繋いだ手
──「帰る場所がないなら、一緒に来るか」。
ひとりぼっちで寂しくて、泣きながら歩いていた私に声をかけてくれたのは黒髪の青年だった。目の色は美しいネオンブルー。真っ黒な髪は艶々としていて、どこか夜を思わせる。行き倒れに等しかった私の手を握って、彼は優しく微笑んでくれた。まるで、父親のように。
「さあ、帰ろう」
そうして私は彼に拾われた。
私を拾ってくれた親切な人の名は、レグルスという。
***
「……懐かしいなー」
ベッドの上で背中を伸ばしながら、私はカーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めた。今日はいい天気だ。昨日はどしゃ降りで外に出るのもためらわれたというのに、今はもう透き通った青が空を染めている。雲一つない快晴は、それだけで気分がいいものだ。今日もいい日にしようと私はベッドから起き上がった。早く着替えて、それからお買い物にいかなくちゃ。確か、お砂糖と干し肉が無くなりかけていた気がする。それから、パーティーの準備も。今日はあの人がここへ来る日なのだ。
先程まで見ていた懐かしい夢を頭の中でもう一度思い浮かべる。優しい夢だった。ここへ連れてきてもらったときのことがそのまま夢になっていたのが、何だかアルバムを読み返したような気分だ。私はあのときのことを一生忘れないんだろう。それくらい、優しくて大切な私の記憶だ。
【異世界】に来て二年が経った。帰れる目処も立たぬまま、私はここで日々を安穏と過ごしている。本当だったら安穏としてなんていられないはずだけれど。でも、なんだかここは居心地がいいのだ。私と同じような境遇の人間が多数集まっているせいもあるかもしれない。
ひとりぼっちは寂しくて孤独だ。ここにいる人たちはそれを身を以て知っている。【異世界】に飛ばされた人たちはそのほとんどがたった一人でこちらに来たという話だったから。たった数日であったとしても、見知らぬ地で何もわからず一人で過ごすというのは、精神的にかなり辛いものだ。その心細さを知っているからこそ、私たちはここを大切にしている。
「イスカ、起きてる?」
「起きてる!」
部屋の外から聞きなれた女の人の声。私がなかなか起きてこないことにしびれを切らしたのかもしれない。急いで着替えて、部屋から飛び出た。
「ごめん!」
「もう。顔洗ってご飯食べましょ」
優しく笑って私をたしなめたのは、私と同じ頃にこちらにやって来たエリーゼだ。私より二歳年上の彼女は、まるで姉のように接してくれる。それがありがたく、心地いい。
「イスカには今日、お買い物に行って貰おうと思って」
「うん。私もいかなきゃって思ってたよ。ええと、お砂糖とお肉だよね。干したやつ」
「そうそう。荷物が重くなりそうだし、私もいこうか」
「大丈夫! これでも結構力持ちだから! エリーゼは他にすることあるでしょ。洗濯物もそうだし、飾り付けも! それから……ああほら、今日はレグルスさんがこっちに来るって。みんなはりきってたじゃない?」
「そうだけど……平気?」
もぐもぐと朝食のパンを食べ、あたたかいスープで一息つきながら、「大丈夫だってば」と私は返す。エリーゼは面倒見の良さそうな見た目に反することなく世話好きで、それからとても優しい人だ。──それから。
「レグルスさんにラズベリーパイ食べてもらうんだ──って、前に言ってたじゃない。私の買い物に付き合ってたら、作れないよ? 好きなんでしょ、レグルスさんのこと」
「……イスカ! やめてよ……もう!」
ゆったりと紅茶を飲んでいたエリーゼは見事にむせて、ごほごほと涙目で私をにらむ。そう、エリーゼはレグルスさんが好きなのだ。
「レグルスさん、かっこいいもんね~。命の恩人みたいなものだしさ」
「からかわないで!」
真っ赤になりながら誤魔化すように、話をそらすように紅茶を飲もうとするエリーゼのティーカップには、もう紅茶は入っていない。私はそれを見て微笑ましくなる。エリーゼがこんなに取り乱すのも珍しいし。
取り乱しつつも少し嬉しそうな顔をして「……じゃあ、お言葉に甘えるね」とはにかんだのは、嬉しくて仕方ない。
