ウラハク
背拍、又は裏拍と言う。
いわば、柏手の逆である。神道で行う柏手が手のひらを合わせることによって音を出すのと裏腹に、こちらは手と手を合わせる。音がするはずがないのだが、これが非常に『縁起の悪い』つまり『呪い』をかける仕草なのであると言う。
本邦の呪道には今でも、得体の知れない力を持つ禁忌が多数存在する。例えば上げてはいけない祝詞、又は唄ってはいけない数え歌、などがあると言われるが、それらは全て口伝で密かに継承され続けているものだ。
ちなみにこの裏拍、一般に縁起が悪いのはそれが、死者の拍手であると言われているからである。すでに死したものが、生ある人間を妬み、見えない場所でこれを行うことにより、その人間を死に惹きこみたいと言う表現なのだそうな。
つまり裏拍は、死者が生者に対して、
「こっちに来い」
と誘っている仕草に他ならないとされる。もちろん大多数の人間に霊感はないから、死に呼びこまれることは極端に少ない。そして生ある人間ならばそもそも、そんなことはするはずがない。
だが、こんな話がある。
今から三年前、横浜市に住む三觜さんは、女子高生の飛び降り自殺を目撃した。
「目の前のホームの女の子と目が合ったんです。そしたら、にやっ、て笑って」
藍のリボンのセーラー服に腰まで黒い髪を伸ばした、端正な顔立ちの女の子だったと言う。だが目が合った瞬間、どきっとした。よく見るとその子の髪は枝毛まみれで、顔は切り立ったように削げて痩せこけ、十代の少女らしからぬ異様な風体だったからだ。
兎のように血濡れた赤い瞳が涙で潤んで、三觜さんを凝視していた。それから強張った頬を引きつらせてその子は、確かに笑った、と言う。そして三觜さんに向かって異様な行動をし始めた。
「ぐるぐる手を回して、何か呪印のようなものを切り始めたんです」
それは映画などで修験者や山伏がやる、魔除けの印を思わせるものだったそうな。人差し指と中指を立てて三觜さんに叩きつけるようにし、何かを吐き捨てるような異様な表情を見せた。
「それからやったんです。こう、左手の甲を下に、上から右手の甲を叩きつけて」
それが、裏拍であった。
「確かにパチン、と刺すような音が頭の中でしました」
ありえないことである。
なぜなら、線路を挟んで三觜さんと女子高生はお互い確認できるとは言え、距離としては十メートル以上離れていた。しかも通勤時間の駅ホームだ。当然、普通に柏手を打ったとて、聞こえるはずがないのだが。
その瞬間、女子高生は飛び込んできた電車に飛び込み、即死した。
「最期に叫んだんです。『ざまあみろ』って」
衝撃的な体験だった。これで三觜さんは、しばらく電車通勤は出来ない、そう思ったくらいだ。しかし、不思議なことはそれだけではなかった。
「事件を目撃した瞬間、なぜかふっと気持ちが軽くなったんです」
三觜さんは大学生の頃、恋人に棄てられたショックでうつ病を患っていた。今でも時々、気分の底が襲ってきて朝、どうしても通勤できず、会社を休むことがたまにあったくらいである。実はその朝も、うつが三觜さんを襲っていたのだった。
「来る、って言うのが自分でもよく分かるんですけど」
それが飛び降り自殺を見た瞬間、まるで冬から春へ季節が切り替わったかのように、変わったのだった。不思議としか言いようがなかった。
(わたし、変なのかな)
目の前で自殺を目撃するなんて、どうみても気分のいい体験とは言えない。しかも、自分の目の前で死んだのは、異様な女性だった。しかも、女子高生は若いとは思えないほどのしわがれ声で叫んで死んだのだ。
「ざまあみろ」
と。
しかし、奇怪なのはそれからだった。
「うつって早朝に現われて、日暮れ頃は回復するんです」
最も辛いのは、目が覚めかけの真夜中だと、三觜さんは言うのだ。その頃悪夢を見たり、過去の嫌なことを思い出して、胸が張り裂けそうになるのだ。
