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身代わりの羊

【わるいおとなたち】よりニルチェニアとレグルス、ユーレの話。

「――何のおつもり?」

「何のつもり、か。何だろうな。……どう答えられたい? 望み通りにしてやるよ」

「なら、離して?」

「それには応えられないな」


 猫の目のように少しつり上がった、小生意気そうな菫色の瞳が、レグルスの鮮やかなネオンブルーの瞳を見据える。ガラス玉のようにすんだ瞳には、感情というものがあまり浮かんではいない。

 桜色の唇がゆったりと動いて、「暇つぶしなら他の人でやって」と鬱陶しそうに紡いだ。暇つぶしか、とレグルスはニルチェニアをじっと見つめる。ニルチェニアの細くて白い首が、自分の手の中にあることを目に焼き付けた。

 黒い革の手袋ごしに、彼女の脈が伝わってくる。片手で掴めるほどの首は、力を込めればきっとすぐに折れるだろう。


 ――ああ、その前に窒息してしまうか。


 ぼんやりと考える。

 どくり、とまた手の中で白い首が脈打った。


 ――この娘は生きている。どれほど人形じみていようと。


「――状況を理解していないのか、ニルチェニア」

「貴方が私の首を絞めながら壁に押しつけている、という状況なら……理解しているわ。別の状況が他にもあるのだと仮定するなら、私はその状況を認知も理解もしていないけれど」

「そこまで理解していて、よくそんな口が叩けるな」


 ニルチェニアの体を少しばかり宙に浮かせるように、レグルスはニルチェニアの首をつかんでいる腕を持ち上げる。壁に押しつけられていた体がずり、と小さく音を立てた。ニルチェニアの足が、床から離れていく。小さなハイヒールを履いたつま先は、バレエダンサーのように伸びていたけれど――床には届いていない。う、とニルチェニアが小さくうめく。なぜだか、レグルスの背は粟だった。


 ――生きているとは思えない目をしているくせに。


 まるで、「いきている」かのような反応をする女が、心底不気味だ。人形は人形らしく、おとなしくつり下げられていればよいものを。


 ニルチェニアの菫色の瞳は、それでもまっすぐにレグルスを見据えていた。人形を相手取るような不気味さを感じながら、ひ弱な体躯を頭からつま先まで眺め回す。やはり、背筋がぞっとするほど無感情の瞳以外は――とるに足らない娘だ。


 自分と同じ目線にニルチェニアの瞳があることに気がついて、いかに彼女が自分より小さな存在であるのかと、レグルスは改めて思う。思えば、レグルスとニルチェニアが話すときはいつだってレグルスはニルチェニアを見下ろしていたし、ニルチェニアはレグルスを見上げていた。


「苦しいわ、レグルスさん」


 レグルスの片手に白くたおやかな両手が添えられた。品よく作られたビスクドールのようなてのひらは、両手でもレグルスの戒めを解くには及ばない。非力な娘だ、とレグルスは内心で吐き捨てた。


「楽にしてやろうか」


 頸動脈をじわじわと押さえこんだなら、きっと彼女はものの数分で事切れるだろう。人形のようにうつくしい姿のまま、今度こそ物言わぬ人形となるに違いない。


「――もっと苦しくしてやろうか、の間違いではなくて?」

「よくわかっているじゃないか」

「あなたのことだもの」


 首を絞められていてなお、菫色の瞳の娘は柔らかに微笑む。レグルスが本気でこの娘のことを殺せないということを、ニルチェニアはいつだって理解していた。


「生意気で腹の立つ小娘。……でも殺せない。だから、ギリギリまで苦しめたいのでしょう」

「本当に生意気な小娘だよ」


 珍しく感情を滲ませて紡がれたレグルスのそれに、ニルチェニアは優しく笑いかけた。


「青い瞳で世界を見ても。――貴方の眼に移る世界は“青くない”」


 私だけは貴方の青写真に写らないわ。


 温かいわけでも、冷たい色でもない紫の瞳がぱちぱちと瞬き――レグルスは、手のひらの力を緩めた。ぱっと離された手に従って、どさりと音を立てて壁にもたれるようにくずおれた娘は、こほこほとか弱くむせている。


 そんな娘の弱々しげな姿は、強気な言葉とは裏腹に真実に見える。探偵という真実を希求する職に就いておきながら、誰よりも言葉で偽るのがこの娘だった。


「レグルスさん」


 さえずるように小さく、白髪の娘はレグルスに囁く。


「――苦しいわ」


 ぽろりとこぼれた一粒の涙を、レグルスは見なかったことにした。



***



 レグルスが白髪の少女に出会ったのは、十年ほど前のことだったか。そのころは「ニルチェニア」という名前ではなく、もっと別の名前だった少女は――齢九つにして、すでに悪辣なまでの観察眼を身につけていた、と思う。

