( 留守模様 )
家長であるササキの不在であっても、使用人として勤める各員の仕事に大きな変動はなく、みなは今日も通常業務をこなしている。
『人間の娘達は、どんな様子だ?』
そんな中、遠話の魔法による通信相手から、不意な質問が投げかけられる。
『どういう意味だ。兄者よ』
質問の意図を測り兼ね。聞き返す声に対して、通信相手はやや無言ののちに、静かに語る。
『我ら【北の塔の国】の各部門長の中で、現在人間の弟子を迎えたのは、お前が初めてなのだからな、グロラテス』
そこまで言えば意図が伝わるだろうとばかりに、兄者と呼ばれた男の声は、だがどこか常よりも早口であることに、グロラテスは内心で苦笑する。
元より寡黙な兄弟達であるため、日頃から多くを語らない関係である。しかし内容的に一言では言い表せないと感じたグロラテスは、しばし思考し言葉を繰る。
『カオリ・ミヤモト嬢の関係者みなに共通するが、素直で覚えも早い、特定の国の文化に染まってもいないゆえ、我らのやり方に疑問を抱くこともない、端的に言えば、非常に教えがいのある弟子と言えるだろう』
『……そうか』
グロラテスにとっては懸命に考えたすえの説明だったが、相手からの返事は極めて素っ気ないものである。
しかし内心では様々な思考を巡らせていると知っているグロラテスは、相手が自分から話し出すのを根気強く待つことを心得ている。
『陛下のお考えを、我らが理解するのは非常に困難を極める。しかし現状だけを見ても、我らのような技術者が、その技や知恵を継承出来る後継者を得られることは、幸福なことだと感じている』
『……兄者も、弟子が欲しいということか?』
『むう……』
回りくどい口上の真意を突かれ、男はきまり悪く唸る。
『もし、可能であれば、今一番近くにお仕えしているお前から……』
『兄者……、我らが口下手なのは知っていよう? 陛下はこの世でもっとも寛大であり慈悲深い至高なる王なれども、決して無益に財を浪費されるお方ではない』
長い沈黙が落ちる。
『――臣下は我が国の最上の財産である。無意味な浪費、ましてや消費は、我が名において固く禁ずる――。ゆえに如何なる事物においても、その是非を深く吟味し、多くが納得出来る提案を心掛けるべし』
『そうだ。兄者よ、単純に弟子が欲しいと考えたとて、その有用性を陛下ならびに守護者各位様方へ、ご納得いただけるように提案出来る。なにか妙案など考えているのか?』
『むう……』
再度の唸りに、グロラテスも溜息を吐きたい気持ちになる。
『陛下に直談判を試みる勇気は流石にないが、もしかしたらなにか方法があるやもしれん』
『本当か? しかし、よもや……』
『安心しろ、なにも下賤な人間社会に染まったわけではない、あくまでも我らなりの努力の仕方が、あるやもと思いついたまでだ』
【北の塔の国】から唯一、人間社会に紛れて活動するグロラテスの状況を、男は純粋に案じる一方で、価値観の変容も懸念している様子を受け、グロラテスは一応と釈明する。
『それならばこの一件は、お前に一任するとしよう、ただそうだな……、我らの方でも、署名活動とやらをやってみるとする』
『わかった』
そこまで言って遠話を切ったグロラテスは、自室から直通の厨房へと移動する。
電磁調理機の存在しない一見未発達に思えるこの世界だが、代わりに魔法技術という独自の発展を遂げたゆえの設備がある。
魔力を燃料に発熱または発火する加熱魔道機器や、魔道式喞筒を利用した水道設備などは、必ずしも現代日本に劣るとは限らない。
しかし誰もが作成出来るわけではないことから、非常に高価な代物であることは間違いなく、例えこの世界の上流階級であっても、富裕層にしか揃えることが出来ない。
そんな誰もが憧れるこの世界の最新設備の数々も、ササキの屋敷には当たり前のように導入されている。
木造の土壁や、石組みで建造されたこの貴族屋敷の中でも、ここの厨房周りだけは、なんとも形容し難い外観に見えた。
そんな厨房の中にあって、カオリ達の村から料理人見習いとして出向して来た姉妹であるリヴァとフォルが、今日も笑顔で楽し気に作業を進めていた。
「あ、おはようございます。料理長様」
「おはようございます。料理長様」
「……おはようございます」
元気よく朝の挨拶を告げる姉妹に、グロラテスは目を細めて静かに返事をする。
まだ日も登らない早朝から起きだして、覚えたての朝の仕込みを始めるその勤勉さに、グロラテスは大いに感心する日々である。
グロラテス本人も、早朝の定期報告などがなければ、同じ時間には起きて作業を始めてはいるのだが、体力や肉体能力的に圧倒的な差異があるこの人間の姉妹が、自分と同等に働けることが、素直に称賛に値すると感じるのだ。
重ねて説明すれば、グロラテスは人間ではない、真の姿は人間社会で魔物に相当する【オーク】であり、さらには全料理系スキルを保持出来るだけの、十分なレベル保持者だ。
ちなみに某オンラインゲームのシステム上、一つの系統のスキルを全て習得するためには、最低六十レベルが必要とされる。
つまり料理系スキルを全て網羅する料理人のグロラテスでさえ、現在は六十レベルに達する高レベル保持者なのだ。
当然レベルが上昇すれば、基礎能力に対して、それだけ多くの補正が加えられる。
現在は三十レベルに近いカオリが、ミカルド王国内で対人戦闘能力を高く評価されていることから鑑みて、そのカオリの二倍のレベルを保持するグロラテスが、果たしてどれほどの強者であるか、理解いただけるだろうか。
しかしそんな高レベル保持者のグロラテスでもってしても、【北の塔の国】が要する純粋な戦闘職の配下の中では、下から数えた方が早いのだから、かの国が【北の脅威】と人間達に警戒されるのも致し方ないであろう。
とくに現在ササキの屋敷を密かに警護中である。ササキ直轄の隠密部隊【超越者の幽鬼】達は、隠密特化型でありながら、その戦闘能力は桁外れである。
その気になれば彼らだけで、王国の要人を全て、一晩の内に皆殺しに出来るのだから、過剰戦力も甚だしい。
しかし今はそんなことは、グロラテスにとって特段気にもならない事柄である。
