( 入園準備 )
夏の季節も終盤に差し掛かり、暑さも最盛期となる頃、カオリ達も本格的に入園に向けた準備を始めた。
とくにステラによる美容の類は、夏の暑さに負けず劣らず熱が入ったものとなり、カオリは何とも云えぬ表情となった。
乙女としては美容自体には大変興味を抱いてはいるが、それが余人による徹底した食事管理から睡眠時間にまで及べば、流石に辟易としてしまったのだ。
朝夕には入浴を厳命され、そのたびに身体を磨かれれば、一般庶民の感覚が抜けないカオリは、未だに慣れることが出来なかった。
アイリーンの実家である公爵邸では、侍女による介添えを断固拒否したカオリではあったが、これまで大いに世話になり、信をおくステラであるならば、また主共々貴族社会に関わる以上、従者の、侍女の矜持をかけてでも、二人を磨き上げることに執念すら感じては、カオリは拒否することが出来なかったのだ。
とくに、今後の村の運営上、女性の多いカオリ達の村ならば、先進国であるミカルド王国の貴族夫人や令嬢が受ける美容法を学ぶのは、将来的に必ずや益となると説得されれば、唸らずにはいられなかった。
そのため期間限定で了承し、学んだ後は必要であれば自分ですることを条件に、カオリは今回だけは身体を許すことにした。
「私にとってはどうしてカオリがそこまで、頑なに断るのか疑問だけど、なにか理由があるの?」
生まれた時から貴族令嬢として、誰かに身の回りの世話を任せるのが普通であるロゼッタが疑問を呈する。
「う~ん、元々家族以外に裸を見られるのが苦手なんだけど、この大陸に来てからは、色々感覚が鋭くなって、人に身体を触られたりするのが落ち着かないんだよね~」
女性にしては対人距離が広いカオリではあったが、レベルという補正が強化された現在、五感どころか魔力という第六感までもが敏感になり、それこそ肌が触れ合うほどの距離ともなれば、相手の僅かな動作ですらが感じ取れるようになったのが、理由であるとカオリは語った。
「たしかに……、カオリの感覚は異常なほど鋭いものね。本職の暗殺者の気配を、遠く離れた距離からでも察知するのだから、私達には到底理解出来ない領域なのでしょうね」
死者の声すら聞きとる。カオリの異常性を理解するロゼッタは、それによる弊害に理解を示す。
ただ美容の甲斐あってか、今やカオリは誰が見ても納得の美少女へと変じていた。
冒険者業による野外活動や戦闘、簡素な身繕いしか出来なかった身体は、ステラの手によって磨かれ、くすんだ肌は白く透き通るような色と肌触りになり、髪も埃と脂でごわごわだったのが、櫛通りのよい艶と輝きを得たのだ。
この王都で生活を始める以前で、風呂に入ったのはバンデル公爵邸別邸のたった一度のみで、それ以外は水や湯に浸した布で身体を拭い、髪もかけ流して終わりというお粗末なものに過ぎなかった。
始めてこの世界で風呂に浸かった途端、湯が黒く変色したのは、カオリを大いに動揺させたのは記憶に新しい。
言葉を選ばないのであれば、正直これまでのカオリは、やや薄汚れ、体臭もきつくなっていたのだ。
もちろんそれはカオリに限らず。この世界の平民という下層階級の人間は皆そうであるので、誰にもそれを指摘されたことがなかったため、乙女心を傷付けられることがなかったのは幸いである。
ちなみに、この世界の身繕いについて言及するならば、まずもって浴槽に大量の湯を張るという行為がそもそも、薪を大量に使用するか、高価な魔道具を使用する他なく、到底平民が毎日利用出来るわけがないと云う事情を知る必要がある。
そこに加え、身体を洗浄する石鹸類も当然高価なものであり、よしんば入浴や沐浴が出来たとしても、石鹸類にまでは手が出し難いのは言わずもがなだ。
また単純な石鹸類では、塩基性の成分により、汚れが落ちても、栄養分や油分なども一緒に落ちてしまい、結果的に肌や髪を傷めてしまうのだ。
そのため石鹸類を使う場合は、同時に酸性の成分で中和する必要がある。
また女性であれば、髪は失われた油分を与え、洗浄後の髪を保護することも大事となれば、ただ綺麗になるというだけで、多くの手間と費用がかかるのは想像出来るだろう。
果たして貴族が美容を受ける場合は、身体を洗うものとは別に、洗髪用の洗浄剤、酢などの酸性剤、乾燥後に塗付する香油と、いくつもの薬剤を用意し、洗浄前洗浄後と、とにかく費用がかかる贅沢なもだった。
そして入浴や洗浄以外にも、脱毛や爪の磨き上げ、日焼け対策にと、とにかく手間暇がかかるいくつもの手順と項目を日課とさせられたのだ。
当然その間の冒険者業は休業とし、許されたのは朝の型稽古のみであったとなれば、カオリの苦悩が理解出来よう。
ただ前回の迷宮調査および王家護衛任務で得た報酬金が高額であったため、資金稼ぎとして仕事を請ける必要は、今のところ急ぐ必要がなかったため、あくまで身体が鈍ることを懸念する以外に、現状は困っていないので、カオリも納得している。
ビアンカやロゼッタもそんなカオリを手伝ってか、地稽古や訓練に付き合ってくれるので殊更不満が溜まることもなかった。
いつの間にか脳筋思考になった自身を振り返り、カオリは苦笑する。
早朝の稽古を終え、皆して風呂で汗を流せば、カオリは脱衣所の姿見の前で、自分の身体を観察するのが、最近の日課である。
夏になってようやく屋敷に届いた。全身を収める大きな長方形の大鏡は、この世界では非常に高価な代物である。
一般的に用いられる表面を磨いただけの銅鏡とは違い、こちらは硝子に水銀を塗付して仕上げた。現代日本でも見られる鏡にもっとも近いものだ。
それでも硝子も僅かに歪みや曇りがあるので、そこは仕方がないと納得する他ないとカオリも理解している。
恐らくこの姿見一品だけでも、家が経つほどの価値があるだろうと、この世界の物価や価値を学んだカオリはそう予想する。
鏡に映った自身を見るたびに、ここが異世界であり、また自分自身も以前の自分とは違う個体であると、カオリは嫌でも納得させられる。
身長は同じ、だが明らかに整った顔立ちに、長い手足は美しく、以前との違いが明確に表れていた。
「うん、美人さんだね」
自画自賛も甚だしい発言だが、それも仕方がないことである。
以前のカオリは別段容姿が劣っているというほどではなかったが、それでも胴長短足の日本人の性から逃れられない、いたって標準的な体型であった。
