表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/74

( 奴隷解放 )

きっと修正しなければならない

 時間にしておよそ二刻ほどの時間を置き、奴隷商達がカオリ達の下に乗り込んできた。

 【服従の呪印】が施されたことで、カオリの戦闘能力を恐れる必要がなくなったため、奴隷商はカオリ達に奴隷に対する通常の対応を始めるつもりのようであった。


「今日よりお前達に、調教を施す。分かったら檻から出ろ、こちらの指示に素直に従っている内は、苦しい思いをすることもない」


 そう宣言した奴隷商の表情は、憂いがなくなった晴れやかなものだった。後ろに控える使用人の男達も、下卑た笑みを浮かべており、見ているだけで不愉快になるものだった。


(なるほど、今までは私のレベルを警戒して、仕方なく手を出さなかっただけで、普通は来たその日にでも、奴隷教育みたいなものがあったんだ)


 もうカオリは油断をしていない、今日の晩にはササキ達が助けに来てくれるという確信もある。なればカオリの囮としての役目も、そこまで気にする必要がないのだ。ここであまりに不当な対応を強いられるならば、必死の抵抗も辞さない覚悟である。


「調教とは、何をするんですか?」


 警戒心からカオリは質問をする。


「決まっている。性奴隷として売るために、お前達には夜の奉仕、いわば性技を覚えさせる。また男を喜ばせる幾つかの立ち振る舞いもな――」


 奴隷商の勝ち誇った表情に、カオリは怒りを通り越した呆れを感じた。完全に有利な立場から向けられる相手を見下した態度が、これほど人に不快感を抱かせるものなのか、カオリは人生で初めて人から向けられる感情に、呆然としてしまった。


「断ったらどうなります?」

「どうもこうもない、お前のような反抗的な態度を去勢するためのものだ。逆らえばお前に施した魔法が、お前を酷く苦しめることになる。抵抗出来ると思わんことだ」


 言った瞬間に、カオリの頭に鋭い痛みが走る。また胃の腑から込み上げる気持ち悪さを感じる。これが【服従の呪印】の効果かと、遅まきながらに理解する。


「そうだ。逆らうだけじゃない、反発心を抱くだけでも、呪印は敏感に反応する。魔道具と違い、付呪の類の効果を甘くみないことだ。でなければ無駄に苦しむだけだ。分かったか?」


 ――くそったれ――。


 カオリの心中はその一言で埋め尽くされる。それだけで呪印がさらに効果を高め、カオリにさらなる苦しみを与えるが、もうカオリは我慢がならなかった。

 胃から込み上げたものが、ついに抑え切れずに口から溢れた。

 吐瀉物を床に撒き散らし、酸っぱい悪臭が牢に充満する。乙女にあるまじき醜態に、頭の冷静な部分が、屈辱と嫌悪感に塗り潰される。

 だが激しい頭痛がそういった感情を押しやり、脳は次第に思考力を失っていく、痛い、苦しい、気持ち悪い、それ以外の言葉が思いつかない、カオリは自らの身体を掻き抱き、必死に自分を励ました。


「いわんことか、無駄に抵抗すればいつまでも苦痛が続くぞ? おいお前ら、速く掃除して指示に従え、遅れた分を取り戻さねばならんのだ」


 カオリの醜態に震えるイゼルとカーラ、これは他人事ではない。自分達も奴隷商の言葉に従わなければ、カオリと同じ目に遭うのだ。彼女達は黙って掃除を始め、カオリのことも綺麗にする。

 茫然と虚ろな目で自分の世話をする二人を見つつ、カオリは戻ってきた思考力で考えを巡らせる。

 どうやら奴隷商の言葉や姿が魔法の起点になっているようで、他の対象からの命令に反発心を抱いても、とくに身体に急激な変調はきたさない、試しに一番近くの使用人の男に殺気を向けても、呪印は別段反応しなかった。

 突然殺気を向けられた使用人が、肩を震わせて何事かと周囲を見回し、首をかしげているのを視界に収めつつ、いつの間に殺気を自在に操れるようになったのかと思わなくもないが、今は脇においてカオリは思考を巡らせる。

 呪印が施された時に、カオリはなかば茫然自失していた。おそらくその時に何らかの契約、あるいは魔法的儀式があったはず、見逃したことを後悔しつつ、カオリはなんとか呪印を無効化、もしくは効果が発動しない条件がないかを考えた。

 だがそうこうしている内に、掃除も身支度も終えて、カオリ達三人は再び命令を下され、渋々牢から出て、使用人の後に従わされる。一瞬躊躇しかけたカオリだったが、また呪印がカオリの思考に敏感に反応し、僅かな痛みと不快感を与えてきたため、カオリは慌てて拒絶の感情を抑え込む。

 折角二人が綺麗にしてくれた牢も身体も、カオリが無駄に抵抗することで再び汚してしまう、この連帯責任もある種、奴隷同士の結託を阻害する策なのだろうと理解する。

 連れられた部屋は簡素な石造りで、部屋の端に大きな水瓶が用意されていた。ここなら汚れも気にならず、汚物もすぐに洗い流すことが出来る。

 天井や壁に目を向ければ、あちこちに楔が打ち込まれ、そこから鎖が垂れ下がっている。頑丈に拘束することも出来るよう、入念に準備されている。もう多くを語る必要もない、ここは、そういう部屋だ。


「両手の枷を一時的に外す。代わりに重りのついた足枷と、両手首に簡単な手枷を装着する。重ねて言うが、抵抗するなよ」


 奴隷商がしつこくカオリ達に命令を発する。カオリは確信した。呪印が効果を発するには、奴隷商、つまり呪印の契約者の言葉に逆らうという手順が必要なのだ。

 一つ一つ条件を絞り込む、拒絶の感情を抑え込み、ただ冷静に呪印への考察に頭を働かせているくらいならば、呪印がカオリを苦しめることはないことも実証出来た。


「お前達が商品である以上、見える部分に傷をつける訳にはいかんが、あまりに愚図な場合は、鞭打ちも辞さないと言っておく、もちろん逆らうならば服従の魔法が発動するが、どちらにせよお前達には抵抗の意思も自由も許さん」


 調教はすでに始まっていた。繰り返し言葉にすることで、奴隷から反抗の意思を根こそぎ奪う気でいるようだ。

 使用人達による枷の付け替えが終わり、両手が自由になる代わりに、片足に鉄球の重みが加わる。引きずるさいに鉄の枷が足首に食い込み、骨と皮膚に鈍い痛みが走る。普通の人間ならばこれだけで激しく動くことが難しくなるだろう。