今日の朝の献立は、王都で手に入りやすい食材の中でも、とくに新鮮かつ品質の高い品から選び抜いた食材を利用した。しかし見た目はいたって普遍的な朝餉である。
様々な食材を利用した栄養素を意識しつつも、あまりに文化のかけ離れた料理を出してしまうと、カオリ達によい影響を与えないと、ササキが判断したためだ。
惜しむらくは、内陸に位置する王国では、海産物がどうしても手に入り難く、味や栄養に偏りが出てしまうことが、最近のグロラテスの悩みである。
料理スキルが高いと言っても、スキルは所詮扱う食材の各種栄養素を含めた。料理にまつわる情報の可視化や、魔力干渉、または調理過程における食材の変化を正しく見極められるようになるだけの能力だ。
つまり料理そのものの種類、つまり献立の数そのものは、料理人自身の知識量に依存せざるをえないのだった。
そもそもが、【北の塔の国】で手に入る食材にしか触れたことのないグロラテスである。今現在をもっても、王国で流通する食材の全てを扱ったことがないために、日々発見の毎日であると感じている。
ササキを最上の主と仰ぐ彼らにとって、この世界の人類を含めたあらゆる生命体は等しく、別の神を自称する何者かの手によって生み出された。まったく別種の存在という認識だ。
そのため北の塔の国所属の配下NPC達の大半は、彼ら他種族を下等と見下す傾向が強い、それはカオリによって生み出されたアキを見てみれば理解出来るだろう。
ましてやササキの生み出した配下NPC達は、事実として高いレベルを保持し、あらゆる分野においても高い水準を持っている。
如何にササキが他種族他勢力との無用な諍いを嫌い、慎重かつ穏便に外交並びに交流を心掛けるよう通達していたとて、内心の感情にまでは支配が及ばないのが現実である。
しかしながらグロラテスは、今回の試み、カオリの関係者に料理という分野での発達を促す目的で実施されている実験に、大いに賛同していた。
といのも、グロラテスは良くも悪くも、生粋の職人だったのだ。ゆえに自らが会得している技術や知識が、後世に受け継がれていくことが、どれほどに名誉なことかを、本能的に理解していたのだった。
そしてどうやらそれは彼の兄弟、つまり国家運営上重要な各専門分野の長として従事する他の職人達にとっても、同様の気持ちを抱かせるものであると、先の長兄との会話で再認識した。
「料理長様? どうされました?」
「ん?」
姉妹の様子をじっと見つめ、常になく放心状態であったことを指摘され、グロラテスは我に返る。
「私は幸福なのでしょう、陛……、ササキ様よりお声がけいただき、このような機会を……、技と知識を、後進に伝えることが出来るのですから」
「あ」
「ええっ」
グロラテスが本心のままに言葉にすれば、姉妹は頬を染め、恥ずかし気に俯いてしまった。
「……すいみません、おこがましい物言いでしたね」
「いえっ、そんなことは!」
人間の、ましてや若い女性の心の機微など到底理解出来ないオークのグロラテスは、己の口にした言葉が、はからずも姉妹の気分を害したかもしれないと危惧し、謝罪をするも、姉妹は慌てて否定する。
「私達の方こそ、料理長様の下で教えを乞えることに、心から感謝しています」
「まるで特技のなかった辺境の村娘が、まさかこんなお貴族様のお屋敷で、一流の料理に触れる機会に恵まれるなんて、普通じゃ考えられません」
ステラによって施された淑女教育の賜物か、やや持って回った言い回しだが、素直な感謝の気持ちを、姉妹は精一杯にグロラテスに伝える。
「……そうですか、では本日も、生きとし生ける全ての糧と、この機会を与えてくださった。ササキ様ならびにカオリ様方のために、最上の料理をご提供し、我々の感謝の気持ちをお贈りいたしましょう」
「はいっ!」
「はいっ!」
こうして厨房に変わらぬ日々の光景が与えられる。ただし本日は、いつもより少しだけ、暖かな優しさも添えられて。
ところ変わって屋敷の勝手口にて、ステラとビアンカが顔を合わせていた。
「おはようございます。ビアンカ様」
「おはようございます。ステラ様」
互いに丁寧な挨拶を交わし、今や日課となった雑談に興じる。
「今日はなんだか一段と、食欲をそそる香りが、厨房から香ってきますね」
「……そうですね。皆さんにとってなにか良いことがあったのかもしれませんね」
厨房の一部始終をこっそりうかがっていたステラが、あえて内容をはぐらかして感想を述べれば、ビアンカもなにかを察して口元に笑みを浮かべる。
「それにしても、カオリ様方はササキ様がご不在の中でも、本当に各方面で精力的に活動をなさっています。元冒険者としても、一人の騎士としても、感服するばかりで」
ビアンカが話題にするのは、カオリ達が王子達も巻き込んで試みた。東方武家の子息令嬢を対象にした開拓業に関する指導導入案の件だ。
「私などには、まったくもって予想だにしない案件につき、驚かされてばかりです。カオリ様の影響があるとはいえ、ロゼッタお嬢様も以前は……、冒険者への憧れを除けば、ごく普通の高位貴族家のご令嬢でしたので」
「しかしながら、学園の卒園要項をすでに満たし、かつ魔法分野では独自の術式の開発にも着手され、また成り行きとはいえ、殿下に付き添う形で隣国との折衝の席にもご同席される知識など、もはや貴族令嬢の枠に収まらぬ業績をみるに、元より才気溢れる才女であることは、王家も認めるところにございます」
「かようなお褒めの言葉、主に代わりお礼申し上げます」
ビアンカの熱のこもった賛辞に、ステラはかしこまってお辞儀を返す。
カオリ達とビアンカの関係を明文化するのであれば、ビアンカは王家が一時的に、ササキに貸し与えた護衛である。
派閥間の対立が未だに残る王国内にあって、王家が目をかける人物たるササキを遇するうえで、現王妃が発足した私設騎士団の百合騎士団所属のビアンカは、もっとも都合のよい手駒だ。
またあくまで留学生という位置づけの令嬢とみなされるカオリとロゼッタに対し、同性の戦闘職は理想でもあった。
ゆえにビアンカは身分的にササキの下の位置づけとはいえ、雇い主は未だに王家であり、ササキの屋敷においては、客分という扱いである。