また運動部に所属もしていなかったためか、体脂肪率も多く、腕や脚には余分な脂肪がついており、筋肉自体も鍛えたためしがないので揺るんでいたのは間違いない。
いわゆる大根足や寸胴体型に近い身体は、決して魅惑的でもなんでもない、よく云えば肉感的な、悪く云えばだらしのない体型であったのだ。
それがこの世界に召喚されたこと、またおそらく冒険者業によるものか、今は非常に洗礼された造形をしていた。
伸びる手足はしなやかに引き締まり、腰回りは大袈裟なほどにめりはりに富み、しかしただ痩躯なだけではなく、十分な筋力をその皮膚の下に内包していた。
この世界のレベルシステムによる補正はあるだろうが、今のカオリが本気を出せば、素手で鉄を曲げることも、石組や石畳を蹴り砕くことも出来るだろうという実感がカオリにはあった。
そしてここ最近の徹底した美容効果の賜物か、この世界の女性では唯一の黒髪は、烏の濡れ羽色を地でゆく艶やかさを放ち、肌も安易に触れるのを躊躇う色香を纏っていた。
これではまるで傾国の美女ではないかと、カオリが内心で自画自賛するのも無理はなかったはずだ。
「カオリの髪って本当に漆黒で、量もこしも申し分ない髪質よねぇ、ちょっと結上げるのに苦労するけど、その分迫力があって映えるし、黒髪は衣装の配色を選ばないから、少し羨ましいわ~」
カオリの髪を梳りながら、ロゼッタが背後から感想を零せば、ビアンカもそれに追従する。
「たしかにそうですね。ロゼッタ様達生粋のレイド人の方々は、髪が派手な分、衣装選びは幅が限られますので、苦労も多いかと存じます。我等ロランド系はその点、地味な髪色から、派手な衣装も選びやすいので、その点はいいのですが、髪質が猫毛が多いので、痛みやすく、また盛り髪に苦労しますので、カオリ様の髪は非常に興味深く」
アンリとテムリの髪をいじることが多かったので、ロランド人特有の茶髪と猫毛には覚えがあるカオリからすれば、整髪せずとも様になるあの髪質は、むしろ羨む対象ではあるのだが、ところ変われば悩みも変わるかと感慨にふける。
「赤毛はとにかく他の色と相性が悪くって、もう本当に衣装選びに悩むのよ~、ステラのおかげで変化の富んだ数を揃えているけれど、たまには気分を変えたくなるのは避けられないのよねぇ~」
温風の複合魔法と云う、何気に高度な魔術でもってカオリの髪を乾かしながら、ロゼッタは憂いの声を上げる。
しかしそこでカオリはふと視線を下げる。
「色と云えば……、ロゼって、下の毛も赤いんだね」
大変申し訳ない限りだが、こう云ったファンタジー世界に来て、多彩な色彩の異世界人種を目の当たりにして、真っ先に気になるのが、頭髪以外の体毛の色だと、非常に下世話なことながら、あえて申し上げる次第である。
「? そうね。赤いわね」
「くすみもない見事な赤毛で御座います」
ロゼッタがなにを今更と、当然の如く答えれば、隣で自分の髪を乾かすビアンカが、実に具体的に補足を加える。
地球の白色人種に見る金髪も、体毛は金色、あるいは藁色であることはカオリも知っている。
だがここまで見事な赤髪でも、同色であることにカオリ純粋な驚きを覚える。
ステラによる美容の中には、脱毛や抑毛も含まれていたのだが、それにより眉毛以外で体毛の色を確認することが出来なかったため、丁度いい機会? だとカオリはここぞとばかりに視線を向けたのだ。
ちなみにこの世界にはなんと、脱毛魔法と云う、一部の薄毛に悩む男性にとっては悪魔のような魔法が存在する。
もちろん用途は主に無駄毛の処理であることは当然ながら、この魔法は、制御が非常に難しく、込める魔力量を誤ると、それこそ全身の毛が抜けてしまうと云う、恐ろしい事態を招く恐れがある。
もちろん、回復あるいは治療魔法で元に戻すことが出来るので、そこまで深刻に捉える必要はないのだが、それでも恐ろしい魔法であることには変わりないだろう。
そのため、習得と施術には相応の訓練が必要であり、さらにそれで商売をする場合は、各都市の魔導士組合での試験を通過して、認可を得る必要があった。
そして実はなんと、この魔法をステラは習得していたのである。
侍女として、主人を磨き上げるのは使命であると掲げる。彼女の執念を垣間見た瞬間であった。
そんな彼女のおかげで、今のカオリは無駄毛の一本もない、玉のような肌触りである。
「ロゼッタ様、カオリ様、本日はアルトバイエ王都邸でのお茶会を予定しておりますので、後ほどお召し物をご用意いたします。それまでに朝餉と身繕いを整えくださいますように」
噂をすればなんとやら、脱衣所に現れたステラが、本日の予定を告げれば、カオリ達は素直に従う。
そう本日、ロゼッタはようやく実家であるアルトバイエ侯爵家の王都邸宅を訪ねる覚悟を固め、手紙をしたためたのであった。
カオリ達が身支度をする間に、ビアンカが先触れを知らせ、すぐに戻って馬車で向かう手筈になっている。
非常に面倒なことだが、貴族の、しかも高位貴族の侯爵邸を訪ねるならば、相応の礼儀を示さねばならないのが慣例である。
例え実娘であっても、他家から向かう以上、最低限の礼節は貴族社会では必要不可欠である。
一応朝餉の席で家長であるササキに報告後、すぐに身支度を整え、カオリ達はビアンカが待つ馬車に乗り込んだ。
ロゼッタは分かりやすい貴族令嬢の衣装と異なり、おそらくワザとなのだろう、冒険者の装いである。もちろんカオリも学園に通う騎士風の装いである。
鎧類こそ排しているが、丈の短い腰巻に長靴、武骨さを隠す羽織物が少々暑いが、それでもヒラヒラしたドレスに比べれば、数段も着心地がいい装いなので、カオリは不満ない心地であった。
王都の中央、王城を囲む城壁を守るように立ち並ぶ高位貴族の邸宅の一角に、侯爵邸は存在した。
その敷地面積は広大で、日本の学校が丸々入る広さがあると云えば、その広さが理解出来るだろうか、これでも帝国に比べれば小規模だと聞かされれば、カオリは溜息しか出てこなかった。
長い擁壁沿いに進めば、門衛の立つ鉄柵門が見えて来る。
門衛の前で止まり、ビアンカが用件を伝えれば、馬車は敷地に入ることを許される。
しばらく進んで大きな屋敷の玄関前で停車して、ようやくカオリ達は外へと降車した。
一応カオリが先導してロゼッタの手をとって降りれば、執事服に身を包んだ壮年の男性と数名の侍女がカオリ達を出迎えた。