 ちなみに汚れてはかなわないと云って、唯一の衣服である貫頭衣はすでに脱がされ、カオリ達は一糸纏わぬ姿を晒されている。


「男共を入れろ」


 奴隷商の指示が飛び、部屋に新たな男達が現れる。

 カオリはその中に見覚えのある男がいることに気付き、眉をひそめた。ここに連れられてきたおりに、同じ馬車にいた男性だ。

 奴隷商は性技の実技にも奴隷を使用する気なのだろう、これでは仮に反抗して暴力に訴えたり、あるいは、そう、男のアレを、噛み切ったりといった手段に出辛くなる。


(一回脅し文句で言ってみたかったけど、意味ないか……)


 とことん用意周到な奴隷商に対して、カオリは内心奥歯噛みした。それで一瞬呪印が反応仕掛けたので、即座に考えを振り払う。

 部屋に入った男性奴隷達は、突然目の前に裸の美女達がいたことで、顔を赤らめて目を背ける。そりゃそうだとカオリは苦笑する。自分が逆の立場でもそうするかもしれない、いや? 男の裸は兄で見慣れている。案外他人の裸でも大して何も感じないかもしれない、カオリは無意味な思考で現実逃避した。


「鬱憤が溜まっている男には事欠かん、奴隷での練習が終われば、当分は使用人達の相手をしてもらうことになる。嫌ならさっさと覚えて上手くなれ、そうすれば早く終われる。もう三日も無駄にしたのだ。精々技を磨いて男を悦ばせろ」


 現実は無常である。目の前に並ばされた男性奴隷達、今から彼らにカオリ達は奉仕の真似事をさせられるのだ。


「へへっ、跪け、腰布をどかせて、お前達のお客様に拝謁しろ」


 使用人の下品な指示が飛ぶ。


「さっさとしねぇと、大事なお客様が風邪をひいちまうぞ?」

「そりゃいけねぇ、早く暖めてやらねぇとな、がははははっ」


 これまでの日本の生活で、男性経験など皆無なカオリに、目の前の男性を悦ばせる方法など知る由もない、知っているのは下世話な話題を好む同級生との会話で聞いた。断片的な情報に過ぎない、兄も妹への情操教育には多大な神経を遣っていたため、目に見える範囲で、そういった類の書籍や情報は、少なくともカオリは見付けたことはなかった。

 今時の女子高生にもなれば、もっと具体的な情報交換もあったかもしれない、またカオリの中学生時代で、周囲にはあまり進んだ友人はいなかった。

 完全に余談ではあるが、学生時代のカオリは、同級生達からやけに物知りな女子と思われていた反面、どこか達観した思考をするカオリを、扱い兼ねていた節があった。

 その理由として、学生恋愛がそのまま結婚に至ることは稀で、恋人関係が卒業後に別々の進路となった場合、そのほとんどが破局に至るという、兄の入れ知恵があったために、男子と深い仲になろうとせず。また恋愛脳な同性の友人達と話が合わなかったためであった。

 結果的に男女間で起こりうる様々な経験が、カオリには圧倒的に不足していたのである。そのくせ兄という異性が身近にあったことで、異性との距離の取り方だけは妙に上手いのだから、十分にクラスで可愛い女子に分類されるカオリに好意をもつ男子達は、堪ったものではなかっただろう、たまにいるよねこういう女子。

 かといって関係を持たないことが、無関係でいられるとは限らず、嫌が応でも情報や感情を向けられることは避けられない。

 やけに距離が近い男子や、彼氏を作らせようとする友人達を適当にあしらっている内に、高嶺の花、ガードの固い女の認定を受けるのも、同時に近寄り難い存在と、周囲から一線を引かれるのも無理のない話である。

 それでも簡単に身体を明け渡す同世代へ、カオリは嫌悪感を抱くことはない、それはあくまで本人が選んだ結果である。「人生は一度きりだから、素敵な思い出を」という主張には同感出来る。

 一時の思い出扱いされる男子諸君には真に残念な話ではあるが、刹那的な恋愛を望む彼女達を悪く思わないで欲しい、嫌なら速く稼げるようになるか、とにかく彼女に尽くすことをお勧めしよう。

 だがカオリのような世代にありがちな、経験のないことをあからさまに見下す風潮には、流石のカオリも我慢がならなかった。


(お兄ちゃんが言ってたもんね。――処女であることが大事なんじゃないって、大事なのは、自分を大切にすることなんだって、大切にするから、大切にしてもらえるんだって)


 カオリの兄がカオリに対し、過剰な知識や情報を教えるのも、ひとえに妹を大事に思っての行動からであるのは、カオリも十分に理解していた。そのせいで多少周囲から浮いた環境に置かれても、大人になれば上手く振る舞えるようになるとの確証があってのことである。

 しかし、カオリの現実逃避の時間も終わりを迎える。


「おいお前っ、いつまで呆けている。さっさとしないかっ!」


 いつまでも膝を屈しないカオリに業を煮やして、奴隷商が怒気を荒げる。

 今まさに腰布に手を伸ばしたイゼルとカーラが、不安げにカオリを見上げる。その二人の視線にカオリは救われた。こんな状況でも、自分を心配してくれる存在がいることに、逆らえば自らも苦しむことになるだろうに、それでも二人はカオリを気遣ってくれているのだ。


(うん、うんっ、もう分かった。もう迷わない)


 カオリは心の中で何度も自分に言い聞かせ、覚悟を決める。


(素直に認めよう、イヤ、キモイ、フケツ、マジでムリ)


 即座に呪印が発動し、カオリを徐々に苦しめ始める。しかしカオリは動じない、この苦しみはもう知っている。この痛みはもう知っている。だから、逆らう覚悟はもう決まった。


「ぐっがぁああっ!」


 つい先ほど味わったばかりの辛苦が、再びカオリの身体に駆け巡る。激しい頭痛に目が霞む、捻じれる胃が内容物を掻き混ぜる。


「ええいこの娘! この後に及んでまだ反抗するか! ひざまづけ! 言う通りにしろ! 命令に従え!」


 奴隷商が怒声を上げて鞭を石床に叩きつける。石を打つ鞭の音が、カオリの頭に鋭い痛みを呼び起こす。


「嫌だっ!」

「何ぃっ!」


 まさか言葉で拒否されるとは思っていなかったのか、奴隷商は動きを止めて、カオリを驚愕の表情で凝視する。


「奴隷だからと、か、関っ係ないっ! こう、いうこと、はっ、もっと、大切な人とっ、大事な時に、自分で決めてっ、確かめ合ってするものだからっ!」

「何を子供の戯言をっ! 貴様は奴隷だ! 主に従っていればいいんだ!」


 痛みがさらに増す。もうすでに空っぽの胃が、なけなしの胃液を喉まで押し上げる。


「でもっ! それも関係ないっ、もうそんなことも、関係ない!」


 目が霞む、耳も上手く音を拾えない、手足の感覚が鈍く、どこまでが自分の身体なのか判然としない、それでもカオリは屈しない、明確な拒絶の意思が、呪印の力とせめぎ合う。


「こいつっ、どうしてここまで反抗する! 逆らっても苦しむだけだ。もうどうしようもないんだぞ! このままでは心が壊れて売り物にならんっ、誰かこいつを何とかしろっ!」


