花の指輪
その日の夜、ちょっと夜風に当たりたくなった俺は寝床を抜け出しエバンス宅の屋根の上にいた。
「この夜空は冥府の森と同じものだ。あの人もこの星空を見上げているだろうか……」
エバンスの家で過ごしていると嫌というほど『家族』というものを見せつけられる。
俺にとってのそれは、かつて乳母だった女性と師匠。そしてあの人が親代わりだった。別に今すぐ帰りたいと思ったわけではない。ただ、乳母だった女性の村は盗賊に滅ぼされたようだし、師匠はもういない。だからと言ってあの人がそう簡単に死ぬわけがないのは、俺が一番よくわかっているんだけど……。
あの森には隅々まであの人の気が漂っている。だから、いつもそれを感じる事が出来た。完全に森から離れてしまったこの場所ではそれを全く感じない。まあ、当然だけど……。
「俺は寂しいのか……。まあ、そんな風に思える人が今の俺にはいる。それはとても素晴らしい事だよな」
{んふふ、素直に言ってごらんなさい。ホームシックなんですぅって}
「そんなんじゃないって」
{まあいいわ。彼女なら大丈夫よ。今日もちょっと悪戯して遊んでいたみたいだしね。ふふふ}
「悪戯って……ん、誰か上ってくる?」
ミスティと話していると誰かが家の中から出てきてここに上ってくるのに気がついた。
「いた、シンリお兄ちゃんだ!」
「マリエ、まだ起きてたのかい?」
小さな身体を目一杯使い、器用に屋根の上に上ってきたのはエバンスの一人娘マリエである。今日で二度も窮地を救った俺のことがたいそう気に入った様子で、食事中に俺の膝の上で疲れて眠ってしまうまで、ずっと俺から離れようとはしなかった。
「あのね、お兄ちゃんにあげたい物があったの」
そう言って彼女は一輪の花で編んだ小さな指輪を差し出した。
「本当はね。お兄ちゃんはマリエの王子様だから、お花いっぱい集めて王冠にしたかったの。でも南門からはしばらく出ちゃいけないって言われて……」
確かに、あれだけ凄惨な現場だ。遺体を片付けたからと言っても、子供にうろつかせたりはしたくないのだろう。
「ごめんね。これだけポッケに入ってて無事だったの。でもこんなに潰れちゃってて……」
「大丈夫。マリエの気持ちがいっぱいこもってるって、俺にはちゃんと伝わるよ」
「本当?」
「ああ、本当だとも。マリエがつけてくれるかい?」
そう言って両手を差し出すと、彼女は迷うことなく俺の左手を取って、その薬指にそれをはめた。
ピンク色の花びらが幾重にも重なった可憐な花は、すっかり押しつぶされているけれど、いつまでも俺の手を握り続けている彼女の熱がそこに込められた想いを雄弁に物語っている。
「やっぱり、ちゃんと開いているところをお兄ちゃんに見せたかったな……」
今にも切れそうな茎と歪に潰れた花を見ながら、彼女がやや涙声でそう呟いた時だった……。
「これは……!」
「ふわぁぁ!」
彼女の両手からは光属性特有の白い光が淡く輝いていて、その光に包まれた花の指輪は、リング状に編んだ茎はみるみる元気になり、花は本来の形になって美しく咲いた。
{へえ、二度の命の危機に遭って彼女の中の潜在魔力が引き出されたのね}
(そんな事ってあるのか?)
