少女の呼ぶ声
……ッ
……リッ!
何だ……声?
……けて、シンリッ!
誰かが呼んでる……?
……たすけて、シンリッ!おねがい!
日付は変わっているものの日の出まではまだかなり時間のある深夜、俺は誰かの声で目を覚ました。目の前にはいつもと変わらぬ仲間達が寝息を立てている。
……おねがい!シンリ!シンリィ!
まただ。その声は、どうやら俺の中に直接響いているものらしく共に寝ている仲間達には一切聞こえていないようだ。彼女達を起こさぬようにそっとベッドを離れ急いで装備を整えると俺は一人で廊下に出た。着替えている時に胸の首飾りに付いた勾玉が緑の光を発しているのが見えたので、恐らくはこれが原因だろう。俺はまず可能性があるスクナピコナに呼びかけた。
だが、彼女の身には何も起こっておらず、また神域で俺に助けを求める者もいないらしい。
「恐らくは我等から『勾玉』を与えられし何者かがオオナムチ様に助けを求めておるのでしょう。オオナムチ様が念じれば彼の者の場所への転移が叶うものと思われます」
頭に響く声が、その者に迫る危機がいよいよ目前に迫った事を報せている。事態は一刻の猶予もない。俺は首飾りに意識を集中させると、そのまま一気に転移した。
沢山の足音と喧騒、それに金属がぶつかる甲高い音、叫び、衝撃、振動……。
普段静かなこの場所にはとても不釣り合いなそんな雑音で彼女は無理矢理起こされた。
彼女の名は『アルテイシア・ヴァシレシウス・ナベシマ十三世』。暫定、それも公式には事情により一切公表されてはいないが、このサーガ帝国の現皇帝である。
内政を宰相のボルティモアに任せ、公式行事では黒光影団頭領のミツクニが皇帝役を演じているので、彼女がこの謁見の間のさらに再奥、皇帝とその家族のみが暮らす場所である通称『千年宮』から外に出る事は一切ない。ある手違いと偶然が重なった、あの数日間以外は……。
これだけ騒がしいのに侍女達が何の連絡もして来ない事に不安を感じ、彼女はとにかく状況を確かめようと『千年宮』を出て、長い廊下の先にある謁見の間に歩いて行った。恐る恐る御座所から簾越しに彼女が見た光景はあまりにも凄惨なものだった。
簾を背にしているのは見慣れた制服に身を包んだ彼女の世話係兼護衛役の侍女達。六人いたはずの彼女達だが今見えているのは三人のみ。侍女長のグラナダと双子のアリシアとフェリシアだけだ。いずれも手に武器を持ち、誰のものかは不明だが身体はどこも血だらけになっている。
そんな彼女達の視線の先には、謁見の間を埋め尽くした沢山の襲撃者達。皆、彼女が大嫌いな緑の装備を身に纏った者達で、その数は三十人あまり。しかし謁見の間の開かれた扉の向こうにはまだまだその仲間がいるのが見える。
『死』、この言葉が彼女の心に湧き出ては消える。彼女には精神崩壊に繋がりかねない状態に陥った時に、その精神を沈静化させる魔道具『ひと時の楽園』が持たされており、例えば『死』を強烈に意識すればするほど、その言葉が脳裏から消えていくのだ。病に倒れた両親を心配するあまり、その存在を忘れてしまったように……。
だが、いくら忘れようとも目の前に迫る絶対絶命の危機は消えはしない。『死』という言葉が消えようと違う言葉で最悪の未来が浮かぶだけである。
そんな彼女はいつの間にか、首から下げた皇帝の証である勾玉状の黒い石を両手で握りしめていた。曽祖父の代までは僅かに緑がかった光を灯したと伝え聞くその石だが、曽祖父の戴冠の際に僅かに光ったのを最後にただの石のようになってしまっている。
しかし、彼女はその石がキラキラと輝くのを見た事があった。持っていたのは彼女を助けてくれた冒険者の男性。彼の持つそれは透き通る美しい深緑でキラキラととても綺麗に輝いていた。
侍女達は賊を食い止めようと懸命に戦ってくれている。彼女達は確かに強い。相手との実力差は素人の彼女から見ても明らかだ。しかし多勢に無勢、終わらない攻撃は確実に彼女達の体力を奪っていく。そんな中、賊の一人が放った矢がグラナダの肩に命中、貫通したそれは彼女の身を隠していた簾の一部をも引き裂いた。
「アルテイシア様、なぜこんな場所にっ!」
「見つけたぞー!殺せぇっ!」
侍女達と賊が同時に彼女を視界に捉えると、侍女達には隙が生まれ、その隙をついて賊共は一気に活気付き津波のように彼女目がけて殺到する。それでも懸命に護ろうと戦うグラナダ達だが、既に満身創痍。突破されるのは時間の問題だ。
失意が湧く度にそれすらもかき消される彼女は、いつの間にか名を……あの日、突然現れ颯爽と彼女を暴漢から助けてくれたあの優しい冒険者の名を、彼女は必死で繰り返し呼び続けていた。
脇腹を刺されたアリシアが膝をつき、それを庇おうとしたフェリシアも背中に傷を負う。片腕の使えないグラナダが必死でフェリシアを斬りつけた者を突き飛ばす……。
だがもう無理だ。持ち堪えられはしない。そう諦めかけた時……奇跡は起きた。
「……君だったのかパプリカ」
込められた神気は既に尽き、巫女王もその供給を止めていた彼女が持つ勾玉は、本当にただの石ころ同然だった。そんな石が起こしたほんの数十秒の奇跡。その数十秒に込められた強い想いが一人の男を呼び寄せたのだ。その姿を見た彼女の目からは魔道具ですら止める事の出来ない大粒の涙が、まるで抑え込まれた感情の堰が決壊して溢れ出したかのように流れ出す。
漆黒のコートを纏い、眼帯と黒いロングブーツ。腰には刀と呼ばれる反りのある長い細剣を差したその姿は、間違いなくあの日彼女を救ってくれた正義の味方。そして彼女の生涯で初めての恋……。
「待ってて、すぐ終わらせるから」
ああ、この人はなんて優しく笑うのだろう。彼女の心は今、彼という存在に満たされ全ての不安は風に飛ばされたように消え失せた。頭に触れた温かくて大きな手が彼女の頭を撫で、そして離れる。
謁見の間に詰めかけた者達の誰もが、目の前で起こった事態を理解出来ずに固まっていた。背中を向けていたグラナダ達は、突如止まった攻撃に未だ状況がわからずにいる。
そんな彼女達の後ろから、黒衣の男が破れた簾を持ち上げて姿を見せた。
「誰だ、彼女を泣かせた奴はっ!」
男がそう声を荒げるだけで、詰めかけた賊の半数以上がバタバタとその場で倒れてしまう。
驚愕で動きが完全に止まった賊であったが、外から多くの同胞が駆けつけると再び武器を構えて全員で男を牽制した。しかし彼はそんな事など気にもせず賊共にあっさり背中を見せるとグラナダ達に歩み寄る。
「これを早く飲め。そして彼女を連れて奥へ」
そう言いながら男が深緑色の丸薬をグラナダに数錠渡し奥へと促して背中を軽く押すと、最早頼るしか道のない彼女達は黙ってそれに従いよろよろと歩いて行った。