 奴隷商は焦っていた。過去に呪印に逆らって廃人になった奴隷がいたという記録がある。もしかしたら目の前の少女には、そういった心の強さがあるのかもしれないと危惧したのだ。

 高い額で仕入れて、アイリーンという貴族へ、安くない金銭と頭を下げてまで隷属させた商品に、こんなつまらないところでただの人形になられては、かけた経費を回収出来ない、だが肉体に損傷をつけては、品質を落としかねない、奴隷商は仕方なく言葉でカオリの心を折りにいく。


「奴隷風情が意地を張りやがってっ! 女であれば遅かれ早かれ経験することだっ! お前の意地はただの子供の我儘だとどうして分からない! それにお前達は人間じゃない、ただのモノだっ! モノが人間様に逆らうなっ!」


 この言葉が、奇しくもカオリの最後の良心を消し去った。

 カオリは奴隷商の言葉を、霞みがかった頭で何度も反芻した。モノ? 人間をモノ? と言葉の意味を探りつつ、奴隷商の真意を正確に理解する。




 もうカオリは、心底、我慢がならなかった。

 カオリがこの世でもっとも嫌うこと、それは暴力で、権力で、謀略で、その他のいかなる方法でもって、人間の尊厳を、自由を抑圧すること、人が持つ魂から生じた。己と云う個の存在を否定する行為である。

 兄から教わった歴史の出来事、人間の社会構造の多くは、他者を踏みにじる悪意に満ちていた。

 人には優劣がある。格差がある。それは理解出来るし、また仕方がないと受け入れなければならないこともある。現実主義的な思考を持つに至るのに、カオリが受けた教育は十分な効果をもたらしていた。

 だからこそ、だからこそカオリは許せなかった。人はもっと自由で、もっと至高で、もっと無限の可能性を秘めている。例え己の選択の末に、己が苦しむ結果になろうとも、選択の先に、絶望を余儀なくされる結末が待ち受けていようとも、選択の自由を他者に明け渡すことがあってはならない。

 人と人が社会を形成している以上、不確定要素の排除や、ある一定の線引きは必要である。必要であると理解は出来る。

 だからこそ、カオリは思ったのだ。意思を持つことの大切さ、意思こそが人を人たらしめる。掛け替えのない財産であると。


「――ふざけるな」

「なに?」


 小さく漏れ出たカオリの言葉に、奴隷商は聞き返す。

 堅く握られた拳が、鬱血して白くなる。食い込んだ爪が皮膚を破り、僅かに血を滲ませる。頭痛と吐き気がカオリの頭から、他の一切の感情を消し去る。

 残ったもの、それは、――怒り―― だ。


「ふっざけるなぁあああああっ!」


 カオリの体内から魔力の奔流が迸る。あまりの激情に、首根の呪印が激しく明滅する。拒絶の感情が強過ぎて、呪印の周囲の皮膚まで魔力が集中し、眩い光を発し、見ていた周囲の人間は、驚愕に目を見開く。


「なんだっ! 何が起こっているっ」


 驚きのあまりに、奴隷商は慄き後ずさる。数十年に渡る奴隷商の生涯で、初めて目にする現象は、奴隷商に未知の衝撃を与えた。


「ふざけるなっ! ふざけるなっ! ふざけるなっ! 私の意思は私のものっ、私の意思は私だけが自由に出来るもの、他の誰にも渡さない、私にだけ選択出来る。たった一つの掛け替えのないものっ!」


 怒りに染まった表情で、慄く奴隷商を睨み付ける。


「奴隷? 呪印? そんなもの関係ないっ! そんなもので私は縛られないっ! 私の意思の選択は、誰にも明け渡したりしないっ、私の意思はっ、私だけのものだぁあああああっ!」


 呪印が煙を吐き出し、さらには血が滲み出始め、カオリを襲う辛苦はもはや常人には耐えられないレベルにまで高まる。それでもカオリの激情は収まらない、あらん限りの力を振り絞り、カオリは呪印の力に、己の意思一つで抗い続ける。


「な、何でもいいっ! とにかくこの娘を抑えろ!」


 奴隷商が大声で使用人に命令を飛ばす。一瞬の躊躇の後、使用人達は意を決して警棒を片手にカオリへ迫る。だがその判断が、事態をさらなる混乱へと向かわせる。

 踊りかかる使用人の男を、カオリは霞む視界の中で認識する。正常な反応など到底不可能な状態で、それでもカオリが反応出来たのは、この数カ月で磨かれた技術の賜物か、それとも意思の強さが、呪印による激痛と不快感を凌駕したためか。

 振り下ろされる警棒を紙一重で躱し、カオリは男の顎に頭突きをお見舞いする。一般人を遥かに超える力と速度で打ち込まれた頭突きは、大の大人の男の顎を砕き、歯をバラバラに四散させ、食い込んだ骨が喉までをも潰した。

 枷のついた手で警棒を掴み取り、次に接近した男の肩口に警棒を打ち下ろす。鎖骨を容易く砕き、肩の骨も衝撃で脱臼する。あまりの激痛と衝撃に、男は膝を折って悶絶する。

 また一人が一歩踏み出すが、一瞬にして昏倒させられた二人の同僚の姿に、思わず動揺する。だがカオリはその隙を見逃さない、カオリから見て左の股関節に前蹴りを放ち、体制が崩れた男の喉に警棒を突き込み、喉を潰して叩き伏せる。

 最後の一人も恐怖から動けずにいたが、カオリはそんな相手にも容赦はしなかった。

 股間への強烈な蹴り上げが、男の睾丸をまともに捕え、嫌な感触と共に、男に耐えがたい激痛をもたらす。ついでに振り上げられた反動で跳ね上がった鎖に繋がれた鉄球が、男の尾骶骨を強かに打ち据える。ただそれだけで男は警棒を取り落とし、その場に蹲る。口から漏れ出るのは悲鳴のような唸り声、ショック死しなかっただけでも、いやいっそ死んだ方がよかったと思えるほどだろうか。


「馬鹿なっ! 呪印が、そんなっ、こんなことがぁ」


 言葉に出来ないほどの衝撃と、カオリへの恐怖で、奴隷商は壁を背にして震えだす。ありえない、ありえないと繰り返した。

 それでもカオリは止まらない、睾丸を潰され失神した男の肩甲骨に踵を落とし、容赦なく骨を割る。この光景に牢の中のイゼルとカーラも驚いて悲鳴を上げる。

 次に喉を潰された男には、持ち上げた足の膝に、逆から蹴りを入れてへし折り、肩を破壊された男は後ろから足首を踏み付けて骨を折る。そして最後に最初の男の膝を梃子の要領でへし折った。

 あまりにあまりな光景に、もう言葉も出ない一同、死んではいないが、もう動ける男はいない、殺さなかったのは、たんに殺す価値もないと感じたからに過ぎない、いや、殺しにきたのなら殺し、そうでないなら無力化するだけ、とカオリがどこかで線引きしていたためだ。それでも十分にカオリの留飲は下がった。

