1年のときよりはマシかな。枡岡くんは?」
「まあ可もなく不可もなく・・・・。女子が多い」
枡岡くんが苦笑を浮かべながら言った。
「あぁ・・・そうだ。西田と一緒になった」と私が言うと、「うわ」と枡岡くんが眉をひそめて笑った。西田はちょっとした問題児であるが、愛すべきバカといった感じで、嫌われているわけではない。
「あー・・・きれいやなぁ・・・」
枡岡くんが嬉しそうに桜を見上げた。私は「そうやね」と言った。思わず一緒に吐き出したかすかな溜息は彼には聞こえなかったようで、私は少し安堵した。
北欧の大国であるプロシアが北海道の礼文・利尻両島に侵攻したのは、その夜のことである。