( 王都生活 )
王都に越して来て三日目の、早朝に目を覚ましたカオリは、外から聞こえる風を切る音に気付き、窓から外を覗く。
果たして風切り音の正体は、ビアンカが木剣を振る音だと気付き、カオリは身支度をする。
肌着に下着姿というはしたない恰好から、スカートと長靴だけを着て、腰には腰帯と愛刀を差し、一階から裏庭に出れば、彼女の真剣な訓練姿が目に入る。
「朝から精が出ますね」
在り来たりな台詞で彼女に声をかければ、ビアンカもカオリの接近に気付き、慌てて頭を下げる。
「起こしてしまいましたか? なるべく声は出さないように気を付けましたが……」
ビアンカの言葉にカオリは首を振る。
「もともと村でもこれくらいの時間に起きてましたから、気にされなくても大丈夫です」
カオリが朝起きてすることと云えば、食事の前の居合いの型稽古モドキぐらいのものである。
およそ訓練というものをしたことがないが、それで問題なく戦闘をこなしているのだから、この世界のレベルシステムというものは偉大である。
繊細な操作と、微かな気の緊張が要求される居合いは、カオリの剣士としての最低限の嗜み、矜持である。
力では男には敵わないのだから、鍔迫り合いなどもっての他と、一撃必殺に重点をおいたカオリの戦い方は、見切りに全ての神経を集中させる必要がある。
刀を消耗したくないという理由ももちろん付随するが。
つまるところ脚捌きと体幹を鍛える訓練に終始する。今日は騎士の稽古というものに興味が湧いたために、わざわざ声をかけたのだった。
「背も高くて、いい身体ですよね~」
不躾にビアンカの全身に視線を向ける。
無駄のない引き締まった四肢に、少し焼けた肌は、なるほど剣に生きるものの体現である。
絶世のというわけではないが、そこそこに美人と云えるのは、ロゼッタのような本物の貴族令嬢を見ているがゆえの感想である。
美形が多いこの世界の美醜の観点に、そろそろ慣れて来たカオリから見ても、ビアンカは十分に美人な部類に入るだろう、日本であれば女優でも頭一つ出た。と云えば分かるだろうか。
カオリの憧れに、戦う女性というものがある。容姿が綺麗で、心身共に強く、信念をもって行動する女性の姿は、カオリの一つの目標でもある。
その点ビアンカは、美しい女性であり、王家に仕えるほどの騎士である。憧れを体現したような彼女の在り方は、カオリには眩しく映ったのだ。
「まるでふしだらな男性のような言い方ですね……、カオリ様もご年齢の割には、とても洗礼されたお姿かと存じますが」
カオリの不躾なもの言いに、呆れた様子で反すビアンカに、カオリは笑う。
「横で稽古しても?」
カオリの言葉にビアンカは黙礼する。
刀が腰帯にしっかり固定されているのを確認し、緩く構えるカオリ。
視線は遠くもなく、近くもない、見るともなく全体を視るように。
可能な限り力まず、自然体で立ち、神経は自身の鼓動へと集中する。
緩やかに、滑らかに抜刀し、風を撫でるように、身体が行きたい方向に、振りたい方向に流す。
鼓膜が拾うのは、筋肉の軋む音と、骨の擦れる音、そして血潮の脈動だけ。
水の滴りが如く、川の流るるが如く、湖畔の静寂の如く、潮のさざ波が如く、寄せては反し光を反射するのは、水面のような刀身の煌めきなり。
不思議と笑みが零れる。
「きれい……」
自信の素振りの手を止め、カオリの舞のような不思議な稽古姿に目を奪われたビアンカは、自然とそう呟いた。
冒険者として戦い、騎士として訓練に励み、自信と研鑽を重ねて来たビアンカには分かる。
カオリの舞が、なにを意味するものなのかを、そしてカオリの実力のほどが、どれほどのものなのかを。
ガバッ、と音がするほどの勢いでビアンカが頭を下げる。
「一手っ、ご教授を!」
「? はい」
えらく下手に懇願するビアンカに、疑問を抱きつつも了承するカオリに、ビアンカは真剣な表情で構える。
カオリもそれにならって半歩引き、刀をだらりと下げて構える。
騎士剣術の手本のように、綺麗に構えるビアンカと対象的に、カオリはともすれば隙だらけのように立つ。
両者共に開始の合図のないままに、ただ対峙する。
数瞬か。
幾許か。
時間の経過が判然としない対峙を続ける両者の間には、言葉もなく、動きもなかったが、それでも静かなる牽制が繰り広げられていた。
(なによこれ……、なによこれは!)
