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プロローグ

 一人の少女が森の中を必死で走っている。


 青みがかった灰色の髪にピンと立った犬のような耳、同じ毛並みのふさふさの尻尾が彼女が亜人の一種である獣人種である事を物語っていた。

 奴隷として街に売られて行く途中に乗っていた馬車が岩にぶつかって壊れ、無我夢中で逃げ出して来た彼女はここがどこであるかなどもちろん知らない。だからこそ全力で奥へ奥へと走って行くのだ。


 この『冥府の森』の奥深くに向かって……。


  『冥府の森』、ここはサーガ帝国とホーリーヒル王国という二大国の境に広がる広大な森林。

 凶悪な魔物が跳梁跋扈する事で知られ狩人や冒険者でさえまったく踏み込まない、まさに魔境。


 彼女とてここが『冥府の森』だと知れば、この森から出られるのならば自ら奴隷に戻してほしいと懇願するに違いない。そんな場所にそもそも奴隷商の追手など入って来るはずがないのだが、そうとは知らない彼女は振り返る事もなくただ必死に走り続けた。

 そんな彼女の周囲の樹上や岩陰には何かの蠢く気配がたくさんあり、それらはまるで何かの時を待っているかのようにただじっと気配を絶って身を潜めている……。






 彼女が奴隷商から脱走して四日目。

 幼い彼女の肉体はそろそろ限界を迎えつつあった。


 ここでは不思議な事に、山歩きに慣れているはずの彼女がいくら探しても木の実一つ見つからず、これだけ豊かな森なのにねずみ一匹姿が見えない。今日までで口にできたのは木のうろにたまっていた僅かな水のみだ。

 すっかり痩せ細ってしまった彼女は、近くの岩にもたれかかるようにして座りそのまま眠ってしまった……。






 突然、身体にびりびりと襲いくる強大な威圧感と通常では考えられないほど巨大な存在感を近くに感じて本能的に目覚めた彼女は恐る恐るその瞼を開く……。


「…………ッ!」


 虚ろな彼女の瞳に映ったのは開かれた大きな口とそこに並ぶ巨大な牙。今まさに彼女に喰いかかろうとしていたそれは、彼女が目を開いて声にならぬ叫びを上げた事に気付くとピタリと止まり、ゆっくりと閉じていった。


グルルルゥゥゥッ……。


 彼女の目線のかなり上で恨めしそうな唸り声を上げているのは黒銀の巨獣。見た目は狼だが額には長い一本の角が生えており、巨大な体躯は十メートルを超える。その巨獣の透き通った水晶のようなブルーの瞳に睨まれると瞬間彼女は自らの死を確信した。仮に身体が万全であったとて逃げる事を考えもしないだろう。目の前の存在はそれほどに桁が違い過ぎた。

 巨獣の前足がゆっくりと持ち上がりそれが彼女目掛けて振り下ろされる。鋭い爪に引き裂かれるかに見えた彼女の前に、突然何処から黒い影が現れその巨獣の攻撃を受け止めた。


「クロ止めるんだ。ルール違反だよ」


 巨獣の前足を片手(・・)で受け止めているのは驚くべき事に一人の少年であった。フードをすっぽり被っているのではっきりと顔は見えないが、漆黒のコートを着込み、大人用の黒い革のロングブーツをひざ下で折り返して履いている。その腰には見事な装飾の施された白銀の細剣が光を反射してキラキラと輝いていた。


クウゥゥゥーン。


 少年に諭された巨獣はおずおずと前足を戻すと、まるで謝罪の意思を示すかのように鳴きながらその巨体をその場に伏せる。歩み寄ってその額をわしゃわしゃと乱暴に撫でている少年は、相手がこれほどの存在であるにもかかわらず、まるでペットのイヌとただじゃれ合っているだけのようだ。