 カオリの表情は幾分か穏やかなものになる。奴隷商が恐怖で動けなくなったことと、カオリの中の敵意や反発心が薄れたため、呪印の効果が和らいだためであったが、その実強過ぎる魔力の奔流で、呪印の魔法陣が一部焼き切れていた。

 そのことを確認する人間がいないため、まだその事実を知るものはいないが、この時すでに、カオリを縛る魔法は、そのほとんどの効果を失っていた。


「ひぃっ!」


 自分を守る使用人達が全滅し、奴隷商は慌てて逃げ出した。

 部屋に残ったのは、昏倒した使用人達を除き、色々と縮みあがった男性奴隷達と、茫然とへたり込むイゼルとカーラだけだ。カオリは深呼吸して気持ちを整理する。

 冒険者からすれば、武器とも呼べないものを装備しただけの一般人と、レベルの上ったカオリ自身の実力差を、カオリはしみじみと実感していた。これならば、冒険者組合の面々が、カオリのレベルを聞いて驚いていたのも頷ける。

 大の男を四人も相手取って、文字通り丸裸な女の子が、無傷で圧倒したのだ。この世界でレベルというものが、どれほど情勢に影響を及ぼすものなのか、カオリは漠然と理解する。


「おっと、そんなことを考えてる場合じゃない」


 逃げ出した奴隷商が、もし万が一、重要書類を持ち出して行方をくらませば、元村人一家の捜索が困難になる。カオリは颯爽と部屋を出る。


「は! カオリちゃんっ、服、服を着て!」

「はわわっ、待って下さーい!」


 イゼルとカーラも、貫頭衣を着直してカオリに続く。

 石造りの一階部分と、木造の二階で建てられた建物と、高い柵で囲われた商会の敷地内に出たカオリは、探す手間なく、あっさりと奴隷商を発見し、胸を撫で下ろした。

 だが少し離れた場所、敷地内の広場にいた奴隷商は一人ではなく、他に五人の人影に守られるように立っていた。カオリは無造作に近付いていく。

 怯えた表情で、しかし何とか気丈に振る舞おうとカオリを睨みつける奴隷商の顔を確認出来る距離まで近付き、そこでふと、見知った人物を認めて歩みを止めた。


「やっぱりあたしの勘は間違ってなかったね。武器もなしで大の男を手玉に取る手腕、なかなかやるじゃないかい」

「バンデルさん、ですよね?」

「アイリーンでいいさね」


 カラカラと笑い、目をぎらつかせながら待ち構えていたのは、【服従の呪印】の魔道具を、奴隷商に貸し与えた貴族、アイリーン・バンデル本人だった。

 どうしてここに? とカオリが口にする前に、アイリーンは勝手に話し始める。


「泣き喚くあんたを見て、あの時は当てが外れたと思ったけど、あの後どうしても気になってね。様子を見に来たんだ。――そしたらどうだい、呪印の力も跳ね除けて、身一つでここまで抵抗してみせたんだ。こいつぁ掘り出しもんを見付けちまったねぇ」


 いったい何のことを言っているのか、カオリは不思議に思い首をかしげた。


「あたしは強い奴が好きなんだ。そしてそいつと戦うのがね。それが男でも女でも関係ない、力と力のぶつけ合いさ」

「おお、戦闘狂ってやつですか、すごいですね」


 カオリは呑気に答える。まるで自分とは無関係とばかりに。


「だが、女だてらに素手で戦える奴は少ない、あたしも会ったのは数えるほどさね。その点あんたはそれをやってのけた。こりゃああたしも無視出来ない、あんたもそう思わないかい?」


 カオリはさらに頭をかたむける。無視出来ないから何だというのか、いまいち要領を得ない会話に、カオリはだんだんと面倒さを感じ始めた。


(奴隷商さんを確保しなきゃいけないのに、いったい何なの?)


 完全にアイリーンを眼中に入れず、カオリは今後の対応に頭を働かせる。奴隷商を逃げ出せなくした後は、残りの使用人も抑えなければならず、下手に衛兵などを呼ばれれば、最悪奴隷の反乱と見なされ、武力鎮圧という公的手段に出られ兼ねない、なので速やかに商会を一時占拠し、なんとか夜まで粘れば、ササキ達が駆け付けてくれる手筈になっているのだからと。

 だが目の前に立ちはだかるアイリーンが、一向に退く気配を見せないことで、カオリは少々困っていた。そしてカオリの反応がよくないことに業を煮やしたのか、アイリーンはようやく本題に入った。


「早い話が、あたしと勝負しなってことさ」

「あ、はい、お断りします」

「「……」」


 気まず過ぎる沈黙が流れる。アイリーンはまさか即答されるとは思っていなかったようで、言葉に詰まってしまった。


「こっちはこの奴隷商の主人を守るように依頼されたんだ。あんたの狙いはこいつだろ? だったらあたしを倒さないと目的を達せられないと思うんだが?」


 言われてカオリは目を見開く、いまいち状況を把握出来ずにいたが、アイリーンが説明したことで、ようやく理解が追い付いた。


「どうやら分かったようだね。で? どうなんだい、諦めてここから逃げ出すかい? そしたらあんたは自由だ。呪印が効かないあんたを、これ以上縛りつけるのは不可能だからね。実力を見る限り冒険者ってのも嘘じゃなさそうだし、その代わりこいつは諦めてもらうがね―― ただし、勝負してくれるなら、勝敗に関わらず奴隷から解放してやるさね。もちろんあんたが勝てば、こいつのことも含めて、あんたの好きにすればいいさね」

「あ、はい、お断りします」

「「……」」


 まったく同じ調子で、同じ回答を繰り返したカオリに、流石に今度はアイリーンも眉をひそめる。


「……一応理由を聞こうか、断る。てのはどういう意味だい?」


 問われたカオリはしばし考える。適当な言葉が何か、相手に正確に理解してもらうにはどう言えばいいのかを考える。


「まず貴女と戦う理由がありません、そもそも私は奴隷商さんに危害を加える気がないからです。ただ逃げられるとちょっと厄介なので、身柄を押さえておきたいだけで……」

「……ほうほう、続けて?」

「後は帝国貴族の方と、例えただの力比べであっても、問題を起こしたくないから……かな?」

「……ふんふん、それで?」


 まだ聞くのか、とカオリは訝しむが、向こうの考えが読めないために、仕方なくそれっぽい理由がないか、辺りを見回して、そこで初めて、イゼルとカーラが自分に追い付き、しかしアイリーンの姿に怯えて、少し離れたところで立ち竦んでいるのに気付いた。

