Prologue(2)
◆西暦一六年四月一九日◆
* * *
―――母の事は苦手だ。母親としても、一人の女としても、苦手だ。
* * *
豪雪だった今年の冬は、未だに遥か先に見える山脈で立ち止まっている。
いい加減、早くどこかに行って欲しい、とそんな風に思う。毎年吹く春風は暖かく、心地よい強さで頬を撫でていくのだが、今年の春風はどちらかというと荒々しい。
冷たく鋭く尖った冷気は、容赦なく肌に突き刺さる。痛い、痛い。
それが朝方のものなら、尚更だ。
「お母さん、いつまで寝てるの……。もう朝だよー」
「……も、もう少しいー……、うへ、へへへ」
いつものように怠惰を貪っている母を起こしに来た。掛け布団に抱きつき、頬ずりをかましている母を毎朝、嫌が応でも見てしまう娘の気持ちにもなって欲しい。
部屋に間仕切りを設置しようか、と本気で考える。
「うへ、へへへ……、もう、食べれ、なあー……い」
「…………うわあ」
そしていつものように母に冷たい視線を送った。
木製のベットの上で丸まり眠りこけているのが少女の母親。娘の自分が言うのは何だが、長い白髪の可愛い女性だ。―――基本こんな睡眠欲満々の駄目人間でも大の大人であり、村では学び舎で教師をしているのだから驚きである。家でも少しは教師っぽくして欲しい、と思ったことは一度や二度ではない事くらい、態々言わなくてもわかるだろう。
「お母さん、起きて。朝ごはん片付けちゃうよ」
「…………うへへへ、うへ」
「……………………ちっ」
軽い舌打ちを一つ。少女はベットの脇にある小さめの窓を全開した。外からは春とは思えない程の冷たい風が吹き込んでくる。勿論、ベットの上にいる母親にも、だ。
「…………ゃうっ!」
何だかよく分からない可愛い声を上げて、母は身を縮こませた。どうやら掛け布団でこの寒さに対抗することを選んだらしい。少女は、お母さんはお馬鹿だなあ、とちょっと悪い事を考え、母の包まる布団に手を伸ばした。そして、
「…………べりッ!」
両手で掴んだ布団を一気に引き抜いた。中には縮こまっている母がいる。母も自分を守る蓑が無くなったことに気づいたらしく、一、二回手を忙しく動かすと突然、
「! う、うわっ、寒っ! 寒い! リン、布団! 布団返して!」
と大きな声を上げて飛び起きた。いつもどおりの母の寝起きである。
「おはよう、お母さん。もう朝ごはんの準備は出来てるから、早く顔洗って、髪の毛直してきなよ」
少女は母の真っ白の髪の毛を指差した。確かにところどころ阿呆っぽい跳ね方をしている。その指摘はごもっともですけど、みたいな顔をして母は頭をぼりぼり掻いた。
「外は寒し、水はもっと寒いよ?」
駄目人間コノヤロー。
「いいからとっとと行ってきて。じゃないとお母さんの好きな食べ物全部抜きにするから。ほら、早く行ったいった!」
少女はベットの上でうだうだ言っている母親の背中を押し、無理やり部屋の外へと追いやった。母が『えー、やだー寒いー、温水にしてー』なんて子供みたいな事を言っていたがいつものように無視してやった。
「本当にもう、いつもいつも」
母も、寒い春風も、いい加減にして欲しいと頭を抱える少女。彼女のもっぱらの悩みはそればかりだった。
そんな苦労人の彼女の名前はリン。母親が名付けてくれたらしいが、いまいち気に入っていない。
あんな母親に似て、髪は純白の様な白。髪を長くしておくと母と見分けが全くつかなくなるので、彼女は白髪をミディアムでまとめていた。
「はあ…………」
似ている、なんて言われたくない。あまり母親と親子に見られたくない。だからリンは母親を反面教師にし、母親のように出来るだけならないようにしている。髪だって表情だって仕草だって、母とは違った形をとっているのだ。
本当のことなら、この白髪だって、容姿だって、今すぐ変えたいところなのだ。
「ねえー、リーン。井戸水全然出てこないんだけどー」
今だってほら、外から娘に助けを求める母の声が聞こえてくる。今度は一体、何をしでかしたのだろうか…………。
本当にいつもいつも困った母親である。
「はあ…………」
今日もリンの溜息は先の見えない谷の様に、深さを増すばかりだった。
短いですね。ここからが本番です。