 しばし巨獣と戯れた少年が共にその場を立ち去ろうとするとコートの裾に僅かな重みを感じ取った。振り返って見ると足下にはうつ伏せになった少女が腕を伸ばし弱弱しく裾を掴んでいる。立ち上げる力はもう残っていないのだろう。それでも彼女は懸命に這って近づき彼のコートを掴んだのだ。


「か、かみさま……」

「……止めてくれ。僕は神様なんかじゃない」


 死を覚悟した瞬間に自分を救ってくれた少年の姿は少女の瞳には神の如く眩く映っている。それに気恥ずかしさを覚えた少年は即座に否定し再び背を向けた。だが、そんな少年の足に彼女は今度は両手でしがみ付いた。

 あの巨獣の一撃を易々と受け止める事が出来る彼がそれを振りほどけぬ道理がない。なにより彼女の両手にはすでに抱き留められるだけの力が残ってはいなかった。


「……生きたいのかい?」


 少年の問いに少女がコクリと頷く。そして残った力を振り絞るようにして言葉を続けた。


「お、お願いです。何でもいたしますから。どうか……どうか連れて行って……ください……ごしゅじ……んさ……ま…………」


 もしこの先再び奴隷として扱われるとしても、とにかく自分は生きていたい。彼女の言葉にはそんな覚悟と意思が込められている。それを少年に伝えきったところで少女の意識は再び、深い闇の中へと沈んでいった。


 少年は気を失った少女の身体を優しく抱き上げる。


「ご主人様なんてガラじゃない。だが、生きたいと望むのなら……」


 少女を抱いた少年にクロと呼ばれた巨獣がその顔をすりつける。


「わかってるよクロ。彼女がここがどこかを知って、それでも生きたいと望むのなら……だ」


 そう言って少年は走り出した。未開の森を、それも人ひとり抱えているとは思えないほどの早さで彼の姿は森の中に消える。その後を追ってクロと呼ばれた巨獣もまたその場を立ち去っていった。






 ……暗闇の中で少女のその小さな身体は二匹の大蛇に巻き付かれ、その身を締め付けられていた。

 目を凝らして見れば彼女の周りには複数の顔が闇の中に浮かんでいる。それらは彼女の家族、友人、そして近所に住んでいた者達。だがその顔は作り物のように表情が無く、必死で助けを求める彼女の声に応える者は誰もいない。

 やがて全身を襲う痛みに耐え切れず少女が意識を失うと蛇達はつまらなさそうに彼女の身体を投げ捨てた。

 いつもここで地面に激突した衝撃によって意識を取り戻し再び大蛇による責め苦が再開されるところなのだが、少女の身体が地面にぶつかる事はなく誰かの温かな二本の手によって優しく受け止められた……。






「……こ、ここは?」


 意識を取り戻した少女が目にしたのは洞窟のような岩肌の天井。不思議な光が宙に浮き辺りを照らすその空間で彼女は木で作られたベッドの上に毛皮の毛布を掛けられ寝かされていた。

 驚くべき事に体調は奴隷となる前よりも明らかに良くなっていて、森を駆けていた時に付いた擦り傷や痛みで腫れ上がっていた足も完全に治り、身体には傷跡一つ見当たらない。


「これは……夢?」


 そう呟いて寝返りを打った彼女の視線の先にあったのは竈の前に立ち調理をする少年の背中。上半身裸で立つ彼の背中はまるで野生動物のそれを連想させるほど無駄がなくしなやかで鍛え抜かれている。


「気がついた?」


 彼女の視線に気づいて少年が振り返る。その顔を見た少女はやはりこれは夢なのではないかと感じてしまった。

 洞窟の闇にとけ込みそうな艶やかな漆黒の髪。今までこんな髪の色をした者は見た事がない。幼さがやや残る整った顔は左半分を不思議な模様のある黒い布で隠しており、髪同様に黒い宝石のような美しい瞳を持つ右目が彼女の事を優しげに見つめている。