この時、ビアンカの心中は嵐のように波打っていたのだった。
鍛えた膂力に任せて大上段から打ちこむ。
(駄目、そんな馬鹿正直な攻撃、逆に隙を与えてしまうっ)
牽制の一振りからの、深い斬り上げ。
(これも駄目、手を抜けば見抜かれて、次手に合わされる)
剣を盾にして接近し、突きと横薙ぎを併用して胴を集中的に狙えば。
(駄目だ……、手元を晒せない、簡単に払い落されて、急所を狙われる)
対してカオリは先と変わらず不動のままだ。まるで動きがない、だが眼だけは見開かれ、その瞳は焦点がないようで、しかし一分の隙も逃さないように鋭いのだ。
「ぐっ」
そしてさっきから不思議なことに、斬られてもいないのに、まるで斬られたかのような錯覚を感じる。
じり、と半歩足を擦れば、太股を斬り裂かれたように感じて下がり、やや重心を前に傾ければ、構えた腕を斬り払われたように感じ、構え直すということを繰り返した。
ビアンカの頬を汗が滴る。
雨季が明けて少し暑くなったとはいえ、早朝のこの時間はまだ夜の冷気を残す時間帯だ。
ましてや激しく動く訳でもないのに、何故これほどまでに冷や汗が止まらないのか、ビアンカは対峙の只中で絶句する。
「そこまで」
「あ、ササキさん」
二人に声がかかったことで、緊張が切れ、ビアンカは遅れて全身を弛緩させる。
「はてさて、我が故郷の剣術の一端を見て、ビアンカ殿はどう感じられたかな?」
ササキの問いに、ビアンカは嘆息して答える。
「……人と対峙して、これほどまでに絶望したのは初めてです。旅の途中で金級の魔物である【アサシンスパイダー】に遭遇した時に匹敵するほどの緊張感でした」
肩を落として脱力するビアンカに、ササキはクツクツと笑う、一方カオリは疑問符を浮かべて首をかしげる。
「カオリ君は抜き身の剣が、服を着て歩いているような人間だからな、型稽古しか覚えがない人間には酷だろう、冒険者だったころの感覚で対峙すれば、また違ったやり方もあったはずだ」
「あー、……なるほど、私が魔物を幻視したのもそれが理由ですか、刃物を持った人間ではなく、刃物そのもののような在り方、剣を振るのではなく、剣に己を添えるが如し自然体、あの舞の正体はそういうことだったのですね……」
感覚では感じとれても、言葉にして初めて理解出来るカオリの剣術に、ビアンカは納得と共に息を吐く。
腕で剣を振るのではなく、脚捌きに重点をおいて、体捌きで剣を振るという発想は、もちろんこの世界でも通用する剣術の基礎ではあるが、直剣や鈍器が多い傾向から、どうしても力任せになりがちだ。
しかし刀はその独特な形状と、見た目に反した重量ゆえに、身体全身を使わなければ振ること事態が難しく、その分刃を立てれれば、無類の切れ味を発揮出来る。
筋肉や関節に負担をかけずに、それでいて威力を求めつつ、効率良く立ち回ることを追及した結果が、カオリの剣術の正体である。
正体の見えない恐怖から、ようやく解放されたように感じた彼女は、改めてカオリに頭を下げる。
「感服しましたカオリ様、自分の未熟さを痛感出来たことは、私の一生の宝として、これからも精進してまいります。そしてササキ様も、止めてくださってありがとうございます。あのまま続けていれば、どんな無様を晒すことになったか……」
頭を下げるビアンカに、ササキは腕を組んで首肯すると、カオリに向き直る。
「カオリ君、せめて稽古っぽく、相手に同調する動きを練習した方がいいぞ? 格下ならともかく、実力のあるものは君の剣術と対峙すれば、大方動けずに、止め時を見失ってしまうのだから、そう、せめて一手打ち込んでみるとか、あえて隙を与えてみてはどうかね?」
そこまで云われてカオリは合点がいく。
「ああ、そういうことですか、後の先をとることばっかり考えていたから、それを察せられて、ビアンカさんは動けなかったんですね? すいません」
「あ、いえ、私がただ未熟で、カオリ様の足元にも及ばなかったゆえのこと、お気になさらず……」
人間の強さや技量を、単純に数字で表すことが出来るのであれば、またこの世界の人間が、実戦と訓練に明け暮れて、一年で一レベル上達することを鑑みれば。
二十レベルであるカオリの技量は、剣術に邁進して二十年の達人に匹敵することになる。
ここでカオリの持つ固有スキル、【―達人の技巧―】の特異性が如実に表れる。
レベル上昇に伴う、必要経験値の減少と取得経験値の上昇、またスキル取得に伴う、必要熟練度の減少と、取得熟練度の上昇という特典は、異常に発達した観察眼と情報処理能力として顕在化している。
これは簡単に言ってしまえば、眼前の対象から得られる僅かな情報、例えば動きの癖や、筋肉から予想される膂力や速度などを、見ただけで理解出来てしまうというものだ。
つまるところ、多人数と何度も死闘を繰り返すのと同等の経験を、一度の戦闘で習熟してしまえるという破格のスキルなのだ。
そこにレベルシステムという、およそ人外に達し得るこの世界の特性が、筋力や俊敏性、動体視力と脳の処理能力、五感の鋭敏化や、循環器官系の身体構造までをも、著しく強靭化させるのだから。
今やカオリの強さは、目に見えるもの以上に、人ならざる領域にまで達しているのだった。
同じレベル帯であっても、それら内在能力に秀でたカオリを、もはや一対一で、魔法を使用せずに、近接戦で打倒するなどほぼ不可能と云えるだろう。
もちろん、同レベル帯ならではであるが。
一合も撃ち合うこともなく、ただ対峙していただけで、体力と気力を根こそぎ消耗させられたビアンカは、その異常性を嫌というほど実感させられた。
しかもカオリは、斬る。ということに、微塵も躊躇いを抱かない、言ってしまえば剣狂いの、斬殺を殺人と区別して考える異常性を併せ持っている。
普段は穏やかな、悪く云えばだらしない性格の彼女からは、予想出来ない冷酷さを見せ付けられ、ビアンカはその点においても肝を冷やされていたのだ。
剣に生きる騎士として、戦う覚悟をもった女として、これほどまでに剣に生きる存在に、これまで遭遇したことがない彼女にとって、カオリという存在は、一つの到達点のように感じられた。
当初今回の派遣の命を受けた時は、類稀な生ける伝説の元で、その偉業の一端を学ぶことが出来る栄誉の対価として、我儘な令嬢と奔放で傲慢な女冒険者に振り回される未来を覚悟した彼女だった。