「久しぶりねセドリック、皆変わりはなくて?」
「お久しぶりで御座いますお嬢様、お気遣い痛み入ります。屋敷のものは一同変わりなく、中で奥様がお待ちになっております」
邸内に招き入れられたカオリ達は、広い玄関広間で本日の主催者である。アルトバイエ侯爵夫人を認めて、優雅に淑女の礼をする。
「ごきげ――」
「ロゼっ!」
だが挨拶をする間もなく、夫人はロゼッタに駆け寄ると、その身体を全力で抱締めた。
「貴女を見送った日から、私がどれほど心配したかっ、夜会の席では周りの目があって、碌に会話も出来なくてっ――」
「お母様っ、落ち着いてくださいませ、カオリも見ているのですから、先に席に案内してください」
娘の帰還に興奮する夫人の様子を、カオリは苦笑して見守っていた。
腰下はニスが映える板張り、上は漆喰で白く染め塗った内装は落ち着きがあり、しかし飾られた展示品や調度品は派手な印象が強く、これぞ貴族の屋敷とカオリは目を愉しませた。
「屋敷自体は趣きがあって落ち付いた風だけど、装飾がすごい煌びやかですね~」
カオリが素直な感想を言えば、母娘はカオリに視線を向けて応える。
「我が家に限らず、赤毛のレイド人は基本的に派手なのが好きなのよ、情熱的と云えばいいのかしら? 家を飾るのも身を着飾るのもとにかく目立つものをとね」
ロゼッタの言葉に夫人も続く。
「貴女はこういった趣はお嫌いかしら? ロランド系のミカルド王国では、あまり好まれ辛い趣向なのだけれど」
夫人の言葉にカオリは本音で返す。
「好きも嫌いもありませんね。お貴族様の暮らしを知らない平民ですので、こういうものかと思っています。始めて訪れた貴族屋敷は帝国のバンデル公爵家の別邸で、あそこは質実剛健という風でしたし、ところ変われば事情も変わるのではないかと」
その言葉に夫人は表情を変えずに、カオリ達を案内する。
場所は一階の庭に面した軒下で、暑い夏の日差しを避けつつも、風通しがよい涼しげな場所であった。
席を勧められるがまずは自己紹介をとカオリはロゼッタにお願いする。
「まずは紹介します。彼女の名はカオリ・ミヤモト、現在は銀級冒険者でありながら、神鋼級冒険者ササキ様の後援を受けて、秋より王立魔法学園に留学するために王都におりますが、本拠地は帝国王国間の緩衝地帯にある開拓村で、その村の開拓責任者をしております。冒険者としては【孤高の剣】というパーティーのリーダーを務めておりますわ」
客観的にカオリを紹介するのには、なかなか簡潔には纏まらないだろう来歴を、ロゼッタはなるべく分かりやすく説明する。
肩書の多さにやや驚く夫人だが、云われた当の本人も苦笑と共に内心驚いていた。
「紹介に預かりましたカオリ・ミヤモトです。カオリとお呼びください、えっと、色々なことに手を伸ばしてはおりますが、どれも成り行き上自然とそうなっただけで、まだまだ未熟な身ですので、気安くお付き合いください」
下手な商人風の愛想笑いで、カオリは倣った淑女の礼などどこかに置き忘れ、いつもの調子でそう告げれば、夫人は困った表情を向ける。
「お噂はかねがね伺っております。大変複雑なお立場だと云うことは、理解いたしましたわ」
貴族令嬢に準ずる立場であれば、もっと淑女を意識した作法をとったのだが、ロゼッタの両親である侯爵夫妻は、娘が頑なに冒険者になることを強行し、結果半家出状態のまま、今日までろくに顔を合わせる機会もなかったのだ。
また異端騒動のおりに、父親である侯爵が裏から手を回し、冒険者組合エイマン支部に圧力をかけた経緯があるので、カオリにとっては警戒すべき家でもある。
結果として、淑女でもなく騎士でもない、曖昧な自己紹介となってしまったのだ。
これに関してはカオリだけを責めることは出来ず。夫人も扱いに困っただろうとカオリも感じている。
次いでロゼッタは母親をカオリに紹介する。
「現アルトバイエ侯爵夫人であり、私の実母のローズマリー・アルトバイエよ」
座った姿勢から華のように微笑む夫人に、カオリは騎士の礼に似た所作で黙礼すれば、今度こそ勧められた席に着席する。
「始めにカオリ様にお伝えしますが、私はロゼ、娘の冒険者業には基本的に反対の姿勢でした。そしてそんなロゼの無謀を結果的に助けた貴女を、少々怨んでもおります」
直球で告げられた言葉を、カオリは真面目に受け止める。
「お気持ちは理解出来ます。命をかける冒険者になるならば、実家と縁を切るほどの覚悟がなければと、助言をしたのは間違いなく私なので、奥様の怨みはごもっともかと理解出来ます」
暗に異端騒動の件に関して、夫人は謝罪をしないと告げているのを察するカオリ。
貴族、とくに侯爵位を賜るほどの高位貴族ともなれば、発言一つにも重い責任が生じるものだ。
異端騒動における圧力も、もとを正せば奔放な娘を連れ帰ることが目的であり、けっしてカオリ達を害する意図があったわけではない、本来政略の駒となるべき出自であることを放棄したロゼッタこそが、咎められるべきなのだから、ここで夫人を責め立てるのは、道義的にも、なにより身分的にも不可能である。
しかしカオリの返答に、夫人はかぶりを振りつつ、ただしと付け加える。
「でも今では逆に感謝と共に、娘を誇らしく感じていますの、たった数カ月で実績を積み、国王王妃両陛下の護衛までも務め上げることが出来たのは、紛れもなく貴女のおかげだと」
「お母様……」
娘の努力を褒めない親がいるものかと、夫人は慈愛に満ちた眼差しを愛娘に向ければ、ロゼッタもやや照れ臭そうに俯いた。
「なかなか素直に自分の気持ちを言葉に出来なかった娘が、こんなに凛とした謙虚さを身につけられたのも、きっと貴女のおかげなのでしょうね……、ありがとうカオリ様」
娘へ向けたのと同じ温かみを宿した視線がカオリを捉え、カオリも思わず相好を崩して笑顔になった。
自分達がカオリとカオリ達の村へおこなった所業への謝罪の代わりに、夫人は真心からの感謝を告げられれば、もはや件の騒動を掘り返してまで、恨みを抱くことは出来ないと、カオリ気持ちを切り替える。
「私は家族とはもう会えないかもしれないと、家族に見送られたロゼが羨ましくて、最初は厳しい言葉を向けてしまいましたが、今ではかけがえのない仲間だと思っています。共に強くあろうと助け合える。友達だと」