 悪辣というのは適当ではないかもしれない。が、すくなくとも子供らしい子供ではなかった。


 レグルスと彼女が出会ったのは、小さなケーキ屋だった。

 ケーキでも食べるか、といつもの気まぐれでふらりと立ち寄ったケーキ屋に、まだ小さい彼女がいたのだ。丸く大きな菫色の瞳、白い肌に銀髪にも見える雪のような白髪。着ていた服装が少々貴族趣味を感じるような華美なものだったから、じっとケーキを見つめてさえいなければ、きっとよくできた人形だと思ってしまう。そんなかわいらしい少女だったのだ。


 宝石のように艶々とした果物がたっぷりと乗ったケーキを眺めながら、どこかそわそわとしていた彼女に――“お茶でもどうだ、お嬢さん”と声をかけたのが始まりだったか、とレグルスはため息をつく。あそこで声をかけさえしなければ、とも過去に幾度となく思ったが、声をかけなかったらかけなかったでまた別の方法で彼女はレグルスに接触してきていただろう。そういう娘なのだ、彼女は。


 話は元に戻るが、レグルスは自分の見目の良さは自覚していたから、子供相手にイタズラをするような人間だと思われる確率はゼロだと確信していたし、何より少女の近くには親らしき人物もいない。

 ショーケースに少女が張り付いているよりは、少女の知り合いか何かを装って少女をこの場からどけた方が、店のためにも――ケーキを選びたい自分のためにもなる、と。

 そう考えて“お茶でもどうだ、お嬢さん”と声をかけたのだ。


 無邪気な少女はきらきらと目を輝かせ、“はい、お兄さん!”と可愛らしく返事をし、それに満足したレグルスは少女が見つめていた果物がたっぷり乗ったケーキとともに、好物のラズベリーパイを頼んだ。


 年端も行かない少女と、艶のある青年の組み合わせの妙は、どうやら幸いなことに店員は不思議に思わなかったらしい。


 似ていない兄妹、または年の近い親子とでも思われたのか。すんなりと席に着くなりケーキに夢中になりはじめた少女に、「家族は?」と気軽に声をかけたのはレグルスだ。


 少し気分がよいから、なんだったら親の元にまで届けてやろうかとも思っていたのだ。

 レグルスは特段子供好きというわけでもなかったが、子供の無邪気な様子は嫌いではなかったし――子供は愛されて育つべきだとも考えている。そんな話をしようものなら彼を知る人間のほとんどが胡散臭い顔をしただろうが、幸いと言うべきか――レグルスはそれを口にしたことはない。

 何より、ガキは泣き出すと面倒くさいのである。


「おとうさんが、います」

「そうか。……お父さんは、どうした?」

「元気にしているわ」

「……? いや、そういうことじゃない」


 会話がかみ合わないのは子供だからなのだろうか。


 しかし、それにしては大人びたような雰囲気の返答をいきなりされて、レグルスは少しだけ苦笑いをしてしまった。


「そう?」

「そうだ。俺が聞きたいのは君の父親が今どこにいて、何をしていて、どうして娘をほうっておいてるのか、という話だからな。これだけ可愛い娘さんなら、普通は目を離さないものなんだが。だから、君の父親の息災は俺には関係ないよ」


 ぱちぱちと目を瞬かせた少女に、もう少しかみ砕いた話し方をすれば良かったかとも思ったが――どうせ子供なのだ。ケーキに夢中な間は何を言っても無駄だろう、とレグルスもラズベリーパイに手を着けようとして――


「――昔の仕事仲間の息災、興味がないの?」


 ふふ、と“子供らしく”笑う少女に、思わず殺意を持ってフォークを向けてしまった。らしくないことをしたと舌を打ちそうになったが、少女の微笑みをみて、その判断が間違いでないことを知る。


 とても、少女とは思えないような――奇妙な色気のある微笑みだった。蠱惑的、とでもいうのだろうか。毒のあるような微笑みは、年端もいかない娘が浮かべて良いものではない。


「……どういう意味だ、お嬢さん」

「そのままの意味よ、レグルス・イリチオーネさん。……ご心配なさらず。フォークは下ろして貰えるかしら……? 私は本当に子供だし、非力で丸腰。……少しききたいことがあって、あなたに会いに来たの」


 少女の服装にざっと目を向けて、確かに武器は持っていなさそうだとレグルスは判じ、可愛らしい少女から得体の知れない少女へと変貌したその娘を見やる。

 菫色の瞳はどこか飲み込まれそうで、レグルスはそれに息をのんだ。


 ――見覚えがある色だ。


 少女の目の色は、かつてレグルスが組んで“仕事”をした男――“ジェラルド・ウォルター”の恋人の目の色にそっくりなのだ。髪の色もほぼ合致している。


 “彼女”の目の色は少女の持つ菫色と言うよりは、リラのような色で、雪のような白髪と言うよりは、研ぎ澄まされたナイフのような銀色だったけれど。


 それから、そういえば――と思い出した。


「――ジェラルドの……リラと、ジェラルドのガキか?」

「いいえ。あなたも知っているはずよ、“リラ”は死んだ」


 レグルスは無言にならざるを得なかった。その言葉を予測してはいたのだ。

 得体の知れないこの娘の言うとおりなのだ。ジェラルドの恋人であったリラは死んだ。よりによって、ジェラルド自身の手によって。


「リラが死んだのなら……あなたの予想は大間違い。でしょう? 死んだ女から子供が産まれるなんてあり得ないものね。 私はね、ジェラルドさんに拾われて育った子供なの。名前は――」

