姉の養女 養母の弟(1)
祝福の光の中で差し伸べられたその手は、二度目のものであった。
明度が強く白金の色彩様に見える腰間にまで流された髪、青玉が凍雲を映し込んだかの如き灰色を宿らせている眸子、均整の取れた上背のある身体、溢れるばかりのそれ等の美色を冷静沈着さで押さえているような雰囲気の大人の男性。
その人は、破壊されて幾つか開いていた穴から覗けていた青空を背負いやって来た。
目の前に屈むと、優柔に双眸を細め温かく頬笑み、そうして緩やかに口唇を開いた。
「セシリア、私達の家族の一人となってはくれませんか?」
数日後、そのとても大きな手に引かれて教会堂の外に出た時、私は孤児院を訪問していたその人のお姉さん夫婦の養女となった。
そうして―
私は彼の許に居るのである――。
「うわっやべぇな、本当これ墜落するわ……」
「嗚呼、死にたく無い……神様~ぁ――!!」
「えーっと……、何で落下傘が積まれていないんだろうね?」
「「おや?……代りにこんなものが―」
『は?
(……隊員分の蝙蝠傘――)』
「おいおい……それはかなり不味いんじゃないかい?」
「かなりじゃなくて激不味でしょうよ、それ」
「何だそりゃあ――!!」
「あれ、如何して平然とされているんですか?はい、これ大佐の分です」
「は、何で?そんなの大丈夫だからに決まってるだろうがよ」
「はい?何が大丈夫だからに決まってるんですか!指揮官の癖して腕なんか組んじゃって……この情況で何微笑んで……は!さてはお兄さん!一人だけ落下傘隠し持ってるぅ――?!!もう信じらんない、この外道~!!!」
『え――っ!!!それ本当なんですか、ルフォー大佐?!!
うわ―――――ぁっ!!!』
輸送機の外も内も大荒れの中、我一人その狂騒に関与せず、男は甘美な様に微笑するとその双眸を閉じた。
そうして緩々とそれを開く。
ほら――
寝台で未だ眠た気な瞼を開くと、そこには蜂蜜色の真直ぐな髪を耳朶に掛け、肩に撓わせ、背に垂下させている綺麗な女性。今年十八の成人となったばかりの、少女の風貌の今もなお抜けない、春の青空の様に優柔な瞳子を持った娘が、腰を少し屈めてこちらに笑んでいる。
「お目覚めになられましたか?おはようございます。オーリックお兄さま」
春の陽光の如きの暖かな声を受けて、朝から爽やかな笑顔を浮かべているその頭をふわりと撫でて労う。
「ありがとう、セシリア。おはよう」
「それでは、朝食の用意をいたしますね」
シャンプーの香気を残して寝室を出て行く彼女を見送ると、優しく揺すられていた肩を抱いて、暫しその余情に浸る。それから朝食の香に引かれる様に寝台を抜け出て身仕度を済ませ、その姿を自然に視界に収める位置で新聞を読み、出来ましたわよとの声にテーブルに着く。
「こちらが梅干し、まん中が味付け昆布、そちらが塩鮭ですわ」
お椀に野菜のスープを注いでいるその顔を、流しに鍋を置くその後姿を見遣る。随分と美しい娘へと成長したものだ――。
着席した彼女と共に主に祈りを捧げ終えると、海苔で巻かれたおにぎりを口にする。飯粒がほろりと解れて、好い塩梅のそれが具に因り更に旨みを増すのに頬が緩まる。
「お美しいよ、このおにぎり」
微笑と一緒に感想が溢れて、セシリアが直ぐさまそれに謝する。
「ありがとうございます、頑張ってこしらえた甲斐がありました。スープは少し失敗してしまったかもしれませんけれども」
含む汁に彼女の不満足を払拭してやる。
「そんな事はない。充分に美いよ。この卵焼きだってふわふわと甘くてお美しいよ」
「オーリックお兄さまって本当に誉め上手ですね。さすがは大佐さまでいらっしゃいますわね」
セシリアと一緒に囲むテーブル。彼女が成人すると、姉夫婦は自然的環境と気候の良い南方の海国に移住してしまった。セシリアが家族の一員となってから八年の歳月が経過した現在、そういう理由で姉夫婦の家は処分され、彼女がこのマンションに移転して来たのであった。未だおぼこ娘のセシリアには、後見として自分がすぐ傍に居る方が良いだろうという家族会議により、彼女と同居することとなった。
セシリアは大人しくて心優しい娘である。姉夫婦の家を訪問した際には、繊細な料理を拵えては出迎えてくれたものだった。遣付料理しか作れない姉貴がセシリアの家事をそつが無くこなす様に、馬鹿で心許無いオーリックの(―お前なんかに言われたかない)のお嫁さんになってくれないかしら?と度々本気で迫っては、あの娘の顔を引き攣らせていたものであった。あの女に倅が居たなら間違いなく、それを押し付けていた事であろう。