真実を未だ告げていない、ロゼッタですらが知らない、カオリの事情に触れつつ、だからこそロゼッタが大切な存在であることを強調したカオリに、二人は驚きから悲壮な表情を浮かべる。
「ロゼ、どういうこと? カオリ様は異国の民だとは聞いたけれど、家族にもう会えないと云うのは、どう云った事情があるのかしら?」
子をもつ母として、告げられた内容が信じられずに娘に質問するが、答えを有さないロゼッタは困った表情で固まる。
「ササキ様も恐らくですが、私と同じ身の上なので、表向きは秘密にしております……。私は異世界人なのです。気がついたらこの大陸に飛ばされてしまった人間です」
「そんな! 始めて聞いたわよっ、だったらカオリは……」
ロゼッタが次の言葉を口にする前に、カオリは静かに首を左右に振る。
「帰ることが出来るのか、出来ないのは分かりません、ササキ様も原因を探っておられるくらいですから、一介の冒険者に過ぎない私には知る由もありません、しかしもしかしたら、過去に召喚された人物の文献や、召喚に関する古い資料などがこの国の学園や、王城の図書館に保管されているかもしれませんので、私達はそれを探す目的もあって、この度王立魔法学園に留学することとなったのです」
これは今思い付いた嘘ではない、今回の学園入園にさいする裏の思惑を隠す。二重の偽情報の一つなのだ。
カオリが学園に入園する本当の目的は、この世界の広い情報の収集および、教育機関の運営方法と実態調査である。
表向きには異国民であるがゆえの異文化交流となっているが、それが理由の全てではないことは公然の秘密である。
そのためササキは様々な角度から、複数の偽情報を幾重にも巡らせることをカオリに提案したのである。
今こそその一つを開示する機会と、カオリは考えたのだ。
ロゼッタが知らなかったのも当然である。
「娘が知らなかったことを、どうして今日、私もいる席で告白したのでしょう?」
娘の仲間が今日まで隠していた事実を、何故今になって第三者に告げたのか理由が気になり、夫人はカオリに問いかければ、カオリは諦めるような表情を浮かべた。
「自分の娘が、どこの誰かも分からない輩に協力しているのは、親として心配かと思いまして……、いずれは告げるつもりではありましたし、ちょうどよい機会かと思いました」
カオリの告白に、夫人は少し考え込んで呟く。
「つまり、貴女の最終目標は、故郷への帰還であり、この国の利権や立場に執着はなく、村の開拓も、あくまで権力に寄らない独力を得るための手段であると云うことかしら?」
夫人の深読みに、カオリは満足げな表情で、無言の肯定を示す。
「村の立ち位置については、遅かれ早かれ後世に不安を残すのは必至です。だから私は基本的に、村人達の心に寄り添った運営に徹するに留めるつもりです」
笑顔で告げるカオリの言葉に絶句するロゼッタに、カオリは内心で謝りつつ、ここではあくまで方便として、思い付いたままに語る。
「つきましては侯爵夫人であられるローズマリー様には、この国における私共の活動を、邪推から妨げようと考える輩と、距離をおいていただけますようお願い申し上げます」
「協力ではなく、見て見ぬふりをせよとは、その心のところをお伺いしても?」
夫人が怪訝な表情で質問すれば、カオリは邪気のない様子で、恐ろしいことを平然の述べる。
「我々を厭う連中にとって、侯爵家のロゼは毒にも薬にもなる存在、協力であれ拒絶であれ、侯爵家にとっては禍根の要因になると考えれば、いっそ無関係を装った方が、後顧の憂いなく、相手を斬り伏せられます」
邪魔をすれば容赦なく、相手が貴族であろうと国であろうと、正面から叩き斬る覚悟があると、雄弁に語るカオリに、夫人は顔色を青くした。
娘はとんでもない人間と知己を得たのかと、カオリの言葉が虚言ではないと理解した夫人は、深く溜息を吐く。
この世界の常識で考えれば、平民が貴族に盾突いてただで済むはずはない、例え王国民ではないとは云っても、いやだからこそ、経済と軍事的観点から、平民が貴族を相手に抗しえるはずがないのだ。
しかしカオリは、あの神鋼級冒険者ササキが後見人となる。実力のある冒険者である。
つい最近も王家の護衛任務を担い、襲撃者を見事撃退した実績があるのは、すでにほとんどの貴族の知るところである。
噂の中には複数の暗殺者を返り討ちにしたと云うものもあるため、実力だけを考えるのであれば、騎士団とも戦える強者であると予想出来るだろう。
カオリは決して誇張したものでも、驕りから来るものでもないと、夫人は判断した。
王国の高位貴族である侯爵夫人を相手に、このような発言をすること自体が、不敬や脅迫にもとられ兼ねない危険があるが、カオリは夫人がロゼッタの母親であることで、ある程度信用出来る人物であると期待して、なによりロゼッタの両親が、自分達の諍いに巻き込まれないようにと考え、あえて提案したのであった。
「……分かりました。覚えておきましょう」
そこからは穏やかな時間が過ぎた。
カオリの衝撃の告白により、ロゼッタは少々ぎこちなかったが、それでただちに事態が急変するわけではないので、しばらくして落ち着きを取り戻した。
話題は最近の王都における婦女子の流行や、各家の噂話などが中心である。
しかしながら、【泥鼠】達が集めた情報と照らし合わせれば、なかなか面白い話題であったのは、カオリにとって非常に有益な時間であった。
「ああ、軍の行き来が減って、魔石の値が上ってるんですね。とくに工業用の魔石の供給は軍が集める魔石が多かったから、王国全体で物価がやや上っていると……」
「その分食料備蓄には余裕が出ている上に、【北の脅威】に備えるオーエン公国を筆頭に、各国で戦争の気運が高まって、輸出が伸びているから、外貨が多く流れて来ているのよ」
カオリが感心すれば、夫人は補足するように時勢についても触れる。
「よい商品があれば国としても買いに走る可能性が高い、村での生産品の輸出国としては、王国は狙い目でしょうね」
自国のことながら、村の立場として発言するロゼッタは、今や立派なカオリ達の仲間であると、夫人は苦笑する。
「ご家族に会えないことは、とても同情します。娘をもつ母としても、貴女のお母上もきっと悲しまれていることでしょう……」
そろそろお暇という時刻になり、夫人は最後にそう言って立ち上がると、カオリを引き寄せ、強く抱締めた。
「……」
「お母様……」