現状ではなかば屋敷の雑務を担当してはいるが、純粋な従者兼侍女のステラとは、そもそもの職分が違うがゆえの、ややかしこまった対応だ。
だがササキはもちろん、カオリやロゼッタという才気溢れる人物に、まがいなりにも仕える形で寝食を共にする関係から、上司あるいは主に相当するササキやカオリ達に、素直な尊敬の念を共有できる仲間として、ステラとビアンカの関係は極めて良好を維持していた。
とくに近頃は、カオリ達の王家への貢献に対し、ビアンカは真心からの尊崇を抱いてすらいる。
とくに面従腹背の横行する王宮内にあって、元が平民の冒険者出身のビアンカは、やや素直過ぎる心根の持ち主だろう、王家が彼女をササキにあてがった真意が読み取れると、ステラはこの人選に大いに納得している。
「とくにロゼッタ様が開発されたあの結界魔法っ、実はあれに関心を寄せる騎士達から、少なくない数の打診がありました」
「そうですか、私がお伺いしても?」
居住まいを正して伺うステラに、ビアンカも笑顔を浮かべて相対する。
「実のところ結界魔法といっても様々で、一見して目視が出来ず。それでいて全方位を隙なく防護する結界というのは、術者の数が限られるのです。大抵の騎士は、自身に耐性付与を施し、自身を盾として護衛するのが通常ですので、どうしても隙が出来るだけでなく、護衛対象のすぐ傍につかざるをえず。それゆえに武骨を嫌うご令嬢方には邪見にされるのが常でして……」
やれやれと溜息をつかんばかりに首を振るビアンカに、ステラも思い当たる節があると同意の仕草を返す。
「しかし、ロゼッタ様の結界魔法は、一見しても視界を遮ることがなく、さらには範囲も自在に調整出来る他、持続性に優れ、それに加え攻撃接触時の展開模様も華やかです。……攻撃が触れた瞬間に、炎の花咲くあの独特な模様が、女性騎士の間で大層注目を集めたのは、もはや必然であったかと」
「美しい結界魔法と言えば、たしかに前例のない独特な魔法と言えるかもしれませんね。お嬢様ご本人としては、十分な性能に、ちょっとした遊び心を加えた程度とお伺いしておりますが……」
魔導士としての才能を、幼少の頃より見守ってきたステラとしては、当然の評価という認識ではあるが、こうして明らかな称賛を聞くと、我がことのように面映ゆく感じるところである。ただしそこは従者の矜持から、表情には出さぬよう平静に努める。
「これはかねてからササキ様ならびに、カオリ様ご本人にもご提案させていただいておりますが、いずれ機会があれば、我ら女性騎士を対象にした技術指導に、お時間を頂戴できないか、そしてその暁には、是非ロゼッタ様の魔導技術も対象にと、我々は望んでいる次第でございます」
「そうなのですね。現役の騎士様方に技術指導をご要請いただけるのは、大変名誉なことと思います」
すでにササキやカオリに打診している内容であるのならば、ステラから是非の回答をする必要はないと、ここでは賛辞に対してのみの感謝に留める。
仕える主が他者から称賛を与えられることは、従者にとっては至上の喜びであろう、もちろん主からの感謝の言葉に勝るものではないが、それでも胸の内に沸き起こる歓喜の気持ちは、言葉で表現するには、幾分時間を要するものである。
そんな会話を終え、ビアンカはそのまま裏庭で日課の剣の稽古を、カオリが起きて合流するまで続けるのが、最近のいつもの風景である。
しかし季節はもう冬に差し掛かることもあり、朝は薄着では冷える。汗を流した身体では風を引いてしまうと、ステラは風呂に湯を張るために浴場に向かった。
食事の用意に時間をとられなくなってから、家事の負担が減った分を、ステラは存分に屋敷の維持管理および、カオリやロゼッタの身の回りの世話に集中することが出来ると、現状の体制を大いに歓迎している。
ただあくまでも冒険者としての在り方に拘るカオリもロゼッタも、他家の令嬢達と比べれば随分と手のかからない令嬢である。
とくに寝衣から部屋着、食事から外出と、なにかと服を着替える風習のある王国貴族家と違い、カオリ達は主に寝衣と外出時にしか衣服を変えない。
これはカオリの常在戦場の心得から来るものであり、ロゼッタもこれに倣って実践している習慣だ。
最初のころなど、着た切り雀よろしく、戦闘服のまま就寝も外出もしようとしたカオリを、なんとか納得させて今の習慣に落ち着いたほどなのだから、これでもカオリから見れば面倒な習慣だろう、困ったものだとステラは少しだけ溜息をついた次第である。
もちろんカオリとて、汚れても気にしないというわけではない、カオリの類まれな動体視力と体捌きをもってすれば、例え戦闘を経ても衣服を特段汚すことがないのが理由ではある。
しかし汗もかけば埃も付着しやすいこの世界の衣装事情から、まったく汚れないというのはどだい不可能なのも事実。
全体的に煤けて見えれば、それだけで嫌悪感を抱く貴族達の審美眼から、カオリやロゼッタが侮られないようにするには、従者のステラとて時に心を鬼にする覚悟だ。
結果、幸か不幸か、ステラが洗う洗濯物は、他家に比べれば少なく楽に感じる一方で、やや物足りなく感じるのは、贅沢な悩みといわれることだろう。
しかしササキが不在により、最近はとくに洗濯物が少なく感じるとステラは思う、なにせあの巨躯である。下着一枚とってみても、通常の成人男性のゆうに二倍はあろうかという布面積だ。
袖をまっすぐに伸ばすにせよ、抱えて物干し竿にかけるにせよ、なかなかに重労働であることを、以前ササキが申し訳なさそうにしていたのを、ステラは思い出して苦笑した。
ササキの衣服専用の物干し竿など、服の大きさや濡れたさいの重量から、しならずそれでいてステラでも扱える軽くて丈夫なものをと求めた結果、総聖銀製でかつ、乾燥を早めるための微風の魔導式まで組み込んだ特注なのだから、もはや笑いの種である。
だがそれもいないとなるとやや寂しいものだと、ステラは自身の心境を可笑しく思う。
風呂の掃除から洗濯までも済ませ、屋敷の北側に設けられた専用の干場に移動し、そこから見えるビアンカの朝稽古の模様を、ステラは静かに見下ろした。