「でも何だろう。わくわくして、自分が本当に浮かれているのが分かるんです」
三觜さんは、控えめな女性だ。お酒を過ごしても、羽目を外すことなど滅多にないのだが、眠りながらあまりの上機嫌で居ても経ってもいられなくなるのだと言う。
それから三觜さんは不思議な夢を見るようになった。
桜色の春霞の中を、春の草原を延々と歩く夢である。空気は心地よくほとびて、空は美しい茜色がにじんでいる。
桜の花が満開になって大きな林になっており、足元一面に咲いた青い天人唐草やタンポポの花を踏みしめて、三觜さんは歩いていく。そのとき足元を、小川が流れていた。雪解けの澄んだ冷たい水だ。川の行く手をたどって、三觜さんはどこまでも歩いていこうと思う。これが今までにないくらい、いい気分だった。空の雲を踏みしめていくような気持ちで、三觜さんは歩いていく。やがて足元の川が流れるサー、と言う水音が、三觜さんの耳から離れなくなっていく。
そして気が付くと真っ暗な洗面所に一人、たたずんでいるのだ。
「水道が出しっぱなしになってて、ずうっとその水音だったんです」
大きな姿見に、三觜さんが映っている。思わずぎょっとしたのは、自分がにこにこと笑っていたことだ。自分でも見たことのない満面の笑みだった。しかもなんとその手には、小さな剃刀を握っていた。
三觜さんは驚愕して、剃刀を取り落した。だが真の異変に気づいたのは、そのときだった。確かに悲鳴を上げて剃刀を取り落したのに、鏡の中の自分は写真のように動かないのだ。
鏡の中の自分は、くすっ、と笑った。その忍び笑いの声がはっきりと聴こえた。鏡の中の三觜さんは剃刀を持ったままそれを、いきなり手首に当てて思いきり引いたのだった。みるみるうちに手首に傷が開き、鏡の向こうでは三觜さんの手は血まみれになっていた。
すると満面の笑顔だった自分が一転、恐ろしげな真顔になり、じいっとこっちを睨みつけてきた。もはや別人のようになった鏡の中の三觜さんは傷口を抑えながら、押し殺した声でこう言うのだった。
「またな」
三觜さんは、お祓いに行った。だが多くの神職者が三觜さんの体験を聞いて、顔面を蒼白にしたと言う。
「どうやら裏拍をもらいましたな」
蒼褪めた顔で話してくれたのは、京都のある有名な霊能者のいる神社へ行ったときだ。不吉な呪いであると言う。まだ呪術が盛んであった平安時代頃、政敵を呪い殺すために、貴族たちが行った禁断の呪いのうちの一つだった。
「これは道連れの呪いでありましてな」
呪法を行ったものが自ら命を絶ち、冥界から呪った相手を惹きこむのだと言う。貴族たちには死穢の思想があるため、もちろん自らはやらない。身代わりを雇ってやらせるのだと言われる。
「しかも、道連れは連鎖しまする」
裏拍で呼ばれたものは、次の人間を裏拍で呼ばない限りは、決して地獄から解放されることはないと言うのだ。貴族たちは敵対する一家丸ごと一つ葬るために、この呪法を行ったのだそうな。
「あなたを引いた方も、誰かに友引かれましたな」
結局その人の紹介で三觜さんは、ある巫女に呪い封じをしてもらったのだと言う。盲目の巫女はまだ若く、話を聞くと幸い薄謝で引き受けてくれた。
「御気の毒です」
それからとりあえず、あの不気味な夢を見ることだけはなくなったのだと言う。
「でも治ったわけではないと思います」
あれから三觜さんはわけもなく、急に楽しくなることがあるのだと言う。いつ夢の中にあの桃源郷と、鏡の中に住まう不気味な笑顔の自分に遭遇するか、気が気ではないのだそうだ。
三觜さんは今でも、頭の中で響いたあの、パチン、と言う裏拍の音が忘れられない。
「いつかはわたしも、誰かを道連れにするような気がします」
呪いはまだ、息づいている。