豊な胸に顔をうずめつつ、優しい香りに包まれて、カオリ思わず目頭を熱くする。
「娘のことをお願いする立場で、卑怯と思ってもらっても構いません、でも女の子が自分の力で生きるには、この世界は厳しいと知っていますから、貴女の未来に神々のご加護があらんことを、一人の母として、心から祈っています……」
侯爵邸を辞して、カオリ達はまっすぐに帰宅した。
馬車から降りるために、カオリが軽々と身を翻せば、ロゼッタが強い眼差しでカオリに手を出した。
貴族の屋敷ではないので、カオリが男性役として誘導する必要はないはずだが、それでもロゼッタは、不安げな表情でカオリを見詰めた。
カオリが異世界人であること、最終目標が帰還であることを、今日初めて知らされたロゼッタから見れば、カオリはある日、忽然と消えてしまう可能性があると示唆されれば、たしかに不安に感じるのは当然であったことだろう。
夫人とのお茶会の中で、多少は気も紛れただろうが、それでも不安を払拭しきれた訳ではなかったようだ。
カオリは無言のまま、ロゼッタの手をとり、満面の笑みを浮かべて強く握った。
馬車から降りた二人は、しかし手を離すことなく、そのまま屋敷へ歩を進めた。
夕食の時間となり、カオリ達は食堂にて会するれば、ササキから今日のお茶会に対する質問があった。
「今日は侯爵夫人との茶会だったそうだが、どうかねカオリ君、貴族女性の茶会の雰囲気は勉強になったかね?」
それに対して、カオリは少し間抜けな表情となった。
「あ~、ちょっと砕け過ぎたかもしれません、でもどうして夫人しかいらっしゃらなかったのをご存じなんですか?」
カオリからの質問に、ササキも答える。
「なに、王城で少々、他の貴族達とも顔を会わせる機会があってね。そこにロゼッタ君のお父君である。アルトバイエ侯爵とも言葉を交わしたのだよ」
その返答にカオリは納得し、ロゼッタは少しうろたえた。
「父は……、なにか失礼をしませんでしたか?」
「そのようなことはなかったから安心しなさい、ただくれぐれも娘を守るようにと、念を押されたがね」
ササキの答えに、ロゼッタは目を覆う。
「親としては当然の反応だろう、私も故郷に妻子を残して来たが、もう大人だと理解していても、心配は尽きないものさ」
そしてさらに続けられた言葉に、ロゼッタは一人衝撃を受ける。
「ご結婚されていたのですね」
ビアンカが驚きもなく聞けば、ササキは相好を崩して語る。
「この大陸に来る三年前に、娘の大学卒業を見届けたのでね。将来の心配は尽きないが、ひとまずは親の務めを果たしたと、安心している」
これまでに見たことがないほどに優しい眼差しに、カオリ達は感嘆の溜息を洩らす。
座っていてもカオリより高い巨体で、しかし俳優ばりに端正に年をとった男の頬笑みは、それだけで若い女子達を惹きつける魅力があったのだ。
「なら私達は、ササキさんの娘さんよりも年下なんですね」
「そうだな、君達は私にとって娘のようなものだ。今では後見人として、立場上も娘に近いからな、ビアンカ君もステラ君も含めて、守るべき娘だと思っている」
その言葉に、カオリ達は皆照れて頬を染める。
そこいらの男性に言われても困るだけの台詞だが、全てにおいて偉大な男が親しげに言えば、なかなかの威力を伴うようだ。
絶対的な強者にのみ許された態度であると、カオリは思った。
「娘さんがうらやましいです。ササキさん優しいし、絶対いいお父さんですよ~」
「どうかな……、仕事ばかりで、あまり家庭を顧みない方だったから、娘には厳しく言い過ぎたこともある。怨まれてはいないだろうが、好かれているとも思えんしな、男親など孤独なものだよ、その反省から、君達にはなるべく君達自身の意思を尊重するように、心掛けているくらいだからね」
自重気味に笑うササキに、カオリはさらに質問を重ねる。
「奥さんはどんな人なんですか?」
カオリの質問にササキはやや呻き、ロゼッタは引き攣った笑みを浮かべる。ササキに恋する乙女のロゼッタ的には、なかなか堪える話題である。
「そうだなぁ……、笑っている顔しか思い出せんが、散々苦労をかけたから……、いやよそう、今や遠く離れた妻に、なにをしてやることも出来んのだから、な」
郷愁の念に駆られ、ササキが目を伏せれば、事情を知るカオリもロゼッタも己を恥じるように視線を下げた。
「まあよい妻だったよ、この国で妻にと女性を紹介されることもあるが、生涯の伴侶は彼女一人以外に考えられん」
まだ結婚を知らない生娘達は、その答えに、ほんのりと表情を緩める。
一人の男性にここまで想われるのは、ある意味で女性にとっての理想かもしれないと、皆はいつか出会うまだ見ぬたった一人の伴侶へと、想像を膨らませた。
そしてロゼッタの恋が始まる前に終わった日からの翌日、カオリ達は王立魔法学園入園日までの帰還を、思い思いに時間を過ごすこととなった。
どうせ暇だからと、カオリは稽古もどきに精を出したのち、【泥鼠】からの報告書に目を通す作業をしたり、手が空けば勉学に励んでみたりと、充実した時間を過ごす。
ロゼッタは母から聞いた情報を元に、貴族間の流行や噂話しを纏め、また【泥鼠】が集めた情報から、貴族や商家の実態の予測を立て、各家への接し方や派閥間への注意点を資料として残す作業の傍ら、新たな魔法の開発や習得に熱中した。
ササキは相変わらずなにをしているのか不明であったが、忙しそうにしていたのをカオリは認識していた。
大人のすることはあまり関わってはいけないと、深く聞くこともしなかったため、日常会話以上に言葉を交わすことなく日々が過ぎていった。
もっとも変化があるとすれば、ビアンカがカオリの剣術に興味をもち、装備の一部を一新したのに合わせ、カオリから実践稽古をつけてもらうようになったことかもしれないが、彼女がカオリの特異な業を習得するには、並大抵の訓練では不可能なのは明白なので、難儀しているくらいだろう。
ただ入園前にカオリ達は中途編入ということから、事前に学園での説明会があるとのことで、簡単ながら一度学園に登園する必要があった。
数日後、王立魔法学園での説明会当日。
カオリとロゼッタはビアンカの御者により馬車で学園に向かった。
王都を囲む城壁の一重の中、王城を見上げる敷地に、広大な学園は存在した。
歴史は古く、本館である建物はミカルド王国の樹立以前から存在したと云われている。