全ての洗濯物を干し終えた頃には、カオリも起き出して稽古に参加するだろうと、今日も変わらぬ風景に心を温める。
カオリ達も朝稽古を終えればそのまま風呂に直行し、身支度を自分で整えるので、ステラはその間に本来の主たるロゼッタを起こし、身支度を手伝うのがこの後の流れだ。
風呂に入るカオリ達と違い、ロゼッタはせいぜいが起きて顔を洗うくらいなので、どちらが清潔かとあえて問うのは野暮である。
洗顔のための水盆や薄布、また飲料用の水差しなどもそろえた台車を押して、ロゼッタの寝室に向かえば、部屋からはすでにロゼッタが起きている気配を感じられた。
「おはようございますお嬢様、朝の支度に参りました」
扉打ちからいつもの定型句を述べれば、部屋からの短い返答を待ち、ステラは音もなく入室する。
「おはようステラ」
「おはようございます」
再度挨拶を交わせば、そのまま身支度へと移行する。
「本日はどのようにいたしますか?」
「そうね。先週にもやった明るめの結い方でいいわ、今日はアンジェリーナ様の進める東方武家の教導計画を、もう一度見直す会合を開く予定だから」
真面目ぶった声音のまま、しかし表情は楽し気に花咲かせる主の様子に、ステラは小さく微笑む。
「でしたら、下衣も襟元を飾ったものがよろしいでしょう、それとも今日こそ、令嬢衣装に袖を通されますか?」
「あら、忘れたころに言うわね。でもおあいにくさま、今日も冒険者の装いで挑むわ、近頃はその方が返って侮られ難いのだから、人間って本当に単純なものよね」
ロゼッタがまだ冒険者にただ憧れ、アルトバイエ家当主夫妻と押し問答していた時期など、彼女が拵えたばかりの冒険者衣装に袖を通せば、陰から笑う声が聞こえた頃を思い出し、ステラも肩をすくめてしまう。
「カオリ様とともに結果を出し、お嬢様の覚悟と能力が証明された今、例えお嬢様がどのような装いであろうと、侮る輩はいないかと存じます。私としましては、洗濯物が少なく、やや寂しい思いを感じておりますので」
「それこそ今だけの悩みよ、学園生活が終わって、村に帰るにせよ冒険者活動を本格的に始めるにせよ、今のように清潔で規則正しい生活からは縁遠くなるもの、うんと服を汚して帰ってくれば、嫌というほど洗濯物が増えるのだから、首を洗って待ってらっしゃい」
「まあ」
胸を張って未来予想図を語るロゼッタの姿に、ステラは上品に笑って応える。
「そういえば先ほど、ビアンカ様からお嬢様の結界魔法に、騎士団が関心を寄せていると伺いました。その話はすでにお嬢様はお耳に入ってございますか?」
「ああ、あのお話ね……」
ステラの質問に、ロゼッタはやや難しい表情を作る。
「なにか問題でもおありで?」
暗に自分が聞いてもいい話かと問う意味での質問だが、ロゼッタはとくに問題はないとばかりに言葉を漏らす。
「私からすればまだまだ改良の余地のある術式だから、王家私設の騎士団にご教授出来るものでは、まだないと返答させてもらったの、可能であれば他のいくつかの術式と共に、より改良を加えたものを、卒園論文として発表した後、それが本当に有用であるかを再度学園や王家と協議して、導入を再考するべきだとご提案させていただいたわ」
「……つまりこの一件は、女王陛下のお耳にも、届いている案件であると?」
ロゼッタはうなずいて肯定する。
「王国貴族令嬢たるロゼッタお嬢様からであれば、一国の騎士団の戦力強化に寄与することも、カオリ様との活動に支障をきたさないとご了承されているのですね」
「正直な話、カオリは王国騎士団があまりに頼りないと感じるそうよ、悔しいけれどその通りだと、私も最近は認識を改めたの、たしかに王国は帝国と長きにわたり戦争を続けてきたけれども、果たしてそれが血みどろの闘争だったのかと問われれば、私でも違うのではないかと感じるもの、とくに私達はアイリーンと彼女の強さを知っているわ」
「……そうですね。アラルド人の生粋の戦士、彼らを組織化した帝国戦士団が、本気で王国と相対していたのであれば、王国がこれほど平和を享受できたのかと、今更に思い知らされた心持を、かのお方を見ていればおのずと理解できましょう」
ロゼッタの言葉に、ステラも大いに同意を示す。
「アイリーンは強いわ、私なんかとは比べ物にならないほどにね。そんな彼女も、自分の実力を鼻にかけるところがないのを見れば、それがおそらくより上位の実力者達の力を、目の当たりにしているからだと、私は感じるのよ、そんなアイリーンが認める実力者の一人には、カオリも含まれているわ」
「はい」
ただただ夢を抱き、憧れていただけのお嬢様はもういない、目の前にいるのは、世界の広さと、過酷な現実に立ち向かわんと毅然と立つ、立派な女性なのだと、ステラはひたすらに敬服の念を抱く。
「ではカオリ様のように、アイリーン様のように、どのような状況でも笑って並び立てるように、お嬢様もより強く美しくあれるよう、私も精一杯お仕えいたします」
「ありがとう、ステラ」
仕える主が他者から称賛を与えられることは、従者にとっては至上の喜びであろう、しかし、主からの感謝の言葉に勝るものではない、この胸の内に沸き起こる歓喜の気持ちは、言葉で表現するには、幾分時間を要するものである。
同時刻、村の集合住宅にて、ダリアはアキと向かい合う形で円卓の席についた。
「おはようございます。アキ様」
「おはようございます。ダリア様」
簡単な挨拶を交わし、二人は静かに書類へと向き直れば、双方共に綺麗に着付けた衣装の袖を紐で留め、墨壺と羽筆を準備する。
「明日はカオリ様へ報告書ならびに決裁書を届ける日となっております。今日中にまとめなければならない書類がないか、ご相談してもよろしいでしょうか?」
「わかりました。こちらが冬越しに必要な布や食材の在庫状況を記したもの、そしてこちらが各種要望の品をまとめたものでございます」
「私からは、薪として使える材木、並びに冬季中に進められる開拓業で使用される材木の予想数です。また今回は元村人達から聞きとりした降雪時期や積雪量ならびに期間を記したものになります。これらを一つにまとめて、書式を統一した報告書にしたうえで、各種決裁書を作成したいと思います」
