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学校が終わるとすぐに家に帰る。
誰よりも早く教室を出て、誰よりも早く校門を出る。
それが帰宅部リーダーの努めである。
家にカバンを置いて、道着を着て走って道場に行く。
一日のほとんどを柔道に費やしているけど、勉強は大丈夫なんだろうか。 前期の通知表は四が目立つまあまあの成績だった。 でもそれがいつまでも続く保証はどこにもない。
いつかガタンと成績が落ちて、最終的にどこにも受かる大学がないなんてことになるかもしれない。
そうなる前に柔道を辞めなければ……。
夜まで、みっちりしごかれた。 他の子が帰っていく中、私だけ個人的な稽古を受けるハメになった。
別に今日から始まったことではない。 月一ぐらいで先生がいつもの倍、やる気になる時がある。 今日がたまたまその日だっただけ。
「しっかり身体、休めとけよ」
「ウィーッス。 おつかれしゃーしたー」
満足そうな先生の声に反して、私の声は力なく間延びしていた。 年上にする挨拶ではないけど、今はこれが精一杯。
この場で寝てもいいぐらいの疲労感がある。 一歩も動きたくない。
車で送っててくれよ、先生。 仮にも女の子だぜ? 夜道を歩かせるのは危なくないかい?
「じゃあな、風邪引くなよ」
私の気持ちを察することなく、先生は道場の門を閉めた。
虫の声を癒しにして歩く。 汗が夜風に吹かれて身体が冷える。
帰ったらお風呂で暖まりたい。 でも眠い。 うぅん……、お風呂は明日の朝でもいいや。
今はとにかく寝たい。 明日のランニングはサボって、ゆっくり寝よう。 今日ぐらいはいいでしょ、明日の分まで頑張ったんだし。
そう決めると足が軽くなった気がした。 サボる口実が見つかる程度で元気になる私もどうかと思うけど、この際は目をつぶる。 自分に優しくてもいいじゃないか。
元気を取り戻して歩いていると、向かいの方から女の子が走ってくるのが判った。 前を見ずにナナメ下あたりを見て走ってて、見ているこっちが危なっかしい気持ちになってくる。
ぶつからないように横にズレた時、その女の子の後ろから男の人が走ってきた。 片手を伸ばして、前を走っている女の子を捕まえようとしている。
考えるより先に身体が動く。 疲れているとか関係なしに足が動く。
男が女の子に触れる前になんとかしたい。
ただそれだけで駆ける。 だけど間に合わない。 悔しいが、男の方が足が早い。
蹴りの射程内に入る前に男が女の子に触れた。 女の子が短い悲鳴を聞いた時、この男を殺そうと思った。
私が憧れている『女の子』に対して嫌がることをするやつは、今この場で殺す!
「そこの女、伏せろ!」
女の子が伏せる前に攻撃態勢を取り、全力で足を振りぬいた。
ボキィと骨が折れるような音を立てて、男は沈んだ。
……さすがにやりすぎたかもしれない。 殺そうとは思ったけど、死んでないよね……?
「小野……さん……」
倒れた男の様子を観察していると、か細い声で名前を呼ばれた。
「うおぅい! 太秦さん!?」
ビックリした助けた女の子が小野さんだったとは。
小野さんは立ち上がることも忘れて、その場で涙を流した。
「太秦さんなに泣いてるの!? ほら、男倒したから、もう大丈夫だから! ね?」
「う、うん。 ありが……とう......」
確か、小野さんって塾に言ってるって噂を聞いたことがあるな……。 その帰りに襲われてしまったのか……。
それは可哀想だけど——————
「でもな、そういうときは大声出さんといかんよ」
「あ……、怖くて声が出なかった……」
「そっか……。 うん、そうだね」
私は小野さんの頭に手を置いた。
本当ならもっと声を荒げて「怖くて声が出ないってなんだ」と問いただしたい。 でも、小野さんが言っているのは正しいことでもあるように思えた。
私が言っているのは理想的であって模範的なことで、それが実際に行える人が何人いるのだろうか。 知らない男に追いかけられ、もしかしたらその場で殺されてしまうかもしれない恐怖。
これを押し殺して声を上げることが、どんなに勇気がいることか。 まして、冷静さが欠けている時にできるだろうか。
今の小野さんの気持ちを思うと、私が言った言葉がどんなに相手の気持ちになれてないかが分かって、自分が嫌になる。
私は『女の子』になることはできないのだろう。 女の子なら怖がって当然な出来事でも、蹴りとばして解決してしまった。
身体は女でも中身は男。
それが、私なんだろう。
私は『女の子』に憧れた。 私にはないから『女の子』に憧れた。
自分にないものを持っている人を探し、観察することで自分にないものを想像で補い、満足する。 自分からは決して動かないし、努力もしない。
なぜなら、ないものはどう頑張っても手に入らないと事前に決めつけているから。 できないものを頑張っても意味がない。 疲れるだけ。
だから想像で満足する。
それが『憧れる』という行為。
私は『女の子』になれない。
だけど、それでいい。 もし私が『女の子』だったら、あの男から小野さんを守ってあげることができなかったかもしれない。
見てみぬフリをして、その場から逃げていたかもしれない。 そう考えると『女の子』でなくてもいいと思えてくる。
これでいいのだ。 今のままの私でいいのだ。
変わる必要はない。
私は私のままでいる。