ひとりぼっちで【越境】してしまった私やエリーゼ、その他の【越境者】に、居場所を与えてくれたのはレグルスさんだった。彼もずいぶんと昔にこちらに【越境】してきたらしく、彼は新しい【越境者】を見つけるたびに、住む家や仕事を与え、保護しているのだという。だからこそ、そんな風に優しいレグルスさんにエリーゼが惹かれるのはごくごく当たり前のことで、そんなエリーゼがレグルスさんの好物であるというラズベリーパイを作りたいと思うのも当たり前のことだろう。
「一番最後に会えたの、半月前だもんね」
レグルスさんはここ以外にも数多くの施設を持っているらしく、そこには私たち以外の越境者が住んでいるのだという。いわば寮みたいなもので、レグルスさんは仕事の合間に寮を回っては、越境者たちの様子を見ているらしい。不便なことはないかどうか、生活は行き届いているかどうか。こんな奇妙な境遇にいるからこそ、各々で助け合っていきたいじゃないか、とはレグルスさんの言葉だ。
自分達以外の越境者が住んでいる寮──というのはなかなか気になるもので、私たちも時折別の【寮】に訪れることがあった。実際、エリーゼは数年前まで別の寮にいたのだという。
「ラズベリーパイかあ……。出来たら、私もちょっと食べたいな。エリーゼの美味しいし」
「もちろん! 味見はイスカにやってもらうから」
「やった!」
エリーゼの作る料理はいつだっておいしいし、それはお菓子にも同じことが言える。レグルスさんに美味しいって言って貰わなきゃ、と恋する乙女そのものの顔で微笑んだエリーゼは、世界で一番かわいい女の子に見えた。きっとエリーゼは、世界で一番おいしいラズベリーパイを焼くだろう。なにしろ、愛とは世界で一番の調味料だそうだから。
「それじゃあ、買い物いってくるね」
「いってらっしゃい!」
***
「やあ、お嬢さん」
大量の買い物袋を抱えたりぶら下げたりして歩いていた私に、気障ったらしさを微塵も感じさせることなく、その人は声をかけてくれた。この人はかっこいい台詞を口にするのが本当に自然だ。まるでそうするのが当たり前かのように、私の持っていた買い物袋を半分以上持っていってくれる。
「そっちの袋も持とうか」
「もう持ってくれてるじゃないですか」
「うん? あんまりに軽いから気づかなかったな」
冗談を口にしながら、レグルスさんはにっこりと目を細める。まるで、娘を見る父親かのような優しい顔だ。重いのにありがとうございますと私が口にすれば、「その重いものを一人で持つのはどうかな」と優しく返される。
「こっちの暮らしには慣れたか?」
「ええ。ずいぶん。……レグルスさんのおかげで、前と同じくらいには暮らせています。ひとりぼっちでもないし、楽しいと思うことが増えてきました」
「それは何よりだ。孤独は人を腐らせるし、生活になれるのが平穏への近道だ」
「全部レグルスさんのおかげですよ! 今日なんか、みんな張り切ってパーティーしようって話になってますし」
「俺は何もしていないんだがなあ。せいぜい、住める場所を見つけてきたくらいで」
その他のことはすべて君たちがしていることだろうと、レグルスさんは当たり前のような口ぶりで話す。彼にとっての当たり前が、私たちにとってはどれほど眩しくて喉から手が出るほど欲しいものだったか。きっとお人好しのレグルスさんは知らないのだろう。普通なら、普通の人間にならば、絶対に出来ないことのはずなのに。それをあっさりと他者に与えられてしまうレグルスさんは、まるで神様のようだとも私は思う。見ず知らずの他人のために、たまたま同じ世界で生まれ育った人間のために、私財をなげうってまで尽くすことの尊さを、彼は知らないのだろう。それを当たり前として、それが自分のすることだと言ってはばからない。私にとって、本当に眩しいひとだった。
「──イスカ」
「はい」
穏やかに笑って、レグルスさんは優しい声で私に語る。
「何があっても、常に大切な人の最善を想えるような人間になれたら……。そうすれば、自然と楽しく生きられるよ」
「……、そうですね。レグルスさんを見ていると、そんな気がします」
「はは。生憎と俺はそんなに良い人間じゃないからな。見習うのは別の人間にするべきだな」
気の良い兄のような笑いをこぼすレグルスさんの隣に並んで、私はゆっくりと寮への道を歩いていく。