「では私が決裁書の書式を帝国式から引用し作成にあたります。後ほどご確認をお願いします」
「ありがとうございます。では私は各報告書のまとめを担当いたしますので、そちらのご確認をお願いいたします」
そこで会話を終え、二人は黙々と作業に集中し始めるのを、イゼルとカーラは慄然と見守っていた。
「まるで仕事の鬼ね……。出来る女もあそこまでいくと恐ろしいわ」
「……」
いたって平凡を自称する二人から見れば、己の得意分野を正確に把握したうえで、機械的に役割分担を決め、なんの軋轢もなく仕事に従事する様子は、それだけで驚異的な光景に見えたのだった。
カーラに至っては、喜怒哀楽もなく交わされる会話を聞くだけで、なんだか怒られているのではと勝手に委縮してしまい、話の半分も理解できなかったのだから論外である。
「本当に真面目よねぇ、お貴族様に仕えるってのは、あそこまで肩肘張ってなきゃあ出来ないのかねぇ」
「ああ奥様、ありがとうございます」
元狩人夫妻の婦人から朝食を受け取りながら、彼女の所感に同意を示すイゼルだが、それはやや穿った見方ではないかと思いたくなった。
なにせアキの主はカオリで、ダリアの主はアイリーンである。二人ともに上下関係には全くの無頓着で、ともすれば傅かれることを面倒に感じる性分なのは明白である。
にも関わらず、それぞれの従者があの様子なのは、たんに二人の従者の性格の問題ではないかと思えてしまうからだ。
「はぁ……、私達もうかうかしていられないわよカーラ、この村ってば規模のわりに行政には手を抜くことがないのだもの、私達の商会だって、きちんとした形で設立する以上、書類をおろそかには出来ないんだから」
「ひぇ~っ」
朝食を下品に頬張りながら、イゼルがカーラをせっつくが、なにせカーラは文字を書くことも不慣れな田舎娘である。
イゼルにしても父親の見様見真似で売買契約書を清書したことがある程度である。持って回った言葉で明文化する公的書類など、この期に及んで初めての経験であるのだから、どうしても細かい箇所で躓き、作業は遅々として進まなかった。
そんなイゼルとカーラ達の苦戦を他所に、アキとダリアの下に、アイリーンが現れる。
「おはようさね二人共」
「おはようございます。アイリーン様」
「おはようございます。お嬢様」
二人の前に仁王立ちするアイリーンに向けて、座した姿勢のまま綺麗にお辞儀をするアキとダリアへ、アイリーンは笑みを向ける。
「冬の間も開拓を進めるつもりだろうけど、帝国領ほどではなくてもここらは一応降雪地帯なはずさね。作業全体の遅れやそもそもの作業量の見直しとか、もろもろカオリに事前報告しておいた方がいいんじゃないかい?」
アイリーンの指摘に対し、アキも同意を示す。
「もちろんでございます。ただお恥ずかしながら、私は降雪時における野外活動の知識がございません、どの程度の雪や寒波で、皆様の作業量が変動するのか、皆目見当もつかないのが実情です」
「なるほど、アキ様は獣人種で寒さには強くいらっしゃいますし、この大陸の獣人種達とは系譜の違う文化圏から来られたお方ですから、まだこのあたりの冬季習慣をご存じないのでしたね」
アキの告白にダリアも理解を示す。
「だろうと思ったさね。降雪量とか降雪期間とかは真面目に聞き込みしていたみたいだけど、つまりそれはカオリもアキも知らないから情報を集めていたってことかい、だったらあたし達が力になれるさね」
ゴンと胸甲を叩き、胸を張るアイリーンを、アキは無表情のまま見上げる。
「及ばずながら私もお手伝いさせていただきます」
続けてダリアも静かにアキへ礼をする。
「ありがとうございます」
それらに対しアキは、深く頭を下げた。
村の開拓および運営のための事務仕事などと大仰に言ったところで、その分量は一般的な貴族領の運営などと比べれば、まだまだ小規模なのは事実。
そもそもまだ税制の設定も予定しておらず。記録といっても各種開拓業における進捗度や資材の在庫状況、また村人全員の生活物資やそれらを含めた支出の計算に過ぎない。
午前中に集中して作業にあたれば、十分に終えることが出来るだろうと、アキは一時作業を中断し、ダリアが茶の準備の間に、アイリーンからの講義を記録するための用紙を用意する。
「帝国は国土の大半が降雪地帯な上、一部では豪雪で労働もままならない地域もあるくらいさね。冬の間、どうやって仕事を進めるのか、それに関しては大陸一を自負しているよ」
自信満々に切り出したアイリーンから目を離さぬまま、アキは用紙の冒頭に『帝国式冬季公共事業計画案』と題名を書く。
「といってもまあ、当たり前の話だけど、第一に防寒着さね。これがないと話にならないよ、羊毛を詰め込んだ革の上着に下履き、靴だって膝丈の長靴に加え、輪樏、濡れた氷とかなら鉄の爪をつけることもある。作業場では常に火を焚いて焼き石を用意してやらないと、最悪凍傷で手足を亡くしちまうことだってある」
そこまで一気に捲し立て、ダリアが静かに用意した茶を、一気に飲み干しアイリーンはさらに続ける。
「だがこの時に、野外作業で注意しなきゃならないのは、やっぱり魔物の襲撃さね。なにせ奴らはほとんどが冬眠もせずに、雪中を当たり前のように駆け回って、猛然と襲いかかって来るからね。そうなると寒さで動きの鈍った人間じゃあ、思わぬ痛手を受けちまう」
過去に経験があるのか、珍しく渋い表情で語るアイリーンに、アキは深くうなずいて同意を示す。
魔物は通常の動物とは根本的に違う生物である。つまり食事や睡眠など、生物であれば当たり前の営みすらも度外視した存在なのだ。
生殖行動による繁殖を必要とせず。冬眠などの休眠期も存在しない、それでありながら貪欲に他の生命を捕食し、ただ己の存在強度の高めるために人ないしは動物を襲い続ける危険生物だ。
であれば当然、冬の間に姿を消してしまう動植物の代わりに、獲物として標的になるのは、季節問わずに活動を続ける。人間ということになるだろう、アイリーンの助言から、アキはそこまでを把握する。
「もし高位の魔導士なんかがいれば、冷気耐性の魔法をかけたり、なんだったら冷気耐性付与の魔道具とか装備を用意することもできるけど、当然ながら雇うにも買うにも高額さね。辺境の領地開拓や戦場では一度もお目にかかったことがないね」