 見慣れぬ外見だからというだけではない、どこか神秘的でさえある彼のその姿はじっと見ていると心も身体も全てをその漆黒の瞳の中に吸い込まれてしまいそうで……。


「えっと……大丈夫?」

「あ!ああ、ごめんなさい私……」


 見惚れてしまっていたのを彼に気付かれたと思った彼女は顔を真っ赤にして俯いた。下を向いた彼女の前にもうもうと湯気を立てる食べ物が入った器が差し出される。


「食べて。ただしお腹が驚いてしまうからゆっくりゆっくり食べるんだ」


 受け取った器から伝わる温かさと、先ほどからこの空間いっぱいに広がっている鼻腔をくすぐるいい香りによって、数日もの間何も食べていない彼女の食欲が否応なく刺激されたが、少年の言葉を思い出した彼女は少し冷ましてからゆっくりとそれを口に運んだ。

 穀物を煮たものに僅かな山菜と根菜を加えただけの、とても質素な料理であったが今の彼女にはそれはこれまで食べたどんな料理よりも美味しく感じられたに違いない。安堵と感激から零れ落ちる涙を拭おうともせずに彼女はひたすら食べ続け、五杯目を完食したところで再び眠りに落ちてしまった。






 ……暗闇の中、少女の視界がふいに明るくなりあの時(・・・)の記憶が映し出される。

 それは慣れ親しんだ森の中に山菜採りに行った時の事。茂みに身を潜めた彼女の視界の先には怪しげな黒衣の一団が何かの儀式めいた事を行っている。彼等の中心にある随分と古い小さな祠はこれまで何度もこの辺りに通っている彼女でさえまったく見た事がないものだ。


『誰だっ!』


 よく見ようと身を乗り出した彼女はうっかり小枝を踏んで折り音を立てて彼等に気付かれてしまった。背を向けて一目散に逃げだす彼女の背後で不思議な声が聞こえると背中が急に熱くなり体が重く思うように走れなくなってしまう。しかし、この森を熟知していた彼女はなんとか追手を振り切って村へと戻った。

 だが、自宅に帰った彼女を出迎えたのは再び表情のない顔だけの家族達。

 それを見て後ずさりした彼女の手をあの奴隷商の男がいきなり掴み、引きずるようにして馬車へと連れて行こうとする。 彼女はその手から逃れようと必死に足掻いて家族に手を伸ばすのだが……。






「……いやぁぁっ!」


 自らのその声に驚いて目を覚ました彼女が見上げているのは再び岩肌の天井。

 今見ていた光景が夢であったと理解したのと同時に、叫び声を彼に聞かれたのではないかという恥ずかしさがこみ上げ、彼女は赤くなった顔を毛布で半分隠しながら少年の方を向いた。


「…………ひっ!」


 彼は両手を頭の後ろで組み寝そべって眠っているようだった。だが、問題はそこではない。なんと彼の背後には先ほど森の中で彼女を食べようとしたあの巨獣が伏せた姿勢でこちらを見ている。事もあろうに少年はその巨獣をベッド代わりにしてその長く柔らかそうな毛に包まれて眠っているのだ。

 いち早く彼女の視線に気付いた巨獣から発せられるあまりに強大な威圧感で、声を上げるどころか呼吸をする事もままならない……。


「クロ!せっかく助けたのに殺す気か?」


 眠っているとばかり思った少年に窘められ巨獣が気まずそうに顔を伏せると、途端に威圧感が消え呼吸が普通に出来るようになった。


「……あの、大丈夫なんですか?」

「ああ、クロは利口で大人しいから心配いらない。まあペットみたいなものと思ってくれればいいから」


「ペットって……(いやいや無理でしょう。今もちらちら見られてるんですけど?きっと私狙われてるんですけど?……)」


 そんな不安いっぱいの少女とは対照的に、その巨獣の上で上半身を起こしあくびと共に伸びをするくつろいだ少年の姿。

 だが、次に彼が発した言葉によって彼女は今以上の衝撃を受ける事になる……。


「君は今『冥府の森』にいるんだが、気付いてる?」






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