とりとめもないことを話しながら歩く道は、いつもよりずっと気持ちがよかった。
***
「おかえりなさい、イスカ! いらっしゃい、レグルスさん!」
「ただいまー!」
パーティーの飾り付けも終わったのだろう、思い思いの場所でくつろいでいた皆が、私とレグルスさんを囲むように向かいいれた。重い重いともって帰ってきた買い物袋は、みんなの手によってあっという間に回収される。「お疲れ様」と飲み物を差し出してくれたエリーゼにお礼を言って、私と同じように水を受け取ったレグルスさんにエリーゼが微笑む。
「お久しぶりです」
「久しぶり、エリーゼ。元気にしていたか?」
「はい!」
レグルスさんと話すエリーゼは、幸せそのものの顔だ。いつもよりずっとずっと可愛い顔で、滲むはにかみには嬉しさが溢れている。本当にレグルスさんのことが好きなんだな、と再確認するとともに、少しだけレグルスさんが羨ましくなった。なんだか、大好きな姉をとられたような──妙な気分だ。とはいえ、どこかくすぐったいような幸せな気持ちでもある。きっと、ひとりぼっちの時には味わうことのない気持ちだったに違いない。
「あ……、そうだ、イスカ。ちょっとこっちきて?」
「うん?」
レグルスさんが別の人たちと話し始めた頃、ちょいちょいとエリーゼが私を手招いた。ラズベリーパイか、と私は察する。こそこそと連れてこられたキッチンで、お皿の、パイのひとかけらを差し出された。やっぱりラズベリーパイだ。
「いつもよりずっと上手にできたと思うのよ……!? でも、やっぱりちょっと不安で……!! イスカに味見してもらってからレグルスさんに食べてもらおうって……!」
ぽこんとパイの欠片を口にいれ、私はもぐもぐと咀嚼する。パイの生地はさっくりとしていて、バターも効いている。私はこれくらいさくさくしていた方が好みだし、香ばしい香りには文句など出てこない。中に納められたラズベリーのフィリングも、たしかにいつものものよりずっと美味しいと思う。甘酸っぱくて、どこかプチプチとした食感。鼻を抜ける香りが爽やかで、甘くて、どこか大人の雰囲気だ。ラズベリーパイって、ストロベリーパイよりもずっと大人な気がするんだよね。
甘さは控えめで、少しだけ酸味をきかせたその味付けは、きっとレグルスさんのためなんだろう。フィリングに接していたパイの部分が、しんなりと柔らかくなっていて、バターの濃厚さとラズベリーの爽やかさが絶妙ったらなかった。お店が出せるんじゃないだろうか?
「ど、どう……?」
「いままでで一番美味しいパイだなあ。エリーゼの愛情たっぷりって感じ」
「茶化さないでよー!」
「冗談とかじゃないよ、とっても美味しい。よく言うでしょ、料理は愛情が決め手! って。今それを実感しました」
「うう……本当? お世辞とかでもなく?」
「お店出せるなって思ったよ」
私の素直な感想に、エリーゼは踏ん切りがついたらしい。いってくる……! と真剣な顔をして、ワンホールを切り分け──一番綺麗に切れたものを、一番素敵なお皿にのせて持っていった。
……うっかりしてフォークを忘れているから、私が持っていこう。
***
「えへへ……」
「 エリーゼ、ちょっと気持ち悪い……」
私と並んでお皿を洗うエリーゼは上機嫌だ。理由はわかる。レグルスさんがパイを大絶賛したのだ。「土産にもって帰りたいからあと一台焼いてくれ」と言うレベルで。だから、エリーゼは幸せ満開で皿洗いをしているのだ。見ている私もなんだか幸せな気分になるのだけれど、頻繁に聞こえてくるエリーゼの「えへへ」は少し怖い。
ささやかなホームパーティーも賑やかに幕を閉じ、今は片付けの時間だ。主役と言ってもよいレグルスさんは、みんなに混じって後片付けの真っ最中だった。──主に、酔っぱらった大人たちの介抱というやつだけれど。それでも、まだまだ元気な酔っぱらい組は、陽気に調子外れのピアノを披露していたりする。大広間いっぱいにどこかずれた「きらきら星」、「星条旗」、「アマリリス」、「夜が明けた」──。そのうち大勢で歌いだすのだから仕方ない。でも、騒げるのはいいことだろう。暗い顔でいるよりも。
「あのね、あのね、レグルスさんが【君は良いお嫁さんになるだろうな】って! パイを美味しいって~!」
「うんうん、聞いてたよ~」