次いで魔法での解決案も提示するが、金銭的に余程の余裕がなければ、現実的ではないことも言い添える。
「だから平時の作業よりも、護衛とか火の番だけじゃなく、交代要員も含めて、おおよそ五割増しの人手がいるって考えておいたほうがいいさね」
「……なるほど、理解しました。即座に戦闘が出来るものが火の傍で待機しつつ、体力の消耗も激しいので交代制で作業にあたるのが理想ということですね。そうなると当初の予想よりも大幅に人員の見直しが必要です」
自身で記した調書に視線を落とし、しばし黙考した後、アキはダリアへと向き直る。
「防寒着に関しては、王国よりも帝国で調達する方がよいようですね。ダリア様から見て、村人全員分の防寒着を調達するのに、どの程度の予算が必要か、早急にまとめることは可能ですか?」
「可能です。やや品質を落とした量産品を人数分購入した場合、あるいは品質のよいものを数着だけ購入し、浮いた予算で生地を買い、村人の皆さんで製造した場合と、二通りの予想金額を算出します」
「お願いします。アイリーン様も大変参考になりました。ありがとうございます」
「なに、当然さね」
胸を張ってアキからの感謝を受け止めるアイリーン。
元村人達とてなにもこれまで、冬季になんの対策も講じて来なかったわけではないが、国土の大半が降雪地帯を占める帝国ほどに、潤沢な物資に恵まれていたわけではない、また豪雪地帯でも開拓や戦争をながきに渡り継続して来た知恵と経験は、両大陸国家群の中で、帝国の右に出る国家は存在しないであろう。
それを自負する帝国人のアイリーンが、こうして助言を申し出るのは必然である。
「それにしても、最近はササキの旦那からの給金に加えて、ミカルド王家からの報酬金も重なって、ずいぶん資金に余裕が出てきたさね。あたしは金勘定が得意じゃないから気にもして来なかったけど、カオリのことだ。貰った金の使い道も考えているんじゃないかい?」
アイリーンにしては珍しく、開拓資金に関する質問をアキに向ける。
「具体的な数字に関しては、ロゼッタ様が管理されておりますので、私は正確には把握しておりませんが、少なくとも現段階でカオリ様から大規模な計画は伺っておりません、……ただ私とオンドール様が主導となって、カオリ様およびご姉弟様方のご自宅兼役場の建設を計画してはおります」
アキがやや声を落として告げた内容に、アイリーンは少し驚いた様子で前のめりになる。
「もしかしてカオリを驚かせようって計画かい? そりゃあアキにしては珍しく大胆な計画さね。カオリにはどこまで話してるんだい?」
忠臣を絵に描いたが如きアキが、まさか計画を完全に秘密にし、カオリを騙しているとまでは思えず。アイリーンは興味深く顔を寄せる。
「役場の建設自体は、行政の効率化の観点から、以前より提案させていただいておりますうえ、おりを見て着手するご許可もいただいております。ただし役場の敷地を一部拡張し、カオリ様達の私的な住居区画を設けることは、まだ話しておりません、現在は大工衆のクラウディア様ならびに石工衆のエレオノーラ様に協同で図面の作成を依頼しております。そのさい、一見して住居区画だとは判断出来ないように工夫してもらえないかと相談させていただきました。これはアンリ様とテムリ様にも賛同していただいております」
真剣な表情で説明したアキを、アイリーンは満面の笑みを浮かべて見下ろした。
「いいぃじゃないか! アキの忠義の厚さも並みじゃないね。それに完成してから驚くカオリも、さぞ見物だろうね。あの姉弟が賛同してるならカオリも喜ぶだろうし、面白いことを考えるじゃないか」
普段には感情を見せないアキの、極めて人間らしい思考を垣間見て、アイリーンは大笑いしてアキの肩をバンバンと叩く。
一方激しく揺さぶられても表情を変えず目礼を返すアキの様子を、ダリアは感心するように静かに見つめた。
「村の盟主を名乗るなら、立場相応の家に住むのが、内外に権威を示す一番手っ取り早い手段さね。カオリはそこんところが無頓着だからね。アキが傍にいればカオリも安泰さね。さてそうとわかればあたしも一枚噛ませてもらうよ、周囲に侮られない建造物は帝国で嫌ってほど見て来たからね。いっそのこと村人全員を巻き込んで、カオリをあっと驚かせてやろうじゃないかっ!」
アイリーンの提案に、アキはやや目を見開いて顔を上げる。
実のところ、役場の一部をカオリ達の住居として利用すること、またそれに伴って荘厳かつ堅牢な規模にすることを、如何にして村人に理解してもらうのかに、アキは内心で迷っていたのだ。
カオリ至上主義を自覚するアキも、近頃はカオリの関係者に向ける敬意を理解し、それに倣うということに注意を向けるようになり。それにより、自分の主張が必ずしもカオリの関係者全員の理解を得られるものではないことも理解した。
もし仮に、カオリを必要以上に祭り上げることで、図らずもカオリとカオリの関係者達との関係に、悪影響を及ぼす可能性も存在するのだと心得るようになったのだ。
だが人心掌握の心得のあるアイリーンが、口添えするのであれば、その懸念は大いに払拭することが出来ると思い至り、アキは思わぬ解決策に心中で歓喜した。
「それは大変助かります。私の口からでは、誤解を生みかねないと憂慮しておりました。是非ご協力をお願いいたします」
アキは立ち上がって大げさに最敬礼を向ける。
「なあに、市壁も森小屋も完成したころには、人手も空くだろうし、村人を遊ばせておくわけにはいかないからね。仕事があるのは重要なことさね。ましてやそれが村を象徴する役場兼盟主の家とくりゃあ、みなにとってもやりがいのある一大事業さね」
「ありがとうございます」
アイリーンの豪快な笑い声が響く、明るい集合住宅の広間であったが、そんな一連の会話を盗み聞きしていた二人の女性は、顔色を変えて視線を交わした。
「……私達の商会、本当に失敗出来ないわよ」
「ひえぇ~」
対照的な二組の円卓を交互に観察していた婦人は、苦笑を浮かべて厨房に入っていったのだった。
「だっはぁ~」