{まあ、珍しい事でもないのよ。でもこの子、かなりの魔力を秘めているわ。それに白魔法と本当に相性がいいみたい}
(白魔法?ああ、俺達が言うところの光魔法の事か)
{でも、知識なく使い過ぎるのは危険ね。ある程度はシンリが教えてあげなさい}
(光魔法は苦手なんだよ。なんだか身体が受け付けなくてな……)
{まあ、そんな事言ってる場合でもないでしょ。あの女がシンリに教えていた事をそのまま教えればいいのよ}
(師匠のか……わかった。やってみるよ)
俺が光っている彼女の手に空いていた右手をそっと重ねると、白い光はすうっと消える。
「落ち着いたかい?」
「うん。でも何だったの?マリエの手どうしちゃったの?」
「それはね…………」
俺はそれからじっくりと、マリエに今魔法の才能と魔力が文字通り開花した事。今後の訓練の仕方と使う際の注意事項。そして幾つかの回復魔法の使い方を教えた。
「ただし、マリエがこれまで通りの平穏な日々を送りたいと願うなら、もう二度と使わない事だ。強い力は、時として自らも傷付ける事があるからね」
「あのね……。さっきの練習いっぱいしてね、マリエが習った魔法も全部使えるようになったら……シンリお兄ちゃんのお手伝いが出来ないかな?」
「そうだな。今の俺達のパーティには回復職はいない。それに光魔法の使い手はとても貴重なんだ。何人いたって多過ぎるって事はないから有難いかな」
「そっか……。うん、マリエ決めたよ!」
そう言って彼女は立ち上がって俺の眼の前に立つと、その小さな両手で俺の頬に触れ、そして……。
……俺の唇にちょんと可愛らしいキスをした。
「マリエ頑張る!いっぱいいーっぱい頑張って、マリエはシンリお兄ちゃんのお嫁さんになるの!」
真っ赤な顔とあの花のように可愛らしい笑顔でそう宣言した彼女は、そのまま俺にしっかりと抱きついた。
当たりすぎた夜風が少し肌寒かったけど、彼女がもたらす温かさが俺にはとても心地良かった……。
翌朝、寝不足と初めての魔法発動の反動で起きないマリエをそのままに、俺達はエバンス夫妻に礼を言ってゼフとの待ち合わせ場所に向かった。
「やあ、おはようございますシンリさん」
「おはようございます」
忙しそうに準備をしていたゼフと挨拶を交わし、簡単な荷運びなんかを手伝った。幾つか荷物が増えていたのは、襲ってきた盗賊の遺体から取った武器や防具類だ。これらは磨き直して売ったり、金属としても売買される為、遺体の片付作業に参加した村の人々にとっては、ちょっとした臨時収入になるのだ。
「おう!間に合ったみてえだな」
「ハンスさん、おはようございます」
準備が粗方終わったところにハンスが見送りにやって来た。
「ちっ、お兄ちゃんとは呼んでくれねえのか。この照れ屋さんめ!まあいい、俺はお前達の名前、しっかりこの胸に刻ましてもらうさ」
俺達がなりたての新人である事などすっかり忘れて、やや暑苦しい尊敬の眼差しを向けてくるハンス。まあ、盗賊達には俺達より遥かに強いって吹き込んであるんだ、頑張れよハンス。
護衛の冒険者達はよほどアイリが怖かったのか、俺達に近寄ろうとしない。あまり刺激するのも何なので俺達は大人しく最後尾の馬車の荷台に乗り込んだ。
ゆっくりと動き出す馬車。
「素通りするつもりが、何か色々あったな」
「ええ、見事なまでの『最初の村』でしたわ。うふふ」
「カトリーヌさんのお料理、美味しかったですね」
そんな会話をしながらも俺は昨夜の事を思い出していた。あの小さな花の指輪は今は俺の魔眼の中だ。この中は完全に時間が止まるので、いつまでもあのままの状態で残しておける。
「お兄ちゃぁーん!」
村の門から百メートルほど離れた頃、門の辺りから声が聞こえ、そこからマリエが走り出して来るのが見えた。
荷を積んだ状態で普通に走っているとはいえ、走り出した馬車に子供の足で追いつけるはずはない。
俺達三人も荷台に立って手を振るが、馬車と彼女との距離は徐々に広がりつつあった。
走りながら、少女はその想いの全てを込めてあらん限りの声を振り絞る。
「シンリお兄ちゃん大好きぃー!私頑張る!頑張るからぁ!いってらっしゃいお兄ちゃーん!」
声を出し切ると、限界を迎えた少女の足はそこで止まった。だが彼女は、その姿が見えなくなるまで……いや、シンリ達が見えなくなっても、いつまでも一生懸命手を振り続けていた。