この会話も何回目だろうか。飽きてきたとはいえ、エリーゼがこんなに嬉しそうなのだから良いだろう。
「……ねえ、イスカ。私、今日告白しようと思うのよ」
「こ、告白?」
ちょっと急すぎでは、と口にするまえに、エリーゼはゆっくりと口にする。
「……あのね、私たち、いつ元の世界に帰れるかわからないじゃない? もしかしたら明日かもしれないし、十年先かも。あるいは、ずっと帰れないのかも。だから、いつどうなっても良いように伝えておきたくなっちゃった」
「エリーゼがそうしたいなら良いと思うよ。……洗い物終わったらすぐ?」
「うん……。たぶん断られちゃうと思うんだけど。でも、……でもね」
そのあとの言葉は聞こえなかったけれど、私はエリーゼに頷いた。何か予感めいたものを感じ取っていたのだと思う。
そのあとも、お皿洗いを終えるまでエリーゼの「えへへ」は続き、私はそれにこそばゆくなりながら彼女の話を聞いていた。エリーゼから見たレグルスさんの素敵なところ、レグルスさんの好きなところ。エリーゼの口から語られるそれは、どんなケーキよりも甘くて幸せなものだった。
***
お皿洗いも、酔っぱらいの介抱も無事に終え、私と他のみんなは雰囲気を感じとり──各々の部屋へと早々に戻った。レグルスとエリーゼだけが片付いた大部屋に残り、エリーゼの「お話したいことがあって」という切り出しに、レグルスさんも何か思うところがあったのだろう。優しく応じて、それから。
「うううん……気になって眠れない……」
……それから、顛末が気になりすぎた私は、眠れずにいた。
他のみんなははしゃいだのもあって疲れたのか、あるいは二人の雰囲気を壊すまいとしているのか。いつもならまだまだ聞こえるはずの騒ぐような声も、音もない。きっと後者だろう。
エリーゼの告白は成功したのか、それとも残念な結果に終わってしまったのか。夜も結構深まったことだし、何かしらの結果は出ているはずなんだけれど。
「聞きに行くのは違うしね……」
何より、残念な結果に終わっていた場合の対処法がわからない。
私はエリーゼの泣く顔なんて見たくはないし、無理して笑ったような顔も見たくない。
ベッドの中で散々悩んでから、私はこっそり部屋を抜け出した。向かうは大部屋だ。誰もいなかったら、大人しく帰ってこようと思った。気になりはするけれど、明日の朝なんとなくエリーゼに聞いてみれば良いことだから。そうでなくても、エリーゼのことだから私に話してくれるだろう。
かくして大広間に向かった私は、調子外れでない、綺麗な旋律を耳にすることになった。酔っぱらいがピアノを弾いている訳じゃないのだということはわかるんだけど、でも、誰が?
耳を済ませば、それは聞き覚えのあるあの曲だった。ベートーベンが作曲した、愛する女性に向けた──あの。
「……イスカかな?」
「……はい」
足音でも聞き分けたのだろうか。ピアノを弾いていたレグルスさんが、手を止める。当然のように音もぴったりと止まってしまった。たった二人だけの大広間に、ぽろん、と余韻が響く。物悲しいと思ってしまう。
「ピアノ、弾けるんですね」
私の口から出たのはそんな間抜けな言葉だった。他に何を口にしていいかわからない。エリーゼはどこにもいない。でも、レグルスさんはそこにいる。私だと知って声をかけたのに、レグルスさんはこちらを見ない。エリーゼは自分の部屋に戻ってしまったのだろうか。何故だろう。でも、なんとなく──彼女の告白が、エリーゼの望み通りにはならなかったことを、私は感じ取っていた。
「弾けるうちには入らないよ。学校で習ったのを思い出しただけさ」
「……レグルスさん、エリーゼは」
「俺があの子にできるのは、多分これで精一杯だ」
奇妙な言い回しだと思った。それがレグルスさんなりの優しさなのだと知っていても。
「ラズベリーパイ、美味しかったんでしょう?」
「初恋の味そのものだよ。甘酸っぱくて、……俺にはもったいない」
「どうしてですか。エリーゼはレグルスさんを……! ……レグルスさんは、エリーゼのこと──」
自分でも、彼を責めるような口調になっていたのに気がついた。だから、途中で言葉を止めてしまった。責められるべきはレグルスさんでも、エリーゼでもないのだ。告げられた想いにこたえられなかっただけ。それは、誰が悪いという問題ではないだろう。何か悪いものがあったとしたなら、それはきっとタイミングだ。