すでに暗くなり始めた夕刻、カオリは馬車の中でロゼッタからの報告を聞き、難しい表情で息を吐いた。
「やっぱり難しいそうよ、いくら筆頭公爵家のアンジェ様でも、各家嫡子方は腐っても武家の跡継ぎだもの、表向きは従いつつも、内心ではなんの実績もない令嬢の言葉に、素直に従うことは出来ないのでしょうね」
議題は、東方武家の領地開拓推進計画の一環で、学園側が開拓業に関する知識を、子供達に教授する計画を、生徒側である公爵家の令嬢が賛同することで、学生側が関心を持つように扇動する試みについてである。
しかし計画は根本的な問題、この場合はミカルド王国に浸透する男尊女卑の文化が、問題となっているのだった。
貴族の領地運営というものは、とくに戦時であるほど、戦地に赴く当主に代わり、その妻が采配を振るうのが通常の習わしである。
ゆえに女性であっても領地運営に関する知識が必要とされるのだが、王国はながきに渡り帝国と戦争状態にあったことが返って、悪い方向に作用していたことを、カオリ達はここに来てようやく知ることになったのだ。
「対帝国と西大陸の安寧を目指した【太陽協定】だけれど、今にして思えば、あれがどれほど優れた共同体であったのか、ようやく理解出来るわ、なにせ全く領地開拓を経ずとも、数十家もの武家を富ませるほどの義援金を、百年もの間募って来れたのだもの……」
「つまり、家に残された女性達は、まったく領地運営に関わる必要もなく、贅沢な暮らしが出来ていたんだもんね。それが百年も続いたなんて、今更領地開拓の勉強をしましょうって言っても、賛同を得られなくて当たり前か~」
お金が貰えないならば、稼げるようになればいいではないか、と当然の発想からの試みではあったが、なぜそんな当然のことを、これまで実現出来なかったのかの根本原因を理解し、二人は深く溜息を吐くのだった。
「男性貴族様達にしてみれば、あれほど時間も資金もあったのに、贅沢しかしてこなかった女性が、ことここに至って口を挟んでくれば、悪感情が勝るのも理解出来るわ……、いくら現実的な金銭問題に直面したからといって、そう簡単に切り替えが出来るものではないのでしょうね」
一女性として、女性の社会進出を提唱する現王妃の考えには賛同出来るロゼッタであったが、ミカルド王国に浸透した女性貴族の大半が、そもそも社会進出を必ずしも望んでおらず、また男性貴族がそんな女性貴族達の在り方を、とくに非難して来なかったことが、ここまで文化を偏重させているさまを見て取り、流石に頭を抱えざるをえなかったのだ。
「政略結婚を当然と考え、嫁ぎ先では贅沢な暮らしが出来て当たり前だったこれまでの常識が、ここまで王国貴族に偏った文化を醸成しているのだと、はじめて理解出来たわ……、私が冒険者に憧れて、人一倍努力をして来たことが、周りにどんな風に見られていたかも、なんだかわかった気がして、今更になって肝が冷える想いよ」
ロゼッタ本人はこれまで、そんな女性の活躍を疑問視する王国貴族の在り方に嫌気が差して、あろうことか冒険者に自由を求めた変わり者である。
男性に守られずとも己で身を立てる武力を、社交界での立ち居振る舞いではなく、実利のある知恵や知識を、それらをもって己の運命を己で選び取る生涯を夢見たのだ。
女性貴族としての美しさと強さを身に着けつつも、王国の常識から逸脱する自由を求めた根源には、己という存在そのものに対する矜持と誇りがあったからだ。
「言葉が悪くなってしまうけれど、今王国貴族に足りないのは、問題に直面していることへの危機感と問題意識だわ、男性貴族達が女性を軽視するのは当然よくはないけれど、それ以上に、女性貴族達の当人意識が圧倒的に足りていないと思えて仕方がないわ、ましてや一部の女性貴族の男性貴族に対する対抗意識も、あまり褒められた思想とはいえない、真に必要なのは手を携えて協力することだもの、……いったいいつから、大六神教繁栄派の教理が、曲解されるようになったのか、嘆かわしい限りよ」
共栄と繁栄を司る神たる繁栄神ゼニフィエルを崇拝する繁栄派の教理を例に挙げる。ロゼッタらしい嘆きの言葉に、カオリは思わず苦笑を浮かべる。
「勉強も出来て魔法にも歴史にも社会にも詳しいうえに、敬虔な信徒でもある高位貴族のご令嬢とか、今にして思えばロゼって実はすごい女の子なんだね~」
「き、急になによ、今更そんなことを言われても、嫌みに聞こえてしまうじゃない、やめなさいよ」
初対面では気位の高い世間知らずのお嬢様の印象が強かったロゼッタも、カオリ達に引っ張られる形で、本来の才覚を開花したのだと、カオリは我がことのように感慨深くうなずくのに、ロゼッタは頬を赤くして視線を逸らした。
「言っちゃあなんだけど、アンジェ様っていまいち統率力っていうか、人望が足りてない感じだよね~、とくに優れた一面があるって話も聞かないし」
「……本当に言ってはなんという話ね。それ絶対に、ご本人には言ってはダメよ」
あえて言及しなかった要因に容赦なく切り込んだカオリへ、ロゼッタは戦々恐々と念を押す。
「剣術とか勉強とか、なんでもいいから、ロゼから見てアンジェ様の売りってなにがあるかなぁ?」
カオリの唐突な質問に、ロゼッタはしばし悩んで見せて言葉を発する。
「……公爵家出身であることかしら?」
「ロゼぇ……、私のこと言えないよ?」
半眼で呆れるカオリに、ロゼッタは目を逸らして弁明をする。
「し、仕方ないじゃない、とくに親しくしてきた仲ではなかったし、アンジェ様から見れば、私は王族の婚約者候補としての競争相手でもあったのよ、私にとってはどうでもよくても、目の敵にされて来たのだもの、アンジェ様の長所を知る機会なんてなかったわ」
「へぇ~、そうなんだ」
思いもよらない情報に、カオリは素直な驚きからロゼッタの顔を覗き込んだ。
「アルトバイエ家は建国から続く、レイド系民族の取り纏め役として、自他共に認める貢献を捧げて来た系譜よ、一族には王家の外戚になったご先祖様もいらしたわ、一方でインフィールド公爵家も、建国から王家の盾として常に王の隣にあった名門中の名門よ、対立とまではいかないけれども、互いに牽制し合う関係は今でも続いて来たわ、こうして私的なお付き合いの関係になれたのが、前代未聞なほどなのだもの」