 そしてイゼルの手に握られたものを見て、光明を得た。


「それにっ! 装備どころか服も着てませんっ! ん? てっ! ギャァアアアアッ! 私裸じゃんっ!」


 自分で言ってようやく全裸だったことを思い出したカオリ、室内で強要されたならまだしも、そのまま屋外に出るなど、露出狂の趣味はないカオリは、羞恥で顔を真っ赤に染め、即座に座り込んで身体を隠した。

 だがそこで、アイリーンが予想外な行動に出た。


「ならこうすれば問題なしだっ!」


 脅威の早業で甲冑を剥ぎ取り、そのまま肌着も脱ぎ棄て、アイリーンは見事に鍛え抜かれた肉体を、つまり、一糸纏わぬ姿となり、カオリと対峙した。

 男顔負けに肥大した上腕二頭筋、岩石を思わせる巨大な三角筋、小さな顔を過剰なまでに支える僧帽筋、前面からでもわかる肩を押し広げる公背筋、そして妖艶なくびれの中でも自己を主張する腹筋群、流石に腰回りは女性らしくふくよかさが見られるが、それでも僅かに動くたびに、その下に強靭な筋肉が確認出来る。

 また何とも憎らしいことに、胸部の筋肉は、ある部位の脂肪を燃焼せずに残したようで、その豊な二つの丘は、周囲の目を釘付けするのに絶大な効力を発揮していた。

 周囲からまばらな拍手が起きる。見れば色々と縮こまっていたはずの男性奴隷達も外に出てきて、カオリ達のやり取りを遠巻きに観戦していたのだ。


「どうしてそうなるんですかっ!」


 その叫びは、勝負が無効にならないことへなのか、アイリーンまでもが全裸になったことへなのかは、カオリ自身も判然としなかったが、現状は恥ずかしさのあまり、上手く思考が纏まらなかったので、たんに不満を声に出しただけに過ぎないのだろう、それでもアイリーンはご丁寧にも答える。


「あたしが依頼を請けた以上、こいつが逃げ出すことはあたしが許さないよ、そしてあたしはあんたと戦いたいから、この場から動くつもりもない、そして装備を平等にすればあんたも勝負に応じるんだろ? だから脱いだっ! どこかおかしなところがあるのかい?」

「たしかに! 何もおかしなところがない!」


 カオリは納得した。完璧な論理だ。ちなみにこの二人にツッコミを入れる勇気あるものは一人もいない、またこの世界にはボケとツッコミという概念すらもない、悲しいことだ。


「女同士、裸のど付き合いといこうじゃないか、何、死にやしないし、最悪骨を折る程度で終わるさね」


 アイリーンが挑発的な笑み浮かべ、両手を広げて仁王立ちとなる。


「戦いませんよっ? てか、戦えませんよっ!」


 必死の抵抗を見せるカオリに、アイリーンはどこ吹く風と云わんばかりに首を振る。そして強烈な踏み込みと共に間合いを詰めた。


「っ!」


 刹那、首を狩り取る回し蹴りがカオリを襲う。


「こうなったら問答無用さね! 戦わないなら、戦わざるを得ないように、容赦なく叩き潰すだけさっ!」

「死ぬ死ぬっ、そんな攻撃まともに受けたら死んじゃいます!」


 それでもアイリーンは攻撃の手を緩めない、振り抜いた足で地面を蹴り、体重を乗せた両手の横殴りへと繋げる攻撃を、カオリは何とか上体を逸らすことで躱しきる。


「そらそらどうしたっ! 反撃しなきゃジリ貧だよっ」


 体力を温存するという発想のない、豪快無比な攻撃を放ち、アイリーンはカオリを攻め続ける。

 武器での攻撃と違い、格闘という超接近での戦闘に慣れないカオリは、次第に躱すことが困難になっていく、蹴りや横殴りといった大振りの後に、隙を作らぬように細かく差し込まれる肘や膝を使った裏取り、牽制というには馬鹿げた威力を秘めた刻み突きが、怒涛の如くカオリを責め立てる。

 カオリがもっとも警戒しているのは組み手の類だ。胴捌きや脚捌きによる回避が出来ても、流石に筋力や体重差を利用して組み伏せられれば、反撃はおろか抜け出す事も不可能に近い、なのでカオリはひたすらに回避に専念した。

 忘れてもらっては困るので繰り返すが、カオリは元々、極々普通の女の子だったのだ。

 殺し合いとは無縁で、戦いとは無縁で、勝負とは無縁で、果ては競争すらも積極的には挑まなかった。本当に平凡な女の子だったのだ。

 それがこの世界で魔物と戦い、死者と戦い、人間と戦った。そして授かった固有スキル【達人の技巧(ハイレベル)】の補助を受け、それらの戦いを余すことなく己の糧とした。

 異常に発達した観察眼のみならず、五感を通して得られる情報を正確に分析し、瞬時に適切な対応を導き出す情報処理能力、自らの身体を自在に動かす神経伝達速度と正確さ、どれをとっても天賦の才を得たカオリであるが、そんなカオリにも弱点が一点だけ存在する。


(格闘技とか知らないってっ! 勝負ってどうすればいいの!)


 それは、未知なるものへの対応力だ。

 殺すのであれば斬ればいい、無力化するならば折ればいい、そんな極論の世界に慣れ始めたカオリは、ここへきて初めて、勝つためにはどうすればいいのかが、分からなくなっていたのだ。

 これが実力的に劣る相手であれば、たんに殴り付けるか蹴り倒すだけで勝てたかもしれない、事実、使用人の男達はそれで無力化出来たのだ。

 だが相手は鋼の肉体を持ち、レベルも明らかな上位者である。相手の攻撃はカオリにとって致命傷で、カオリの攻撃は蚊の刺す程度、下手に攻撃に転じれば、隙が出来て反撃を、最悪掴まれて捻り折られてしまうかもしれなかった。

 またここへきて、刀に傾倒した戦闘技術、しかも居合いを主体としていたことが裏目に出ていた。

 後の先を取る。紙一重で躱して斬る。そんな戦い方ばかりをしていたためか、純粋な剣術とは到底言い難い歪な技術が、刀を取り上げられたカオリから、戦う力を大きく奪ってしまったのだ。

 足払いを避けた折りに、足枷があったことを忘れていたカオリは、重りとなる鉄球に引っ張られる形で、思わず体制を崩してしまう、そこへ両拳の振り下ろしが襲い、カオリはついに防御せざるを得なくなった。

 だがそこは流石の一言、組み合わせた腕で柔らかく受け、自身ごと力を横に逸らすことでダメージを回避してのける。だが重力と体重と遠心力を利用した振り下ろしは、その全ての威力を逸らしきることが出来ず、カオリは腕に鋭い痛みを感じる。


(痛っつ!)