だが蓋を開けてみれば、ロゼッタは淑女の手本のように礼儀正しく、常識を弁えており、カオリに至っては、剣の腕以外は極々普通の少女に過ぎなかった。
そして今日、カオリの異常性を肌で感じ、今回の任務にて、もしかしたら自身も、一つ上の境地に手が届くのではないかという、ある種の予感めいたものを感じることが出来た。
人としても、騎士としても、一段上の存在へと昇華出来るのではないかという予感である。
「カオリ様はどのような方に師事を仰がれたのでしょう? カオリ様の剣術の真髄のほどをお伺いしたく」
興味本位で質問を投げかけるビアンカに、カオリは考えながら答える。
「誰かに教わったことはないですね~、ただ漫画……、文献で読んだ内容とか、動画……、見よう見まねでやってみて、後は剣を振っている中で、自然と身についたものがほとんどです」
漫画やアニメ、または動画配信サイトなどで見ることが出来る。一部の映像から、こんな風かな? という程度の知識しかないカオリは、そう答える。
これにはビアンカも言葉を失う、誰に教わることもなく、あれだけの技術を手に入れたと云われれば、にわかに信じられないのは無理もない。
カオリの持つ固有スキルには、自身の身体をも正確に動かすことが可能な、情報処理能力と神経伝達能力があるだけに、本当にそれだけで達人の業を再現出来てしまうのだから、こうとしか表現のしようがないのである。
「ま、まことの天才とは、かくあるべきということですか……、ますます感服いたします」
引き気味な様子で言うビアンカに、カオリは愛想笑いを浮かべる。
「男児誰しも、刀を手にすれば、おのずと答えに導かれる。ということですよ、カオリ君は女性だが、まあ我が国特有のその剣は、そもそも使う時点で、ある程度の技量を要求される特殊な形状をしておりますし、それにまつわる文献も、我が故郷には溢れておりましたから、カオリ君が特殊なのも併せれば、そう不思議なことではないと、私は考えられますな」
「はあ……、たしかに不思議な形状をしておりますね。サーベルのような反りでありながら、肉厚で刃渡りも長く、柄も布で巻かれ握りも深くなっています。両手でも片手でも取り回しが出来、かつ頑強でありながら切れ味も鋭く感じられます。重心の位置や片刃ということもあり、我々のような騎士には、使いこなすのは相当の修練が必要かと思われます」
流石は騎士のビアンカである。刀の特性を見ただけで言い当てるのは、それほど彼女が剣という道具に、探求を重ねて来たことの証左であろう。
「そうなんですよ~、斬ることも出来て、突くことも出来る。一撃の斬撃に特化した造りは、機能美を見事に再現した技術の結晶! それが刀という剣のすごいところなんですよ~」
「ほう、カタナ、ですか」
普通の女子が聞けばドン引きの入れ込みように、だが気持ちが分かるビアンカは、最高の聞き役だったらしく、カオリはこの世界で初めて、饒舌に刀愛を披露した。
二人で朝風呂で汗を流して、朝食の席につくまで、二人の剣談義は続き、途中で合流したロゼッタは、何故こうなったのか、呆れた様子で二人を見詰めた。
「私が習ったのは、宮廷剣術が基本だから、正直実戦で役立ったことがないのよねぇ、カオリとアキとアイリーンがいるから、後方支援しかすることがないのは事実だけど……、昨日のこともあるし、私もカオリの剣術を学んだ方がいいのかしら?」
しばらくして二人の会話の内容を理解したロゼッタは、自身の課題として、すっかり錆びついた剣術について考えた。
「そうだね~、魔導士なら激しく打ち合ったりもないだろうし、相手と上手く距離を保つ面でも、立ち回りなら私の戦い方は、一つの戦法としてありかもね~」
適当に返事をするカオリに、ロゼッタは真剣な面持ちで検討する。
【孤高の剣】というパーティー名を冠する仲間として、やはり最低限は剣術にも精通していないと、という義務感もあり、ロゼッタは理想の戦法を考察する。
レベルも上がって魔力量も増え、そろそろ新たな魔法を習得し、スキルの発現も可能ではないかという分岐点に至ったロゼッタは、メンバー内では一番レベルが低いということもあり、実は自身の成長の方向性に、少々悩んでもいた。
魔力量や単純火力では秀才なロゼッタでも、魔力操作や詠唱速度、魔法の切り替えや適切な運用という点では、イスタルには及ばない現状、たとえレベル差や経験の差があるとは云っても、まだまだ成長の途上であるのは、自身も自覚するところである。
万が一の時のために、剣術に力を入れるべきか、魔法の腕前もより洗礼し、強力な魔法の習得に励むべきか、限られた時間でもっとも自身が成長出来る道筋が如何なるものか悩むのは、いたしかたないことである。
「ロゼッタ君は、恐らく魔法剣士が適切だろうな、広域殲滅魔法も魔導士ならば目指すべきだろうが、継戦能力や適材箇所の観点で云えば、君達のパーティーは個人能力が高いのだから、個々が単独でも戦える力を得るのは、限られた人材で広く活躍する上では必須の能力だ」
ササキが朝食を摘まみつつ、ロゼッタに提案する。
「君達は他の大多数の冒険者達と違って、多方面でも活動する機会が多いだろう、そうなれば常にパーティーで行動するとう訳にもいかないだろうしな」
補足した内容に耳を傾けながら、ロゼッタは居住まいを正してササキの助言を拝聴する。
パーティーとしては銀級であり、実質金級にも匹敵する実力を有するカオリ達であるが、ロゼッタ個人を見れば、まだ鉄級の新米冒険者であり、魔法の腕も、あのソウルイーターのような相手には、手も足もでないのが実情である。
戦闘系魔法の基礎があるといっても、決定打に欠ける彼女の魔法では、上位の魔物や同じ魔導士相手では、どうしても実力不足が否めない。
「そうだ。丁度いいので、今日はカオリ君に確認を取りたいことがあったので、後で付き合ってもらえないだろうか? ロゼッタ君も同席して」
「はい? 分かりました」
四人は食事を終えて、食後の茶もそこそこに、食堂を後にした。
一応内密なこととして、ビアンカにはステラの手伝いをお願いし、三人は地下室に移動する。
「昨晩は風呂の衝撃で話し忘れてしまったのだがね。これの如何によっては、今後の活動に大きく影響するので、是非検討をしてほしいのだよ」
案内した先には、地下室でも貯蔵庫とは反対の区画で、通路の先にある大きな扉のある部屋であった。
