闇夜の少女
「あんっ……」
突然、ちょっと色っぽい声がごく至近から聞こえた。慌てて目を覚ますと、僕はベッドの上でアイリを抱きしめそのもふもふの尻尾をギュッと握りしめている。
「うわっ!」
驚いた僕は思わず本気でその場を飛びのいた。その速さといったら、傍目には瞬間移動したように見えた事だろう。
「……うっかり隣で寝てしまったのか。だが目覚めたという事は魔眼の作業は終わったんだな」
あれから『冥府の森』でクロ達魔物に襲われ、殺されかけた僕を助けてくれたのが師匠だ。師匠との厳し過ぎる修業の日々……。あちらから見れば異世界であるこの世界に半ば無理矢理生を受けた僕の身体はやはり普通ではないらしく、鍛えれば鍛えるほど際限なく強くなり続けるそれは短い期間で、世界最強といわれていたらしい師匠を以てして持て余すほどになってしまった。
まあ確かにこの『冥府の森』で一地域のボスを張るクロの一撃を片手で易々と受け止める人間なんて、バケモノ以外の何者でもない。
辛い修業の日々ではあったがこの森で師匠やミスティ、そしてあの人と過ごしたこの数年は僕にとってかけがえのない宝物だ。そんな大切な思い出もいつか語る機会があるかも知れないね。
時を僅かに遡り、前日の深夜の事。
シンリが森に来てからアイリと出逢うまで、およそ五年。その五年の間に故郷のサハラ村はすっかり荒みきり近隣の野盗や盗賊達が集まる無法地帯になってしまった。集まった悪党共は一つの大きな盗賊団を結成し、村はすっかり彼等の本拠地となっている。
盗賊団の名は『奥様のきまぐれ団』名の示す通り、抜け目ないあの女ジュリアがどんな手を使ったものかその頭領に治まっていた。
シンリが閉じ込められていた地下牢は雑な作りの壁が壊れ、あの『儀式』が行われた地下室と再び繋がっていた。そこを這うようにして移動する何者かの姿がある……。
『クンクン。ああ、ここからもお兄様の香りがいたしますわ!』
その者は煉瓦を一つ拾い上げそれに顔を近づけた。
『あら、ここにお兄様が寄り掛かっていらっしゃったのかしら?他よりも香りが強いですわ!クンクンクン』
煉瓦の香りをしばらく堪能した後、それは辺りを見回して首を傾げる。
『でも、おかしいですわね。お兄様は?お兄様はどちらにいらっしゃるのかしら?こんな瓦礫ごときで光り輝くお兄様の御姿は隠せるものでもありませんでしょうに……』
まるで縫いぐるみでも抱くように大切そうに煉瓦を胸に抱えながら、突然それは身悶えを始めた。
『はっ、まさかこれはかくれんぼ!お兄様ったらワタクシとイチャラブしたくてワザと隠れていらっしゃるのね。見つけたらきっとご褒美にあんな事やこんな事……あはぁぁーん、素敵!』
そんな何者かが妄想に身悶えている地下牢の入口に近づいてくる二人の男の姿が見える。
「なあ、見回りなんて真面目にしたって俺達の根城に攻め込んで来る奴なんざいるわけがねえ。とっとと戻ろうぜ」
「わかってるよ!だが頭領が留守の今、もし何かあったら俺達も『冥府の森』送りになっちまうぞ!」
「……あれって本当なのか?実の息子を馬に縛って『冥府の森』に放り込んだって話」
「俺達が入る前の話だからな。でも……本当らしいぜ」
「まじかよっ!やっぱ頭領はおっかねえ……ッ!」
男の言葉は突然襲いかかった凄まじい威圧感と寒気によって遮られる。かつて経験した事のない死の気配。それを振りまく何者かが自分達のすぐ後ろにいる……。
『そのお話、詳しく聞かせてはいただけません?』
聞こえたのは確かに女の声だ。それもまだ若い少女の声……。この屈強で粗暴な盗賊の溜まり場にそんな少女がいるわけがない。二人の脳裏には少女の声を真似る異形の怪物の姿が浮かんでいる。
『こちらをお向きなさい。人とお話する時は目を見て話すものよ』
上品な話し方とは裏腹に、その言葉には何者も逆らえない脅迫めいた強い意思が感じられる。これほどの気配、いったいどんな怪物が立ちはだかるのか。彼らは覚悟を決め、それぞれの武器を咄嗟に構えて振り向いた……。
「い、いない!」
「う、嘘だろ……」
意を決して振り向いた彼等の視線の先には思い描いた異形の怪物の姿などありはしない。ただ、闇に包まれたその荒れた中庭が広がっているのみだ……。
「まさか……姿のない怪物なん……」
ブチッ!
その不思議な音は彼等のかなり下の方から聞こえた。だが言葉を発していた男が音に気付き、同時に腰の辺りに強烈な寒気を感じると、その者の姿は男の目線より上にあった。
そこにいたのは美しい少女。それを見上げているのは腰の辺りで身体を切断され上半身だけになった先ほどの男。少女の姿を目に焼き付けた瞬間、腰の辺りから大量の血が噴き出し男は絶命した。
その男に向かって少女の服から紫色に妖しく光る手が伸びると、それは何かを掴んで服の中に戻っていく。
その一部始終を隣で見ていたもう一人の男は腰を抜かしてペタリと座り込みガタガタとただ震えている事しか出来ずにいる。そんな彼に少女が向き直り話しかけた。
『さて、貴方は話して下さいますわよね?』
「……お、俺は知らない。そんな噂があるだけで詳しい話は知らないんだ……」
震える口でなんとかそう答えたその男の首は次の瞬間には身体から落ち、ぬかるんだ地面の泥に口づけをしていた。
『お兄様のお噂を耳にして、その詳細を知ろうとしないなんて……。生きている価値もありませんわね』
少女は、かつて村長であった男ご自慢のとても不格好な城もどきを見上げていた。中からはそこに巣食う盗賊達の下品な笑い声が響いている。
『うふふ。代わりの方はまだまだ沢山いらっしゃるみたいですわね。待っていて下さいませ……お兄様!』
そう言って少女の姿は建物の中に消えていく。そしてこの日を最後に、この村には誰もいなくなった……。