 歯を噛みしめたことで呼吸が乱れ、痛みに反応した筋肉の起こりが、カオリの反応速度に影を射した。アイリーンがそれを狙ったのかは定かではないが、それでも僅かに生じた隙を、彼女が正確に捉えたのは間違いなく、カオリは攻撃をまともに喰らってしまった。


「ほらよっ!」


 圧倒的膂力で打ち出された裏拳がカオリを捉え、カオリは防御した腕ごと後方に弾き飛ばされる。腕を突き抜けた衝撃が肋骨を貫通し、内臓にも強烈な衝撃を与えたことで、カオリは危うく膝をつきそうになった。


「回避力は大したもんだが、攻撃しなけりゃ勝ち目はないよ、動きから察するに、どうやら剣士系のようだがね。剣を取り上げられただけで無力になるんじゃ、到底強者とはいえないねぇ」


 レベル差を加味せず、一方的に勝負を挑んできた身で、何を勝手なことをとカオリは心中で文句を浮かべる。だがアイリーンの言った通り、カオリは現状成す術もなく圧倒されている。

 助けがくると分かっていても、負ければそれまでにどんな酷い仕打ちが待っているのか分かったものではない、ここは是が非でも無事に勝負を終えたいところだ。

 カオリは意味が薄いと分かりつつも、離れた距離を維持したまま、必死に打開策を考えた。


(マジで無理、この人本当に強い、攻撃の隙も防御の意味もない)


 カオリはなおも考える。どうすれば勝てるか? どうすれば相手が手を引くのか、対応策は、打開策は、目まぐるしく流れる思考の渦の中、カオリは自分に出来る術を模索する。

 だがその黙考により、カオリはあることに気付いた。自身の身体に流れる魔力の力だ。


(かの剣聖、柳生石舟斎は技の極みの末に、無刀に至った。――て漫画で読んだなぁ……)


 それはもはや無意識だった。手元にない刀を夢想したがゆえか、魔力の灯りに確信を得たのか、それはカオリ本人ですらが明瞭な答えを有さない、ひどく曖昧なものでしかなかった。

 意図せずして緩く握られた右手は、あるはずのない刀の柄を握る形に閉じられ、少し冷たい風を全身で感じる中、その手だけがほのかな暖かみを醸していた。

 アイリーンが地面を抉るほどの踏み込みを見せ、音を置き去りにしてカオリに迫り来る。

 身体中を巡る血のたぎりが、耳から入る余計な音を排除し、少し冷えた空気が、鼻の感覚を鈍し、逆に頭を冴え渡らせる。目に映る光景がやけに遅く感じるのは、身に迫る危険が避け得ることの出来ない脅威にまで高まっているためか、カオリはここに至って、やおら考えることを放棄した。

 振り下ろされる猛烈な拳の圧力が、カオリに考えるのではなく、感じたままの反応を促した。

 刀を持つかのように、刀を振るかのように、刀で斬るかのように、カオリ自身が刀であるかのように、斬る。

 斬る。

 カオリがしたことはたったそれだけだ。そしてそれだけで十分だった。撃ち合いを避け、受け流すこともせず、牽制のために振うことも厭ったカオリの剣術は、ここにある意味で、一つの到達点に至った。

 一陣の風が、両者の間に交錯する。


「な、に? 何を、した?」


 自分の拳がカオリの顔面を捉えたと、アイリーンは衝突の瞬間に確信した。確信してなおも油断せず、次なる行動の余力も残しながらも、全力での攻撃だったのだ。速度も常人では捉えられぬ。ともすれば風圧だけで体制を崩し兼ねないほどの威力が、彼女の拳には乗せられていた。

 だが視界のどこを見ても、カオリの姿は見当たらず、もちろん吹き飛ばしたような手応えもなかった。未だ理解の追い付かない状況に、アイリーンは困惑する。

 そして不意に、胸部に激しい熱を感じる。


「何? これは血か? あたしの血?」


 見下ろした自身の身体から、身に覚えのない鮮血が噴出していた。胸部に感じた熱の正体を彼女はよく知っていた。刃物で身体を斬られた時に、いつも痛みより先に熱いと感じたことを。


「斬られた? 斬られただとっ!」


 言葉にして初めて身体が実感したのか、強烈な激痛に伴う筋肉の痙攣と、出血による脱力が同時に襲い来る。

 慌てて振り返って、ようやくカオリの姿を視界に収めたアイリーンだったが、カオリは相変わらずに素手のまま、ひいては全裸のままだ。両手足に鉄の枷が残っているが、あれに切断力などないことは明白、だがカオリは間違いなく、アイリーンの身体を斬りせしめた。

 足から力が抜け、アイリーンは混乱のまま膝をつく、納得出来ない、しかし納得するしかない、いったいどんな奇術を弄したのか定かではないが、自分は間違いなくカオリに斬られたのだ。何も持たないその手で、まったく反応することも出来ぬ刹那に、斬られてしまったのだ。


「アイリーンさん頑丈過ぎでしょ、普通生身で斬られたら、内臓まで抵抗なく斬れるはずなのに、骨で止まっちゃいましたよ」

「斬るってあんた。手に何も持ってないじゃないかっ」


 必死の抗議も虚しく、カオリは飄々とした態度で苦笑する。


「はい、だから魔力を利用して想像してみたんです。斬るって」


 あたかも刀を実際に持っているかのように、手振りをしてみせるカオリに、アイリーンは呆れとも怒りともつかない感情に襲われる。


「想像って……、まさか風魔法の斬撃か? それとも魔力の具現化を使ったのか? あんたは確かに剣士系で、導士系じゃなかったはずだよ」


 カオリの体捌きを見るに、アイリーンの経験では間違いなく剣士系に見る動きであった。そうでなければレベル差がある自分の攻撃を、あそこまで躱しきるなど不可能なはずである。


「いえ、何というのか、斬るという過程? を再現した感じですか? 別に斬撃を当てたわけじゃないんで、そうとしか言いようがないんですけど……」


 要領をえないカオリの説明に、アイリーンはついに観念して、両手を上げた。


「ああもういいさね。こっちは殴る蹴るしか能がなくて、そっちはわけの分からない攻撃手段があって、そんでもってあたしはそれに何の反応も出来ずに、致命傷を受けたんだ。文句のつけようもない、――降参だ。あんたの勝ちだよ」

「ふっ、ふざけるなっ!」


 突然横合いから声を荒げたのは、勝負を傍観していた奴隷商だ。彼からしてみれば、この状況は非常に受け入れ難いものなのだろう、カオリという危険人物に抵抗され、進退極まった状況を打開すべく、たまたま居合わせたアイリーンに多額の金を約束して、無理やりカオリとぶつけたのだ。

 それがカオリの言葉に乗せられて、有利な立場、防具を脱ぎ捨てて、武器を封印して、馬鹿正直に素手での勝負を挑み、あまつさえわけも分からない攻撃で敗北したのだ。

 もはやアイリーンに戦意はなく、残りの使用人もカオリを抑えるに心許なく、加えて言うなら遠くで観戦している奴隷達も、調教のさいに拘束を緩めてしまったのだ。【服従の首輪】はまだ効力を保っているだろうが、目の前の少女はさらに強力な呪印をも跳ね除けたのだ。安心出来るに足る確証もない中、すでに奴隷商の思惑は完全に破綻していた。