なんの変哲もない石組みの広い部屋であるが、中央にはやや高く積まれた祭壇のようなものが備えられ、まるで儀式の間と云わんばかりの雰囲気を醸し出していた。
「実はここと、君達の祠を、転移陣で繋げることが出来ないかと考えているのだよ」
「ええ! 古の転移魔法を、ここに刻んでしまうということですか!」
それがどういう意味か理解出来るロゼッタは、驚愕から声を上げる。
「直接転移? ということは防犯面ではどういう対策をとるんですか?」
カオリの懸念は絶対防衛場所と考えている。ギルドホームへの外部侵入経路を、どうやって守るのかの一点である。
「認識術式を組み込むのはもちろんのこと、承認制にして、アキ君かカオリ君の陣操作がなければ、発動出来ない仕組みにすれば、安全を保つことは可能と考えている。そこの扉も連動させ、ここが完全に密室でなければ、魔力干渉すら出来ない状況であれば、侵入者を便乗させる心配もないだろう」
二重三重の対策を提案し、安全性を説けば、ササキを信用するカオリに否はなかった。元より転移魔法で勝手に移動出来るササキには必要のないものだ。これは村との連絡を懸念するカオリ達のための手段を、わざわざ提示してくれているのだと、カオリは理解した。
「村へ自由に行き来出来れば、安全面や開拓状況の確認とか、助かる機会は多いですね~、よろしくお願いします」
頭を下げるカオリと、それに続くロゼッタの返事を受けて、ササキは重々しく頷くと、すぐに作業に取り掛かった。
「【―彫刻家の妙技―】」
唱えた呪文は、主に石材などに紋様を描いたり、石材の加工に使用される基礎魔法の一つであり、地面に魔法陣を描くさいにも、広く使用される魔法の一つである。
石材の種類によって、また加工する規模や形状によって、消費魔力が左右されるので、これだけで建材に使用される石材の切り出しや加工をすることは稀であるので、一般的に見る機会はそうそうないものだ。
ただ石を削って陣という模様を描くだけなら、立体的に加工することに比べれば魔力消費はそう多くはない、それでも並みの魔導士の魔力量では、日に四つも描けば、一晩回復に回さなければ体調に不調が出ると云えば、その魔力消費量も馬鹿にならないのは理解してもらえるだろうか。
「ロゼッタ君には異様に思えるだろうが、今回刻むのは、二点間転移路術式と云われるもので、迷宮などで稀に見る。罠魔法の一つとして認識されているものだ。王家でも緊急避難用で、古くから利用されている魔法の一つでもある」
「たしかにそうですが、個人の、しかも冒険者であるササキ様が、それを自在に扱えるのは、やはりすごいことかと……」
存在そのものは広く認知されたものであっても、通常は発動に伴う魔力量や、魔法を安定させる術式の運用の観点から、個人が管理するには無理のある代物だ。
迷宮にあるものは、迷宮という濃密な魔力空間であることと、無作為な発動機構があって初めて罠として機能している点を鑑みれば、ただの移動手段として利用するには、不確定要素が多過ぎるというのが、世間一般の共通認識である。
転移させる物質の質量や大きさ、また距離に応じて変動する消費魔力量の計測、二点の魔法陣の確実な同調と、課題は多いのがこの魔法の特徴だ。
今回は互いの魔法陣の発動を、互いの位置からおこなうことで、安定した転移を実現することになるが、先に言った防犯面の点から、組み込む術式の種類が多く、それだけでも難易度は非常に高い。
これが容易に出来るのは、ササキが一方通行の個人転移魔法の使い手のみならず、これはカオリ達には教えていないが、大規模高位魔法に分類される。【―転移門―】という転移魔法をも行使出来る。最高位の魔導士でもあるのが理由にある。
転移魔法の特性や危険性を理解し、自在に行使するには、それだけ多次元間の物質移動に伴う物理と魔法知識が要求される。とても高度な魔術なのだ。
それはさておき、陣を刻む間に、カオリには事情説明をアキにおこない、了承と今後の運用を簡単に説明する。
ほどなくして陣を刻み終えれば、そこに魔石を液状化した魔液を、刻んだ溝に流し込み、魔力伝道率を高める工夫を施し、これと同じものを、カオリ達のギルドホームにも用意するだけだ。
時間はそれほどかからない、どちらかと云えば、アキの理解を得ること、またその有用性と利用方法を伝えることの方が、神経を遣わされたかもしれないだろう。
果たして完成したものを、実証も兼ねて発動を試みることになった。
中央の拳台の純度高い魔石を嵌め込み、魔力を流し込めば、発動に必要な僅かな魔力を流し込むだけで、転移陣は容易に発動を開始する。
『カオリ様、こちらアキです。応答願います』
『聞こえてるよ~、認証はどう?』
『対象をカオリ様と認識、その他の危険因子の反応はなし、外部からの魔力干渉も問題ありません、転移開始します』
『はーい、こっちも開始操作するねー』
互いの位置から、同時に転移の操作をおこなえば、なにも問題なく転移が完了する。
四半刻もしない内に、カオリは帰還する。
ギルドホームから帰る分には、認証操作を必要としない術式にしたために、一方向から勝手に発動して戻ることが出来るので、非常に便利である。
あくまで村の心臓部であるギルドホームの安全性を守るための機構なのだから、屋敷への転移はそれほど危惧する必要がなかったためだ。
「いや~便利! これでなんの心配もなく、王都で活動出来ますよ、それに王都の迷宮の探索の時にも、二人を呼ぶのが簡単になったし、文句なしです!」
「それはよかった。これで私もいざという時の保険が出来てなによりだ。仮に王都で問題が発生しても、この屋敷にさえ辿りつけば、君達だけでも逃げることが出来る」
一安心といった心持で、ササキは胸を張る。
「ササキ様すご過ぎです。私ももって魔法の勉強をしますっ」
完全に呆けた様子で上気して頬を染めるロゼッタを、笑って受け流すササキ。
時折見せる。恋する乙女のロゼッタからの尊敬と恋慕の眼差しに、壮年の男は余裕をもって対応するのが、最近物理的に距離が近くなったササキの手管である。
親と子ほどに離れた年齢差があれば、こういった対応が理想的だろうとの考えである。
いっそ実際の親子のように接するカオリには、いい意味で遠慮を感じさせない付き合いが出来ているので、ロゼッタには是非カオリを見習ってほしいと、内心では考えているササキなのは内緒である。
果たして本日の課題を、早々に終えた三人は、残りの時間を、当初の予定に当てるのだった。