元は時の大公の屋敷であり、大公の名はテゥゴール公爵、かつてのミカルド王家と共に虐殺者ミリアンに反旗を翻し、王国成立後、公爵位を賜った偉人である。
学園の敷地も叙爵後に与えられた敷地であると云われていることから、かの公爵を王家がどれほど重用していたかが伺えよう。
そしてテゥゴール公爵は後年、自らの屋敷に若い令息を招き、教養や魔法の研究をさせ、自らの死後は屋敷を学舎とすることを王家に嘆願したことから、後に王立魔法学園が設立されたのだった。
「テゥゴール公はとても博識で智謀に優れた人物だったそうよ、戦時は軍師を務め、王家の相談役や王子達の家庭教師も担っていたの、晩年は次世代の教育に力を入れ、屋敷を学舎として再利用するよう、全財産と共に王家へ嘆願するほどにね」
教育こそ国の礎となると唱え、時代が下った後に正式に学園が成立したおりに、彼の功績が認知され、敬意を表して大公と呼ばれるようになったのだと云う。
「偉い人がいるんだね~」
貴族に叙される。または昇爵に至る功績と云うものは、なにも軍事や政治に限ったものだけではない、未開の地の開拓に成功したもの、商業で新たな市場を生み出したもの、新技術を考案したものと、国益となる功績の数だけ、貴族に叙されるものがいる。
柔軟な発想や財力もさることながら、そこに至るには並々ならぬ努力と、なにより信念があったはずだ。
世界も文化も違う異世界であろうと、そこに人の営みがあれば、偉業をなす傑物が存在し、尊敬し尊ぶべきであると、カオリは素直に受け止めていた。
出発してからしばらくして、学園の広い門前に到着した馬車は、門衛の確認の後、敷地内の停留所に停車した。
学園とは云え馬鹿に出来ない規模の停留所を有するのは、貴族が通う関係から、高位貴族の子息令嬢が馬車で通うことを想定しているがゆえである。
一度に数十台が停車出来、そのまま環状交差点を進めば、さらに大きな駐車場と厩が併設されている。
ビアンカはカオリ達を降ろした後、そこで待機することになっているので、帰りの心配もなかった。
と云っても徒歩でも十分に屋敷まで帰れる距離なので、なにも馬車を利用する必要は必ずしもないのだが、そこは貴族の見栄が関わって来るので、カオリはとりあえずは従う方針である。
停留所を囲むように並ぶ館の内、事務局となる一棟を案内図から探し、カオリとロゼッタは真っ直ぐ向かう。
夏季休暇中であっても、職員は仕事のために詰めているので、カオリ達は対応した職員の案内により、説明役の講師と引き合わされた。
「久しぶりだね~」
「あ、面接官の人」
通された部屋には、いつぞやの馴れ馴れしい面接官がいるのを認め、カオリは作法も忘れて呆気にとられる。
「本日の説明役のマルコ・ローグルットだ。魔法学講師で、専攻は精霊魔法や自然魔力の研究だよ」
「冒険者のカオリ・ミヤモトです」
「同じくロゼッタ・アルトバイエです」
講師の自己紹介にカオリ達も応じる。
「でも君達すごいね~、噂はかねがね聞いていたけど、ただの冒険者で、しかも女性でありながら、いや失礼、なにも女性を下に見ている訳じゃないんだよ?」
話題としてはカオリ達を知るものならば、誰もが気になるものであろうが、なにせマルコのもの云いが軽々しいために、カオリはなんだかからかわれているような気分になり、眉を歪めてしまう。
「まあ世間話はいいとして、まずはお仕事を済ませてしまうね~」
一々口調が緩いがこれでも王国の最高教育機関の講師なのだからと、カオリは一応姿勢を正す。
「まずは入園おめでとう、秋の新学期より君達二人は晴れて王立魔法学園の生徒となるわけだけど、まず覚えて欲しいのが、ここでは如何な身分であっても、学園と王の名の下に皆が平等の立場で、修学に励む機関であることを心得てほしい、――まあ冒険者と名乗る君達には、関係ないかもしれないけど、たまに貴族であることを鼻にかけて、威張り散らしちゃう子がいるからね~」
国内から優秀な講師を招く関係から、講師陣には下位の貴族や平民出のものも多い、そのため高位貴族の中には講師を侮るものが少なくない、であれば生徒間でも貧富や貴賎の差が顕著に表れる。
そのため学園ではわざわざ王の名まで出して、納得させた上で言質をとるのだ。
生徒が問題ある言動をした場合は、王命に背いたことになるために、学園が生徒を王家の代行として処罰出来るのだ。
身分制度とは、こう云うところ面倒がつきまとうことに、カオリは呆れる。
その後に続く説明は、主に学園での修学の流れを大まかに伝えることと、学生として守るべき規範についてである。
「細かいことは学園が配布するこっちの資料を読んでおいてね。各施設に関しては、広すぎるから最低限の案内しか出来ないからそこは了承してね」
マルコはそう言ってカオリ達に資料を手渡した。
分厚い冊子の内容は、園則を纏めたものである。云わば学園内での法律である。これに背くものは、先に述べた通り、身分に関係なく厳正に処罰される。
(おお、これってササキさんが欲しがってた。教育機関の運営方法の情報だよね? 全部清書して提出しなきゃ)
カオリの学園潜入の当初の目的における。重要な情報の一つであることに、カオリは喜ぶとともに、読んで覚えずとも、書き写す段階である程度は記憶出来るだろうと考える。
そうだ。カオリが学園に入園する最大の目的は、ササキが【北の塔の国】で作る教育機関の設立にさいする。この世界ならではの運営方法の調査である。
もちろんアルトバイエ侯爵夫人に告げた。元の世界への帰還方法の捜索も、決して嘘ではない、だがそう都合よく世界の謎が、簡単に入手出来るとは考えていないので、優先順位を間違えるつもりはない。
「説明は以上だけど、なにか質問はあるかい?」
マルコはカオリ達に質問を促す。
「学園での留学生の立場についてですが、私はそもそも他国の民ですらありません、本当にただの冒険者なのですが、行動に制限がかかることなどはありませんか?」
カオリが気にするのは、異邦人ゆえに留学生として編入したことによる弊害である。
今後修学するうえで、やはり王国民ではないことが、情報の秘匿の観点から、制限がかかる可能性を憂慮してのもである。
「その点は大丈夫だよ、例え出自が不明の場合でも、身元保証人、君の場合は神鋼級冒険者のササキ様が後見人なのだから、王国貴族と同等の立場が保証されている。また学園に入園出来た時点で、君達は王家の庇護下にもあることを意味してる。決して修学に差を作ることはない」
