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思い出話

【菫の花に祝福を】より、ソルセリルとニルチェニア、ルティカルの話。

 

 ――非常識ですよあの女。


 急に落とされた一言にルティカルはしばし沈黙した。眼前には非道と名高い叔父が一人。優雅に足を組みながら紅茶を飲んでいる姿は絵になる。身につけている白衣には染み一つなく、糊が利いているのだろう。新品同様にぱりっとしていた。


 相変わらず、一部の隙もないと思う。今ここでルティカルが叔父に――ソルセリルに切りかかったとしても、ソルセリルは億劫そうに片手でルティカルをいなせてしまうに違いない。普通の人間では到底出来ないことをあっさりとやってのけるのがルティカルの叔父だった。非常識という言葉はソルセリルにもよく当てはまっている言葉であり、そんなソルセリルが他人に対して“非常識”などと言うのは少し滑稽で。


 だから、彼の言う「あの女」が誰なのかルティカルは気になった。

 まさか、妹のニルチェニアではあるまいな――と。


 ルティカルの妹のニルチェニアは、叔父のソルセリルのもとで医学を学んでいる。将来医者になれるかどうかは本人の頑張り次第、といったところだが、ソルセリルいわく「すじは悪くない」そうだ。物覚えも早く、飲み込みも良い――と、この叔父にしては珍しく人を褒めるものだから、ルティカルは妹が誇らしいと同時に少し心配になった。翌日には空から槍が降るんじゃないか、と。


「すみません、叔父上――あの女、とは」

「……ああ、すみませんね」


 ふう、とため息をついて「君たちの母親のことですよ」と極悪非道で知られる医師は遠い目をする。母上のことですか、とルティカルはどう続けたらいいのか判らずに続きを無言で促した。


「いえね、――君の妹君のニルチェニア嬢は、君たちの母君であるサーリャ・メイラーにそれはそれはよく似ています。儚そうな見た目は生き写しかと思うほどです」

「はあ……まあ……」


 血が繋がっていますからね、というのは何だか間抜けな気がしてルティカルは曖昧な返事をしてしまったが、それがかえって間抜けに見えることには気づかなかった。


 実際、妹のニルチェニアとルティカルの母であるサーリャはうり二つだ。違う点があるとするならニルチェニアは瞳が菫色で、サーリャは薄氷のような薄い青である点だろう。ニルチェニアが今にも風に散らされそうな花のごとき儚さなら、サーリャは溶けて消えてしまいそうな春先の根雪のごとき儚さだった。


 ルティカルの目から見てもふたりとも美しい部類に入ると思う。ただ、ふたりとも自分の顔にはあまり興味はないようで、顔を褒められても必要以上に嬉しがることはなかったような気がする。特にニルチェニアは“可愛い”と言われると少し困ったような、照れたような、微妙な顔をすることが多かった。それがまた可愛いと年上の女性にお人形扱いされたりするものなのだが。


「ですが、ニルチェニア嬢とサーリャは中身はこれっぽっちも似ておりませんね。少々安心すると同時に、物足りなさと真っ当な感覚を取り戻した気がしますよ」

「母上は……そうですね、ニルチェニアとは似ていないですね」

「ええ。あの女が育てたというには驚くほど普通の……いえ、令嬢らしく育った子ですね、ニルチェニアは。父君が苦労されたのですか」

「いえ。父も母もニルチェニアに関しては特に苦労することもなかったかと」


 むしろ苦労したのはニルチェニアなのではないかとルティカルは思う。両親はルティカルが産まれたときも大いに喜んだようだが、二人目は是非女の子を! とも望んでいたらしい。だからニルチェニアが産まれたときはふたりとも大喜びだった。女の子なら可愛い服も着せられるわねと母が喜んでいたのをルティカルは覚えているし、日に何度も着せ替えられるニルチェニアをみたこともある。父は父で娘が可愛くて仕方ないのか、頬擦りをするかと思えば次の瞬間には娘をぎゅうぎゅうと抱きしめていたりして、幼いながらにルティカルは父に潰されまいと妹を守るのに必死だった。


 ルティカルがまだ小さな赤ん坊だったニルチェニアに感服したのは、何をされてもとりあえずは笑っていたことだ。頬擦りの髭の感触は不快だったろうに――少なくともルティカルはあのちくちくした感触は好きではなかった――彼女は泣かなかった。