昼食までの時間を目一杯勉強に当て、午後からはステラによる。行儀作法の訓練と相成った。
昼食の後は眠くなるという若さの証明を考慮し、昼食後は実技を主軸において、教鞭をとるステラの声が響く。
「胸を張るのではなく、背を引くように、顎を引き、頭頂から糸が伸びている感覚で、……そうです。手は臍の前で交差させるように緩く重ね。踵から親指にかけて足を真っ直ぐ落とします」
淑女の基本は姿勢から、というステラの考えから、基本となる立ち姿と歩行訓練がおこなわれる。
にわかとは云えそこはカオリである。ステラの綺麗な所作を、得意の観察眼で見極め、情報処理能力で四肢に伝達させれば、一度実践しただけで完璧にこなしてしまう。
「流石カオリ様、やはり武道に精通される方は、身体を操作することに、なんの苦慮もなくこなされると思っておりました」
「ホントね。幼かったとはいえ、私も合格点をもらえるのに、ずいぶんかかった記憶があるわ、それを一度みただけでここまで出来るのだから、入園どころか、試験日までに十分間に合うわよ?」
二人からの太鼓判をもらったことで、気をよくするカオリではあるが、これを日常的に実践するには、頭で癖付ける必要があるのだから、カオリも油断することなく、気を引き締める。
「後は食事の時、式典や茶会などの作法、先方への挨拶があります。ただカオリ様は冒険者ということもあり、どちらかと云えば騎士に準じた作法の方が自然かと思われますので、一通り学ばれた後は、ビアンカ様にご教示願いましょう」
通常の貴族令嬢と、女性騎士では作法に若干の違いがある。
守られる側と、守る側の配慮の違いと云えばいいだろうか、従えるものと、従うものの違いとも云えるかもしれない。
席での離着席や、馬車での乗降でもその役割が反転するので、そこは適宜使いこなすべきであると、ステラは語る。
「可能であれば、乗馬にも範囲を拡大しつつ、王家への拝謁でも恥じぬようお教え出来ればと考えておりますが」
「はい、そこはお任せします。私ではどんな事態が想定されるのか、皆目見当もつきませんから」
投げやりにならない程度に諦観を滲ませて、ステラに一任するカオリは、なんでも来いと気持ちだけは切り替えて考える。
「正直、言葉遣いとか、貴族のマナーの方が、余程覚え辛いから、カオリはそっちに注意した方がいいわ……、ほんと面倒だから」
「ロゼがそう言うだから、よっぽどだねぇ」
貴族制度という階級社会では、何事にも順序や適切な言葉選びが存在する。
冒険者で、異国人であることを考えれば、そこまで肩肘張って構える必要もないように感じるが、そこは本人がどう在りたいか、周囲の人間が寄せる信頼や期待に、どこまで応えるべきかが問われる。
カオリ個人としては、ビアンカのような綺麗な騎士の在り方には憧れを抱くし、村を代表する盟主という肩書に、恥じぬ存在で在りたいという見栄もある。
アンリとテムリに、より広く大きな未来への選択肢を用意する上でも、この王国で得られる教養は二人への手土産になると思えば、怠け心も脇に追いやることも出来た。
教科書の存在しないこれら礼儀作法、規範や常識は、普通に学ぼうと思えば、貴族の家に行儀見習いとして就業するか、多額の賃金を払って、家庭教師を雇う他ない、今回はロゼッタに雇われたステラが、厚意で拡大解釈で請け負ってくれているだけなので、無下にすることは失礼どころか、恥知らずにもなり兼ねない。
いくら日頃奔放なカオリでも、人と人との相関関係に気を配り、相応の立ち振る舞いをするのは重要なことだと認識している。
というよりも、それが理解出来なのは、女性としてどうかと云えるだろう。
侍女兼従者として経験豊富なステラ、高位貴族令嬢で社交界での経験もあるロゼッタ、王家に仕える希少な女性騎士のビアンカ、これだけ揃っていれば、礼儀作法や社交界での立ち振舞いで困ることはないだろうと、カオリは得難い経験にやる気を見せる。
知天の刻(十四~十五時)になれば、間食とお茶の時間である。
午前の内に焼いておいた小麦菓子が、お茶受けとして用意され、授業の検証もかねて本格的な茶会の仕様で、三人は休息を挟んだ。
砂糖を使用しない小麦を成形した菓子は、その材料や調理法で様々な種類があるが、今回用意されたのは、二人の生家であるバイエ地方で一般的な菓子であるレガットと云われるものが用意された。
小麦粉、または大麦粉に膨張剤を混ぜ、牛乳で整えて成型して焼き上げたもので、乾燥果物を混ぜ込むことも、裕福な家庭では一般的な菓子である。
ここに果物を蜂蜜や砂糖を加えて加熱処理した塗り物を添えれば、そこそこ多彩な菓子として見えるものになる。
(スコーンじゃん、まあ異世界だし、名前が違っても、食料事情が同じなら、同じものが出来るのかな? この辺りも要調査かなぁ)
などと、異世界生活に思い馳せながら、作法を意識しつつ、適度に気を抜いて間食を楽しむカオリだった。
間食を終えれば夕食までの時間は、座学の時間である。
ステラが事前に用意した資料を下に、家格毎への適切な対応や状況毎の正しい作法を知識として予習する。
分からない点はロゼッタに聞けば補完してもらえるので、具体的な状況を想像して覚えていく。
そんなこんなで夕食も終える。
本日は猪肉を使った料理で、村からもって来た食材を残さず、節制に努める方向で生活を心掛けていた。
ササキという無尽蔵と云えるほどの資金力の後ろ盾を得たと云っても、それになるべく依存せずやりくりするのは、最低限の配慮と考える。
【―次元の宝物庫―】の中にある物資は劣化も腐敗もしないが、肥やしにするよりは、有効活用したほうがいいと云うのも理由にある。
「試験日が決定した。十日後だ。具体的な日時はこの資料を確認しておいてほしい」
渡された資料に目を通すカオリと、続けて確認するロゼッタ、カオリの学習の進捗予定を考える上でも、しっかり目を通す。
「会場は城下街南西区にある役場ですね」
「こういう都市にある役場って、どんな役割として機能してるんですか?」
巨大な都市における治政の具体的な手法にも関心があるカオリは、役場という言葉に反応する。
「基本的には徴税官や各種公共事業を管理する現場主任が詰める場所で、税の一時保管場所でもあるから、兵の詰所にもなっている場所ね」
「働いている人は貴族様なの?」