「パイが美味しかったからといって、誰かの人生を狂わせていい理由にはならないんだよ、イスカ。……君にはいつか分かるときが来る。一時の優しさが取り返しのつかない過ちを生み出すこともある。……本人がそれに気づかなくとも、だ」
「……そんな言い方をしなくたって!」
私に背を向けて座っているレグルスさんの言葉は、他人行儀にも聞こえる。カッとなった私が声を張り上げたところで、レグルスさんは静かに口にした。
「イスカ。エリーゼは君に感謝していた。それから、幸せになってほしいと。……彼女は、元の世界に戻った」
「え……」
別れは突然に訪れるものだよ、とレグルスさんは椅子から立ち上がる。カバーをかけて、優しくピアノを撫でた。夜でも鮮やかに見える青い瞳と、私の瞳がかち合った。
「俺は出来る限りの最善を選んだつもりさ。……長期的にみて。『エリーゼのために』」
──私は、それに何も返せなかった。返すべきでないと知っていた。その時のレグルスさんの顔は、どこまでもエリーゼを想った顔だったから。恋やその類いではない。けれど確実に、レグルスさんはエリーゼを愛していたに違いない。そうでなくては、あんな顔はできないだろう。レグルスさんはきっとエリーゼを愛していたのだ。想っていたのだ。
***
あれから何十年、私は【越境者】として、相変わらず普通の暮らしをしていた。エリーゼが元の世界に帰ってしまったことを、三年はひきずっただろうか。羨ましいのと寂しいのと、色々な気持ちがない交ぜになっては、波のようにさっと引いていく。そんな毎日を繰り返して、それからやっと受け入れられるようになった。
私がエリーゼを恋しく思ううちにも、たくさんの人が【越境】しては帰っていった。もちろん、私のようにずっと帰れない人もいた。人が帰るのを目撃した人いわく、元の世界に戻るときには【扉】が現れるのだという。それはどこからともなく現れて、【扉】の持ち主が開けば、その扉を通れば──すっときえてしまうものらしい。中には扉が現れても、扉を通らずに自然と消えるのを待つ人もいた。
私はそれが不思議でならなかった。どうしてあれほど帰りたがっていたあの世界に繋がる扉を、開けずにいるのかと。
ある青年と結ばれ、娘も授かり──それなりに幸せな生活を送っていたある日の昼下がり、私はその理由を知ることとなった。
よく晴れた日だった。まだ幼い娘と二人、家の庭で遊んでいたときのことだ。本当に唐突に、その扉は現れた。なんの変鉄もない、本当にただの扉なのだ。私の──『元の世界』の私の部屋のドアに、少し似ていたかもしれない。変に気取ったところも、新しすぎるわけでも古すぎるわけでもなく──その扉は、私の目の前に存在していた。
幼い娘は唐突に現れた扉に怯えることもなく、興味津々といった様子で近づいたけれど、私は娘を抱き上げて、扉から引き離した。決して、開かれないように。
私は、ただその扉が怖かった。その扉が開かれてしまえば、私はあの世界に帰れるだろうと確信していた。けれど、帰るためには置いていかなくてはならないものがあることも、また理解していた。私があの扉を開いてしまったなら、この腕の中にいる子は置いていかねばならないだろう。愛する夫も、私と共には渡れない。あの世界からこちらへと導かれたのは私だけであり、あの世界へ帰る扉を潜り抜けられるのも、また私だけなのだ。
私は無言で、家に戻った。数日は外に出られなかった。あの扉が消えるまで、窓の向こうの景色から無くなるまで、私は外にでなかった。
その時、ふとエリーゼのことを思い出した。彼女は、帰るのに未練がなかったのだろうか。あれほど好きだといっていたレグルスさんですら、彼女を繋ぎ止める鎖にはならなかったのだろうか。
***
「やあ、お嬢さん」
軽い買い物袋を抱え、腰を曲げてようやっと歩いていた私に、その人は声をかけてくれた。親切な青年だ。優しい声で紳士的に、まるでそうするのが当たり前かのように、私の持っていた買い物袋を持っていってくれる。
「袋を持とうか」
「もう持ってくれてるじゃないですか」
「うん? あんまりに軽いから気づかなかったな」