 夜泣きもあまりなく、ルティカルが構えばきゃっきゃと笑う幼子は確かに愛らしい。父親が抱きしめたくなるのもわかるなと納得し、人差し指を差し出せばそれを小さな手で握り返す妹に顔の表情をゆるめたものだ。


 両親はそんな風に仲良くなる兄妹をみるのが好きだったようだし、ルティカルも後ろをついて回る小さな妹が可愛くて仕方なかった。手を引いて歩くのも好きだったし、だっこして歩くのも好きだった。たまに髪の毛を引っ張られたりするのは少し困ったけれど、にこにこと笑いかけられてしまえば怒気も失せる。


「一般的な赤ん坊にありがちな煩わしさを、母上のお腹に忘れてきたような子供だと言われて育っていましたよ、ニルチェニアは」

「……それはそれで末恐ろしいこどもだ」

「その点、俺はよく迷惑をかけたようですし」


 ニルチェニアとは違い、ルティカルはよく泣いたし、母親の腹にいるときもよく動く子供だったという。父親が母親の腹を撫でれば内側から蹴り返していたというし、私じゃなきゃ産めなかったわよ! とサーリャは豪語していた。


「確かに。君は幼い頃よく泣いていましたね。僕がサーリャに子守を押しつけられたときも、僕があやしているのに大泣きするので手を焼きました」

「……その節は、どうも」

「いえ。子供とはどうも馬が合わないと改めて認識するのに有意義でしたから」


 目の前の叔父にあやされたことがあるのかと、ルティカルはひっそり冷や汗を流した。そんなのは初耳だし、この叔父が子供をあやしているところなど想像できない。


「まあとにかく、この話はやめにしましょう、叔父上」


 もう二十歳もとうにすぎているのだ。赤ん坊の頃の話など恥ずかしいものでしかない。

 自分の覚えていない気まずい過去を他人から語られるというのは、気恥ずかしいと言うよりはいたたまれないのだ。


「それで、母が非常識とは」

「――君もよく知っているでしょうが、あの女は本当に“何でもあり”だったでしょう?」


 ルティカルの母、サーリャは実に奔放な人間だった。

 それを思い出して、ルティカルはこっくりと頷くしかない。


 何にも縛られない性質で、父に見初められ貴族に嫁入りした後も趣味の魚釣りを続けていたし、ルティカルに餌の虫の付け方まで教えてくれた。部屋の中でじっとしているよりは外へ出て体を動かすことを好み、乗馬と弓術において右にでるものはいない。暴れ馬を乗りこなす様は勇ましく、女であるのが勿体ないような人――というのがルティカルの知るサーリャである。


 昔を思い出したのか、疲れた顔をしているソルセリルも弓術の腕前は相当なもの。しかしそのソルセリルすらサーリャとの弓比べではかなわなかったというから、その実力は推して知るべしだろう。


「あの人は飛ぶ鳥を落とすどころか、川の向こう岸の蜂も射抜くような人です。およそ人とは思えませんね。ええ、全く非常識だ」

「蜂ですか……」

「僕には蝶が精一杯、といったところですよ」


 速く飛ぶ蜂も、ひらひらと舞う蝶も、どちらにしても弓の的にするようなものではない。どちらも非常識なんじゃないかと思うが、二人とも名手という言葉では表せないほどの実力者だから、感覚が一般的じゃないのだろうとルティカルは放っておいた。


「新婚旅行の話は知っていますか? あれも相当だった」

「山に行ったと聞いたことがありますが」

「ええ、“熊を狩りに”ね。それも冬山です」


 君の家に白い毛皮のコートがありませんか、と言いながらソルセリルはベルを鳴らし、二人のいるテラスまで来た女中に紅茶のお代わりを求める。そういえばそんなものが両親の寝室にかけられていたような、とルティカルは頷いた。


「“白い毛皮のコート”はこの地方に伝わる結婚にまつわる品ですが――あれに関しては色々な意味で特注品でしてね」


 ルティカルたちのすむ国はいわば雪国であり、冬場は厳しい寒さに、山のような雪が降り積もる。そんな雪国の風習の一つに、結婚したら“白い毛皮のコート”を家におく、というものがあった。このコートは普通のコートよりずいぶんと大きく作るもので、大人でも三人くらいがコートに入ってしまえるように作るのが一般的だ。何かあってもこの寒い国で凍えたりしないように、いざというときは家族全員が一つのコートに集まれるように、という意味が込められている。つまるところ、寒い思いをしないようにと作るものだ。