「一応貴族の子息様もいらっしゃるけど、ほとんどは爵位を継げない次男以下が、能力を認められて就くことがほとんどよ、世襲制は認められていないから、ちゃんと実力のあるものしかなれない職ね」
政治にそこまで造詣のないロゼッタでも、貴族子息の将来の職に関しては、最低限の知識はあるのでそう答えた。
「余程治世が上手く機能していない限り、市民から疎まれる役柄ゆえ、現場指揮は能力がなければ務まらんのだろう、所得税ではなく人頭税が基本のこの国では、住民を正確に把握して、平等に税を徴収するのは、胆力を必要とされるのでな……」
「ササキ様、所得税とはなんでしょうか?」
聞き慣れない言葉に、今度はロゼッタが反応する。
「個人の所得、つまり収入額に応じて、無理のない比率で課せられた税の仕組みだ。国が富む限りは総体的な税収が増え、低所得者を圧迫しない救済機能でもある。この国限らず。この大陸のほとんどの国家は人頭税を導入しているが、これは一人につき定額の税を収める必要上、富裕層には軽く、貧困層には重く課せられ、最悪貧民街などの発生要因にも繋がる危険性がある」
ササキの言葉を反芻するカオリとロゼッタを、ササキは微笑ましく見詰める。
「そっか~、だから仕事をなくして税を払えない人が、徴税官が来れない場所に逃げ込んじゃうのか、あんなに治安が悪かったら、そりゃ徴税官の人も行きたがらないよね~」
「聞けばたしかに優れた政策だと思いますが、市民全員の管理を徹底する労力と、膨大な資料作成に伴う紙資源を思えば、今の王国では到底不可能ですね……、人材的にも、資源的にも」
難しい顔で考える二人。
「我々の故郷では戸籍と呼ばれるものがあり、世帯毎に出生や死亡を正確に管理する仕組みを敷いているのだ。これほどの大都市を抱える国家では、導入に五十年はかかるかもしれんな、だが君達の村のように、小規模であればそう難しくないだろう、ゆくゆくの貨幣経済の導入を考慮すれば、今からでも運用を検討してもよいと思うぞ」
「たしかに、ようは読み書き計算が出来て、十分に資料を作成出来さえすれば、実現不可能というほどの課題ではないかもしれません、カオリ、今度イゼルさんやアイリーンも交えて検証会でもしましょうよ」
「具体的な運用に必要な人材の予測とかを話し合うの? その前に有用性の調査が先じゃない? 多分商人さんとかからしたら、悪政に見えるんじゃないかなぁ」
若い女性らしからぬ話題はさらに熱が入る。
「有用性で上げられる例ではなにがあるかしら?」
「市民側なら税が生活を圧迫しないこと? 治世側なら住民の実態の詳細な情報を把握出来ることで、公共福祉に正しく反映させることが出来るとか?」
社会人経験のないカオリに、大人向けのプレゼン能力を求めるのは間違っているのだが、そこは大人を頼るべきかと、静かに見守るササキは苦笑する。
「税制の大まかな方針が決まれば、まずは貨幣経済への移行を考えるべきではないかね?」
「あ~……たしかにです。お金ってどうやって普及するんですか?」
貨幣史の知識など持ち合わせのないカオリは、そもそも貨幣がどうやって社会に浸透していったのか、皆目見当もつかなった。
ロゼッタも興味があるのか、ステラに紅茶のお代りを要求していた。
「まずは誰もが必要で、価値が変わらないものが生産、あるいは産出出来ることが前提にある。例えば小麦などの主食、布や塩も人類の生存には必要不可欠な物品だ。この大陸では魔石等も貴重な産出品としての価値があるな――」
次いで、これら物品を適切な交換比率に安定させて、民の富の平準化を図るため、また支配者が富の集積と管理体制を確立するために、価値が固定された不変的な疑似品が考えられた。
それが貨幣の始まりである。
小麦が一袋でどれほどの価値があるか、塩が一袋でどれほどの価値があるかを、貨幣で数値化し、物々交換に代わって、貨幣による売買により、富の分配という、経済が潤滑におこなえるようになる。
「小麦の生産者にとって必要な塩の量、逆に塩の生産者にとって必要な小麦の量はそれぞれ異なる。またそれを必要とする時期や人物をわざわざ探すのは大変だろう? 小麦も時間が経てば腐り、品質が落ちることを考慮すれば、常に平等な取引が出来るとは限らないからな」
そこで腐敗せず。持ち運びが用意で、簡単に製造または偽造することが出来ない、金属硬貨が適当だと考案されたのだ。
あらかじめ、さまざまな産出品の価値を定めて、各々が好きな時期に、好きな量で品と貨幣を交換出来れば、経済はより活発になる。
そうやって、支配者はそこから納税を、物品を納税する物納から、貨幣で納税する金納へと移行していった。
この時に、貨幣の材料となる金、銀、銅や鉄が、国土資源として大きな価値を生み出すと共に、価値の厳格な比率や、貨幣を造幣する権利を明確化し、国家事業として独占、管理する仕組みが作られていった。
「これら貨幣経済の普及には、読み書き計算といった最低限の教養が国民に求められる。貨幣の価値を知り、それを計算し適正価格で取引出来て初めて、民は労力に見合った富を得られる。社会基盤を確立することが可能なのだ」
関心しきりな二人に向けて、ササキは笑みを深めて問う。
「まだ続けるかね? 知っていて損はないとは思うが、別に明日の楽しみにとっておいてもいいのだよ?」
問われたカオリとロゼッタは、少々考えてから返答する。
「そうですね。ちょっと自分でも考えを纏めて見てから、それを明日、ササキさんに答え合わせしてもらった後で、意見をもらえたら、もっと勉強になるかなって思います」
カオリの返答にロゼッタも頷く。
「よい考えだ。受け身であるより、積極的な思考と発言があった方が、理解が深まるとうものだ」
その日はそれでお開きとし、銘々に風呂に入ればそのまま就寝となった。
翌日も同じような予定で行動する。
「昨晩は私も、大変勉強になりました」
朝の稽古を終えて、汗を拭いながら、ビアンカは昨晩の臨時講義の感想を口にする。
「ササキ様は大変お強い冒険者でありながら、歴史学や経済学にも精通しておられるのですね」
「そうですね~、私の故郷では、勉学は国民の義務でしたから、この大陸の学者さん並みの知識をもった大人は多かったですね~」
カオリの言に感心を抱くビアンカは、溜息を吐く。
「一介の騎士として、国に貢献出来ることを誉れとして来ましたが、その分、安全なところで愚痴ばかり言う、文官や官僚を軽んじていたのも事実です。しかし昨晩のお話や皆さんのご様子を見て、民を富ませ、導くとは、如何に難業なのか、その片鱗に触れたように感じました」