 そして世の中とは、得てして堕ちゆくものには厳しく出来ているようで、奴隷商の背後には、文字通り、破滅の足音が迫っているのだった。

 ドン、ドン、ドン、と重い足音が聞こえてきたと思ったすぐに、本来鍵がなければ開けられないはずの鉄格子の門が、僅かな金属音を鳴らして、容易く開かれた。


「さて、これはいったいどういう状況だ?」


 立ちはだかる威容、アイリーンをしてなおも圧倒的な体躯、低く重い声を響かせ、威風堂々たる佇まいは、見間違えることなどありえない、世界最強と名高い男、ササキが姿を表した。


「ササキさんっ! 早かったです――」

「イィヤァアアアッ! カオリ何で裸なのぉおお!」

「カオリ様ぁあああ! 御無事ですかぁあああ!」

「カオリお姉ちゃーん! 心配したよー!」


 カオリが呑気に応えるのに被せるように、三人娘達がササキの向こうから全力で駆けて来た。あっと云う間にもみくちゃにされ、カオリはあれよあれよと服を着せられる。


「【服従の呪印】がかけられたって聞いて、一時はどうなるかと」


 ロゼッタが矢継ぎ早に説明するには、都市を預かる代官にしても、違法奴隷の存在は悩みの種だったらしく、渡りに船であったことが功を奏した。

 ただし問題には帝国貴族も関わっている繊細なもので、確たる証拠の調査書の作成から精査、さらにモーリン交易都市の冒険者組合からの正式な申立書および抗議文の提出、問題に関わっていないであろう貴族への事前の根回しと、結構な時間が割かれ、結局今日まで救出に時間がかかってしまったのだった。

 それでも予定よりも速く駆けつけることが出来たのは、呪印のことを聞いた後すぐに、ササキが直接代官にかけ合い、いや話し合い、なかば強引に強制調査の許可をもぎ取ったらしい、最初は領軍や役人を介して手続きを進める予定だったのを、神鋼級冒険者の持てる最大限の力を行使した強行軍に、ササキが如何に激怒していたかが伺える。

 話を聞きながらカオリは、アキが無言で何やら自分を凝視していることに気付く。


「大丈夫です。私の固有スキルで確認しましたが、カオリ様の純情は未だ健在です! よろしゅう御座いましたカオリ様!」

「だから何で分かるのっ! 何が基準なのっ? この前からその鑑定系の魔法ってかなり失礼だよねっ!」


 カオリはアキの肩を激しく揺す振るが、アキは感涙し万歳を繰り返すばかりで、カオリの不満は受け入れてもらえなかった。




 一方ササキは奴隷商と対峙していた。ちなみにここへ乗り込んだのはササキ達だけではなく、遅ればせながら、ササキの後方には役人と領兵の姿も見える。

 本来は門前での調査令状の提示と宣言が必要であったはずだが、ササキはそれを無視して敷地内に乗り込んだために、役人達は主導権を奪われ、苦笑いを浮かべて控えていた。


「あ、貴方様はいったいどちら様でっ? ここへ何用――」


 役人の姿に不安を募らせる奴隷商だが、彼らが何も発言しないために、仕方なく前方に立つササキに問いかける。だがササキの返答は実に冷徹だった。


「黙れよ下種、お前が相手にしているのは、正式に許可を得て強制調査に協力している公的な立場あるものだぞ? お前には違法な人身売買の嫌疑がかかっている。私の大切な仲間である冒険者が、野盗共に拉致され、それを奴隷としてお前が買い取った証拠は上っている。――彼女がこれまでどんな仕打ちを受けたのか、その関係者へ尋問が許されていることが、どういう意味を持つのか、帝国民ならば理解出来よう?」


 ササキの宣言を聞き、奴隷商はこれまででもっとも顔色を悪くする。


「野盗との違法な人身売買も十分な罪ではあるが、重犯罪者以外への行使を禁止されている。禁忌指定魔術の無許可使用、これは極めて重罪だぞ?」


 奴隷商は少女達にもみくちゃにされているカオリを振り返る。そして自分が仕出かしたことの顛末を理解し、喉を詰まらせた。

 ここで気を失うことが出来たら、どれほど救われただろう、奴隷商の犯した罪を、帝国の法で裁いた場合、示される未来は一つしかない、犯罪奴隷としての強制終身労働だ。

 己れが扱ったことのある処遇の中で、もっとも過酷な扱いを受けるであろう未来を確信し、奴隷商は完全に沈黙した。


「ねえあんた。あたしはどうなるんだい?」


 ササキに声をかけたのはアイリーンだった。


「む? どうしたのだお譲さん、裸ではないか、それにその胸の傷も、君も奴隷として酷い扱いを受けたのか? こんな美しい娘に対して、まったく度し難い連中だな……」


 言うが早いか、ササキは自身を象徴する深紅のマントを外し、アイリーンに強引に巻き付ける。ササキの審美眼がずれているのか、はたまた二メートルを超える巨躯の彼からすれば、アイリーンですら小さな娘に見えるのか、まるで紳士然とした対応に、アイリーンは当惑する。


「あ、ありがとう……、えっと」


 着せられたマントも、巨躯のササキの身長に合わせているので、アイリーンが着ても下が余り地面についている様子が、なんだか可愛らしく見えるのだから不思議である。


「ほら、ポーションだ。乙女の肌に傷は似合わない」


 またしても有無を言わさずに、アイリーンにポーションを振りかける。胸の傷が瞬く間に消え、アイリーンは目を見張る。すっかり跡形もなく消えた胸をさすりながら、アイリーンは人生で感じたことのない感覚に捕らわれる。


「いやいや、今はそんな場合じゃない、ねえあんた。あの娘は【服従の呪印】を施されている。そしてその呪印の魔道具をそこの奴隷商に都合したのはあたしだよ、帝国の法に則れば、あたしも罪に問われるはずさ、だから――」

「……その前に、何故君が【服従の呪印】の魔道具を所有していたのだ? そこをまず聞かせてもらおう」


 ササキの雰囲気が一瞬剣呑なものへと変わるが、ササキはそれを抑え込み、努めて平静に振る舞い冷静に詰問する。

 幼少から数多の戦場を駆けまわり、実力と経験を積んだアイリーンであったが、肌で感じる圧倒的強者を前に、人生で初めて気後れしてしまう、だがそれでも戦士の矜持で己を奮い立たせ、常の振る舞いを装った。


「いや何、あたしの実家であるバンデル家は、代々最前線で戦う将軍職を排出している家でね。皇家の血も流れる大貴族家なのさ、だから時に国家転覆を企てる重犯罪者の取り締まりや、敵国の強者の捕縛も行う関係上、正式な許可があって所有を許されているんだよ」