笑顔で断言するマルコに、ロゼッタも続けて質問をする。
「学園の運営する図書館などには、王国の歴史や内情を記した書籍が多くあると聞きます。また魔法研究に関する重要な情報も扱っているはずです。異国民であることで、それら書籍資料の閲覧に制限がかかることはないのでしょうか?」
学園は子息令嬢が学びを得る場所であると同時に、教授陣にとっての研究機関にも利用されている。
よって王国の根幹を担う重要な魔法的技術や知識が蓄積されているのだ。
もし仮に悪人が学園を自由に出入り出来る状況であれば、それら情報を悪用し、場合によっては国を貶める可能性すらもあるはずだと、ロゼッタは考えた。
「それに関しても問題はないよ、国を揺るがすほどの機密情報は、王家の書庫や王立魔法研究所にしかないから、学園の図書館や教授陣の研究室に、それほど重要な資料はないはずさ、図書館の利用は全生徒に等しく与えられる権利だから、留学生であっても例外なく利用出来るよ」
にこやかに告げられた返答に、カオリ達は納得する。
繰り返しになるが、王立魔法学園の目的は、貴族の子息令嬢や、優秀な才ある若者を集め、将来国を担う人物となれるように育成するとともに、人脈を広げるための社交場である。
であるならば、平民であろうと他国の民であろうと、門戸を広くするのは当然の体裁であるだろう、しかしそこは国の誇る最高位教育機関である。
学費が高額であり、また貴族子息令嬢が通うことから、防犯面で規定も厳しいのが実情である。
平民であれば豪商や貴族の後見を受けて、学費を肩代わりしてもらいながら、身元を証明する必要がある。
カオリの場合はかなり特殊な例と云えるだろう、神鋼冒険者と云えど所詮は冒険者、ササキ自身が王国民ではなく、当然カオリも王国民ではないため、扱いとしては非常に絶妙な立ち位置となる。
カオリにせよロゼッタにせよ、それを理解しているがゆえに、この学園における自分達の立場を慎重に考えているのだ。
「まあそんなに難しく考えなくても大丈夫さ、特殊な例であることはたしかだけど、王家がお許しになった以上、これに異を唱えることは即ち王命に背くことになるからね。なにか言われたら僕に報告してくれればしっかり対処するよ~」
マルコがそう云うならば、ひとまずは納得する他ないカオリ達は、いつの間にか緊張していた肩を緩めた。
忘れてはならないが、カオリ達はこの王都で一度命を狙われているのだ。
いくら学園における安全と平穏を、目の前の学園関係者が保証しようとも、安心など出来ようはずもないのだ。
しかしそれをこの講師に訴えたところで、カオリ達を守り切れるはずもないので、結局は独力で自衛に務める以外に、信用出来る方法はないと、カオリ達は溜息を吐いた。
ある日のこと、珍しくシンから進言があり、カオリは足を止めた。
「カオリ様、提案がある」
「なあにシン?」
漆黒の容貌に真っ赤な瞳は、相変わらず不気味な迫力があるとカオリは思う、自分で容姿を設定したにも関わらず実に失礼な感想である。
シンにはカオリが屋敷を離れている間の、ステラの護衛を命じていたが、カオリ達が屋敷にいる間はステラの安全は保証出来るので、彼女も今は持ち場を離れている。
「【泥鼠】達は比較的優秀、でも圧倒的に目と耳が足りない、だから【―式神行使―】で強化するべき……」
「へぇ、シンも式神を使えるんだ。でもどんな魔物でも、都市で活動するには危険が多くない?」
アキとは異なるスキルを有するシンではあるが、ギルド【ブレイドワン】の守護者である彼女は、幾つかアキと同様の能力を有していたのを、創造主であるはずのカオリは今更理解した。
それと同時に、魔物を都市で活動させることへの懸念も示す。この場合は魔物が暴走をおこすことではなく、民間人に発見されて騒動になることへの危惧である。
式神となった魔物達が主に忠実であることは、カオリ達の村で使役しているシキオオカミ達で、十分に安全性確認済みなのだから。
「そこらへんにいる鳥類や虫系が望ましい、野生の動物や昆虫でもいいけど、魔力だけで生存出来る魔物なら、長期間の単独活動が出来るから、市外で捕獲する許可を」
「ふむふむ、なんの魔物か聞いてもいい?」
興味本位で質問するカオリ。
「鳥なら【スカルレイブン】がいい、蜘蛛は【ジャンピングスパイダー】が適当」
【スカルレイブン】はハイゼル平原で馴染のあるが、【ジャンピングスパイダー】がどんな魔物であったがカオリは思い出す。
「たしか森とかで出現する。でっかいハエトリグモみたいなやつだっけ? 大きくても掌台で、人間は襲わない魔物だよね?」
魔物の中でも小さな部類で、かつ毒をもたない種類は、基本的に人間を襲うことはない、そういった小さな魔物は野生の動植物を獲物とし、魔力を得ているためだ。
危険ではないが、無害というわけではなく、自然界では俊敏かつ強靭な個体であるがゆえに、増殖すれば周辺の生態系に影響を及ぼす恐れがあるため、時として討伐対象になることもある。
銅級から鉄級の冒険者が請けられる討伐依頼と云えば、こう云った危険の少ない魔物が主となる。
異世界冒険ものの初級の魔物討伐と聞いて、まず思い浮かべるのがゴブリンなどの弱い個体と思われがちだが、人間の子供並みであれ智恵が回り、かつ道具を使いこなし、ましてや群れを形成する生物が、武器ももったこともないど素人に討伐出来るわけがないのだ。
そして人間という種族に仇名すために創造されたわけでもない、動物の突然変異や自然発生により生ずるものも魔物と位置付けるのであれば、歯牙にもかけぬ小さな個体がいるのが、いやむしろその方が圧倒的に多いと考えるのが当然ではないかと思われる。
少なくともこの世界においては、交配による繁殖を伴わなず。他生物を捕食する害生物は、すべからく魔物と認知されている。
【ジャンピングスパイダー】もとい、でっかいハエトリグモも、そう云った日頃は無視される魔物の一種である。
「上空からの監視と、地上からの監視が出来れば、かなり広く情報収集が出来るもんね。いいよ許可するから好きにやって」
「わかった。行って来る」
音もなく姿を消したシンを見送り、カオリは日常に戻った。
夕刻になり戻ったシンは、その足でカオリの位置を把握し、即座に報告に向かった。