「そうですね~、みんなが豊で、奪い合う必要がなければ、戦争も治安の悪化も起きないですから、前線で戦う騎士さんも、無関係ってわけじゃないですもんね~」
うんうんと感じ入るカオリに、ビアンカは尊敬の眼差しを送る。
「昨日の貧民街での一悶着も、間接的には国の政策の不和と、取り締まる十分な武力の均衡が崩れた結果と見れば、カオリ様達が学ぶ教養が、いずれは平和な社会を作るための布石となるのでしょう、私もより精進せねばと感じます」
そこまで壮大な話ではなかったが、村の発展を願うカオリにとって、学びの機会はあるほどいいのは事実だ。
周囲の協力と支援を得ながら、こうして貴重な生活を送ることが出来るのは、奇跡といっても過言ではないだろう。
午前のロゼッタと二人で行う授業中のこと、不意に頭上から声がかかる。
「カオリ様、云われたもの、調べて来た」
昨日のこともあり、早速市場調査を任せていたシンから、報告が上る。
「冒険者組合を経由した魔石の小売価格と、その他雑多な物品の平均価格と質? こんなものを調べさせていたのね……」
「うん、今日中に、村の貨幣経済への移行の、具体的な方法を考えて、ササキさんに精査してもらおっかな~って」
どうやってシンがこれらを短時間で調べたのかは知らないが、よく調べられているのに、二人は驚く。
「会計帳簿、見た」
「なるほど、聞かなかったことにしよう」
真相を即座に唾棄して、カオリは資料に神経を集中する。
「午前の調子もよかったし、お昼までこの資料をもとに、二人で考えましょうか、面白そうだし、村にとって重要なことでもあるし」
いつの間にか姿を消したシンには気を止めず、二人はああでもないこうでもないと丁々発止の議論を経て、提案資料を作成していく。
午後になり、行儀作法の授業が終われば、間食を挟んで次にビアンカを講師に据えて、騎士作法の授業に移行する。
大きな違いはやはり、式典における役割の有無や、エスコートやドレスコードであろうか、資料が存在しないので、すべて口頭を紙面に書き込み残すことで、自ら資料として纏める。
夕食時になれば、待ちにまった提案資料の発表である。
どこか落ち着きなく食事が終われば、どちらともなくササキと向き合う。
「まずはこれが二人で考えた。草案の資料です」
カオリが差し出した資料を受け取り、優しげに微笑むササキに、緊張する二人は居住まいを正して内容を説明していく。
「まずはイゼルさんを筆頭に据えた商会を設立して、村の住民さん達が、好きな時に好きな物資を購入出来る基盤を作ります」
カオリの続いてロゼッタが発現する。
「イゼルさんの商会には、近隣から物資を調達してもらって、売買行為を住民に慣れてもらうようにします。この時に使われる貨幣は、魔物の素材と魔石、あとアンリの造る魔道具やポーションを、街で売ったお金で入手して、村の物資分配時に、過剰と判断した住民方の個々の判断で、物資と交換する形で配布します」
「ふむ、続けなさい」
資料から目を話さず、二人に続きを促すササキに、二人はおろか、向かいに座るビアンカまでもが息をのむ気配が伝わる。
「村に十分な貨幣がいき渡ったら、帝国皇貨と交易共通貨に含まれる、金属の純度の平均を割り出して、独自の貨幣を鋳造し、為替市場を確立するのと同時に、税の制定と金納を義務化します」
緊張も露わに早口で話すカオリにつられて、ロゼッタも一拍おいて気持ちを落ち着かせる。
「この時期は来年の小麦の収穫期を目標と定めました。村の特産品となる品目の品質が認められれば、外部から品を買い求める行商人が訪れることが予想されますので、彼らが落とすお金が、より貨幣経済への潤滑剤になるかと、えっと、以上です……」
一瞬の緊張の間から、ササキは顔を上げる。
「いいんじゃないだろうか」
ササキの肯定を受けて、カオリ達は安堵の息を吐き、一気に緊張を解いた。
「ただ新貨幣の誕生はすなわち、新勢力の樹立を意味する。あの微妙な均衡下にある村が、独立した勢力として認められるには、経済力以上に軍事力や外交力が求められるだろう、優秀な人材の確保はもちろん、抑止力としての軍事力を確保するためには、より一層の資金力が求められる。新貨幣の鋳造はより慎重を期した方がいいだろう」
「「はいっ!」」
及第点をもらったところからの、現実的な意見を、素直に受け取る二人に、ササキは本当に優しそうな笑みを向ける。
「緊張しました。まさかこれほど真剣に取り組み、またそれにササキ様が応えられるとは思っておりませんでした」
学園に通うことになった。留学生とその後援者への護衛兼付き人の任を命じられた時に、凡庸な日常業務と生活風景を想像していたビアンカにとって、二人の娘が勉学を超えて、治世の在り方を真剣に考える勤勉な様子など、想像だにしなかったのだ。
有体に云えば、意識が高過ぎる。である。
「勉強の方はどうだね。順調か?」
「はい、私の記憶でも、すでに十分な成績があるので、入園試験は問題なく、教材が届けば、卒園試験もすら容易に修められるかと存じます」
ササキの問いにハキハキと答えるロゼッタと、照れ臭そうなカオリの様子に、ササキは機嫌をよくする。
「たしか教材が明後日で、ドレスが試験日以降だったね? 試験を通過するまで気が休まらないだろうが、あまり根を詰め過ぎないようにしなさい、適度に街に出るのもいいし、いっそ迷宮に挑戦するのも一興だろう、給金は今月分は前払いするので、上手くやりくりしてほしい」
「やった!」
胸の前で拳を握るカオリ、少々はしたないが今は誰も咎めることもない、王都に来て意識が変わり始めた。大きな節目として、皆気持ちが大らかになっていたのだ。
画してカオリ達は、試験日までの帰還を、油断せず対策と復習に費やした。
途中気分転換も兼ねて、街の市場調査をおこなう以外は、ほとんどを屋敷に籠って過ごした。
この試験に落ちれば、そもそもこの王都での活動が続けられなくなるので、わりかし本気で勉強に励んだのだ。
教材が届けば、ロゼッタが過去の記憶と相違がないことを確認し、さらに突き詰めて解説していく、今回はロゼッタも一応試験を受けるので、彼女も気を抜くことが出来なかったので、教えることでよい復習になったと本人は語る。