「“リラ”」


 確信を持って告げたその名に、少女はうっすらと笑う。正解なのだと察した。

 かつての恋人に似た娘を拾って育てる――“同じ名前まで与えて”。

 悪趣味な方向に走ったものだと、レグルスはかつての知人の後ろ姿を脳裏に思い描く。


 最後にジェラルドの姿を見たのは、ジェラルドが自分の手で恋人を始末したときの夜だった。

 暗くよどんだ緑の瞳をよく覚えている。

 全ての希望を失ったとでも云うような、あの絶望を閉じこめたような瞳を。


 放っておけばきっと死ぬだろうと思った。

 恋人の命を奪った愛用の銃で、きっと自分自身の頭も撃ち抜くだろうと思っていた。

 出来れば、あの世で一緒になってもらいたい、とレグルスは思っていた。現世で一緒になれないのなら――せめて、と。


 だから、レグルスはジェラルドが死にたがっているのを知っておきながら、放っておくことにしたのだ。それがジェラルドの最期の望みであるのなら、止めることではないと思ったから。生き方が選べるのなら、死に方もまた選べるものであるべきだ、と。


 最期の選択を奪うのは――友人として適当でないと思ったから。


 そうして、レグルスは月明かりの夜に、死んだ顔をした友人に何も言葉をかけずに別れたのだ。

 きっと、これが最後の別れだと思いながら。


「あいつ……生きてたのか」

「今は図書館で司書をしているわ。今までの全てを捨てた、“ユーレ・ノーネイム”として」

「そうか……そうか、よかった」


 どこか胸に残っていたしこりのようなものがほぐれていくのを感じながら、レグルスは「ところで」と話を切り出す。


「君は何が知りたいんだ? “リラ”」


 少しの沈黙をおいて、リラと名乗った少女は子供に似つかわしくないような、思慕と寂寥の混じったような――寂しげで何かに怖がるような笑みを浮かべる。


「“リラ”について……貴方が知っていらっしゃる、リラとジェラルドについてのお話を、全部聞かせて……」



 “リラ”と名乗った少女に出会ったのは、これが最初だった。

 次に出会ったとき、彼女は“ニルチェニア”と名乗ったから。


 これから少しして、レグルスは彼女とジェラルドに会いに行くことになるのだが――そのときは、彼女のことなんか知らぬふりを決め込んだ。


 この出会いは、今でもレグルスと彼女だけの秘密になっている。

 きっと、レグルスもニルチェニアも――一生、このことを彼には話さないだろう。お互いにそれを確信している。




***

 


 むせたままで床に転がったニルチェニアをそのままに、レグルスは部屋を出た。どうせここはレグルスの所有する隠れ家の一つだし、ニルチェニアがここに来たことなんて誰も知らない。

 

「“リラ”にとどめを刺したのは、俺だったのか」


 「リラとジェラルドについて知っていること全て」をレグルスが話した後、“リラ”はジェラルドに――自分を拾った養父の“ユーレ・ノーネイム”に、ある話をしたという。


 探偵になりたい、と。


 ジェラルドは――ユーレはそれに反対していたらしいのだが、ニルチェニアがリラとジェラルドの過去を調査し、ユーレがなぜ自分に“リラ”という名を与えたのかを暴いたところで、ユーレは折れたのだという。折れざるを得なかっただろうなと思う。あんな――暗殺者だなんて職業に就いていたこともあった男だが、案外、人並みの罪悪感はもっているのだ。


 拾ってきた娘本人に、かつての恋人の代わりに拾ってきたことを暴かれたら、首を縦に振るしかなかっただろう。


 娘が探偵になることを許し、“リラ”という名から“ニルチェニア”という名になることも許し。


 そうして、“リラ”はこの世からいなくなったのだ。綺麗さっぱりと。


 リラが消えた代わりに残ったのは――レグルスに声をかけたあの日、人形じみた見目をしておきながら、誰よりも雄弁に寂しさを瞳に宿した娘のニルチェニアで。


 代わりとして求められることの苦しさをレグルスは知らないし、知ろうとも思わない。だから、ニルチェニアがどれほど苦しんだかなんてどうでもいい。


 ユーレが何を彼女に求めたのかも知らない。


 “リラ”がいなくなったことでユーレが吹っ切れたのはその後の様子を見ればすぐにわかった。けれど、ニルチェニアにつきまとう何かはいっそう濃く、深く、陰を落としている。レグルスはそれが何かを知っている――が、ニルチェニアにもユーレにも話す気はない。“彼女”が望むのならば、それもまた一つの物語の結末なのだから。


「――君に幸あれ、ニルチェニア」


 きっと、祝福の言葉は呪いになるだろう。

 でも、それで良い。

 彼女を祝う気はレグルスにはないし、彼女の方もレグルスに祝われようとは思わないだろうから。


 レグルスは知っていた。

 この物語は、一人の娘の涙と、たった一つの銃声で幕を閉じると云うことを。

 

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