 このコートが夫婦関係まで暖めてくれればいいのに、とルティカルの部下の一人がこぼしていたが、その部下とその妻の現在の関係をみるに、コートは夫婦関係を暖めてくれることはなさそうだった。残念なことに。


「あれは普通、婚姻を結んだものたちの知人が作って贈るものですが、君たちの両親はそうではありませんでした。自分たちであのコートを作りたいと申し出ましてね。結婚式を挙げた翌日から山に登り、熊と対峙したと」

「熊を狩ったんですか……」

「ええ。二人で何匹かの熊を担いで下山してきたとき、僕は目の前が真っ白になりましたよ。こんな花嫁と花婿が他におりますか。居たら連れてきていただきたいですね。――しかも周りが唖然とする中、毛皮のみを綺麗に剥いで後処理をしたのはサーリャでしたし、熊の肉を調理して振る舞ったのはランテリウスです。他の公爵家の面々は面白がっていましたがね、君たちの両親は貴族であるという意識はほとんどなかったんでしょうね……いえ、だからこそ、ここまで民に慕われているのでしょうけど」


 普通はそんなことしませんよと言ったソルセリルに、そうでしょうねとルティカルは返すほかなかった。新婚旅行で熊を狩りにいった夫婦など、きっともう現れないに違いない。

 第一、そうほいほい現れても困る。


「“ランテリウス様と初めての共同作業だったのよ、ソルセ!”なんてサーリャに呼びかけられた僕の気持ちが分かりますか、ルティカル? 僕は、熊を裁いた後の血濡れのナイフを手に、幸せそうにそう語る姉を見ることになるとは思っていませんでしたよ、一生ね。でも、そんな僕の予想を覆すのがあの女なんです。非常識でしょう」

「それは……その、恐ろしかったでしょうね……」


 血濡れのナイフを手に幸せそうにほほえむ花嫁など、世界中を探してもそうそう出会えやしないだろう。それが自分の姉であったという目の前の叔父に、ルティカルは同情ぜさるをえなかった。


「ケーキを切るくらいに留めておいてくれれば、まだ可愛いものを……」

「熊の捕獲に解体は……結婚した二人の共同作業とは思いたくないですね」

「全くですよ」


 ふん、と鼻をならしたソルセリルのもとに、温かい紅茶が運ばれてくる。ありがとうございます、とソルセリルがそちらに顔を向け、「おや」と大して驚きもしない風に言ってから、「勉強はどうしました?」と紅茶を運んできた少女――ニルチェニアに声をかけた。

 声をかけられたニルチェニアは、菫色の眼を柔らかくゆるめてにっこりと笑う。


「一段落しました、叔父様。先ほどこちらへ紅茶を運ばれていた方とすれ違ったものですから、その方のお仕事を取ってしまいました」

「悪い子ですね」


 可愛らしくほほえみながらのニルチェニアの言葉に、少しだけ愉快そうにソルセリルは応じる。

 極悪非道で悪逆無道、冷酷非道の外道医師と名高い叔父と、深窓の令嬢と言うにふさわしく和やかな性格の妹が“まともに”やっていけているのだろうかと案じていたルティカルは、妹と叔父の和やかそうなやりとりに胸をなで下ろした。

 情けない話だが、仮にソルセリルがニルチェニアをいびり倒していたとしても――それをどうにか出来る自信はルティカルにはない。むしろ、この国の端から端までをかけずり回って探したとしても、そんな人間は居なさそうだった。


「あの、お兄様も来ていらっしゃると聞いたものですから……少しだけ、お話しできないかしら、と」

「構いませんよ。ねえ、ルティカル?」

「はい。俺の方も出来たらお前と話したかったからな」

「嬉しい!」


 ぱあっと花が咲くように笑うニルチェニアは、いそいそとルティカルの隣のいすに腰掛ける。僕の隣じゃないんですかとからかうように口にしたソルセリルに、「お母様のお話をなさっていたでしょう」とニルチェニアはまたもにっこりした。


「叔父様からお話を聞くのでしたら、向かい合って聞きたいのですもの。医学の知識も、両親の話も」

「成る程。では、そこで兄と並んで聞いて貰いましょうか」


 結婚にまつわる話ならニルチェニアも知っていますね、とソルセリルは言葉を切ってから、「では、とっておきの話です」と少し口元に笑みを浮かべ――語り始める。


 出来ることなら、この二人にも、あの二人のように幸せな未来をおくってほしいと思いながら。

 

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