そんな二人の勤勉な様子を、時に人伝に、時に透視魔法でこっそり確認しつつ、ササキは重い腰を上げる。
「さて……、あの子達の邪魔をする。不埒者の対策でも打つとするか、――【王の屍】」
『おンミノマえニ』
擦過音の混じる不快な声なき声が響く。
全身を漆黒の襤褸で隠し、禍々しく歪んだ甲冑を覗かせ、嘆きの仮面を被った。明らかに異様な出で立ちの何者かが、影から姿を生じさせる。
ササキの呼び声に応えたのは、王の屍と呼ばれる名付きの魔物で、ササキ自身の手によって創造された。隠密系に特化した配下NPCである。
守護者との大きな違いは、死亡しても一定時間が経てば、自動で生成されること、つまり無尽蔵な武力であるという点である。
ただし強さに上限があり、レベルで云えば六十レベルが限界値であり、それ以上はどれほど経験値を得ても、魔金貨による手動での強化を試みても、強くなることが出来ない点である。
ただしそれでも、この世界では神話に匹敵する強さであることは間違いないだろうが……。
そしてこの魔物のレベルは、その最高の六十に達している。
ササキが【北の塔の王】として保有する武力の内、情報統括部隊における最高戦力であり、全部で九体いる内の一体である。
「声なき影よ、これより任務を与える」
無言で頭を垂れるロードグルに、ササキは威厳に満ち溢れた口調で、先に感じた懸念に対処すべく命令を下す。
「この国の貴族が、彼女達の努力に横槍を入れる可能性がある。不審な動きをするものがいないか、徹底的に調べ上げろ、部隊を動かすことを許可する。誰にも悟られぬように細心の注意を払い、情報収集し、私に知らせろ」
『タダチニ』
返事と共に姿がかき消えるのを見送り、ササキは部屋の隅に視線を送る。
「主に今の光景を伝えるかね?」
視線の先には、シンが静かに佇んでいた。
「しない……、カオリ様は貴方を信用している。それに……、怖い」
「ふむ、素直な反応だな、アンドロイドを模していても、れっきとした心をもつ個としての人格を有している証拠だな」
ゴーレム系の作成に一家言を持つと自負するササキにとって、シンの完成度は舌を巻く出来栄えだ。
これはたんに、守護者の枠を使用して、カオリの感性によって創り出されたがゆえの違いであろうと、ササキは考える。
そんな益体もないことを、楽しげに考えるササキを、シンはじっと見詰める。
この時シンは、初めて相対した時より、何度も鑑定系の魔法を試みたが、一度も成功した試しがないササキの異常性に、静かに恐怖を感じていた。
アキの破格の鑑定スキルでも、HPが膨大にあるということぐらいしか分からなかったのだから、鑑定という能力ではアキに劣るシンでは、看破は不可能であるのは致し方ないだろう。
しかし先程、具体的にはササキがロードグルを呼び出した瞬間に、異常なまでの禍々しい気配に慄き、慌てて発生源に来たことで、先程の光景を目の当たりにし、シンは己の浅はかさを感じた。
辛うじて拾った。ロードグルの鑑定結果は、――Anknown、つまり正体不明だったのだ。
守護者特典により付与された。上位の鑑定魔法をもってしても、身体能力や魔力量どころか、種族名すらも分からなかったのだ。
それはシンでは、到底立ち打ち出来ないほどのレベル差があることを意味する。
この世界では、鑑定魔法は同レベル帯の対象物であれば、詳細な情報を引き出すことが可能である。下位ならば二十レベル、中位なら四十レベル、上位なら六十レベルまでを看破出来るとされている。
鑑定魔法が通ったということは、レベル制限に問題はなかったはずである。
それでも――正体不明、それは即ち、レベルという概念を超えた高位存在であることを意味する。
「貴方は何者?」
そして、そんな存在を従える。上位の鑑定魔法どころか、アキの破格の鑑定スキルですら跳ね返す。ササキは、いったいどれほど超越した存在だというのか、想像すら出来ないことに、シンは戦慄する。
「何者……か、それを知ってどうする?」
圧倒的な超越者の風格、威風堂々たる王者の威厳、そこにいるのは神鋼冒険者のササキなどではない。
【北の塔の国】を統べる。魔王と称された。【北の塔の王】たる覇者の姿であった。
ピシリと空気が凍る。
そのあまりの威圧感あるササキの――
「……ひぅっ」
「え?」
唐突に、シンの目尻に涙が溜まる。
「ま、待てっ、すまないっ、怖がらせるつもりじゃなかったんだ。お遊び、そうただのお遊びだっ! だから泣くな、な?」
「ふぎぃい……」
袖口でゴシゴシと目を擦って涙を拭うシンに、ササキは慌てて手をどけて、マントの端で目尻に優しく当てがう。
「まさかアンドロイドっ娘が、少女のように泣くなんて、カオリ君のキャラ設定は甘いんじゃないか?」
緻密に能力や性格を設定出来る守護者は、創り手の意思に忠実に創造される。
現にササキの配下である多くのNPC達は、ゲームだったころに設定した人格に寸分違わず。今も存在を誇示しているのだ。
先のロードグルも、ゴーレム系とシャドウ系の魔物の混合種で、感情どころか自我すらも希薄な、まさに忠実な手駒として、かなり力を入れたNPCである。
それが、ササキの威圧如きで、泣き出すアンドロイドなど聞いたこともない、完全な設定不備である。
「……うむ、カオリ君達への、正体の開示は、もっと慎重を期そう、実態を見て怖がれるなど、……正直ショックだしな」
盛大な溜息を吐いて、ササキは肩を落とす。
「うぉっ!」
「? どうしたのカオリ」
一方同時刻、部屋で勉強に励んでいたカオリは、不意に猛烈な気配を感じて、思わず淑女らしからぬ声を上げて驚いた。
辺りを見渡し、異変がないことを確認し、今は感じられない気配の正体に、首をかしげる。
「なんだかこの世ならざる気配を、感じた気がする……」
「……、も、もう! 止めてよねっ、カオリが言うと冗談に聞こえないんだからっ」
【ソウルイーター】の時の、死者達の声の件があるので、カオリが原因不明の違和感や不調を訴える時は、碌なことがないと定評になりつつある今日この頃。
ロゼッタは慄いてカオリの肩を叩く。
「うん大丈夫、びっくりしただけで、悪い類のやつじゃないから」
「悪かったらどうなるのよぉ……、どういう意味なのよ~……」
心底嫌そうな顔でカオリの言葉にツッコミを入れるロゼッタに、カオリは根拠のない笑顔を向ける。
今日もカオリの、平和な日常が過ぎていくのだった。そう、表向きは、だが……。