漫画とアニメが大好きで、登場人物達の輝かしき日々をこよなく愛する彼女の暮し向きが、その世界に染まるのにそう時間は掛からなかったようである。ワショクもお手の物となり、夢の国の住人達の食卓はこの家で再現された。最初は軟弱な石の如きであったおにぎりも空気を含める様に優しくむすぶ事により、真黒から黒斑そして堅固な黄から崩解した黄を一通り経験して、翌朝にはふっくらとしたクレープを、くるくると畳んで余熱で仕上げた彼女の手際の良さは、それは見事であった。
現在や主に朝に見られるものであるらしい彼等の各家庭の光景と、大して変わらぬそれがここには在った。
食事をし終えると適温に冷めた茶を飲みながら、漫画のヒロインの如き容貌の彼女としばし談笑してから、身仕度を完全に済ます。姿見に映る自分に、セシリアによく似ていると言われる、とある漫画の悪魔の様な男を重ね合わせてみる。
闇の世界の王であるというその男は、御丁寧にもその美色を歪めてこれでもかというばかりにしら笑っている、とてもいけない人物であるのだと非常に分り易く描写されていた。異世界から転移して来たという主人公の少女と勘当されていた皇子の前皇帝の弔いと帝位と帝国領の奪還を、悪の匂いを放散する顔を極め込み、悪辣な手段を継々に投じては阻止するという役回りの、何とも気の毒な登場人物であった。それをセシリアに、お兄さまにとても似ているんです、と見せられた時の衝撃。
種々に……違和感を覚えたが―、普通人が事を成そうとする場合の幾どは、自分に正義があると信じられてのものであろう。縦んば悪人とされるものであったとしても、絶対的な勝利が予め確定している側の人間であったとしてもである。そのようなもの達が、私は悪であるという素振りを見せるであろうか。そういうもの達は大抵反って、紳士を装うものなのである。醜悪の仮面は兵士に着けさせれば良いのだから。……。
それにしても、闇の世界の住人が燈下で暮すなんていう事があるのであろうか。彼女に振るとう~ん……真暗闇ですと読者の方達が見えないからなのではないでしょうか?と苦笑しながらの全うな答が返って来た。セシリア……いいのかそれで……。
「このジオンは美貌ですからその言動と相俟って素敵だと、大人気のキャラなんです。あ、オーリックお兄さまとは容姿が似ているだけで、性格は全然違いますけれどね」
そんなの当然だ馬鹿者。こんなのと一緒くたにされて堪るか。セシリアよ――。
自分の様な……美貌だというその男の冷笑を真似てみる。瞬時に羞恥が沸き上がり、その年甲斐のなさに満面を赤らめている鏡裏の男を、胸中で直ぐさまに叱責する。
私の方こそ、馬鹿者だ――!
二人一緒に家を出ると、車で彼女を駅まで送る。何気無い様に、顔から頸領そうして胸から尻に手足へと視線を流す。日が陰ろうとも、助手席に座るセシリアの白く輝耀する肌膚は眩しくていとおしい。直視せずとも意識はそちらに向けられており、不意の瞬間にそれは適えられる。
駅前に到着すると、
「お兄さまありがとうございます。今日のお仕事も頑張って下さいね。行ってらっしゃいませ」
と手を振って見送られる。ロータリーを廻って信号待ちの折りに、駅構内に入って行く彼女を見遣る。擦れ違った幾人かの男が、自分と同様にあの娘を見送っているという何時もの光景。
が、この日は彼女の後背を追い掛ける者がいた。二人が建物の中へと消えて行く。
信号が青に変った。
もうすぐ世界は春を迎える。後半月程も経てば友好通りの桜が綻びて、そうして人々はその儚い開敷を、酒讌に於て賞美している事であろう。
取分け真冬の終業時は、重たい夜景から褪めた空間への扉を開くのが嫌で、女の部屋を転々と塒にしていたのだが、あの娘が同居するようになってからはそれも無くなった。明るくて暖かな部屋だけではなくて、うら若く綺麗なその最愛の人が、温かい食事と風呂を調え寝仕度をしてくれているようになったからであった。腹を満たし、身体を清潔にし、柔らかな毛布に包まる。勤め先から家までの夜陰のトンネルを抜ける間のその待ち遠しさ。セシリアの子宮は何程に温かいのであろうか。彼女の息子を想像し未だ見ぬその世界一の幸福者をいとおしむ目で羨望した。その季節が間も無く終る。
あの娘と変らぬ年若な今し方の男が、やがて来る桜花の許での讌の邪魔をする。むっと顔で車から降りた男は、
「その後の話は帰ってから聞くとして……」
そう言うと口唇を不穏に歪めた。そうして双眸を鋭利なものの如くに細めて建物を見上げると、一つ深く息を吐いた。
「……八当たりでもするか―」
≪改稿日 2014.06.03≫