これまでに判明した王国貴族の情報から、十分に推測出来る相関関係ではあるものの、当人から語れた歴史の断片に、カオリは知的好奇心がくすぐられて身を乗り出した。
「てことはさ、王国の筆頭貴族家で、なおかつ同年代のアンジェ様とロゼって、世間的にも、競争関係に見られてるって感じ?」
カオリの問いかけに、ロゼッタはカオリの意図がわからずに首をかしげる。
「? そうじゃないかしら、表向きに親しくしている様子を喧伝しているわけでもないし、今でも殿下達の婚約者の座を競っていると考えている貴族家は多いと思うわ、ましてや今は同じ学園に通い、王家と懇意にしているもの、いまだに私を最有力婚約者候補と考えるには十分な理由足りえるわ、……まあ当然だけれど、私にそんなつもりは毛頭ないのは、言うまでもないわよ? カオリ、一体なにを考えてるの……」
ロゼッタの言葉を受け、カオリの口に笑みが浮かぶのを、ロゼッタは嫌な予感が過ぎった。
「実は、西方貴族家のいくつかから、東方武家へ開拓資金の援助の申し出の声が挙がっているんだ。まったくありがたい話だよ」
とある茶会の席で、コルレオーネが唐突に挙げた言葉に、参加者達は一瞬言葉を失い、次の瞬間には凍てついた空気を孕んだ殺伐とした様相を呈した。
「西方とは、つまり開明論派の貴族家からということでしょうか?」
「うん? そうだね」
一人の青年貴族が真顔で確認すれば、コルレオーネはその決して好意的ではない声音に、まるで気づかぬ様子で肯定する。
「つまり、開明論派の貴族達は、我々を領地開拓も出来ぬ集団と侮り、王家が開拓推進を提唱したのに便乗して、投資を画策しているということでしょうか?」
「ああそうなんだね。僕はてっきり王家の財源を純粋に心配して、善意から申し出てくれたのかと思ってたよ、王家が領地開拓を推進する以上、開拓に失敗する心配がないもんね。投資をすれば利益は約束されたようなものだ。商売気の強い貴族家なら間違いなく食いつくだろうね~」
あっけらかんと朗らかに語るコルレオーネとは対照的に、開戦論派の東方武家の子息達は、目に見えて怒気を露わに、茶器を乱暴に叩き置く。
「な、舐めている! 投資だと? ふざけるな!」
「我々は百年に渡って国土を守護して来た王国の盾です! 殿下はそんな守銭奴共の見え透いた言葉を、信じておられるのか!」
「例え王家の指揮がなくとも、我々の独力で開拓くらい出来るっ、いったいどこの家だ? そんな驕った主張をする家は!」
この国の王子の前であることも忘れ、怒声を飛ばす令息達を見回しながら、それでもコルレオーネは表情を変えなかった。
「最初はロゼ嬢のお父君からだよ~、アルトバイエ家は先の紛争騒動で軍に被害を出したからね。義援金を返上したいって思いで申し出たみたいだ。それに他の貴族が便乗した感じかな? なんにせよ対帝国の義援金が打ち切られる以上、国内の生産力の底上げは急務だからね。君達の領地開拓の実情を鑑みて、今回の申し出を許可するかどうか、陛下と吟味しているところさ」
しかし続けて発せられた言葉に、一部の賢い令息達が、事態の推移に瞑目する。
「いや、待てっ、よもや今回の動きによって、少なからず西方貴族および、かの侯爵家がより王家の信をえれば、アルトバイエ侯爵令嬢様の王家への輿入れが、より現実的になるなんてことも?」
「なんだとっ、それでは我ら開戦論派の筆頭たるインフィールド公爵令嬢が、王家と結びついてより発言力をえる計画が、頓挫してしまうではないかっ」
各円卓で密やかに交わされる意見を、聞こえずともコルレオーネは満面の笑みで予測する。
公にはされていないコルレオーネとロゼッタの婚約騒動を知らないもの達から見れば、ロゼッタは未だ王家の婚約者の有力候補である。彼らの反応も当然だろうと思いながらも、しかしコルレオーネは内心で苦笑してしまう。
「おっと、実はこの後にも、ロゼ嬢と私的な会談を約束していたんだ。今日はお邪魔したね。引き続き茶会を楽しんでくれたまえ」
そういって颯爽と席を離れたコルレオーネを、令息達は呆気にとられて見送るしかなかった。
「……計画はうまく運んだそうよ、東方武家は噂を聞きつけて、子供達を通じてアンジェ様に資金援助の要請に奔走しているみたいだわ、他にも人材の紹介など、公爵家の力に頼る方針で一致しているみたいよ」
「わーお、効果覿面だね~」
いっそ笑い出さんほどの笑顔で、結果を受け止めるカオリに、ロゼッタは苦笑を浮かべるしかなかった。
「まさかこんな形でお父様に相談することになるなんて思いもよらなかったわ、勘違いされたら嫌だから、意図を正直に話したら、随分と落胆されたけれど……、結果を見るに、しっかり働いてくれたみたいね」
「王家に恩を売って、王家との結婚願望があるなんて思われたら、またいつかの婚約騒動を繰り返しちゃうもんね~」
当然のことながら、ロゼッタに王家との婚姻を望む気持ちなど皆無である。
今回の計画はあくまで、矜持を振りかざすばかりで行動を起こさない東方武家に、発破をかける思惑があったに過ぎない。
減りゆく資産に指を咥えて座して動かず。内輪で協働する様子もないとなれば、もはや彼らの矜持や立場を揺るがす形で、働きかけるしかないとカオリ達は考えたのだ。
これも王家と懇意にしている現状と、アンジェリーナとロゼッタが、それぞれの派閥の筆頭貴族家出身であった状況を利用したものだ。
二つの対立構造を逆手にとった計画は、果たしてうまく噛み合った状況に、カオリとロゼッタは手を叩く。
「これで当面は、東方武家が開戦だなんだって言って、私達の村にちょっかいをかけて来る心配はないかな? 春になったらなにから手をつけようかな~、楽しみだな~」
そう、最終的にはそこに帰結すると、カオリは情勢を操作せしめた事実も忘れ、村のさらなる開拓計画に思いを馳せるのだった。
「……大国の支配階級を陰で操作した。なんてことは、カオリにはどうでもいいことなのよね……」
そんなカオリの様子を、ロゼッタは呆れとも感心ともいえぬ心情から、苦笑して見つめるばかりであった。