冗談を口にしながら、親切な青年は──レグルスさんは、にっこりと笑った。優しい微笑みだ。娘を見る父親かのような優しい顔は、あの頃と全く変わらない。ありがとうございます、と私が口にすれば、「大したことじゃないさ」と優しく返される。
「こっちの暮らしには慣れただろう?」
「ええ。ずいぶん。……レグルスさんのおかげで、本当に。ひとりぼっちでもないし、新しい家族も増えました」
「おや。孫ができたか? 君のところは娘だったね。そうか、娘さんも母親になったか」
「先日。孫が出来るだなんて思いもしなかったわ」
「良き母親は良き祖母になるものだよ、イスカ」
レグルスさんはあの頃と全く変わらない、若い青年のままだ。私が腰を曲げた老婆になった今も、それは変わらない。私の髪が真っ白になっても、レグルスさんの髪は黒いままだ。
「……君は帰らなかったんだな」
「あら。分かります?」
「扉を壊したあとの俺が、そんな顔をしていた」
「まあ!」
扉を壊したんですか、と驚いた私に、「若気の至りだなあ」とレグルスさんははにかんだ。あの扉は壊せるものだったのかと、そちらの方に驚いてしまう。
「選択肢があるから人は悩む。二択で悩むなら、片方の選択肢を無くせばいい」
悩みの種がなくなると、人はすっきりした顔になる──と、レグルスさんはにやりと笑った。
「──レグルスさんは、帰らなかったことに後悔はしていますか」
思わず口を出た私の問いに、レグルスさんは少しだけしんみりとした顔つきになる。
恥ずかしい話だが、私は心のどこかでずっと後悔していた。きっと心配してくれているはずの両親に会う機会を、みずからで蹴ってしまったから。子供を、娘を持っている母親になったからこそ、両親が急に消えてしまった私をどう思っているのか、どれほど心配しているであろうかと、考えがめぐるようになったのだ。私の選んだ選択肢が、正しいのだと言い切れずにいた。
「後悔していない……といえば嘘なんだろうな。俺の家族も、きっと心配してくれている……と思ったことも、数回じゃない」
「そうですか……」
「君が選んだ限り、それは間違いなく君にとっての正解さ。子供も、夫も。大切な人がいる限り、置いていけなかっただろう?」
それで良いんだよ、とレグルスさんは静かに呟いた。
「君を大切に思うものが──真っ当に日の下を歩くものが、君の拠り所となるのなら。……それは鎖ではない。君が愛し君を愛すものは、君にとっての鎖にはならないよ、イスカ」
「レグルスさん」
「これからも良い人生を歩んでいってくれ。そうだな、悪い男に人生を狂わされたり、そういうことのないようにしてくれ」
「レグルスさんてば。冗談がお好きなんだから。……もちろんです、ちゃんと素敵な人生にするわ」
「是非とも」
そうしてくれると俺が嬉しいとレグルスさんは笑って、「孫はどうだ」と聞くものだから。私は笑って、「よく寝てよく食べるかわいい子よ」と返した。レグルスさんはしみじみと「わかるなあ」と頷く。まさか、彼にも孫ができたのだろうか。
彼とならんで歩く帰り道は、どこか懐かしい気がした。エリーゼのことを思い出したり、孫の話をしてみたり。昔と今とがない交ぜになりながら、私は幸せな帰り道を歩いていく。
レグルスさんは、きっと家族としてエリーゼを愛していたのだ。だから、エリーゼの告白を断ったのだろう。エリーゼの鎖にならないように。
──けれど、私はそれをレグルスさんに確かめることはしなかった。確かめたなら、レグルスさんは私の問いにきちんと答えてくれるだろう。ただ、私はそれをしたくなかったのだ。
私たちの歩くみちには、影が二人ぶん落ちている。日の光に伸ばされて落ちたレグルスさんの手と、私の手が重なっていた。まるで手を繋いでいるようで、私は少しだけ嬉しくなった。
──「帰る場所がないなら、一緒に来るか」。
ひとりぼっちで寂しくて、泣きながら歩いていた私に、そう声をかけてくれたのは黒髪の青年だった。
目の色は鮮やかで美しいネオンブルー。真っ黒な髪は艶々としていて、私の髪が真っ白になっても黒のまま。行き倒れに等しかった私の手を握って、彼は優しく微笑んでくれた。父親のように。
「さあ、帰ろう」
そうして私は彼に拾われた。
私に幸せな人生を与えてくれた、親切な人の名は。
──レグルスという。