「なるほど、【鉄血のバンデル】の御令嬢か、それなら不思議ではないな、だが私用での持ち出しでの場合、戦場でない限りは国の許可が必要だったはずだが……いや? 奴隷への使用は特例として認められていたか? まあどちらにせよ、君への調査も視野に入れんといかんだろうな――」

「待って下さいっ!」


 ササキの無情な言葉を遮り、カオリは二人に駆け寄る。ササキはそれに無言で応え、カオリの言葉を促した。


「アイリーンさんは私が違法奴隷なことを知りませんでしたし、その後も私を解放してくれるって約束してくれました。……ちょっと勝負させられたりしましたけど、私は無事ですし、この人を罪に問うのはなんだか……悪いです!」

「あんた……」


 流石のアイリーンも、自分がカオリにどれほど酷く無茶なことを強いたのか自覚している。だがカオリはそれを推しても、自分に罪はないと公言したのだ。

 カオリは尚も言い募り、ことのあらましとアイリーンの無実をまくし立てる。

 おおよその事情を察したササキは、少し考えるように視線を上げる。是を取るべきか、非を取るべきか、時間にして数瞬。


「――ある貴族令嬢が、恐らく騙されて、実家の特許品を持ち出し、誤って少女に使用してしまった。そしてその後に再び真実を知らぬまま、騙した相手の護衛を引き受け、危うく害する直前だったが、己の過ちに気付き、少女を解放すべく働きかけた―― 多少無理があるが世間的には妥当な筋書きだな」


 ササキの言葉を受けて、カオリは表情を明るくする。だがとうの本人は納得がいかないのか、憮然とした表情でカオリを見る。いったいどうしてカオリがここまで自分を庇うのか、アイリーンには皆目見当がつかなかったからだ。


「アイリーンさん、奴隷商さんが捕まったら、他の奴隷達はどうなるんですか?」


 不意の質問にアイリーンはしばし考え、思い出しながら答える。


「奴隷は本来国の所有物とされている。そして卸し売りされて購入者の資産になるわけさ、だが購入者が罪を犯した場合は、資産の差し押さえと同時に、奴隷も一度国に召し上げられて、その後再び一般に卸されるはずさね」

「違法奴隷はどうなるんですか?」

「そりゃぁ、もちろん違法なわけだから、解放するのが筋さ」


 「やっぱりそうかぁ……」カオリの意図が分からず、アイリーンはササキと視線を交わす。


「実は同じ牢になったカーラさんっていう人は、貧困奴隷として売られて、私と同じ性奴隷扱いを受けたんです。でもこの数日で本当によくしてもらって……、私どうしても、カーラさんを助けたいんです!」

 アイリーンはそれでようやく理解した。


「はは~んなるほど、あっちの灰髪女は違法奴隷だから自然に解放されるけど、その隣の茶髪女は正規の奴隷で、このままじゃあまた余所で性奴隷にされるってことかい、――でもってあんたは、あたしにあの茶髪女を買えって言いたいんだね? 奴隷は帝国国民しか購入権がないから」


 カオリは大きく頷く。


「費用はこちらで出します。でも信用出来る帝国人の知り合いもいないし、お金を渡しても、権利を盾にされたら私達じゃどうすることも出来ないし……」

「罪に問わない代わりに、彼女に名前だけを借りて、情の移った奴隷を救いたいと考えたのか、甘いが、落としどころとしては妥当と言えるかもしれんな」


 ササキの言葉にカオリは胸を撫で下ろす。


「だがそれでも分からんな、どうして彼女を信用する?」


 ササキの追及にカオリは考える素振りで可愛らしく小首をかしげる。アイリーンから見れば一回りも小柄で顔立ちも幼い少女の仕草、二人の気安い関係を邪推してしまいかけたが、親子という線もありえると考え直し、常にない小さな動揺を隠して、彼女はカオリの言葉を待った。


「カッコイイと思ったんです」

「はぁ?」


 アイリーンが少々間抜けな表情になったのは仕方ない、理性ではなく感情から人を判断することは、この世界では危険がつきまとう局面が多分にある。

 戦場に生きるアイリーンにとっては、己の行動を除いた他者が関わる事柄は、基本的に家訓や軍法に則って客観的な判断を心掛けてきた。だが目の前の少女は、自分を貶める片棒を担いだ人物をして、カッコイイと思った。などという主観的感情論を用いて、あまつさえ信用出来るとのたまったのだ。

 だが呆れるアイリーンの隣で、ササキは小さく肩を揺らすと、ついに声を上げて笑い始めた。いったい何が彼の琴線に触れたのか分からず。アイリーンは困惑してしまうが、自分のことを笑われているように感じて、なんだかいたたまれなくなった。


「もちろん、色々理由はあるんですよ? 初めて会った時も、こっちの言い分を一々確認したり、勝負の交渉時も、最初は余地を残して聞いてきたり、奴隷を相手でもちゃんと人間として接してくれました。それに今のササキさんとの会話でも、黙っていれば分からなかったかもしれないのに、自分から白状して、でも卑屈になったりしないし、普通出来なくないですか? そういうの」


 一応カオリなりに理由はあったが、それを初めに持ち出してこなかったのは、それでも自分がアイリーンという人物に、感情から好感を抱いたという事実を、隠したくなかったからであった。


「いやいや、毎度のことだと思い、カオリ君は相手の過去や自分への行いで判断せず、あくまで打算でつき合っているものと思っていたのだがね。ことが女子供であればこうして感情的にもなるのだと分かって、少々愉快な気持ちになったのだよ」

「どいうことだい?」


 一人おいてけぼりにされたアイリーンは、わけが分からず問う。


「彼女は年頃の女の子にしては、妙に器が大きいところがあってね。相手が犯罪歴があろうが構わず懐に入れるきらいがあるのだよ、だが君への評価を聞いて、もしや過去にも周囲の仲間達に対して葛藤や迷いがあったのかと想像して、……そうだな、私は安心したのかもしれないな」


 しみじみとササキは語る。


「協力者としては、カオリ君を害した人物に手御心を加えるのは賛成し難いが、彼女自身が君に人間らしく肩入れすることは、大いに歓迎するつもりだ。――今回の一連の騒動におけるバンデル家の御令嬢の処遇に関しては、私から可能な限り口添えをして、最低でも不問に処されるよう努力することを約束しよう」


 ササキの言葉を受け、カオリはアイリーン以上に喜びをあらわにした。


「ただし、カーラという女性奴隷の件での協力を条件とさせてもらうが、異論はあるかな?」

「ないよ、費用がそっち持ちなら最初からあたし側にデメリットは一切ないんだ。むしろ責任を感じて一人でも救おうと、奔放な娘が我儘を言い出したと周囲は取るだろうよ」


 アイリーンは自身の家での評価を思い出しつつ苦笑した。一時は除籍も覚悟していたのが、破格の好条件を見せられて、否と言えるわけもなく、アイリーンの覚悟は杞憂に終わった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