だが義務感からか、はたまた無頓着からか、少々乙女心に対する配慮を忘れてしまったがために、屋敷に悲鳴が木霊する。
「流石にキモイよシンっ、一匹でいいから」
「ひいぃやぁっ」
カオリがシンに向かってそう云うのも無理はなかった。
何故なら今のシンの姿は、両肩や頭にカラスを乗せながら、全身に巨大な蜘蛛を無数に張り付けた。異常な姿なのだから。
冒険者活動と原始的な村の生活で、虫や不衛生な環境にも耐性が出来たカオリであれど、流石に蠢く蜘蛛の群れには怖気が走った。
ロゼッタに至っては、言葉も出ずに鳥肌を立てて身を固めてしまったのも無理もないだろう。
「……わかった。みんな散って」
シンがそう言えば、一匹ずつを残し、他は外へ向かって散開していくのを、カオリ達は恐る恐る見守った。
「……とりあえず説明よろしく」
ほっと胸を撫で下ろし、カオリは彼等のもつ特性なども含めた説明を求める。
「人語をある程度介して、魔力供給と僅かな食事だけで数日間補給なし活動出来るようにした。……個体レベルはどれも一~二レベルで雑魚だけど、視界や音の共有が出来るから、諜報や監視には便利」
さらに詳しく解説するば、【スカルレイブン】は通常のカラスよりも視力がよい上に、知力も高く、身体も強靭である。見た目は少し大きなカラスでしかないが、腐っても魔物である。嘗めてかかると痛い目を見るのは当然である。
そして【ジャンピングスパイダー】もそれは同様で、今回のように諜報に利用するのであれば非常に適した個体であろう。
ハエトリグモはもともと視力がすぐれ、視覚によって獲物を補足する特性がある。
日本の街中でも頻繁に目にする機会があるほど、人間社会に溶け込み、あちこちを徘徊する習性から糸も吐かないため、蠅や蚊などの害虫を駆除してくれる益虫である。
もし見かける機会があれば、よく観察してみるといいだろう、彼等は人間の顔も見えるため、身体をかたむけて見返して来ることがあるので、ともすれば可愛らしく見えることだろう……、たぶん。
「アキのとは違って、シンの式神は白くならないんだね。黒い方が都合がいいか」
闇に紛れて潜むのであれば、体色が黒い方が目立たないのは必須であろうことから、カオリ感心して頷く。
「じゃあ個体名は【シキガラス】と【シキグモ】かな? 分かりやすくていいよね」
カオリが勝手に命名すれば、鑑定魔法で調べても、その通りに表記されるのを確認し、カオリは満足げに腕組みする。
名前に関して拘りのないシンは、カオリの命名に素直に了承を示した。
「とりあえず一匹をロゼの実家の侯爵邸に潜ませて、後は【泥鼠】さん達の情報から、必要に応じて派遣するようにしてね。最低一匹はこの屋敷において、今後はシンも情報収集に参加して欲しいの、主に実動員として【泥鼠】さん達の指示に従う必要もあると理解してね」
カオリの当面の指示に、シンは了解を示す。
その足で地下室に向かい、一時報告のために帰還した【泥鼠】達と、カオリ会議の席を設けた。
「失礼しますね~」
扉の前で中の気配を探り、四人全員が揃っていることを確認し、罠などもしっかり警戒した上で、カオリ入室の合図をして入室する。
現在は警備のための人員は置かず。ほぼ出入り自由にしているが、それは彼等により反逆の現実性がほぼないことを予想してことである。
カオリやササキの戦闘能力、シンの諜報能力があれば、彼等が逃げたり反旗を翻そうと、確実に捕獲ないし抹殺が可能なことを、彼等は十分に理解していることに加え、仕事内容や住環境についても十分な待遇を約束しているのだから、裏切る理由がないと、カオリもササキも判断したからだ。
地下室には寝具や調度品も置かれ、今では立派な住居兼仕事場と化している。
排泄や入浴に関しては、一階を利用せざるを得ないとは云え、諜報員の活動拠点としては高待遇であることは間違いないはずだ。
ただ彼等は市井に紛れて活動する理由から、貴族街や高級店を調べる時以外は、比較的薄汚れた格好をするので、自発的に風呂は数日に一度程度に留めているらしいことに、カオリ感心したのは最近のことである。
カオリ達が入室すれば、【泥鼠】一同は黙礼してカオリ達に敬意を表するが、カオリはそれをやや居心地悪く感じる。
「別にそこまでしなくてもいいですよ~」
カオリがそう言うも、【泥鼠】は皆無表情のまま否定する。
「養われる身である以上、主に対して礼儀をわきまえるのは当然、盟主殿も人を使うことに、今の内に慣れるべきです」
こう言われてしまえば、カオリも納得せざるをえない。
これまでのカオリを取り巻く人間関係は、主に村の関係者ということから、比較的対等の立場を意識し、雇用契約を結んでいても、あくまで取引相手以上の上下関係を設けなかった。
だが【泥鼠】に関しては、正真正銘の主従関係であることから、また彼らが知らぬ間にカオリに忠節を心掛けていたこともあり、いつの間にか尊称や敬語で接されるようになったのである。
クレイドの言った【盟主】と云うのも、カオリの手がける各種事業における。カオリ対外的な呼称について一度説明したのが切っ掛けで、彼等が勝手に呼び始めた呼称である。
たしかに今後、対外的に名乗る場合は、村の盟主であると取り決めたのはたしかだが、そう呼ばれ始めるにはまだ早いと考えていただけに、どうしても慣れない呼び名であるとカオリ個人は感じていた。
(……まあいっか、散々脅して、ほとんど無理やり従わせたのも事実だし、――それだけ責任重大なのを自覚しろってことかな)
半ば無理やり自分を納得させるカオリは、息を吐いて気持ちを切り替える。
学園入園まで残り数日、夏が終わればカオリは本格的に王国貴族の子息令嬢の只中に入り込み、多くを学ぶことになる。
王都での名声、王族との懇意、個人的な手駒と云う、これら足場固めもようやく煮詰った現状、後はそれを大いに利用して、確実な結果を持ち帰る必要が期待されているのだ。
他の誰のためでもなく、カオリ自身のために、今はしがらみに身を委ねることこそ、さらなる成長があると信じて。
取り急ぎ、カオリがしなければいけないことは、シンが捕まえて来た。小さな仲間達を、彼等に説明することである。
大の男達が、シンに群がる蜘蛛達に、驚愕から小さな悲鳴を上げてしまったことは、別に描写する必要もない一幕である。




